【歴史まとめ】三国志←三国県立してから面白くない
1:風吹けば名無し@\(^o^)/: 2016/02/23(火) 11:23:24.02ID:GPbHOobXr.net
なぜなのか
鼎立のこと?
なんj民、鼎が読めない
高校かな?
ていなんて詳しくないと読めんわ
>>10
こういうジャンルのスレ立てるような奴なら普通は知ってる
県立wwwwwwwwwww
鼎立やぞ
赤壁って県立前やったか
>>16
バス停前の喫茶店かな
>>16
三国鼎立の成立時期は1192作ろう鎌倉幕府並にブレブレやけど赤壁より後なのは間違いない
三重県立の間違いかな
ワイも読めないからセーフ
戦犯関羽
関 羽(かん う、、簡体字: 关 羽、拼音: Guān Yǔ・? - 建安24年12月(220年1月))は、中国後漢末期の将軍。字は雲長(うんちょう)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/関羽
赤壁の戦いの後に劉備が益州に入ると、関羽は荊州の守備を任され、魏の曹操・呉の孫権に睨みを効かせていた。
劉備が漢中王となった後、関羽は襄陽を攻め落とし、曹仁の守る樊城を包囲する。この戦いで魏の于禁率いる数万の軍勢を撃破し、さらに龐徳を斬った。魏は司馬懿らの献策で呉と同盟を結び、呂蒙が孫皎、陸遜、朱然、潘璋、蒋欽らを率いて麋芳と士仁を降し、南郡を呉の領有とする事に成功する。退路を絶たれた関羽は呉の馬忠に捕らえられ、臨沮で処刑された。曹操は送られてきた関羽の首を、諸侯の礼をもって葬った。
殺された関羽の仇討ちとして、劉備は大軍を率いて夷陵に攻め入るも陸遜の前に大敗を喫し、二度と荊州を取り戻すことは出来なかった。
長男の関平は関羽と共に処刑された。次男の関興は才能を高く評価され、夷陵で戦死した馬良に代わって二十歳にして侍中・中監軍という大役に抜擢される。しかしその数年後(出師の表に名がないことから、227年までに死去したと考えられる)に病死した。正史注の『蜀記』によれば、蜀が滅んだ際、龐徳の子・龐会により関羽の一族は皆殺しにされたとされる。
http://dic.nicovideo.jp/関羽
※荊州問題の参考リンク
なぜ荊州問題が起きたか
http://3guozhi.jp/b/rs8.html
荊州の失陥
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/koumei7.htm
>>22
益州の情勢が安定してなかったとは言え荊州に髭以外ロクな人材を置かなかった劉備監督の采配にも問題がある
>>31
諸葛亮が最初はおったんやなかったっけ?
>>42
龐統が落鳳坡で死んで呼び出された
龐 統(もしくは、179年 - 214年)は、中国後漢末期の武将、政治家。劉備に仕えた。字は士元(しげん)。道号は鳳雛。謚は靖侯。
「臥竜・臥龍(がりょう)」「伏竜・伏龍(ふくりょう)」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛(ほうすう)」と称せられた。
荊州を領有した劉備の下に転じ、耒陽(らいよう、現在の湖南省耒陽市)の県令の職を任ぜられるものの、仕事を滞らせたために罷免される。これを聞いた魯粛は劉備への手紙の中で「龐統は大役を与えてこその人物」と薦め、諸葛亮も取り成したので再び劉備に召し抱えられ、諸葛亮と同じ役職である軍師中郎将に任命される。
劉備陣営の次の方策として、西の益州を獲ることが考えられていたが、劉備は主が同族の劉璋であることを理由にこれを渋っていた。龐統はこれを諫めて、益州を獲ることを劉備に決心させた。入蜀に際しては龐統が劉備に同行し、諸葛亮は荊州の留守を守ることになった。
益州に入った当初、劉璋は劉備たちの本心を知らずに歓迎の宴を開くなど無防備だったので、龐統はこの機会に劉璋を捕らえて、無用に戦うこと無く益州を取るよう劉備に進言したが、劉備は「他国に入ったばかりで、恩愛や信義はまだ現れていない。それはいかん」と答えこれを聞き入れなかった。
その後、劉備軍は漢中の張魯と対峙する振りをして駐屯し、成都にいる劉璋をどう攻めるかを検討していたが、東で曹操と孫権が戦い、劉備に対して援軍を求めてきたことを口実に軍団を移動させることを考えた。この時、龐統は劉備に対して、昼夜兼行で成都を強襲する上計・関所を守る劉璋の将を欺いて兵を奪い成都を目指す中計・一旦白帝城まで退く下計の三計を提示し、その結果劉備は中計を採用した。
そこで劉備は龐統の策略を用いて、白水関を守る劉璋の武将である楊懐と高沛を呼びつけて騙し討ちし、白水関を占領した(劉備の入蜀)。
劉備軍は、成都攻略の前に劉循・張任が守る雒(らく)城を包囲したが、この包囲戦の最中、龐統は流矢(雨のように降りそそぐ矢、あるいは流れ矢)に当たって死去した。享年36。劉備は龐統の死を大いに悲しみ、関内侯を追封し、靖侯と諡号を贈った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ホウ統
>>54
結構すぐやな
劉備からしたらけい州は諸葛亮と髭に任せて
益州に本拠地を置くつもりやったんか?
仮に関羽がけいしゅう守れたとして。
蜀は三国統一できるの?
>>90
呉と組んで魏を潰せれば可能やったけど
まぁ無理やろな
93:風吹けば名無し@\(^o^)/: 2016/02/23(火) 11:43:19.84ID:Il6hGXFY0.net
荊州が欲しくてたまらない呉カスが同盟破棄する可能性を全く考えなかったんかなあ
波乱を起こそうにも益州の山奥だけでは無理や
劉備が益州落としたとき?
それとも献帝が禅譲したとき?
魏呉蜀で皇帝が三人揃ったとき?
>>28
劉備が自称皇帝になったとき?
