6月23日の英国での国民投票が金融市場で話題になっています。この国民投票では英国が欧州連合(EU)を離脱するべきかどうかが問われます。
もし英国がEUを離脱すれば、それがポンドや英国株式市場に与える影響は大きいと思います。
しかし……
歴史的な文脈からは、英国のEU離脱は大事件ではありません。なぜなら、6月23日のレファレンダムを待つまでもなく、こんにち既に英国の国際社会における発言力は、微々たるものになってしまっているからです。
かつて大英帝国は極東から米州までをカバーしており、「日の沈まない帝国」でした。しかし二回に渡る世界大戦で疲弊し、とりわけ第二次世界大戦は英国をドカ貧に陥れました。
当時、英国はドイツから英国本土空襲(Battle of Britain)に遭い、必死に劣勢を挽回しようとしていました。そのためにアメリカに支援を仰いだわけです。
アメリカは1941年3月にレンドリース法(Lend Lease Act)により、英国をはじめソ連、フランス、中国など連合国に武器を実物貸与することを決めます。(当時、未だアメリカは対独宣戦していませんでした)
当時のアメリカには「ヨーロッパの戦争に、なぜ我々が巻き込まれなければいけないのだ」という戦争反対の声も強く、レンドリース法も、アメリカがなし崩し的に戦争に加担することになることを憂慮する声に押され、成立が危ぶまれました。
フランクリン・ルーズベルト大統領は「あんたのご近所さんの家が火事になったとする。その場合、良き隣人なら消火作業のためにホースを貸すだろう?」というスピーチをして、武器貸与をホースに喩え、議会を説得しました。
こうしてこんにちの価値にして74兆円分の輸送機、戦車、弾薬などが「後払い」で英国などに送られたのです。
フランクリン・ルーズベルトは英国をどんなことがあっても助けるべき友好国と考えていましたが、米国財務省の考えは大統領のそれとかなり「温度差」がありました。
すなわちアメリカの歴史は、イギリスの支配からボストン茶会事件や独立戦争を経て自由を勝ち取った歴史であり、イギリスはアメリカにとってライバル的な存在だという考えです。だからこの大戦が終われば、両国は再びライバルの関係に戻るだろうと財務省は予想していました。
そこで米国財務省はレンドリース法によりイギリスに貸与する輸送機や戦闘機は、英国の対外資産残高とピッタリ一致するように、毎月、財務省スタッフが英国の懐具合を精査しました。そしていつ戦争が集結しても、その時点で英国がレンドリースでこしらえた「借金」が、その資産と一致するペースで武器を出荷したのです。

1944年にそれらの膨大な軍備が「Dデイ」というカタチでノルマンディー上陸作戦に投入されると、それからわずか3週間後にアメリカは「借金のおとしまえ」をつける会議をアメリカで招集します。これがブレトンウッズ会議です。
1944年6月に3週間に渡って連合国側の44か国、700人の代表を集めて開かれたブレトンウッズ会議のねらいは、第二次世界大戦後の世界をどう運営するか? というメッセージをフランクリン・ルーズベルト大統領がドイツや日本に対して発するという意図を持っていたと説明されています。
しかしそのウラに、実際にカンファレンスを仕切った米国財務省には、隠れたアジェンダがあったのです。
ルーズベルトやチャーチルは、優れたリーダーでしたが、ファイナンスの知識は、まるっきりありませんでした。またルーズベルトの右腕であり、財務長官を務めたヘンリー・モーゲンソーも、実は経済のことはからっきしわからなかったのです。モーゲンソーは自ら「私はリンゴ園を営む農夫であり、むずかしい経済の話は、わからない」と公言して憚りませんでした。モーゲンソーがルーズベルトから信頼された理由はルーズベルトが幼少時代を過ごしたニューヨーク州ハイパーク時代の、幼なじみだったからです。
モーゲンソーは経済問題に関しては、部下のハリー・デクスター・ホワイトに全て任せました。
ハリー・デクスター・ホワイトこそがブレトンウッズ会議の構想を練った男なのです。彼は第二次世界大戦の遠因は、イギリスが1930年代に金本位制を離脱し、自国の通貨を安い方へ導くことで、不況から脱しようとしたことにあると考えました。
