このブログでは、「性転換ビジネス」の闇に乗せられ、「自称GID」という思い込みの強い連中の提供するネット情報に過度に関心をもちすぎた結果、私は今みたいになってしまったんだという、かなり外罰的な論調で話を始めたんですが、少し冷静になって振り返ってみると、私という人間は、もともと幼稚園生ぐらいのころから発達障害をかかえた人間であって、若いころから、たえずどこか逸脱行動のある人間でした。
友達に対して何か引き受けると約束しておきながら、自分にとって多少都合の悪いことが起こると、さっさと「やーめた」と逃げの手を打って、登った梯子を下から外すようなことを平気でやって、相手を困らせてしまうようなことは、小学生のころから、しょっちゅうありました。
人間関係づくりの知恵が、根本的に身につかない子どもでした。
それでも、親にお金があって、受験勉強に専念できる環境があったおかげで、世にいう「一流大学」に、いちおうは入らせてもらい、ズッコケて留年なんかもしながら、なんとか職にもありつかせてもらいました。
それなのに、その幸運に感謝して、逸脱行動を控えるように自己訓練しながら、少しでも社会性を身につけるようにしていけばいいものを、「自分は、もっとほかの道で才能を発揮すべきなんだ」などと思いあがって、三年でやめて、大学院に進んでしまい、20代も後半になって、さらに親に心配をかけることになりました。
ようやく、30代前半になって、地方国立大学に職を得て、「大学教員」として、「学者」のはしくれとして世に出たのですが、それを本職としながら、いろんなことに散漫に関心をもって、文芸同人誌にものを書いてみたり、誘われて進んで参加した宗教団体に対して、いったん夢が醒めたら、掌を返すように、批判本を書いて世に出してみせて、誘った人の面目をまるつぶれにしてみたり。
そんなことばかりやっていたから、結局、研究者として「一流」になんかなりませんでした。文学の分野では、「素人にしてはうまい」という程度の文学賞を一度受賞しましたが、プロになれたわけではありません。社会評論の分野でも、あるテーマについて、世の中に注目されたことが一度あるだけ。何事につけても、中途半端であり「二流」だったのです。
それでいながら、いつまでも「夢追い人」。実の父や、妻の実家の父がある程度経済的に余裕のある人だったから、それによって得られる恩恵をフルに活用して、いつも自分の実力どおりの経済生活よりは、多少出費のかかることばかりしていました。それでいて、感謝の念も表明せず、あたりまえことのように思う。
妻から見れば「この人、いったいなあに?」と思えたでしょう。
そうしたわがままいっぱいな生活の、最後の一ステップとして、「自分も性同一性障害の一種だ」という主張の開陳があり、それにともなう実践があったのです。
私が、パンツルックながら婦人服で職場に通ってみたり、女性ホルモンの貼付剤を個人輸入してみたりしたのと同じころ、「夫がこのごろ、父親としての自覚を失って、自分も心は女性だなどと言い出して、勝手なことに好き放題にお金を使う」と言って、嘆いている妻のブログなんていうものがいくつかネット上に見つかるようになりましたが、私も同じように嘆かれてもしかたのない身でした。
自分としては、本気で自分がGID(性同一性障害)であると心底思っていたわけでもないのに、「中性的なファッションが、心になじむのだ」といった感じで、自己合理化をして、「GIDファッション」を大いに実践し、それにお金を費やしていたのです。
ああ、今から思えば、「中性的ファッション」は、せいぜいヒゲ脱毛ぐらいにとどめておき、ホルモンバランスはけっして崩さないように気をつけ、筋力トレーニングも怠らないようにしていれば、少なくとも骨粗鬆症は避けられただろうし、サルコペニア(筋肉減弱症)に見舞われるのも、2~3年ぐらいは遅らすことができたかもしれません。ホルモンバランスを崩さないでも、男性更年期障害としての「うつ病」は襲ってきたかもしれませんが、それの程度は、私が現に罹ったものよりは軽いもので済んだかもしれません。
よりによって、最悪の方向を選んでしまった私でした。
が、これというのも、もともと発達障害という素地があって起こったことで、GID情報に踊らされてホルモンバランスを崩したのは、「満杯近い水瓶をあふれさせる、最後の一杯」だったのかもしれません。
いつまでたっても子どもが大人になりきれないような人間として、周囲に甘えて暮らしてきた私。自分を持ち上げてくれる人の意見を聞くと、いい気分になって、本当に心配してくれる人からの苦言は、傾聴したためしがない。気が向かないと、ぷいとそっぽを向くなど、しょっちゅうのこと。