>>28
一応皇帝が3人になってからが三国時代と言われてる
>>39
じゃあ曹操の死後か
>>39
相当後期やな
ドラゴンボールで言うと魔神ブウ編あたりやんけ
南蛮攻略という後期の清涼剤
孟 獲(もう かく、生没年不詳)は、中国三国時代の人物。南中の豪族。蜀漢の南征を受け、帰順した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/孟獲
『正史』では・・・。
実は、南蛮征伐に関する記述は、「諸葛亮伝」の中に一行しかないのです。「南中に軍を率いて行って半年で平定した」とあるだけです。
『演義』は、この簡略な記述を必死に引き伸ばしてストーリーを盛り上げたというわけ。でも、孔明が「火を吐くロボット猛獣」を発進させる話とか、蛮族がトラやクマなどの猛獣を兵にして攻めてくる描写は、ちょっとやり過ぎですね。『西遊記』じゃないんだからさあ・・・。
いちおう『正史』ベースで孔明の南征を概観すると、あれは要するに「反乱の平定」事業だったのです。前にも述べたように、夷陵の大敗と劉備の病死にさいして、蜀の各地で豪族たちが反乱を起こしました。彼らは、蜀を見限ったのです。劉禅と孔明は対策に尽力し、このうち成都近郊の黄元の反乱だけは迅速に平定できたのですが、南中といわれる益州南部の反乱は大規模で手がつけられず、そのまま3年間も放置せざるを得ませんでした。
曹操劉備死んでからのどうでもいい感
>>32
登山家がおるやんけ
馬謖とは、中国を代表する登山家
生年190~没年228。字は幼常。後漢末期から三国時代の人で、蜀に仕えた武将。
襄陽宣城(湖北省宜城県)の出身。襄陽の名家である「馬氏の五常」の中の五男(末子)として誕生した。
217年頃、荊州従事として蜀に入り、劉備に仕え、各所の県令・太守を歴任した。並外れた才能の持ち主で、軍略を論じることを好み、その才能は諸葛亮に高く評価された。ただ、劉備は彼を信頼せず、白帝城で臨終する間際にも、「馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要なことを任せてはならない」と諸葛亮に厳しく念を押したといわれる。しかしながら馬謖の才能を愛する諸葛亮は、劉備の死後、彼を参軍に任命し、昼夜親しく語り合った。
224年南蛮制圧の際、馬謖は「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」と諸葛亮に助言し、これが七縱七擒などの作戦に繋がり、南征の成功と蜀の後背地の安定に寄与することになった。
228年春3月に諸葛亮は第一次北伐の際、彼に戦略上の要所である街亭の守備を命じた(街亭の戦い)。諸葛亮は道筋を押さえるように命じたが、馬謖はこれに背き山頂に陣を敷いてしまう。副将の王平はこれを諫めたが、馬謖は聞き入れようとしなかった。
その結果、張郃らに水路を断たれ山頂に孤立し、蜀軍は惨敗を喫すこととなる。翌5月に諸葛亮は敗戦の責任を問い、軍規に基づいて処刑した(王平伝より)。諸葛亮はこの責任を取って自ら丞相から右将軍に降格した。「泣いて馬謖を斬る」の故事の元がこれである。
ちなみに山上に布陣すること自体は策の1つである(漢中攻防戦でのいわゆる定軍山の戦いが有名)。だが、馬謖は水源の確保を怠っていた上に、馬謖の策は山上と街道の両軍で挟み撃ちにするというものだったが、上手くいかなかったことが失敗の原因とされる。とは言え魏軍との戦力差(魏が約20万なのに対し、蜀は8万ほどであった)ことも無視することはできないだろう。
この失敗がなければ次世代のホープとして活躍していたかも知れないだけに惜しい人物でもあった。
孟獲を帰順させるアドバイスをするなど蜀に貢献した馬謖だったが、街亭の戦いでの致命的な失策が今もなおネタとされ続け、馬謖を「登山家」「山頂」と呼ばれるようになった。
http://dic.nicovideo.jp/a/馬謖
>>32
ちょっとでもいいですから孫堅の事も思い出して上げてください
孫 堅(そん けん)は、中国後漢末期の武将。字は文台(ぶんたい)。呉郡富春県の人。三国時代に成立した呉の皇帝である孫権の父。廟号は始祖、諡は武烈皇帝。
https://ja.wikipedia.org/wiki/孫堅
>>43
黄祖に挑発されて落石で死ぬとかダサすぎだわ
包囲軍本陣の帥字旗がにわかに吹き起こった狂風で折れるという凶事が起こった。このため、韓当が「これは不吉の兆しなので退くべきでは」と進言する。しかし、孫堅は聞く耳を持たずに出陣し、蒯良の策謀で呂公がしかけた伏兵の罠にかかり、矢を射かけられ、落石に押し潰されて死亡した。その死体は劉表軍により持ち去られたが、捕虜となっていた黄祖の身柄と引き換えに、この時参陣していた孫策のもとに引き渡された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/孫堅#.E6.A8.AA.E6.AD.BB
※正史の死因
袁術は孫堅を使って襄陽の劉表を攻めさせた。孫堅は、劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲した。しかし、襄陽近辺の峴山に孫堅が一人でいる時に、黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い) 。 享年37。
https://ja.wikipedia.org/wiki/孫堅#.E6.A8.AA.E6.AD.BB
なんJ民、「鼎立」が読めない
県立三国高校
四国志よりは面白そうだからセーフ
>>37
統一間近で外から来た連中に一掃されるやん
三国志も大して変わらんが
>>37
公孫淵「ワイ入れて四国でええのになぁ」
【悲報】なんJ民、三重県が書けない
蒼天航路の袁紹なんで急に温厚になったの
面白い時期がわからんわ
董卓が現れて合従軍組んだ辺りか?
>>41
人それぞれやろ
初期のわらわらした感じが好きやつもおれば、劉備が早々に立ち向かう頃が好きなやつもおる
>>41
そこはまだつまらんやろ
董卓死んで各地に群雄割拠し始めた時期が最高やな
>>49
いうほど群雄割拠か?
曹操ばっか目立ってる気がするわ
後は袁紹がイナゴほろぼして孫策が江南でイキってたぐらいか
>>97
袁術さんが時代を先取りして皇帝名乗ってる辺りとか最高やんけ
>>108
袁術「帝の袁術じゃ。水を持って参れ。」
農民「水はさっきまであったがね、今なくなっちまった。」水瓶ガシャーン
袁術「俺はもう一人の民も持たぬ王だったのか・・・」
横山三国志のこのシーンすこ
中国史上、きっちり三国に割れたから人気があるんか? この時代
それとも、後世の文学なりの影響で贔屓されているのか
>>45
戦記物は庶民に流行しやすいのと、
漢民族の正当性のため劉備が正義な演義はよく政治利用されてるから、
結果広まった
>>66
曹操って漢民族じゃなかったんか?
>>216
劉備が漢の劉邦と同じような出自だから権力一家に反発するストーリーが受けたってことやろ
>>216
曹操自身は最後まで漢の臣下で簒奪一歩手前で止めていたが(元々う●こだったとはいえ)事実上とどめ刺したし
でも陳舜臣の曹操残夢はおもしろかった(KONAMI)
すまんが三国県ってなにンゴ?
>>55
四国の事やで
これ外敵の方が強いんだよな
狄とかさいつよやんけ
>>60
末期の魏とか晋とかモンゴルとかウイグルとか満州とか朝鮮の相手の方が多かったらしいからな
>>71
むしろ中国の歴史的にはやっぱり外敵との戦いこそが本筋らしいで
集まってからつまらない水滸伝
>>61
やっぱり横山光輝がNo.1!
