前回はイギリスの1ポンドショップから見るイギリスらしさ、をご紹介しました。
その中で、1ポンドショップのセールが暴動になりかけた話題を取り上げました。
日本だとデモや騒動が起こることもありますが、どこかの店のセールやイベントで、暴動状態になることはまずありません。おとなしい国民性、相互監視状態の社会であること、経済が低迷しているとはいってもそれほど悪い状態ではないこと、などがあり、日本では、社会的騒乱や暴動はほとんどおこりません。駅も道路も秩序だっていて、列に並ぶのが当たり前です。
昭和30年代ぐらいまでは、劇場や列車内がゴミだらけだったり、道でタンを吐く人がいたり、列への割り込みがあったり、デモがあったり、ストがあったり、愚連隊による暴力事件が当たり前だったりと、日本も随分物騒だったわけですが、今ではスッカリおとなしくなってしまいました。
イギリスも日本の様に老成した国ではありますが、日本に比べると、暴力事件や暴動の件数は遥かに多いです。
その理由は、ここの人達が血の気が多いとか、実は短気であるということもあるのかもしれませんが、日本の比べて、雇用の安定性がないことも理由なのかなと思っています。
ここは雇用の流動性が高いので、ヨーロッパ地域にある国といっても、雇用の慣習はアメリカ型です。終身雇用は実質存在しないに等しく、職場による保証や保護は最小限。働く人はわりとカジュアルに首になってしまいます。首になる理由は、ビジネスの優先順位が変わった、コストカットなど様々です。イギリスの多くの人にとって、雇用の将来は不透明 です。ただ流動性はあるので、再就職や転職は可能です。
ただそれは全員可能かというと、そういうわけでもありません。また雇用の流動性がある一方で、職場の移動も簡単なので、稼げる人、稼げない人の格差も大きいのです。個人の能力により、稼げる金額が変動するという、リバタリアン型社会です。才能がある人が能力を発揮できる一方で、保証は最小限なので自分の将来は自己責任です。
ITや金融の技能がなく、勉強が得意ではない 若い人は、昇進も昇給のみ込みもなく、最低賃金で、非正規雇用の「デッドエンドジョブ」をやらざる得ません。お金はより付加価値の高い仕事に割り振られるので、付加価値が低い仕事で得られる報酬は少ないのです。
給料が安すぎるので買い物するのは1ポンドショップやアウトレット。外食はできないし旅行にもいけない。家も買えない。時給いくらで働く人達や年金生活者にとって、1ポンドショップのセールは大事件です。
その一方で、1ポンドショップというのは、家庭年収が1000万円を越えるぐらいの人達が住んでいるところにはありません。そういう人達は8000万円から4億円ぐらいの家に住んでいて、買い物はデパートやオーガニック食品店やWaitroseという紀伊国屋のようなスーパーです。1ポンドショップが街にやってくるとなると、反対運動が起こります。彼ら曰く、1ポンドショップがくることで「間違った階層の人達」が街にやってくるからです。
Waitroseがポイントカードを持っていれば、買い物しなくても無料でコーヒーや紅茶を貰えるサービスを始めた時には、「間違った階層の人達が店にいる」「労働者階級を店に呼ぶな」とネット上で反対運動が起きました。
1ポンドショップの原型であり、2009年に倒産した安売り雑貨店「Woolies」が人気があった頃のイギリスは、階級社会ではありました。しかし今よりも製造業が多く、組合も強く、貧富の差は今ほど大きくはありませんでした。 若い人は、中学や高校を出た後に、アプレンティスシップという 働きながら仕事を覚える仕組みが機能していたので、就職や年金を心配する必要もありませんでした。学校の先生が刺されることはなく、老人が小学生に殴る殺される事件もありませんでした。
階級社会、階級社会と海外から揶揄されていた当時のイギリスのほうが、今よりも遥かに社会主義的で、平等主義だったようです。そして、一般家庭にセコムを入れる必要はありませんでした。
引っ越しや転職も珍しく、近所の人は知り合いばかり。親戚や近所の人の手前があるので、店で暴れるなんて考えられなかった時代です。今よりも「大きく」稼げる機会も、不動産投資の機会も限られていたので、それほど豊かではないけれど、ある意味で生活が安定していた時代でした。 階級格差はありましたが、日常生活における階級対立というのは、今ほど頻繁ではありませんでした。
Waitroseで買い物する人達は、1ポンドショップを「福祉」だとは呼びません。国内の貧しい人達が安く買い物できることは無視して、「発展途上国の可哀想な人達を搾取するひどいビジネス」だと呼んでいます。彼らはケンタッキーを食べながら、スウェットの上下でWaitroseに入ってくる人達は「間違った階級」なので自分達の視界に入ることを許さないのです。
階級の垣根を取り払い、リバタリアン的な、個人が能力を発揮する社会になったと思ったのにも関わらず、階級格差がむしろ大きくなっているというのは、なんという皮肉でしょう。