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第十六章 華やかな戦場 3
周囲がにわかにざわつき始めるのが判った。これまであからさまではあっても、一応はチラチラと盗み見する、という体裁を保っていた者たちが、今は明らかに驚いた様子でこちらに注目している。
それも無理はない。
エルシアは今夜オズワルドが、この夜会に出席していた事を知らなかった。彼が出席するものは必要最低限のものばかりで、少なくとも今夜の夜会は主催者には申し訳ないが、彼が出席を必要だと判断する規模の物ではないはずだ。
もちろんエルドラン侯爵家宛てには大小様々な招待状が、常に山となって届くだろうけれど。恐らく主催者本人も、まさか承諾されるとは思っていなかったのではないか、そんな風に思う。
にもかかわらず彼は今ここにいて、真っ直ぐにエルシアに声を掛けてきている。
エルシア自身彼が、自ら若い令嬢に声を掛ける姿など初めて見た。
周囲のざわつきなど気にならなくなるくらい、驚いたように目を丸くするエルシアに、しかしオズワルドの表情は変わらない。
ただ……気のせいか、いつも目にする不機嫌そうなものより、いくらか表情が柔らかい様な気がする。
「……オズワルド様」
「あなたのような令嬢を壁の花にするとは、随分と気概のない者たちばかりのようだ。嘆かわしいことだな」
ことさら周囲に聞こえるように告げる言葉は、そのまま周りに聞かせる為のものだろう。
噂の真偽や、アドヴァンス侯爵の存在に気をとられて保身ばかり図る青年達への明確な当てつけに、心当たりのある者たちは一様に気まずそうに視線を逸らす。
令嬢達も、自分達に対する当てつけではないにしても、あからさまにエルシアを遠巻きにしていた自覚があるのか、そわそわと視線を泳がせる者が多い。
一方エルシアはそうしたオズワルドの物言いに苦笑した。
相変わらず言う事は手厳しい人だ。けれど不思議と、この人を以前のように恐ろしいと怯える感情は湧いてこなかった。
そんなエルシアの目前に、オズワルドの手が差し出される。
背後では音楽隊の優美な音楽、目の前ではダンスを踊る男女達。
この状況で、この手の意味は何かと尋ねるほど愚かではない。
普通は『一曲、お相手頂けますでしょうか』くらいの誘い文句は定例としてあるものだけれど、無言で、眼差しだけで促してくるあたりが何となく彼らしいような気がして、エルシアは素直に自分の手を差し出すとその手に重ねた。
無骨な軍人というイメージの強いオズワルドだが、案外そう言う訳でもないらしい。エルシアの手を引いてダンスホールへと誘う姿は、間違いなく洗練された貴公子の姿そのものだし、淑女に対する扱いも穏やかだ。
彼がダンスをする姿など滅多に目にしないけれど、そのリードが非常に女性を尊重したものである事も、すぐに知れる。間違いなく他の青年貴族達よりも上手い。
こんな風にさり気ないながらもとても上手くリードする人を、エルシアは他にもう一人知っていた。
「……オズワルド様も、お母さまのお相手を?」
「マティアスがそう言いましたか」
「はい、お母さまがダンスのお好きな方で、良くお相手をされていたと」
想像してみればとても微笑ましい姿だ。きっと二人の母親は常に、ダンスは女性優先であるようにと教えて来たのだろう。背が高く力の強い男性本位で動かれては、女性はすぐに疲弊してしまう。
「……そのマティアスから先日手紙が届きました」
ハッと、視線を上げる。エルシアの瞳に揺らいだ感情の意味を、彼は気付いただろうか。
少なくとも変わらない話し口調では、その考えはまだ読めない。
「弟はあなたに求婚したそうですね」
改めて彼の身内に求婚という言葉を口にされると、否応なく頬に熱がのぼる。
けれど黙っているようなことでもない。
「……はい、お受けさせて頂きました」
一度は赤くなった目元を恥じるように目を伏せたものの、すぐに視線を上げて、正面からオズワルドの顔を見返し答えたエルシアの返答に、ここで相手の表情に僅かな変化が見えた。
それは笑みの欠片、のようなものだろうか?