徐庶や博望坡あたりがピーク
博望坡の戦い(はくぼうはのたたかい)は、中国後漢末期、荊州の博望坡(現在の河南省方城県)で曹操と劉表(劉備)の間に起きた戦いである。実際は局地的な戦いの一つに過ぎなかったが、『三国志演義』により大幅に脚色がなされている。
三国志演義
この戦いは、劉備の天才軍師である諸葛亮の名采配ぶりを中心に描かれ、劉備の義兄弟である関羽と張飛を中心とした古参の武将達が、新参の諸葛亮の力量を認め、全面的に信頼を寄せる契機となる戦いとして位置づけられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/博望坡の戦い
三国志で一番ワクテカ止まらない場面って
蜀を制覇して五虎大将軍を任命したとこだと思う
そこから先は・・・
趙雲辺りを髭の副将的ポジションとして送り込めなかったのか
趙 雲(ちょう うん、拼音: Zhao Yun、? - 229年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。
小説『三国志演義』において、趙雲は正史に比べ記述が多く、五虎大将軍の一人として、非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。
長坂では、単騎で大軍の中を駆け抜け阿斗と甘夫人を救出する話(阿斗を抱えていた糜夫人は井戸に身投げして自殺)が『演義』でも代表的な名場面であり、京劇でも人気がある。また、中国各地に阿斗を抱いた趙雲像が建立されている。
劉備が、孫権の妹と縁談のため呉に向かった際には同行している。そして、孫権による暗殺から劉備を守り、諸葛亮から与えられていた策を用い、呉から脱出している。
『演義』で五虎大将軍として称えられる趙雲であるが、史実の上では五人中最も位が低い。劉備が漢中王として即位した際、関羽・黄忠・馬超・張飛がそれぞれ前後左右の将軍位を授かっているのに対し、当時趙雲の軍位は翊軍将軍のままであり、その位階職位は魏延よりも下であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/趙雲
>>65
趙雲は相当後になるまで劉備の親衛隊長レベルなイメージあるけど
>>79
まあそうか
戦犯龐統やな
>>89
まだ法正さえ長生きしてくれれば・・・
>>91
徐庶がいれば…とか蜀に関してのIFは他より一番多いな
後は孫権が引きこもらないor孫策が生きてればってのも気になる
>>125
郭嘉がいれば曹昴生きてたら
どこもそんなんあるわ
>>143
呉も周瑜と孫登がおったらなぁ
>>156
その中でも周瑜ifが少ないのは戦犯横山三国志
北伐おもろいやんけ
北伐(ほくばつ)とは、中国の歴史上北に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こすことを言う。
中国は地理上の条件から南北に分裂しやすく、しかも北には漢民族の文化的故郷とも言うべき黄河があり、南は経済的に北を圧する力を持っていた。故に北に割拠した国は南を征服する事を望み、南に割拠した国は自分達の故郷を取り戻す事を望んだ。中国の歴史上、北伐と名乗る戦争は歴代にある。
三国時代、蜀(蜀漢)の諸葛亮が自ら軍を率いて出兵した魏侵攻が5度行われた。
これは、初代皇帝・劉備の漢王朝復興の遺志に基づくものであったが、当時の蜀の国力及び軍事力からすれば、かなり無理なものがあった。元々蜀は荊州と益州の二方面からの北伐を計画していたが、荊州を魏と呉に奪われていたため、益州のみからの北伐を余儀なくされた。
諸葛亮の死後、北伐は一時期中止されて国力の回復が図られる。諸葛亮の後継者であった蒋琬もその遺志を継いで北伐を計画したが、実現を見ぬまま病死した。その後、北伐反対派の費禕を経て姜維が軍権を握ると、再び北伐が大々的に行われることとなった。しかし、度重なる北伐により、蜀の国力は徐々に弱体化していった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/北伐
赤壁前哨戦が一番面白い
赤壁の戦い(せきへきのたたかい、中国語:赤壁之戰)は、中国後漢末期の208年、長江の赤壁において起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/赤壁の戦い
※赤壁の戦いの参考リンク
赤壁の戦いは計略の宝庫
http://hajimete-sangokushi.com/2015/05/19/post-2485/
呉カスが何となく建国しただけやからしゃーない
春秋戦国時代は何で人気無いの?
春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)は、中国史において、紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。この時代の周が東周と称されることから、東周時代(とうしゅうじだい)と称されることもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/春秋戦国時代
>>74
国と大正義国家がコロコロ変わりすぎて把握する難易度が高すぎるから
>>85
あと三国志はせいぜい100年程度やけど春秋戦国だと長過ぎておっかけるの大変やな
わかる。群雄割拠最高や
逆にクーデターとかくっそつまらん
aikoが歌いそう
スリーキングダムだと
馬超対張飛が熱かったな
まぁ三国出来た頃にはもう消化試合感がね・・・
劉備の蜀も漢中王くらいまではワクワク感あったのに皇位についてからはろくなことないし
みくに県立?
福井かどっかの施設か
呉が早めに蜀を飲み込んでいればワンチャンあっただろうに
周瑜が早く死にすぎやで
>>94
呉カスは兵力足りてないし周瑜が生きとって益州に雪崩れ込んでてもやっぱり時間かかったんやないかな
>>94
孫権「妬ましいからわしが消した」
>>94
長江の南から益州通って中原を征した奴なんておらんからなぁ
>>112
一応毛沢さんが
三国志詳しくないけど
主に劉備、曹操、孫権の話で孫権は他の2人よりも世代が若いでええの?
>>96
親父が他の二人と同世代
>>96
孫権は他の二人の二周り近く下やな
>>103>>107
サンキュー
三国志はタイトルに三付いてても主に劉備と曹操の話しのイメージやね
>>128
演義はそうだけど史実だとほぼ魏と呉の南北朝やぞ
そら何でも群雄割拠時代がおもろいよ
龐統を仕留めるという蜀の致命傷を功績としながら本気で寸前まで許されかけた張任とかいう名将
張 任(ちょう じん、? - 213年)は、中国後漢末期の武将。益州蜀郡の人
劉璋配下。元々は貧しい家の出だったが、文武に優れた能力を発揮して州の従事となった。
当時、隣の荊州を支配していた劉備が益州に攻め込んで来ると、冷苞や鄧賢たちと共に劉備軍を迎え撃ったが、涪城で打ち破られたため雒(らく)城に退去した。雒城で劉循と共に篭城したが、金雁橋に出撃した際に再び劉備軍に敗れ、捕虜となってしまった。
劉備は彼の忠勇を高く評価し、何度も臣従を勧めた。しかし張任は「老臣は決して二君に仕えるつもりはない」と言い、決して降ろうとしなかった。そのため最期には首を刎ねられた。
劉備は敵ながら最後まで勇敢に戦い、忠義を曲げなかった張任に感服し、遺体を金雁橋の傍に埋葬した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/張任
単純に蜀は人材不足やろな
正直、魏の無名な文官レベルが蜀の文官有名どころやろ?
>>105
それはちゃうやろ
裾野は魏のほうが全然広いけども
>>105
譙周あたりなんて地方の小役人で終わるやろあんなん
>>105
魏が人材狂すぎる
>>105
徐庶とか完全に埋もれたもんな
でも魏が有能部下多いというより所属漢の奴が魏にいたのも大きい
>>116
サボタージュやで
>>129
能力的には四品で終わる奴ちゃうわな
>>136
ママンのためや
>>136
キレて殺人して逃げ回った挙句構ってほしくて唄いながら街中歩くような奴だぞ
>>150
中年Aかな?
姜維の最後の悪あがきくっそおもしろいんだよなあ
姜 維(きょう い、建安7年(202年) - 景元5年1月18日(264年3月3日))は、中国三国時代の人物。魏・蜀漢に仕えた。
小説『三国志演義』では馬遵配下の将として登場し、諸葛亮の計略を逆手にとって危機に陥らせたり、趙雲と一騎打ちで互角の勝負を演じたりしている。諸葛亮はその才を高く見込み、自らの後継者とするために計略を用いて姜維を蜀に投降させている。
『演義』での姜維は諸葛亮の第一後継者としての趣が強く、基本的に才覚ある善玉に描かれており、諸葛亮の死後、北伐を続けて時に敗れる描写はあるものの、それによる国力衰退に関しては特筆されていない。
これにより、晩年に重臣たちが姜維を中央から遠ざけていくということに関し劉禅の暗愚を強調し、姜維の非を読者に感じさせにくい意匠になっている。なお演義第119回では、なぜか姜維の享年を59としている。また、取り出された胆も鶏卵ほどの大きさと、史実よりも大幅に縮小されている。
横山光輝の『三国志』では、蜀征討戦に対し諸将と共に剣閣の要害に立て籠もり連弩で抵抗している。このため魏軍が姜維との戦いを諦めて迂回し成都を攻め、劉禅らを降伏させてしまう。劉禅らの降伏を知った姜維は、泣きながら諸葛亮の遺言を守れなかったと言いつつ、岩に剣を叩きつけて折り、他の兵士らと共に泣きながらそれに従い降伏するという締めくくりになっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/姜維#.E4.B8.89.E5.9B.BD.E5.BF.97.E6.BC.94.E7.BE.A9.E3.81.A7.E3.81.AE.E6.B4.BB.E8.BA.8D
>>106
鐘会への足止めといい最後の足利義輝ばりの剣劇といいやっぱ戦場限定では名将だわ
>>113
防衛撤退戦も見事やけど師匠と相手が悪すぎやね
【悲報】三国志の国々、県立だった
だから三国志13は赤壁くらいまでしかシナリオもイベント無いんかな
>>118
絵を全員描き直したから途中で力尽きた
姜維くらいまでの知識しかないのが多いのは横山三国志の影響かな?
>>121
大体の媒体はその変までしかやらんけどな
>>131
台湾のドラマもそのへんまでだっけ?
