kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2016年02月23日

「英国のEU離脱の可能性」について調べたい人のためのソースのメモ (1)

……というわけで、4ヵ月後の6月23日に英国がEUに留まるか、離脱するかを問うレファレンダム(国民投票)が行われる

2014年9月にいろんなところで論を二分したスコットランド独立可否を問うレファレンダムと似て、「賛成」の陣営も「反対」の陣営も、何でもありのどぎつくていじましい「情報戦」をしかけるのだろうし、これによって生じる「分断」は深刻なものになるかもしれない。

一方で、中央(ウエストミンスター)の政界がほぼ一致結束して「独立反対」のキャンペーンを張ったスコットランド独立可否のときと異なるのは、中央政界にキャメロン政権の方針と真っ向から対立する「EU離脱賛成派」がけっこういるということだ(22日のBBC報道が大きく取り上げていたが、現ロンドン市長で2015年の総選挙で下院議員にも戻ったボリス・ジョンソンが「本当の変化」という言葉を使って「離脱賛成」を宣言し、ほかにも「パンがないならお菓子を」的な態度で一躍政界のおちょくられ大魔王となった年金・雇用大臣元党首のIDS、北アイルランド担当大臣のテレサ・ヴィラーズといった現役の閣僚、それと元閣僚のマイケル・ゴーヴ、元司法相で現在は院内総務を務めるクリス・グレイリングといった保守党の大物たちが、「コントロールを取り戻そう」をスローガンに、「離脱賛成」の陣営に回っている)。

というか、「反EU(反EC)」という理念というかムードというかそういうものは、「極右」(ナショナリズム。UKIPのナイジェル・ファラージなど)や「極左」(反・資本主義、反・新自由主義。ジョージ・ギャロウェイなど)に限らず、英国では政治のメインストリームでもけっこう広く共有されてきた。それは「英国らしさ」や「われわれの独自性」といった抽象的な理念・理想像の話ではなく、現実的で実利的な「政策決定の権限」や「コントロール」に関わる重大な問題だ。1990年代に英国が「欧州連合の統一通貨」から離脱したとき(英国のERM離脱)にも、それは大いに語られた。

……と、がっさりしたことを書き始めたとたんに、手が止まった。リアルタイムで知ってることなのだが、何かを書けるほどには覚えていない。そもそも当時の私はバカだし、得られる情報も限られていて(インターネットなど一般人は使えない時代)、「で、ポンド使えなくなるの?」という単純な疑問の答えさえわかればいいという態度だった。細かい議論の中身に興味を持ったところで、詳しく知るための情報には、「関心がある」程度ではアクセスできない。

だが今は当時とは環境が違う。ブラウザの検索窓に「ポンド ユーロ 離脱」とでも打ち込んでEnterキーを叩けば、アルゴリズムが「これなんかいいんじゃないすかね」と判断してくれた情報が並べられて出てくる。

そうしてめぐり合ったのが、『立命館国際研究』(立命館大学の紀要)の25巻3号に掲載されている田中綾一さんによる下記の論文である。登録などせずにURLをクリックするだけで読める。(ちなみに、この同じ号には南野泰義さんの『北アイルランド紛争“Troubles” の政治的起源― 1920 年代における選挙制度改革をめぐって ―』も掲載されている。こちらは以前、何らかの形で言及していたかもしれない。)

「5つの条件」からみるイギリスとユーロ
田中綾一
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.25-3/02_Tanaka.pdf


論文のタイトルにある「5つの条件」とは、トニー・ブレア労働党政権が1997年の総選挙でバカ勝ちして発足してほどなく示された、英国が欧州統一通貨ユーロに参加するための条件のことである。そこは、2016年のニュースの消費者としては、ざっと目を通せばよい部分だ。

その次の章、「不参加という選択」(4ページから)が、英国とEU(および統一通貨ユーロ)との関係をみるときに必須。少し引用しよう。引用文中の「ERM」とは、the European Exchange Rate Mechanism (欧州為替相場メカニズム) のことである(それ自体が気になる人はウィキペディアを見てみるのが有益かもしれない)。

マーストリヒト条約の交渉においてイギリスは蚊帳の外に置かれていたというわけではない。それどころか,当初は通貨統合に懐疑的だったドイツ連銀と近い立場で交渉に参加していた。しかし,結局はフランスの主導する通貨統合への流れを押しとどめることはできず,単一通貨へのオプト・アウト(選択的離脱権)を確保する条件交渉に後退せざるを得なかった。

ただし,イギリスが強く反対したのは単一通貨化およびそれを目的とする EMU である。
1990年10月には ERM 参加を果たしている。……

結果として ERM 加盟は失敗に終わる。1989 年頃からドイツ連銀は統一政策の影響によるインフレを回避するために高金利政策を余儀なくされた。1992 年にはドイツの名目金利水準はピークに達するが,同時期にイギリスは不況のピークを迎えてしまう。国内からは景気対策として金融緩和が要望されることになるが,対マルク変動幅を ERM に定められた水準(当時は± 6%)に収めておくためにはドイツの高金利に追随せざるを得ない。こうした構造が投機筋に見透かされた結果であった。1992年9月にイギリスは ERM を離脱した。


これがサッチャー政権(保守党)末期からメイジャー政権(保守党)にかけての出来事である。このときに「見透かした」投機筋が、ほかならぬジョージ・ソロスのヘッジファンドである。

