「宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって」(菅原千恵子/角川文庫)
→いい歳になるのにいまだわからないことがある。
どうして女はホモが好きなんだろう?
わからないったら、わからない。
同性愛までいかずとも、どうしてか女性は男性同士の友情をことさら尊ぶでしょう。
おそらくは「女の性は皆ひがめり」(徒然草)だからなのだろうけれど。
実際のところ男の友情も女と同様で相互の嫉妬や軽蔑と無縁ではないのである。
それが女性にはわからないようだ。
本書の著者もまた女性そのもので、うっとりと賢治の同性愛精神を夢想し、
かつ惚れ惚れと愛でるのだから薄汚い男のわたしは引いてしまった。
俗な言い方を許してもらえれば( ゜д゜)ポカーンというのがもっともふさわしい。
これは研究なのだろうか。
というのも、はじめに結論ありきなのである。保阪嘉内は宮沢賢治の学生時代の友人。
「賢治にとっての友といえば、それは共に同じ道を歩くはずであり、
恋人とも思われた保阪嘉内をおいて他にはなかった。
賢治の心の中には終生、保阪嘉内の存在があって、
絶えずその存在を意識し続けていた」(P246)
この信念に基づいた結論を導くために、菅原千恵子氏は都合のいい文献を例示する。
ところが、どうにもこうにも文章の裏側から
著者のヒステリックな叫び声が聞こえてきてしまうのである。
あたしの心の恋人、賢治サマが妹に近親相姦的欲望を抱いていたなんて冗談じゃないわ!
あのね、賢治サマはね、とっても友達思いで女なんかに関心がなかったのよ!
あたしだけが賢治サマのホモセクシャルを知っているの、どう、どう、どう?
わかりましたって言いなさい!
文学研究というのは所詮、文学者にまつわる「おはなし」の創作だから、
本書における菅原千恵子氏の妄想をどうこう言うつもりはない。
実のところ、数字と関係ない文学研究に正しいも間違いもないのである。
なぜなら、どのみち主観の領域だからである。
客観的な正しさは証明しようがない。
妹のトシに賢治は欲情していたというのが「おはなし」であるのと同程度に、
保阪嘉内は賢治のおホモだちという説も「おはなし」に過ぎない。
真実は宮沢賢治本人しかわからないのだろう。
いや、深層心理学を持ち出してくれば、本人でさえ真相はわからないことになる。
本書で繰り広げられる「おはなし」はだいぶ評価が高いようである。
ネットで調べたところ、みながみなこの「おはなし」を好意的に受け入れていた。
まあ、妹にハァハァするきちがい賢治という「おはなし」よりは耳にやさしいのだろう。
しかし、どちらが正しい「おはなし」かは人間にはわからない。
菅原千恵子氏によると「銀河鉄道の夜」のカムパネルラのモデルは、
ほかならぬ保阪嘉内その人だという。
カムパネルラを妹のトシと見る通説へ強い異議を突きつけている。
しかし、わたしの主観だと、やはりカムパネルラは妹のトシとしか思えない。
河合隼雄もこの通説の支持者で、
「銀河鉄道の夜」は賢治の臨死体験を描いたものだと主張している。
(「宗教と科学の接点」「子どもの目からの発想」)
だから、カムパネルラ=トシ説が正しいと言いたいわけではむろんない。
どちらも「おはなし」に過ぎないという謙虚な姿勢を持とうではないか。
自己他者を問わず、人間のことをすべて理解できると思うのは傲慢である。
本書の支流で知った賢治のきちがいぶりに笑いがとまらなかった。
親のコネで農学校の教師になったはいいが、すぐに辞めてしまう。
そのあと賢治がなにをするのかといえば羅須地人協会である。
無学な農民を教育してやろう。賢治は岩手のイエス・キリストたらんとしたのである。
その準備としてきちがい賢治はまたも父親から金を巻きあげ上京する。
「上京中、賢治はオルガンとセロの特訓を受け、エスペラント語を習い、
タイプライターの学校に通い、毎夜のように一流の芝居を見てまわり、
新しい本や衣服を買いなどして、上京十日目で所持金を使い果たした」(P229)
躁病の典型的な発症例というほかない。
ここまで華々しく発症するのは、この時代でもめずらしいのではないか?
ふつうの家庭でこれが起こったら破産してしまうのである。
このために狂気の判定人たる医者が呼びにやられる。
ところが、賢治の実家は大金持なので、きちがいの異常行動が受容されてしまう。
「きちがいに刃物」という俗言があるが、
賢治の芸術活動をひと言で要約するならば「きちがいにお金」になるのだろう。
きちがいというだけでは天才芸術家にはなれないということだ。
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