>>131
誰を主人公にしても晋まで生きてへんしな
司馬懿主人公とかならできるんやろうけど
司馬 懿(しば い、179年 - 251年9月7日)は、後漢末期から三国時代曹魏にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。
https://ja.wikipedia.org/wiki/司馬懿
>>145
お役所務めはにぃにに任せて働きたくないでござるしたいのに
君主に首に縄引っ掛けて就職させられて
その時代最高の軍師と国の存亡を賭けて戦う後の覇者の祖先
いけるやん!
>>189
しばちゅー
>>632
司馬懿って軍師なんですかね…
>>633
司馬懿は将軍なのになw
演技が史実、蜀が大正義と信じていたガキの頃のワイ
正史の存在を知りショックを受ける
>>124
魏「よろしく二キー!」
司馬一族「邪魔だぞ」
>>124
まあ絶対悪というわけでもないで
正義が2、糞が1になるくらいで
>>124
蜀は正統のように描かれてるだけで別に大正義にはなっとらんやろ
蜀の漢中攻めはおもしろかったやろ
定軍山の戦い(ていぐんざんのたたかい)は、後漢末期に、益州北部の要衝・漢中を巡って曹操と劉備の両者間で行われた戦い。演義では劉備が定軍山で夏侯淵を破った戦いを指す
https://ja.wikipedia.org/wiki/定軍山の戦い
1 :無名武将@お腹せっぷく:2010/12/04(土) 11:26:11
参加武将 曹操軍:曹操、曹洪、曹仁、夏侯惇、夏侯淵、張郃、徐晃、龐徳、許褚、曹休、曹真、曹彰、夏侯徳、韓浩、杜襲、郭淮、張魯 参謀:楊修、劉嘩、賈詡、司馬懿
劉備軍:劉備、張飛、趙雲、馬超、黄忠、魏延、呉蘭、雷銅、厳顔、劉封、孟達、霍峻、陳式、張翼、張著 参謀:諸葛亮、法正、黄権
兵力 曹操軍:20万
劉備軍:11万
説明:215年に漢中に攻め込んだ曹操は、太守の張魯を降伏させ漢中を手に入れた。
218年に劉備は張飛を派遣して巴西に攻め込み、曹操は張郃に迎え撃たせた。張郃は張飛の誘引の計に掛かり、わずか10騎余りで漢中に逃げ込んだ。さらに劉備は張飛、馬超、雷銅、呉蘭を武都に派遣した。曹操は、曹洪、曹休、曹真らに迎え撃たせた。曹休は張飛の計略を見破り、呉蘭、雷銅を討ち張飛、馬超を撃退した。219年に劉備は定軍山に攻め込んだ。曹操は張郃と夏侯淵に迎え撃たせた。
劉備は張郃を攻撃し、撃退した。夏侯淵は援軍を張郃に送ったため自身の軍勢が少なくなった。そこを法正の助言によって劉備軍に攻め立てられ、夏侯淵は劉備軍の大将の黄忠に討ち取られた。それに怒った曹操は長安から20万の大軍を率いてやってきた。劉備は黄忠に食料庫を攻撃させた。曹操は黄忠を取り囲んだ。そこを趙雲が切り込んで黄忠を助け出した。趙雲は城門を開いておいて一騎で門の前に立ち、追ってきた曹操軍に一斉に弩を浴びせて撃退した。こうして曹操は漢中から撤退し、劉備が漢中を領する事に成功した。
国力差ありすぎて逆転は無理やね
>>144
ある意味忠実に再現した三国志13とかいうゲーム
>>151
なんで後期シナリオないんやこれ…
→ああ、このシステムで呉蜀は無理や…
スリーキングダムや北方も諸葛亮死んだあたりで終わりやな
>>146
あとは消化試合ですから
蜀なんて流刑地を魏と呉が欲しかったんかな?
下手に北進しなかったら三国志維持できたんとちゃうか?
>>148
第二次世界大戦の日本とアメリカみたいなもんや
長引けばどんどん国力の差が開いて無理
>>148
そのかわり自分も流刑地で一生終えることになるからな
>>148
北伐やらないとジリ貧で魏にやられるから攻撃的な防御として北伐に出かけてた説があるで
>>148
何となく建国した呉カスとは違って大義名分のために魏を攻めるのはやめられんのや
程昱ってわりとスーパー軍師やけどKoeiの評価あんま高くないよな
字は仲徳。東郡東阿県(現在の山東省聊城市)の出身。身長が八尺三寸(約191cm)、見事な髭をたくわえていたという。元の名前は程立といった。
黄巾の乱が起きたとき、地元の東阿の県丞が反逆したが策略を用いてこれを撃退した。兗州刺史劉岱には袁紹と公孫賛の争いに関して袁紹の方に付くよう勧めたが、劉岱の仕官要請には応じなかった。しかし劉岱が黄巾賊との戦いで戦死すると兗州の支配者となった曹操の招きには応じた。
曹操が徐州征伐に赴いた後、兗州は呂布の攻撃に晒され、鄄城・范・東阿の三城以外は皆呂布に呼応したが、留守を守っていた程立は荀彧や棗祗らと協力してこの三城を守り抜き、帰還した曹操は程立に「あなたがいなかったら帰る所が無かった」と喜んだ。程立は若い頃、泰山に登って太陽を両手で挙げるという夢をよく見ており、その話を荀彧が曹操にした所、曹操は程立の名前「立」に「日」の字を付け加えて「昱」と改名させた。
曹操は呂布との戦いが膠着すると一時期袁紹からの従属の招きに応じそうになるが程昱は諌めてこれを止めさせた。曹操が袁紹と戦端を開いた時、程昱は鄄城で700の兵を守って駐屯していたが、袁紹の大軍が近づいてくるという知らせがあり、曹操は増援しようとしたが程昱は「相手はこちらの兵が少ないから軽んじて攻撃しません。増兵すれば攻撃してくるでしょう」と断りその通りになった。曹操は「あなたの豪胆さは孟賁・夏育(共に古代の勇士)を上回るものだな」と褒め讃えた。後に程昱は袁紹の残党との戦いで功績を上げた。
中原が平定されると、曹操は程昱の背を叩き「昔兗州であなたの言う事を聞かなかったら今の自分は無かった」と言ったが、程昱は「『知足不辱』(老子『道徳経』)という。引退すべきだな」と言って第一線から退いた。
その後、曹操の子曹丕が君主となると程昱は加増を受け、三公に任ぜられようとした矢先に没した。
http://dic.nicovideo.jp//a/程昱
羊祜と陸抗とかいう無名の末期の名将
実はワイもよく知らない模様
羊祜(ヨウコ)字は叔子は三国~晋初の軍人・政治家・文人。生没年221~278年。晋の都督として呉の討滅にあたり、呉の陸抗としのぎを削った。
陸抗とは、三国時代末期の呉の武将である。
羊祜との友情
西陵の戦いの後、羊祜は荊州国境付近で善政を敷くという作戦に出る。
暴政に疲れ切っていた呉の民は、我先にと晋へ移住していった。
これに対して陸抗も、自身の指揮出来る範囲で善政を敷き対抗した。
こうして、両者が競って善政に努めた為、荊州は食糧が放置されても誰も盗まず、家畜が逃げて国境を越えても、相手国に知らせれば返還される、という戦時中の前線とは思えぬ環境を作り出した。
そんなある日、陸抗が病に臥せた時に、羊祜が薬を陸抗に送った。
陸抗の配下は「毒かも。」と諌めるも陸抗は構わずに飲んだのであった。
返礼に陸抗は自身で作った酒を羊祜に送った。
羊祜の配下は「毒かも。」と諌めるも羊祜は構わず飲んだという。
演戯によると、このやり取りを知った孫皓は、陸抗に内通の疑惑を持ち、兵権を剥奪し司馬の位に降格した。
しかし、正史には「詰問をした」とだけあり、降格はされていない。
羊祜も信義を失っていると批判されるも274年に陸抗が病死するまでこの二人の友情は続いた。
http://dic.nicovideo.jp/a/陸抗
>>153
羊祜は司馬一門とも繋がりが深い晋建国の立役者の一人で
陸抗は陸遜の息子やぞ
お前が知らんのはともかく無名は言い過ぎやろ
>>170
横山とかしか読まん奴は存在すら知らんで
というかなにを読めばこの二人について詳しくなるのかわからん
>>170
羊祜は名将かつ仁徳の将かつ軍略家とかチートスペックや
>>178
諸葛亮とどっちが凄いん?
