ネット上、いやそれに関わらず他人と関わる上での難しさを感じる今日この頃。疑問を呈する、いや警鐘を鳴らす形で記事を書くことにする。
人の心に土足で踏み込むことの是非を問う。
何かを伝える時
人間には「言葉」という強力な武器がある。それは声帯を通じて発せられ、耳介内で振動として捉えるそれのみを指すものではなく、文章においても同義。相手に何かを伝えるためのコミュニケーション手段の一である。
ここにおいて「~すべきだ」「~しなければならない」などの極論は聞いている相手を構えさせ、伝えたいことが伝わらない危険性が大きい。これは数多の上梓された自己啓発書に散見される定型文的な警鐘である。ここについては論じるまでもないだろう。
ただ、今回思うことは、そのような具体的な文言に関わらず何かを断じたり、伝え方に問題がある人が余りにも多いと感じたために筆をとった。もちろん、これは日頃自分の言動においても教訓としたい意味がある。
土足で踏み込む(踏み込まれる)ケース
例えば、相手に間違いを指摘するとき。自分の中では明らかに間違ったことを相手が平然と行っていたとして、それを正したいと起こす行動について考えてみよう。以下のような伝え方が考えられる。
①「そんなことをしては駄目だ、こうすべきだ」
②「それはどうなのかな、こうしようよ」
③「私はこうしたほうが良いと思うけど、あなたはどう思う?」
いずれにしても、これらについて反射的忌避間を引き起こしてしまうのは人の常であるとして、そのあとに続くレスポンスに注目したい。
僕がもし、このように言われたとしたら・・・
①「そんなことは駄目だ、こうすべきだ」
これついての反応は「それはあなたの考えだし、僕を変えようなんておこがましいとは思わないのか」このように感じてしまうだろう。 ケースバイケースではあって、明らかに反社会的、非道徳的な行為に半ば未必の故意を孕んで行ったことについては反省する必要があるにせよ、自分の中で何らかのポリシーを持って行ったことについてこのような言われ方をすればこのような反応をしてしまうだろう。出鼻で聞き入れる余地をくじかれるケース。
②「それはどうなのかな、こうしようよ」
これついての反応は「こうしようよ、と問いかけて柔らかくしているつもりだろうけど、明らかにこちらの中に土足で立ち入られている気がする。操作目的じゃないのか」このような受け取り方をするだろうね。場合によって、のくだりは先述の通り。
「~すべきだ」「~しろ」このような断じ方をしなくても、この伝え方はもはやそれと等しいものである、相手の中に土足で踏み込んでいることにほかならない。こういう言い方をする人はその自覚が往々にして無さすぎる。
メンタルが強い人ばかりではない、立ち入られて強い恐怖感を覚えるような人間も、現にここにいる。「自分はこういわれても平気だから」というのは、他者のことを全く考えてないように思われる。自己中心的な発想。
③「私はこうしたほうが良いと思うけど、あなたはどう思う?」
これついての反応は「うっ、確かにそうだね。う~ん・・・」と考える余地が生まれるだろう。僕に行いについて思考する余地を与えてくれるアプローチである。人にこれをすべからく望むのは不遜にしろ、少なくとも僕が誰かの行為を過ちだと判断し、それに対して何らかのアクションを起こすとすれば、これが理想的だと考える。だって、相手の課題に対して「こうしろ」なんて、身の程をわきまえぬにも程があると思うから。
「断じること」をポリシーとしている人への警鐘
そもそも、他者の課題に踏み入ることは、道を逸れていると思う。その行為について責任を被るのはその本人なわけで、あなたには何の責任もない。それなのに「あーするべき」「こーするべき」と相手の領域にいとも簡単に侵入する人は、何らかの責任を負う覚悟ができているのであろうか。これは正直、疑問である。
他者との境界を常に意識して社会生活を行っていると、ニヒリズムをこじらせて山奥に行ってしまいかねない。だからこのように具体的なアクションとして「あえて」断じることについては、正直凄いなって思う。こういう人も世の中には必要なのだろうね。
だけど、ちょっと待ってほしい。断じることの正当性を声高に主張するあまり、相手への「伝え方」そのものをおざなりにしてはいないか?もっと、伝え方というものがあるだろうに。
ブログへのコメントにしてもそう、吐き捨てるような辛辣なものも珍しくない。大半は言いたいだけの人なのだろうなって思ってるけど、中には本当に「それはおかしいよ」って、文字にしてアクションをかけてくる人もいる。それはコメント内容を見ればわかる。だけどさ、結局は「伝え方」なんだよね。兎にも角にも伝え方。ここに帰結する。
そのアクションは誰のために起こしている?自分の溜飲を下げるためか?それとも伝えた相手のためか?後者であれば、「伝わる工夫」をしなければ、あなたの意志は伝わらない。
目的をはっきりさせておいたほうがいい。自分の意のままに相手を操る、留飲を下げたいがために起こしたその土足で踏み込む「断じる行為」の目的を、いまいちど洗い出してくれ。そしてそれが相手のためを思って起こしたアクションであれば、エッジの効いた鋭いアプローチ方法を、なんとか丸くしてはいかがだろうか。
ジレンマ(あとがき)
他者と常に線を引いて暮らすことは、先述の通り冷たい印象を受けるかもしれないし、現にそのように僕を見ている人がいるだろう。だけど、他者との関わりを諦めたわけじゃない。他人とは一定の距離感をとりつつ、お互いを認めあって並列で接したいって常々思う。だからこそ、土足で入り込んでくる人に毎度、辟易する。
そんな人とは距離を置けば良いのだろうけど、でも、人間的に嫌いじゃないし、繋がっていたいという気持ちもある。ここが僕の中で苦しいジレンマとしてこのように表出した結果がこの記事内容なのだろうね。
境界が曖昧な人は他人を断じ、無意識にコントロールしようとする。そうでなければ気持ちが悪くなるから、「自分の」納得がいかないから。他者を切り離せないのである。近しい人にはさらにそれを増してぶつけてくる。家族、恋人、配偶者。いくら同じ屋根の下で一緒に過ごすからといっても、他人は他人。自分の思い通りにはならないし、別の人生。だから、コントロールなんてすべきじゃない。極近い生活圏を共有しつつ、相手の個性を認めつつ、それでも助け合って生きていく。これは並大抵のことじゃないんだよ。
これから誰かとお付き合いしたり結婚しようとしている人へも警鐘を鳴らしたい。相手は他人であって自分ではない。その人生は相手のもの。自分がコントロールできるなんて思うのは、本当に大きな、そして危険な勘違いではないかと。これは肝に銘じておいた方が良いだろう。
難しいよね、対人関係。あなたはどう思う?
終わり