「どうやらただ流されて、と言う訳ではなさそうだ。あなたは少し、以前より変わられたらしい」
変わった。…変わっただろうか。
「…自分では、まだ良く判りません。……変わりたい、とは思っていますけれど」
「マティアスも心境に随分変化があったようだ。あれの手紙に、これまではなかった未来に向けた言葉が書かれていた」
これまでのマティアスからの手紙は、せめて定期的に近況報告をしろ、とこちらが求めた事しか書かれていなかった。ごく簡潔に現在の状況……つまりは既に過去のものとなった出来事ばかりだ。
きっとマティアス本人は気付いていないだろう。でもオズワルドはすぐに気付いた。
エルシアと結婚するため、王都に戻る。実家にも戻るつもりだが、まだ少し仕事が残っている。だから。
「自分がいない間、あなたの力になってやって欲しいと。全く、今までこちらが何を言っても、放っておいてくれとしか言わなかったくせに、自分の事情が変わると途端にこれだ。弟とは、どこもこんなものなのだろうか」
けれど、その手紙を受け取ったオズワルドは今こうしてここにいる。
本来の彼なら受けないはずの夜会へ出席して、エルシアの相手をしてくれている。きっとそれは、弟から頼まれた事を聞き入れたからだ。
なんだか、じんわりと込み上げてくるものが、視界を曇らせそうになった。壊れていた物が少しずつ修復されていくような、そんな感覚だ。
多分エルシアは、この時泣き笑いの様な顔をしていただろう。
そのエルシアの瞳を真摯に見つめて、オズワルドは言った。
「兄として、あなたに感謝します。あれが未来を夢見ることが出来るようになったのも、あなたの助力が大きいでしょう。あなたには随分失礼な事も申し上げた」
「いえ、感謝しているのは私の方です。オズワルド様のあの言葉は、あの時の私には必要なものでした。……確かに少し、手厳しいとは思いましたが、私に色々な自覚が不足していたことは確かです」
「申し訳ない。どうにも性分なのです。言葉を柔らかく取り繕う事が得手ではない。マティアスは随分得意分野のようだが」
確かにそうだ。鋭く厳しい言葉が多いオズワルドに対して、マティアスの言葉は柔らかく、穏やかだ。
多分この兄弟は、同じ事を相手に伝えようとしても、それぞれ全く違う言葉を選ぶだろう。血の繋がった兄弟であるのに、性格は随分と違う。
でも、それでもやはり兄弟なのだなと、今はしみじみと感じる。
だって見上げたオズワルドの顔が、やっぱりどことなくマティアスに似ている。どちらも端正な顔立ちには変わりないけれど、見る者に全く違う印象を与えるのに。元となる素材が、やはり近いのだろう。
ふと、思った。
そうか、と。
「……お義兄様、になられるのですね」
兄弟のいないエルシアにとって、唯一の、例え義理であっても兄と呼べる存在の人だ。
ぽつりと、自分でも意識する間もなく零れ落ちた言葉に、ここで初めてオズワルドの表情がはっきり、それと判る程に変化した。
つまりは、驚きの形に。
その表情で、自分が随分先走ったことを口にしたと気付く。場合によっては馴れ馴れしいことこの上ない。
「申し訳ありません、失礼な事を……」
慌てて謝罪する。恥ずかしくなって、瞳を伏せると耳朶まで赤くなった。いくら気が緩んだからと言って、オズワルドを相手にさすがに図々しすぎる。
「…いや」
一瞬の間の後、彼は一言否定してくれたけれど、もしかしたら気を悪くさせてしまったかも知れない。そう思って恐る恐る視線を上げたエルシアは、そこでオズワルドが自分が予想していたものと違う表情をしている事を知った。
彼は、笑っていた。ほんの少し、微かにだが。
「お義兄様、か。なるほど。……悪くない」
その顔は、今まで見た彼のどの顔よりも穏やかで、だからこそ余計にマティアスに良く似て見える。
そう感じると、嬉しくなる反面、切なくもなる。
早く会いたい。
今、彼はまだビエスタの港町にいるのだろうか。
王都に来てから、彼からは二度手紙が届いたけれど。手紙だけじゃなく、会いたい。
ただそれだけを思って、泣きたくなるくらいに。
「私で役に立つことなら、可能な限り力になろう。ただ、まだ私はこの話を両親には伝えてはいない。理由はお判りですね」
「…はい、もちろんです」
オズワルドが懸念していることは、やはりブライアンとの事だ。
社交界に復帰したと言っても、エルシアはまだ一度も会話どころか顔すら合わせていない。連絡も取っていない……当たり前の事だが。
しかし、もちろんこのままで良い訳はない。
中途半端なまま放置された関係は、いずれきちんと清算しなければならない。
正直なことを言えば、まだブライアンと真っ直ぐに顔を合わせられるかどうか自信がない。あの時に比べ心は随分落ち着いたつもりでも、いざ面と向かって話をしようとすると、どうしてもあの日の出来事が脳裏に鮮明に蘇る。
父もこの件に関してはエルシアが無理をする必要はないと言う。今後の事についてはこちらの方で話を付けるから、お前は社交界に復帰する方に専念しなさいと。
でもその言葉に甘えてはいけないことは判っていた。
元々は、自分が彼に恋をしたことから始まった関係だ。なら決着を付けるのも、自分でなければならないと思う。
一度は愛した人。
今でも本音を言えば、彼の事を思い出す度複雑な気持ちになる。怒りなのか憎しみなのか悲しみなのか、それとも……まだ傷つきながらも残っている恋情の欠片なのか。
たとえ幼い恋であっても、自分は確かに彼に恋をしていた。愛されていると感じた記憶もまだ残っている。
それでも……別の人を愛し、彼とこれから先の未来を歩むと決めたからには、きちんと心の整理と区切りを付けなくてはならない。
その日、夜会の後に屋敷に戻ったエルシアは、ペンを取ると随分久しぶりにその人の名を文字にした。
震えそうになる手に何度も力を込め直し、二度ほど書き直し。
ただ封筒に名を書く、それだけの事でも震えてぶれそうになる文字を、丁寧に綴る。
そして翌日の朝、従僕に手紙を預けた。
手紙の内容はごく短い。
『ブライアン・アドヴァンス様
お会いしてお話ししたいことがございます。
私にお時間を頂けますでしょうか。
もしお受け下さるのであれば、二日後の正午、王立植物公園にてお待ちしております。
エルシア・ファルミナ』
返事はすぐにその日のうちに届いた。
是と。
必ず伺いますと、久しぶりに目にする確かに彼の筆跡で書かれた、たった一言の返信に、静かに目を閉じる。
約束までの二日間の間に、自分の言いたいこと、そして望むことを言えるよう、きちんと整理しなければならない。
あの時のように、冷静さを失った状態にだけはならないよう、幾度も心の中で繰り返した。
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