2015年10月の大筋合意を得て、今年2月4日に署名に至ったTPP(環太平洋経済連携)協定。ところがTPPを受け入れることによって、日本の法体系が破壊されるかもしれない、との問題がにわかに持ち上がっている。知的財産を巡り、そのような危険が迫っているというのだ。
「私はTPPの中で最も日本が米国に譲ってしまった分野は、知的財産権、著作権の分野だと思っています」
2月8日の衆院予算委員会で、維新の党の高井崇志議員はこう述べた。まずは著作権の保護期間が50年から70年に延長されたこと、そして一部非親告罪化、さらに懲罰的な損害賠償制度の導入である。これらにより、日本のコンテンツビジネスが委縮する可能性があるというのだ。
とりわけ深刻なのは懲罰的な損害賠償制度の導入だ。そもそも日本の民法は第709条で故意過失に基づく権利侵害に対し、「これによって生じた損害を賠償」することを定める。すなわち、具体的な損害についてのみの賠償を原則としている。
ところがTPP協定は知的財産権について定める第18章の74条8項で以下のように規定している。「侵害によって引き起こされた損害について権利者を補償するために十分な額に定め、及び将来の侵害を抑止することを目的とする」。
つまり、実際に損害が発生していなくても、懲罰的な損害賠償責任が生じるとしているのだ。
これについては、国内でも議論がある。
2015年11月27日に開かれた文化審議会の法制・基本問題小委員会(第6回)では、日本音楽著作権協会などが追加的損害賠償制度導入に積極的な姿勢を示す一方で、日本経済団体連合会が「追加的・懲罰的な損害賠償制度は我が国の不法行為体系になじまないので、現行の法体系との齟齬は避けてもらいたい」と主張。TPPの知的財産権と協議の透明化を考えるフォーラム(thinkTPPIT)とインターネットユーザー協会が「特に米国型訴訟文化の急速な導入は賠償金の高額化と濫訴を招き、個人や企業活動の門の自粛から文化・経済面での強みを減殺しかねない」と述べるなど、慎重な意見が相次いだ。
最高裁は平成9(1997)年7月11日に我が国の損害賠償制度の原則を現状回復とした上で、「被害者に対する制裁や、将来における同様の行為の禁止、すなわち一般予防を目的とするものではない」と判断した。
さらに一般予防を目的とする賠償制度は、「我が国における不法行為に基づく損害賠償制度の基本原則ないし基本理念と相いれない」と宣言。懲罰的損害賠償を命じた外国判決の部分については、「我が国の公の秩序に反する」から無効としている。すなわち懲罰的損害賠償制度は日本の現行の不法行為法体系になじまないものと裁判所が断定したのだ。
実際に財務官僚時代、株式のインサイダー取引に懲罰的損害賠償制度の導入を検討した民主党の玉木雄一郎衆院議員は、その困難さを語っている。「我が国の損害賠償の基本ルールである民法第709条は、現に生じた損害を補てんするという原則から抜けられないとわかり、法制度を断念したことがある」。
このようにTPPと日本の不法行為体系とは大きな齟齬がある。ところがこの矛盾について、石原伸晃TPP担当相は「我が国の具体的な法制度設計は、我が国に委ねられている」(2月8日衆院予算委員会)と楽天的だ。なるほど、TPP協定第18章第5条は「締結国はこの章に反しないことを条件として、この章において要求される保護又は行使よりも広範な知的財産権の保護または行使を自国法令において規定することができるが、その義務は負わない」としている。
一見して、知的財産に関してTPPの規定を採用するかどうかは、締結国の自由のように思えるのだ。
だが日本の填補賠償制度はTPPが要求するよりも広範な保護や行使ではないため、石原大臣が述べるように「我が国に委ねられている」とはいえない。
そもそもアメリカは、他国との貿易協定が承認されたとしても、他国の国内法や制度をチェックし、その変更を要求することができるとしている。またアメリカの都合だけで、協定の発効を遅らせることも可能だ。パナマとのFTAでは、パナマが2007年7月11日に議会承認したにも関わらず、協定が発効したのは2012年10月31日。実に5年以上も待たされた。
そしてアメリカが「十分」とするまでは貿易協定を発効させない。すなわち相手国が議会で承認を得た以降も、アメリカの意思で協定内容を変えることができるということになる。
この承認手続きはCertificationと呼ばれ、1988年のカナダ・アメリカFTAで導入されたのが最初で、引き続き1993年のNAFTAに適用されて定着した。
このCertification により、チリとオーストラリアがアメリカとのFTA締結後に国内法を改正させられたことを、2月19日の衆院予算委員会で民主党の福島伸享議員が述べている。そういう現状なのに、石原大臣のように「我が国の具体的な法制度設計は、我が国に委ねられている」で通るのか。福島氏は日本の法体系もその危機にさらされていると警告している。
「我が国の公の秩序に反するんですよ。つまり日本人の美徳や古くからの伝統に反することが、TPPによって変えられようとしているんですよ」
そもそもTPPはその交渉過程が明らかではない。甘利明前TPP担当相は自身のブログで、多くの時間を事務方を排して1対1で交渉してきたと述べている。にも拘わらず、後任の石原大臣への引き継ぎは電話で20分ほど話しただけなのだ。
「TPPについては特別委員会を設置して、真剣に審議しなくてはいけない。そのためには交渉過程がわからないと、どうしようもない。交渉過程を開示すべきだ」
このように民主党の玉木議員が主張するのは、石原大臣のみならず、岩城光英法相の答弁が心もとないからだ。野党議員の質問に対して岩城大臣はただ、「いままさに検討中」「立法の段階で明らかにしていきたい」などと繰り返すばかり。「将来の同様の行為の抑止を目的としたこの8項に規定する損害賠償は明らかに1997年の最高裁判決に違反するし、TPP協定の中身を忠実に守ろうとすると、我が国では導入できない規定に署名してきたことになるのではないか」という玉木議員の質問にも、「各締結国の一定の裁量が与えられるものと承知している」と答えるのみだ。
自民党は2013年の参院選で「農林水産分野の重要5品目の聖域を最優先し、それが確保できない場合は脱退も辞さない」と自民党政策集(Jーファイル)に記して闘った。しかし安倍晋三首相は「Jファイルは公約ではなく、目指すべき政策である」とし、事実上それを反故にしてしまった。
アメリカのいいなりになって、なし崩し的に国内法が変えられていく状況を座視していていいののか。日本の運命を変えるTPPについて、今後の国会審議を慎重に行うべきだろう。