>>212
鄧艾に人望があるタイプと思えばええわ
>>178
諸葛亮とどっちが凄いん?
>>213
諸葛亮は政治メインだから比べにくいけど戦争のうまさなら羊祜
県立を煽るスレかと思いきや、普通に進行しててワイ困惑
結局統一したのが大正義乗っ取った晋って
そら孔明逝った後は物語としても萎えますよ
>>162
仮に奇跡的に蜀が統一してもホントしょうもない国になるのがオチやろ
前漢→後漢→末漢になるだけ
晋は妥当
>>162
小さい頃パッパに魏呉蜀の内どこが統一したのか聞いたら
その中で言うならどれでもないなって言われて衝撃受けたの思い出す
>>182
あれ実質的にはギが統一したようなもんやろと子供ながらに思ってたけど違うんか?
頭と名前変わっただけで中身はギやろ?
龐統存命→関羽&孔明で荊州を守りぬく
これが蜀が天下統一までの本筋か
>>165
龐統存命は三国志随一のif展開だもんな
蒼天好きな人なら郭嘉だろうけど
北は曹操を防ぎ
南は孫権と和す
県立三国高校は福井やな
赤壁で魏に勝てたのなんて周瑜のおかげやろ
なんであんなにも評価低いんやろか
>>168
諸葛亮のかませ扱いが理由やろな
後赤壁で登場してまもなく死ぬのも
>>168
十分高いやろ
三国志大戦4発表で涙が出ますよ
蘇れ!蘇れ董白うううううううう!
民草が安心できた時代ってあるんか?あの国?
国力回復に勤めてた時期もあったけど基本人民は外患に蹂躙されとるやん…
>>179
即天武后の時代は割と平穏
>>179
普通にこの前の漢の時代も安定しとるやん
八王の乱シナリオやってみたい
八王の乱(はちおうのらん)は、中国の王朝晋(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱である。
晋により、中国は100年にわたる三国時代に終止符を打って全土が統一されたが、その平和はわずか数十年で崩れ去り、この後中国は隋が統一するまでのおよそ300年にわたり、再び動乱の時代となる。
八王の乱の流れはとても複雑であるが、端的に言えば10の事件(クーデター・内戦・市街戦)を総称して八王の乱という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/八王の乱
春秋戦国時代が一番おもろいんやぞ
関羽の死→悲しいなぁ…
張飛の死→なにやってだこいつ
関羽の死に、義兄弟である劉備と張飛は、弔い合戦をすること心に誓いました。
張飛は出撃に向けて、部下に対して、無茶な命令を下します。
そして部下が「できない」と答えると、厳しく罰したのです。
これまでも張飛は、部下に対して思いやりのない行動が多かったといいます。
部下に慕われていなかった張飛は、弔い合戦に出発する直前、
「こんな上司にはついていけねえよ!」と思った部下によって、
寝ている隙をついて殺されてしまうのです。
もしも張飛に少しでも思いやりがあったのなら、謙虚な気持ちがあったのなら、
劉備と共に関羽の弔い合戦に出陣していたのかもしれません。
その後の蜀の歴史も、きっと大いに変わったことでしょう。
hajimete-sangokushi.com/2015/02/22/post-1594/#i-4
>>188
息子二人の小物感が悲しさをもりたてる
合肥の戦いという孫権の良い所がほとんどない闘い
合肥の戦い(がっぴのたたかい、ごうひのたたかい)は、中国後漢末期に、曹操領の南方の要衝・合肥を巡って魏と呉の間で行われた戦い。後に三国時代を通じてこの方面では攻防が続けられたがついにこの戦線の決着がつくことは無かった。
孫権が劉備に荊州の一部を返還する代わりに曹操を攻めるという依頼から始まった。215年に起こった戦いが有名で、10万人の孫権軍が7千人の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/合肥の戦い
>>191
まったくないぞ
>>191
三國無双は孫権をもっとちゃんと描くべき
孫呉の絆とかやっとる場合ちゃうぞ
結局曹操が一番有能ということでよろしいか?
>>194
司馬炎「三国を統一した俺が1番有能だぞ」
司馬 炎(しば えん)は、西晋の初代皇帝。諡号は武帝。
魏から禅譲を受けて晋を建て、さらに呉を滅ぼして、分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。しかし統一後は政治への興味を失い、後の八王の乱の遠因を作った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/司馬炎
>>210
実際有能では有るんだよなぁ
乱世限定やけど
>>243
統一したらおちんぽ魔人になってもうたわ…
統一後の司馬炎は朝政への興味を失った。また統一を達成したことにより平時体制に戻すとして、軍隊の縮小も実施された。司馬炎の業績として特筆すべきは太康元年(280年)から始まった占田・課田法である。
司馬炎は女色にふけったことでも知られる。
統一以前の泰始9年(273年)7月には、詔勅をもって女子の婚姻を暫時禁止し、自分の後宮に入れるための女子を5千人選んだ。
さらに呉を滅亡させた後の太康2年(281年)3月には、呉の皇帝であった孫皓の後宮の5千人を自らの後宮に入れた。合計1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、司馬炎は毎夜、羊に引かせた車に乗って回った。この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛っておいた。羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるからである。この塩を盛るという故事が、日本の料理店などで盛り塩をするようになった起源とも言われている。なお、1万人の女性といっても、后などを世話する女官などの数も入っているため、実際に司馬炎が1万人の女性を相手にしたというわけではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/司馬炎#.E7.B5.B1.E4.B8.80.E5.BE.8C
楚漢も異民族最強時代で統一後萎え萎え要素に溢れてたけど
呂后とその一族のお陰で元勲たちによる最後の一山があるからな
>>203
呂后がラスボスという風潮
一理ある
>>218
陳平ウッキウキで処理してったんやろなあ
>>211
あれはなろう系
>>211
あれはオリキャラしか出てこないからね
三國志って呉に魅力が無さすぎて萎える
陸遜とか無双では孫策とホモってたりするけど本当はめっちゃ恨んでるから
蒼天航路で無能だった袁紹の息子達
>>222
有能なの見たことないんですけど
>>222
跡継ぎしっかり決めてないとか理解に苦しむね
袁紹が無能
三国志物は腐るほどあるんだから
劉備や諸葛亮が退場した後をフィーチャーしたのがようけ出て来ても良さそうなのにな
>>227
蜀なら費イ死亡後は割と書ける
呉はむしろお家騒動シナリオで呉の統一でシナリオつくってええわ
なんだかんだで曹操おらんとつまんなくなる
>>228
蒼ヒに魅力無さすぎンゴ
>>253
あいつの早死が三国志後半のグダグダの元凶やろなぁ
>>260
長生きしてたら司馬懿も最後までおとなしく仕えとったと思うわ
>>260
いうほど早いか?
>>265
在位期間6年だか7年やろ
>>278
曹操と勘違いしたわ
すまんな
鄧艾と鐘会すこ
鄧艾(とう がい、拼音: Deng Ai、生年不詳 - 264年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の将軍。字は士載(しさい)。荊州義陽郡棘陽県(河南省新野県)の人。子は鄧忠・その他二名。孫は鄧朗・鄧千秋。曾孫は鄧韜・鄧行。内政・軍事問わず多くの功績を挙げ、姜維の北伐を幾度も防いだ。晩年には蜀征伐を行ない、劉禅を降伏させた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/トウ艾
鍾 会(しょう かい、225年 - 264年)は、中国三国時代の魏の武将・政治家。字は士季。父は鍾繇。兄は鍾毓。豫州穎川郡長社県(河南省長葛市)の人。蜀漢を平定した功労者となるも、蜀漢の滅亡後に謀反を起こして殺害された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/鍾会
>>233
あいつら何者なん?