こんな私が、66歳にして人生どんづまりに陥ったのは、ある意味、あたりまえだったかもしれませんね。
友達に対して何か引き受けると約束しておきながら、自分にとって多少都合の悪いことが起こると、さっさと「やーめた」と逃げの手を打って、登った梯子を下から外すようなことを平気でやって、相手を困らせてしまうようなことは、小学生のころから、しょっちゅうありました。
人間関係づくりの知恵が、根本的に身につかない子どもでした。
それでも、親にお金があって、受験勉強に専念できる環境があったおかげで、世にいう「一流大学」に、いちおうは入らせてもらい、ズッコケて留年なんかもしながら、なんとか職にもありつかせてもらいました。
それなのに、その幸運に感謝して、逸脱行動を控えるように自己訓練しながら、少しでも社会性を身につけるようにしていけばいいものを、「自分は、もっとほかの道で才能を発揮すべきなんだ」などと思いあがって、三年でやめて、大学院に進んでしまい、20代も後半になって、さらに親に心配をかけることになりました。
ようやく、30代前半になって、地方国立大学に職を得て、「大学教員」として、「学者」のはしくれとして世に出たのですが、それを本職としながら、いろんなことに散漫に関心をもって、文芸同人誌にものを書いてみたり、誘われて進んで参加した宗教団体に対して、いったん夢が醒めたら、掌を返すように、批判本を書いて世に出してみせて、誘った人の面目をまるつぶれにしてみたり。
そんなことばかりやっていたから、結局、研究者として「一流」になんかなりませんでした。文学の分野では、「素人にしてはうまい」という程度の文学賞を一度受賞しましたが、プロになれたわけではありません。社会評論の分野でも、あるテーマについて、世の中に注目されたことが一度あるだけ。何事につけても、中途半端であり「二流」だったのです。
それでいながら、いつまでも「夢追い人」。実の父や、妻の実家の父がある程度経済的に余裕のある人だったから、それによって得られる恩恵をフルに活用して、いつも自分の実力どおりの経済生活よりは、多少出費のかかることばかりしていました。それでいて、感謝の念も表明せず、あたりまえことのように思う。
妻から見れば「この人、いったいなあに?」と思えたでしょう。
そうしたわがままいっぱいな生活の、最後の一ステップとして、「自分も性同一性障害の一種だ」という主張の開陳があり、それにともなう実践があったのです。
私が、パンツルックながら婦人服で職場に通ってみたり、女性ホルモンの貼付剤を個人輸入してみたりしたのと同じころ、「夫がこのごろ、父親としての自覚を失って、自分も心は女性だなどと言い出して、勝手なことに好き放題にお金を使う」と言って、嘆いている妻のブログなんていうものがいくつかネット上に見つかるようになりましたが、私も同じように嘆かれてもしかたのない身でした。
自分としては、本気で自分がGID(性同一性障害)であると心底思っていたわけでもないのに、「中性的なファッションが、心になじむのだ」といった感じで、自己合理化をして、「GIDファッション」を大いに実践し、それにお金を費やしていたのです。
ああ、今から思えば、「中性的ファッション」は、せいぜいヒゲ脱毛ぐらいにとどめておき、ホルモンバランスはけっして崩さないように気をつけ、筋力トレーニングも怠らないようにしていれば、少なくとも骨粗鬆症は避けられただろうし、サルコペニア(筋肉減弱症)に見舞われるのも、2~3年ぐらいは遅らすことができたかもしれません。ホルモンバランスを崩さないでも、男性更年期障害としての「うつ病」は襲ってきたかもしれませんが、それの程度は、私が現に罹ったものよりは軽いもので済んだかもしれません。
よりによって、最悪の方向を選んでしまった私でした。
が、これというのも、もともと発達障害という素地があって起こったことで、GID情報に踊らされてホルモンバランスを崩したのは、「満杯近い水瓶をあふれさせる、最後の一杯」だったのかもしれません。
いつまでたっても子どもが大人になりきれないような人間として、周囲に甘えて暮らしてきた私。自分を持ち上げてくれる人の意見を聞くと、いい気分になって、本当に心配してくれる人からの苦言は、傾聴したためしがない。気が向かないと、ぷいとそっぽを向くなど、しょっちゅうのこと。
こんな私が、66歳にして人生どんづまりに陥ったのは、ある意味、あたりまえだったかもしれませんね。
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