そこでどこかの国が一方的な通貨安を仕掛けることをけん制する国際組織が必要だと考えました。これがハリー・デクスター・ホワイトの考える国際通貨基金(IMF)の基本構想だったわけです。
当時、世界のゴールドの80%は米国に貯蔵されていました。信用の源泉となるゴールドがアメリカに集中していた関係で、第二次大戦後の新しい世界秩序の構築に際しては、この信用を後ろ盾にしたアメリカがリーダーシップを執らなければいけないというのが彼の信念だったわけです。
ブレトンウッズ会議の隠れたアジェンダとは、その会議をもってイギリスの経済的覇権を終わらせ、アメリカへ覇権を移すことにあったのです。
この策略に最後まで抵抗し、英国の威信を保とうと試みたのが、英国の代表であり、カリスマ経済学者のジョン・メイナード・ケインズです。
ケインズはイギリス上流階級の生まれで、ケンブリッジ出身であり、いつもマスコミが彼の周りを囲んでいました。米国はブレトンウッズ会議の最初からケインズのペースにはめられるといけないと考え、ケインズが開会式でスピーチする機会を与えませんでした。

(ハリー・デクスター・ホワイトとジョン・メイナード・ケインズ 出典:ウィキペディア)
また米国のIMF構想をケインズがぶち壊すことを恐れたので「ケインズさんには、世界銀行(World Bank)の構想を練ることをお願いできますか?」と仕事を与えました。IMFと世銀という、一般人から見ると重複するような国際機関が同じ会議で検討されたのは、アメリカの周到な計略だったのです。
別の言い方をすれば、アメリカは世銀に対する思い入れはこれっぽっちも無く、それは「陽動作戦」だったのです。
ケインズ自身はポンドがもうダメだということをよく承知していたので、超国家通貨、バンコールを作りたいと提案しました。バンコールは、それがゆくゆく米ドルに置き換わるという意味において、アメリカの覇権を拒否する方便に他ならなかったのです。
ケインズはレンドリース法で借りたお金の返済を求められたら、当然、英国はそのおカネを返せないので、「ファウスト的な取引」をせざるを得なくなります。それはつまり支払を猶予してもらう代わり、英国はカナダ、オーストラリアなど英国と関係の深い国々と構成している経済ブロックにおける排他的な貿易を止めることを約束させられるわけです。これは世界にまたがる大英帝国の経済面での粉砕を意味しました。
なお戦争が終わった後、1947年7月14日にポンドとドルを一定の固定相場で兌換することが発表されました。人々は、実体として紙屑同然のポンドから、さっさとドルに乗り換えました。その直後、オケラになった英国を見限り、パレスチナ、ビルマ、インドなどが続々と英国の植民地を抜け、独立国となったのは、偶然ではなく、アメリカが周到に計画したことだったのです。
なお、ブレトンウッズ体制は、このように英国の覇権を終わらせることを影のアジェンダとしていましたが、その前提条件として第二次世界大戦後もソ連が協調的な行動をとることを想定していました。
しかしソ連とアメリカの関係は急速におかしくなり、冷戦が始まります。そこでIMFの融資を通じてゆっくりと疲弊したヨーロッパを癒すブレトンウッズでの約束は、アメリカのシナリオ通りに行かなくなってしまったのです。
そこでアメリカはマーシャルプランを発表し、返済の見込みは二の次の、巨額な支援金を、ドイツをはじめとした国々にぶち込むことで、一気に西ドイツ経済を立て直し、西ドイツを「赤の脅威」への防衛の最前線とする方針へと大転換するわけです。
マーシャルプランでお金を貸すと同時に、ドイツが強大な経済力を持った場合でも、その経済力を濫用しないようにする、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)という生産調整機関を設立することでドイツが勝手なコトをできないようにしました。このECSCが、今日の欧州連合(EU)の前身です。
そして軍事的にはドイツが自国の軍隊を持てないようにするために、北大西洋条約機構(NATO)という共同軍のカタチで軍事力をひとつにまとめる措置を講じました。