>>241
鄧艾←司馬懿お抱えで結果を出して出世していった実力派
鐘会←鍾繇っていう曹操部下の有能文官の息子で生まれながらのエリート街道
元々鐘会が蜀討伐を言い出したけど司馬昭が手柄独り占めさせないために
西部方面を知り尽くした鄧艾とダブルエースにして派遣した
>>279
でもドモリっていう
>>279
ことある事に鍾会がバカにしてた図が目に浮かぶ
日本の戦国時代とどっちがおもろいんや
独特だけどどっちも
三国志蜀後期シナリオの廖化の頼りになる感は異常
ゲームの孫権のパラ高すぎんねん。全部マイナス20ぐらいで丁度よい
>>240
政治はそのままやで
>>240
歳を経るごとにマイナスしよう
>>248
6 有能
魏「皇族の権力は抑えるで!」→司馬家に乗っ取られる
晋「魏の二の舞防ぐために皇族みんなに権力与えるで!」→八王の乱
>>252
なおその後
>>252
呉楚七国の乱後から最盛期に入る漢帝国となぜ差がついたのか
>>252
この2つの波を乗り越えた漢ってやっぱり凄いわ
陸遜って言うほど無能か?
>>256
後半はほぼあいつ一人で支えてたイメージ
>>256
あいつ一人で持ってたろ
刑道栄とかいう
ぐう聖設定横山劉備にすら即斬判定される悲しき武将
>>263
なんの根拠もなく普段ぐう聖な劉備がこんなやつは信用できないとか言ってるのが草生える
三国志ってヤクザの戦いみたいなもんだからな
三国末期からの内乱のぐだぐだっぷり正直好きだから何かしらゲーム化してくれんかなぁ
日本人は三国時代が好きやけど中国人は何時代が好きなんや?
>>275
項羽と水滸伝らしいで
>>275
断然楚漢戦争やで
>>275
毛沢東の頃はよかった懐古厨が増えてて草も生えない
>>275
西楚覇王やろなあ
よく見る憤死って実際どういう死に方なん?
>>276
脳の血管プチーちゃうの
>>276
悶死とか憤死は死因は察してくれってことやないの?
>>276
血圧高かったんやろ
>>276
死の直前に怒ってたら憤死
実際に怒って脳の血管切れたかどうかは関係ない
>>290
これ中国さんサイドはどう思っとるんやろか
>>290
晋(ほぼ魏)
>>290
司馬懿の声優さん死んじゃってかなc
>>364
もうあの声以外の司馬懿は考えられんわ.....
>>364
もう馬鹿めがは聞けないんやなって…
>>369
やめーや
これから司馬懿どうするんやろな
ジジイキャラになるんか
>>384
司馬師の人が兼任やな
>>391
そうやったか
司馬懿の人はまだ30半ばで、結婚して子供もおって
いろいろ考えて悲しくなるわ
三国志地震ニキ多すぎて正直引く
曹操→わかる
曹丕→わかる
曹叡→誰だよ
曹芳→誰だよ
曹髦→マジで誰やお前
司馬懿の子孫がカクの子孫にかまけすぎたために国が滅茶苦茶になってあげく遊牧民の時代を招くという漢民族の戦犯という歴史ロマン
>>298
賈充とかいうクソ
>>298
カクって地味に活躍がロングランだよな
>>298
カクやなくてカキやろ
>>298
賈クと賈充は血縁関係無いぞ
>>298
それ賈クじゃなくて賈充の方やなかった?
>>317
まあそっちも最後は一族皆殺しやぞ
戦国時代という長い秦つええええ時代→統一したらあっという間に滅亡したンゴwwwwwwwww
>>299
楚が何度も何度も復活してくるからしゃーない
>>299
始皇帝「不老不死の薬ンゴ!」
>>299
処刑処刑アンド処刑やからな
>>319
趙高さんこれは鹿やで→処刑
小学生ワイ「周倉って水練達者やし関羽の右腕みたいでカッコええわ!」
横山辞典 なお正史には登場しない
彡()()
>>300
馬より早く走る化物が実在したら怖い
曹操と司馬懿は仲どうだったか気になるンゴ
>>305
無理矢理仕官させたから実力は買ってたんやろうけど同時になにかやらかしたら処断しようともしてたらしい
とにかく信用してなかった
曹丕はそれをかばっていたので仲がよかった
>>305
呼びつけておいて有能すぎるから使うなとか司馬懿からしたら理不尽の極みみたいか関係
>>312
やっぱ曹操ってすげーわ
司馬懿はかなり忠誠尽くしてただろ
国中荒れて誰の息子かすらわかんねー奴が王位つくまで耐えてたぞ
>>343
司馬懿自身には簒奪野望なかった説もあるな
そうやカキさんカクと血縁ナインやった
>>343
家康が五大老のままだった感じかねえ
鐘会とかいう鍾ヨウがジジイになってから生まれた子供
>>308
75の時の子供やっけ
NTRやろなあ
三国志13の官渡以降の曹操強過ぎて震える
>>310
地味に強い劉表や陶謙
>>318
兵役人口が全てやからな
孫堅死んで孫策逃げたあと空いた長沙取るだけでめっちゃ増える
恋姫無双とかいう女体化のレジェンド
なお戦国
>>321
織田信奈はなかなか良いと思うンゴ
>>321
戦国コレクション良かったやろ!
劉備が豚になってたけど
三国志13、劉備軍が滅んだ後に曹操にちょっかいだしたら
100年戦争レベルで絶え間なく奪った城に突撃されるんやけど
信長の野望の織田家なんて生やさしいもんやな
>>328
物量物量アンド物量やからな
そして死に物狂いで捕虜にしたチート武将にあっさり脱走されてワイ都督困惑
>>340
捕まえた時点で殺せばええやん
>>347
都督には捕虜処断する権利ないんやで
アホ君主が解放する模様
>>371
ああ都督やったか
都督は外交権なくてほんま糞やんな
>>380
ほんとそれ
君主は働かねーし援軍もよこさねーし外交もしねーしやってられんわ
>>402
敵軍に捕まったら個人プレイなのに問答無用で殺されてゲームオーバーやから援軍要請ぐらいほしいわ
>>402
周瑜でやってたが赤壁後に下野して曹操の家臣になったわ
あんなブラックで働いてたのがアホらしくなるええ環境や
>>402
重要拠点死守しとるときにどうでもいいところへ
出陣命令くると君主に殺意湧くわ
>>402
武将プレイゲームなのに結局君主プレイが安定の糞
>>402
司馬一族が反乱起こした理由がわかるゲームやな
>>408
なお当初は反乱起こしても嫁一族誰もついてこなかったもよう
>>415
ワイ「旗揚げすっから」
嫁「行かない」
嫁2「行かない」
義兄弟「呂布軍は裏切れない」
晋という乗っ取っただけの新しい国が老害臭漂う二国を平らげるだけの糞ゲー
夏侯覇→蜀に移籍→エース
孟達→蜀に移籍→エース
王平→蜀に移籍→レギュラー
姜維→蜀に移籍→大エース
あ…(察し)
>>342
??「字も読めない奴がレギュラーとか笑わせる(ヤマノボリー」
>>342
試合にでな成長できんからな
いいトレードやったな!