そのあたりのことも、元々「わかってた」わけではない上に、歳月の経過により、うろ覚えと言うにもおぼつかないくらいにしか記憶に残っていないのだが、ここでもインターネットの恩恵を受けまくり、検索しただけで、ネットの向こうのどこかで知識を言語化して文字として入力してくださった碩学による説明が出てくる。

日本語版のウィキペディア、「ポンド危機」の項目だ。つい最近、大幅に手が入れられて内容が超充実している。




(執筆・編集したウィキペディアンさんは、ほかにも欧州に関するいくつもの項目に関わっておられるが、どこの誰ということは見てわかる範囲には書かれていない。)

1992年9月の「ポンド危機」の発端についてのセクションを引用しておこう。なお、原文にはソースもがっつりついているので、関心のある方は原文に当たられたい。
サッチャー政権後期の拡張的金融政策で失業率も改善傾向だったが、ERM参加後に再び悪化し、1992年には10%近くまで失業率が上昇した。景気は大きく後退し、会社の倒産は(1931年以降)記録的なものとなった。

そしてウォルターズの予想通りポンドは投機攻撃の対象となった。1990年10月に東西ドイツが統一されて以来、旧西ドイツ政府による旧東ドイツへの投資が増加し、欧州の金利は高目に推移していた。高めの金利は欧州通貨の増価をもたらした。ERMによって欧州通貨と連動したポンドは次第に過大評価されていくことになり、持続可能性を喪失していった。ERMに留まるには英国は金利を上げざるを得なかった。 高金利は英国経済を害した。ルールに反し、ドイツ連邦銀行はポンド防衛にまわらなかった。ここで英国人達の欧州懐疑論が深く心理に残るものになった。

これに目をつけたのがジョージ・ソロスである。ソロスは「相場は必ず間違っている」が持論であり、このときもポンド相場が実勢に合わないほど高止まりしていると考えた。そして、ポンドを売り浴びせ、安くなったところで買い戻すという取引を実行することになる。

その時の支配的な意見は英国はERMに留まるべきというものだった。当時の首相ジョン・メージャーはERM加入は誤りだったと認めようとせず、ERM離脱は英国の未来の裏切りだと述べた。


こういった「わりと近い過去に何があったか」を改めて頭に入れ直してから、その延長線上に位置する今のニュースを見て、「ああ、そういうことか!」と納得する。

こういう体験ができるのも、インターネットのおかげだ。

そもそもインターネットは、こういう体験を(大学に通って講義を聴くなどしなくても、自宅などで、誰でも)得られるようにする仕組みとして洗練されてきたものだった。「誰でも編集・執筆できる百科事典」であるウィキペディアは、まさにその粋たるものだ。しかし実際には、先日みたように現状のウィキペディアは全然洗練されていないし(日本語がひどいものが多い……「てにをは」のレベルでおかしかったり、主述がねじれていたり、逆接の連続で中学生の作文みたいになっていたりするのをみかけるのは日常茶飯事だ)、参照に足るだけの最低限の信頼性すら欠けていることもよくある。

日本語がおかしいだけなら、数分の空き時間があれば直せるし、助詞を直す、句読点を整理する、誤変換や脱字を修正するといった修正作業は、ログインしていたりしていなかったりというのはいろいろあるが、私はしょっちゅうやっている。しかしそれ以上の、内容面での修正が必要なこととなると、元の記述にソースがない場合、あるいはソースの表示が不十分な場合(日本語ウィキペディアはとにかくその問題が大きい)には、数行分の記述の事実確認をし、問題点を修正して新たに記述するだけの作業に、何時間もかかるのが当たり前である。そして、これだけの労力の提供を余儀なくされることが前提のシステムは、「持続可能」ではない。

それでも、「ポンド危機」の項目に手を入れたウィキペディアンさんのような人がいるのが、インターネットである。

閑話休題。

英国のERM離脱などEUとの関係のごちゃっとした部分については、時期的にちょうど「インターネットの完全な普及の少し前」で、ネット上に残されている情報の量は今ひとつ少ないかもしれないが、そういうときに参照すると何かあるのがBBCのOn This Dayのコーナーである。2005年(だったと思う)まで更新されていたこの「ニュースでみる、今日は何の日」のページには、BBCの膨大な蓄積から持ってきた「当時のニュース」が、閲覧可能な形で蓄積されている。

1992年9月16日の「英国のERM離脱」は下記。
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/september/16/newsid_2519000/2519013.stm

The government has suspended Britain's membership of the European Exchange Rate Mechanism.

The UK's prime minister and chancellor tried all day to prop up a failing pound and withdrawal from the monetary system the country joined two years ago was the last resort.

Chancellor Norman Lamont raised interest rates from 10% to 12%, then to 15%, and authorised the spending of billions of pounds to buy up the sterling being frantically sold on the currency markets.

But the measures failed to prevent the pound falling lower than its minimum level in the ERM. ...




このテーマでもう1本、エントリをアップします。

※この記事は

2016年02月23日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:59 | TrackBack(0) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/434191323
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック




記事を読んでくださってありがとうございます。
個別のご挨拶は控えさせていただいておりますが、
おひとりおひとりに感謝申し上げます。


【おことわり】「阿修羅」掲示板にこのブログ、および当方の管理下のブログの記事が全文転載されているのは、無断転載(コピペ)です。当方の関知するところではありません。詳しくはこちら(2015年7月以降、当方のブログの「阿修羅」への無断転載は、固くお断りします)。



なお、ここに貼ってあったZenbackは2015年2月19日にコードを外しました。今後は検討中です。


【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