つまりブレトンウッズ体制がマーシャルプランに取って代わられた時点で、英国はアメリカから「お払い箱」にされたのです。
もし英国がEUを離脱すれば、それがポンドや英国株式市場に与える影響は大きいと思います。
しかし……
歴史的な文脈からは、英国のEU離脱は大事件ではありません。なぜなら、6月23日のレファレンダムを待つまでもなく、こんにち既に英国の国際社会における発言力は、微々たるものになってしまっているからです。
かつて大英帝国は極東から米州までをカバーしており、「日の沈まない帝国」でした。しかし二回に渡る世界大戦で疲弊し、とりわけ第二次世界大戦は英国をドカ貧に陥れました。
当時、英国はドイツから英国本土空襲(Battle of Britain)に遭い、必死に劣勢を挽回しようとしていました。そのためにアメリカに支援を仰いだわけです。
アメリカは1941年3月にレンドリース法(Lend Lease Act)により、英国をはじめソ連、フランス、中国など連合国に武器を実物貸与することを決めます。(当時、未だアメリカは対独宣戦していませんでした)
当時のアメリカには「ヨーロッパの戦争に、なぜ我々が巻き込まれなければいけないのだ」という戦争反対の声も強く、レンドリース法も、アメリカがなし崩し的に戦争に加担することになることを憂慮する声に押され、成立が危ぶまれました。
フランクリン・ルーズベルト大統領は「あんたのご近所さんの家が火事になったとする。その場合、良き隣人なら消火作業のためにホースを貸すだろう?」というスピーチをして、武器貸与をホースに喩え、議会を説得しました。
こうしてこんにちの価値にして74兆円分の輸送機、戦車、弾薬などが「後払い」で英国などに送られたのです。
フランクリン・ルーズベルトは英国をどんなことがあっても助けるべき友好国と考えていましたが、米国財務省の考えは大統領のそれとかなり「温度差」がありました。
すなわちアメリカの歴史は、イギリスの支配からボストン茶会事件や独立戦争を経て自由を勝ち取った歴史であり、イギリスはアメリカにとってライバル的な存在だという考えです。だからこの大戦が終われば、両国は再びライバルの関係に戻るだろうと財務省は予想していました。
そこで米国財務省はレンドリース法によりイギリスに貸与する輸送機や戦闘機は、英国の対外資産残高とピッタリ一致するように、毎月、財務省スタッフが英国の懐具合を精査しました。そしていつ戦争が集結しても、その時点で英国がレンドリースでこしらえた「借金」が、その資産と一致するペースで武器を出荷したのです。
1944年にそれらの膨大な軍備が「Dデイ」というカタチでノルマンディー上陸作戦に投入されると、それからわずか3週間後にアメリカは「借金のおとしまえ」をつける会議をアメリカで招集します。これがブレトンウッズ会議です。
1944年6月に3週間に渡って連合国側の44か国、700人の代表を集めて開かれたブレトンウッズ会議のねらいは、第二次世界大戦後の世界をどう運営するか? というメッセージをフランクリン・ルーズベルト大統領がドイツや日本に対して発するという意図を持っていたと説明されています。
しかしそのウラに、実際にカンファレンスを仕切った米国財務省には、隠れたアジェンダがあったのです。
ルーズベルトやチャーチルは、優れたリーダーでしたが、ファイナンスの知識は、まるっきりありませんでした。またルーズベルトの右腕であり、財務長官を務めたヘンリー・モーゲンソーも、実は経済のことはからっきしわからなかったのです。モーゲンソーは自ら「私はリンゴ園を営む農夫であり、むずかしい経済の話は、わからない」と公言して憚りませんでした。モーゲンソーがルーズベルトから信頼された理由はルーズベルトが幼少時代を過ごしたニューヨーク州ハイパーク時代の、幼なじみだったからです。
モーゲンソーは経済問題に関しては、部下のハリー・デクスター・ホワイトに全て任せました。
ハリー・デクスター・ホワイトこそがブレトンウッズ会議の構想を練った男なのです。彼は第二次世界大戦の遠因は、イギリスが1930年代に金本位制を離脱し、自国の通貨を安い方へ導くことで、不況から脱しようとしたことにあると考えました。