>>342
えぇ…
>>342
深刻な人材不足
>>344
法正さんが過労死するブラック国家やぞ
>>342
周瑜も曹操軍の中じゃ一武将とかいう至言
>>363
蒼天の話ならそれは年齢的な意味で二十くらいおる将軍の1人、って意味らしいで
才能あるからってそんな若造に孫権お前色々背負わせすぎやろってことや
>>634
郭嘉「」
>>637
実際死んじゃいましたし・・・
三国志面白そうやん魏呉蜀どこが統一したんやろ
晋←???
>>345
統一した晋もすぐに蛮族に滅ぼされる←えぇ・・・(困惑)
>>357
流れ流れていつか消えゆくとしても永遠に止まらない時の河ンゴねぇ…
>>378
続いていくんごねぇ
中国人も蜀好き多いんかな大正義の魏好きそうやけど
>>346
今は知らんが昔は演義見たら蜀が人気だったってすぐ分かるわ
>>346
中国人は日本で曹操人気なのが謎って思っとるんやで
>>386
曹操自体は本国でも人気あるやろ
曹操、劉備、孫権
すごい
曹丕、劉禅、孫権(酒)
無能
>>349
曹丕無能の風潮はないやろ
曹叡ならともかく
>>358
曹叡も散財癖が酷すぎるだけで戦争に関しては有能なんだよなぁ
>>366
もう少し曹叡の戦は見たかったわ
キレっキレやん相手驢馬さんだけど
>>358
曹丕は性格があれなのと戦は下手だからそこら辺をどう評価するかよな
個人的には嫌いじゃない
>>377
コンプレックスの塊なイメージ
>>377
多数の無辜の民にとってはええ皇帝さんやったと思うで
中国では、人口激減したせいで異民族流入の原因となった上に中華史上最悪の人口減少のせいで突出した人材もいない暗黒時代という認識なのに日本では大人気
>>355
やっぱ吉川英治ってすげーわ
>>365
物語としてはホンマ面白いから吉川は偉大だわ
横光三国志の元ネタってだけで偉大や
>>355
人口減の原因だから曹操嫌われてるのか
>>381
人口減の原因は主に後漢やぞ
まあ曹操も虐殺とかもやったけどな
そこを補うために積極的に蛮族連れてきた筆頭が曹操
まあ当時は曹操だけじゃなくてみんなやってたんやけどな
>>355
山越遠征(人狩り)
>>395
人口少なくて頭悩ませてたからしゃーない
>>395
あれ日本もその標的だったらしいな
卑弥呼vs呉軍が実現してたかと思うと胸熱
曹操とかいう詩も書も評論もいける天才
>>379
水球やってたから水練9という安直さに草
ほんまに当時から三国無双みたいな鎧着てたんか
>>385
ファンタジーやぞ
易者「馬が牛に滅ぼされるンゴ」
司馬懿「牛金殺さなきゃ(使命感)」
司馬懿も老後はガイジだったんやね
>>400
武に滅ぼされるとか謎予言多すぎ
ド素人でもすっと入れる三国志のドラマってある?
>>404
やっぱりアニメ三国志やな
>>404
NHKの人形劇やぞ
よくこんなアホタイトルからここまでレス続いてるな。
ホント三国市好きだな。
中国で一番嫌われてる三国志武将は于禁やで
于禁とは、
字は文則。泰山郡鉅平県(現在の山東省)の出身。同郷の鮑信が黄巾の乱に際して義兵を募るとそれに参加する。
鮑信の死後は曹操に仕え、以後曹操の下で無数の軍功を立てた。
晩年の悲劇
しかし219年(建安24年)、劉備配下の関羽に包囲された樊城の曹仁を救う援軍を率いた時、漢水の洪水に巻き込まれ、身動きが取れなくなった于禁は関羽に降伏。曹操は新参ながら降伏を拒否して斬られた龐徳と比較して「わしが于禁を知って30年になる。危機を前に龐徳に及ばないとは思わなかった」と嘆じた。
于禁は関羽の捕虜となるも、荊州が呉に奪われると孫権の賓客となり、曹操死後に他の捕虜と共に孫権から魏に返還される。髪も髭も真っ白にやつれた于禁に対し、曹操の後継者の曹丕は表向きはねぎらいつつ于禁を呉への使者に任命し、その前に曹操の墓(高陵)を参拝させた。そこには于禁が関羽に降服し龐徳が降伏を拒んでいる場面が描かれており、これを見た于禁は恥と怒りのため病に倒れ病没した。子の于圭が後を継いだ。
http://dic.nicovideo.jp/a/于禁
>>429
とくさんは見事な最後だったからな
>>429
命だけは、命だけはお助け下され
>>443
ようやく魏に帰ってこれたから
曹操様のお墓参りいくやで
>>443
曹操「惨めな命乞いの後の飯はうまいか?」
>>459
曹丕じゃなかった?間違ってたらすまんが
三国志の嫌いなところはまさにこれ
前半だけ面白くて後半がクソつまらん上にオチもgdgd
日本の戦国時代は後半の方が面白いし江戸幕府による250年の平和というちゃんとした「結果」があるのが良い
>>431
エンタメのようや
>>431
アメドラ感あるよな
>>431
戦国時代は最終的に家康一人勝ちすぎてつまらないんだよなあ
幕末があるからギリギリ許せるレベル
>>431
逆に戦国時代はきっかけの応仁の乱がぐだぐだやからね
>>431
日本の戦国時代は逆に初期がつまらんからな
なんで戦国時代に突入したのか未だに分かってないし
>>442
なんでや天文の乱とか長尾景春の乱とかおもろいやろ
>>442
応仁の乱とかいう当事者ですら理解出来ない戦いが悪い
>>462
敵対する二大勢力の頭が相互に入れ替わる不思議
>>431
楚漢のほうがオチがしっかりしてるしええな
粛清とかあるしそこまですっきりとはいかんが
>>471
韓信英布膨越粛清とか草も生えない
ハンカイですら捕縛されるとか
大体無視される異民族
その点異民族にもスポットを当てる龍狼伝って最高やな
>>433
三国志7とかED直後異民族に制圧されるのがほとんどだったりしたけどそれはそれで暗かったで…
>>433
クッソめんどくさい異民族×5を全て滅ぼさないとベストエンドに辿り着けない三国志9
>>433
ぽっと出の南蛮より脅威な山越や鮮卑
なお
>>433
司馬懿がオール100暗黒大仙人になったり張角や虞美人が普通に生きてるファンタジーはNG
異民族がなんで強かったのかとか気になるな
>>438
相手が全員赤兎馬乗ってる上に騎射の名手や
>>451
11の公孫一族かな?
>>451
文字通りの呂布軍とか脱糞不可避
1番面白いのって曹操がエンシュウ追われた194年だな
>>441
曹操のピンチってそこくらいか
>>447
長安に逃げる董卓を追ってボコボコにされた時
官途
赤壁から逃げる時
>>447
やっぱり呂布っていう平地最強の花方がおるからよ
>>466
呂布死んだ辺りがクライマックス
三国志13やってるけど連合組まれるとどうしようもないわ
>>445
連合組んだ途端全兵力を動員するとこに狂気を感じる
呂布って匈奴やろ?
>>461
今で言うモンゴルど真ん中やな
>>496
やっぱそうだよな
出身エン州やし弓の名手とか騎馬民族としか思えん
>>505
ギリギリ漢の人間異民族の襲撃が特別多いところ
張遼もその近く
于禁は中国人が能力全部1でいいとか言ってるぐらいやからな
裏切者には厳しいんやろか
石勒というアンチ曹操の鑑
なお本人と息子は曹操より畜生扱いされている模様
>>489
息子やなくて義弟やないか
ていうか三国志も信長の野望もそうやけど、いい加減側室作れるようにして欲しいわ
15歳くらいの夏候氏ちゃんとちゅっちゅしたいんじゃ
>>494
お●ぱいでか杉内?
>>494
三国志13は側室作れるぞ
なお夏侯氏ちゃんは15歳の時点で張飛の嫁な模様
>>506
それマジ?
登録武将で嫁も架空のにしたまま遊んでたから全然気付かんかった
>>518
3人まで夫婦の絆結べる
義兄弟も3人までだったかな
>>533
義兄弟は108人は必要やろ
猿しょうが負けた時点で曹操の勝ちはきまったよな
官渡の戦い(かんとのたたかい、中国語:官渡之戰 Guāndu zhī zhan)は、中国後漢末期の200年に官渡(現在の河南省中牟の近く)に於いて曹操と袁紹との間で行われた戦い。赤壁の戦い・夷陵の戦いと共に『三国志』の時代の流れを決定付ける重要な戦いと見做される。
狭義では戦役終盤に官渡で行われた戦いのみを指すが、広義では袁紹と曹操の一連の抗争を含む大きな戦役を指す。白馬の戦いを前哨戦とし、袁紹の元に居た劉備が汝南方面で攪乱戦を起こすなど、中原一帯を巻き込んでいた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/官渡の戦い
司馬懿、ボケる
Vやねん!曹爽ズ!凱旋パレード
>>507
桓範「いかんでしょ…」
>>522
司馬懿「命はとらないでやるで(ニッコリ」
後継者作りはどこも苦労しとるな
やっぱ脱糞公はすごいんやな
>>509
一人に英才教育してると
そいつが死んだらアウト
何人も控え作ってると
勘違いして家督争い始めてアウト
やからな
>>514
織田家かな?
>>514
全員に英才教育しなきゃ…(使命感)
>>509
二代目は余程破綻しとらん限り
先代の家臣が残っとるから、大規模な反乱とかなければ安定するんやで
勝負は三代目よ
>>527
サンキューイエミッツ
袁紹は持久戦に持ち込まなかったから負けて叩かれてるけど自分の寿命を悟ってたって考えたらカッコいい
どっちにしろ息子分裂するし
>>571
分裂してるのは自分のせいじゃないですかね…
>>571
寿命悟ってたなら後継者決めとけや
息子分裂は後継者指名しとかんかったからやで
蒼天航路の董卓とかありえんくらいの暴虐ぷりに思ってたけど五湖十六国時代はマジであんなんばかりだった
>>592
あの人間椅子に一度座ってみたいわ
>>592
胡って言う位やから蛮族なんか?
>>599
そこらへんの旅人の内臓取って酒の肴にするンゴ
>>604
水滸伝の日常やん
>>608
あいつら盗賊で犯罪者やから
>>608
食った坊主のシャレコウベと短刀がなるんよ
>>599
五大蛮族の総称やからな
なお国の数は十六国に収まらない模様
諸葛亮と司馬懿の勝負おもろいやん
>>594
引き込もって追撃するだけやん
>>594
アリが象に挑んでるだけやぞ
正史準拠で語る奴が多いスレでも魏延に関しては演義準拠で語る奴が多いのは何故なんや?
>>595
劉備個人ファンクラブのイメージ
曹操強すぎ
劉備動くの遅すぎ
孫権
福井県立三国高校かな?
>>620
パロ漫画かな?
よく水滸伝で人肉食ってるけど美味いんかな
>>623
脂に臭みと酸味があるらしいし
パイにしたら旨いんとちゃうか?
>>623
孔子もおすすめやで
>>625
まだこんなん言うてる奴おるんか…
醢に人肉なんて意味ないぞ
>>635
二行目の最初のやつなんて読むんや
>>639
かい
塩漬け肉以上の意味はない
一番有名なのが鼎立前の赤壁の戦いの時点でその後地味なのは明白
それが逆にいいんやろ
戦乱の時代に志持った奴らが熱い時代を生き
最期はむなしく散っていくみたいな
そういうはかなさ
カーチャン「あんたはブサイクじゃないわよ」
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コメント
2.気になる名無しさん2016年02月24日 06:03 ▽このコメントに返信
三重県って最初こんなんだったの?!って思ってしまった
3.気になる名無しさん2016年02月24日 06:28 ▽このコメントに返信
鼎立後の三国志が面白くないとか、単に三国時代を知らんだけやんけ
魏や呉は政争に次ぐ政争、特に准南の三犯とか司馬氏の台頭が面白いし、蜀は姜維と陳泰、鄧艾との戦い、ドラマチックな滅亡とクソ面白いエピソードだらけじゃん
小勢力がチマチマ戦ってた後漢末なんかよりは具体的な記録が大量に残ってる分読み応えあるよ
4.気になる名無しさん2016年02月24日 06:52 ▽このコメントに返信
「南北朝時代」も同じだな。南北朝時代は、南北朝成立する前、
足利・楠木・新田が右往左往してる時期の方が面白いよなーと言いたいが、
その時代は南北朝ができてないから「南北朝時代」とは言えないし、
「太平記の時代」と言ったら「南北朝時代」も含むし、でも「鎌倉時代」は終わってるしで。
結局、適切な表現として、
「三国鼎立する前の三国志」と同じように、
「正成や義貞が生きてる頃の太平記(南北朝時代)」となる。
※3
>単に三国時代を知らんだけやんけ
それは間違い。
実際に、桃園の誓いや赤壁のような、漫画や小説やゲームなどで
ハデに扱われている=「よく知られている」部分は三国鼎立前に集中してる。
これが現実だろ。
南北朝において、千早城や湊川が有名であるのと同じくな。
5.気になる名無しさん2016年02月24日 06:55 ▽このコメントに返信
何でや
三国鼎立どころかその後の曹家が司馬家に乗っ取られるところとか面白いじゃないですか
蜀は荊州失った時点で詰んでたけど孔明存命中は何とか保ってた
呉は孫権が長生きしたのがガン 正に老害
個人的には陳舜臣は秘本三国志と小説十八史略がイイと思う特に秘本は何度読み返しても飽きない
曹操残影は曹操スキーが行き過ぎて文章硬くて陳先生らしくないなぁって感じて勿体なかった
6.気になる名無しさん2016年02月24日 07:07 ▽このコメントに返信
いやー乱世乱世
7.気になる名無しさん2016年02月24日 07:12 ▽このコメントに返信
>>前半だけ面白くて後半がクソつまらん上にオチもgdgd
水滸伝の悪口はやめよう (震え声)
いやホント、詳しく読み込めば読み込むほど詰まらなくなるって何やねん……
8.気になる名無しさん2016年02月24日 07:12 ▽このコメントに返信
※5
いやそれ歴史が面白いってだけで三国志としての面白さじゃないでしょ
三國無双の晋とかお前三国志じゃないだろっていう
9.気になる名無しさん2016年02月24日 07:13 ▽このコメントに返信
赤兎馬とかいう活躍期間のおかしい名馬。実際は世代交代してたんだろうけどw
10.気になる名無しさん2016年02月24日 07:13 ▽このコメントに返信
マンガとゲームある程度やってたら名前やイベントわからなくても楽しめな三国志は
日本では三国志人気あるけど他の国では人気どれくらいなんだろう?
11.気になる名無しさん2016年02月24日 07:23 ▽このコメントに返信
※3
鼎立後は政争とお家騒動で内側から滅んでいくドロドロの人間模様メインだしな。
読んでて気分がいいものでは無い。
多くの人は幾多の勢力と才能がぶつかり合う群雄割拠の時代の方が派手で面白いと感じると思うよ。
12.気になる名無しさん2016年02月24日 07:23 ▽このコメントに返信
三国志はそうだけど、三国時代は孔明死んでからのが面白い。
13.気になる名無しさん2016年02月24日 07:38 ▽このコメントに返信
三国志の終盤が盛り上がらないのは、滅びる側が意地を見せるというか、最後の悪あがきみたいなのをせずに、あっさり滅びたからだと思う。
1.気になる名無しさん2016年02月24日 06:03 ▽このコメントに返信
三国志奥深すぎワロ