そこでどこかの国が一方的な通貨安を仕掛けることをけん制する国際組織が必要だと考えました。これがハリー・デクスター・ホワイトの考える国際通貨基金(IMF)の基本構想だったわけです。
当時、世界のゴールドの80%は米国に貯蔵されていました。信用の源泉となるゴールドがアメリカに集中していた関係で、第二次大戦後の新しい世界秩序の構築に際しては、この信用を後ろ盾にしたアメリカがリーダーシップを執らなければいけないというのが彼の信念だったわけです。
ブレトンウッズ会議の隠れたアジェンダとは、その会議をもってイギリスの経済的覇権を終わらせ、アメリカへ覇権を移すことにあったのです。
この策略に最後まで抵抗し、英国の威信を保とうと試みたのが、英国の代表であり、カリスマ経済学者のジョン・メイナード・ケインズです。
ケインズはイギリス上流階級の生まれで、ケンブリッジ出身であり、いつもマスコミが彼の周りを囲んでいました。米国はブレトンウッズ会議の最初からケインズのペースにはめられるといけないと考え、ケインズが開会式でスピーチする機会を与えませんでした。
(ハリー・デクスター・ホワイトとジョン・メイナード・ケインズ 出典:ウィキペディア)
また米国のIMF構想をケインズがぶち壊すことを恐れたので「ケインズさんには、世界銀行(World Bank)の構想を練ることをお願いできますか?」と仕事を与えました。IMFと世銀という、一般人から見ると重複するような国際機関が同じ会議で検討されたのは、アメリカの周到な計略だったのです。
別の言い方をすれば、アメリカは世銀に対する思い入れはこれっぽっちも無く、それは「陽動作戦」だったのです。
ケインズ自身はポンドがもうダメだということをよく承知していたので、超国家通貨、バンコールを作りたいと提案しました。バンコールは、それがゆくゆく米ドルに置き換わるという意味において、アメリカの覇権を拒否する方便に他ならなかったのです。
ケインズはレンドリース法で借りたお金の返済を求められたら、当然、英国はそのおカネを返せないので、「ファウスト的な取引」をせざるを得なくなります。それはつまり支払を猶予してもらう代わり、英国はカナダ、オーストラリアなど英国と関係の深い国々と構成している経済ブロックにおける排他的な貿易を止めることを約束させられるわけです。これは世界にまたがる大英帝国の経済面での粉砕を意味しました。
なお戦争が終わった後、1947年7月14日にポンドとドルを一定の固定相場で兌換することが発表されました。人々は、実体として紙屑同然のポンドから、さっさとドルに乗り換えました。その直後、オケラになった英国を見限り、パレスチナ、ビルマ、インドなどが続々と英国の植民地を抜け、独立国となったのは、偶然ではなく、アメリカが周到に計画したことだったのです。
なお、ブレトンウッズ体制は、このように英国の覇権を終わらせることを影のアジェンダとしていましたが、その前提条件として第二次世界大戦後もソ連が協調的な行動をとることを想定していました。
しかしソ連とアメリカの関係は急速におかしくなり、冷戦が始まります。そこでIMFの融資を通じてゆっくりと疲弊したヨーロッパを癒すブレトンウッズでの約束は、アメリカのシナリオ通りに行かなくなってしまったのです。
そこでアメリカはマーシャルプランを発表し、返済の見込みは二の次の、巨額な支援金を、ドイツをはじめとした国々にぶち込むことで、一気に西ドイツ経済を立て直し、西ドイツを「赤の脅威」への防衛の最前線とする方針へと大転換するわけです。
マーシャルプランでお金を貸すと同時に、ドイツが強大な経済力を持った場合でも、その経済力を濫用しないようにする、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)という生産調整機関を設立することでドイツが勝手なコトをできないようにしました。このECSCが、今日の欧州連合(EU)の前身です。
そして軍事的にはドイツが自国の軍隊を持てないようにするために、北大西洋条約機構(NATO)という共同軍のカタチで軍事力をひとつにまとめる措置を講じました。
つまりブレトンウッズ体制がマーシャルプランに取って代わられた時点で、英国はアメリカから「お払い箱」にされたのです。