サブタイトルは「ホラーで人間を読む」。ホラー映画を題材としながら、「恐怖の機能」、「恐怖の正体」、そして「ホラーを楽しむということ」を徹底的に掘り下げようとしています。
 著者が「まえがき」で「恐怖は意外にも哲学の主題になってこなかった」(16p)と書くように、「笑い」や「愛」などに比べると「恐怖」を論じた哲学は少ないはずです。ただ、その理由は想像しやすいもので、「笑いや愛といったはものは人間独自のものだが、恐怖は他の動物にもあるものだから」といったものがあがるでしょう。

 しかし、実はそこが著者の狙い目でもあります。著者は「あとがき」の最後の部分で次のように書いています。
 さて、本文の最後で書いたとおり、哲学は生物学や脳科学とシームレスでつながるべきだ。魂があるから、理性があるから、言語があるから、人間は特別なんだとハナから決めてかかるヘッポコ哲学者には、彼らの思惑に反して、人間のユニークさは決して理解できないだろう。そういう哲学者の首をチェンソーではねてまわりたい、と思う今日この頃。(445p)

 著者の『哲学入門』(ちくま新書)(おすすめです!)を読んだ人はわかると思いますが、この「人間の特別さを認めない」というのは著者の一貫したスタイルです。『哲学入門』は、「意味」、「自由」、「道徳」といったものが生物の進化の過程の中で生まれてきたことを示そうとした本でしたが、この本も基本的には人間の「恐怖」という感情が生物の進化の中で生み出されてきたことを示そうとしています。

 けれども、恐怖が動物にも共通する感情だというのは当たり前です。うちで昔飼っていた猫は犬に追いかけられてカーテンをよじ登りましたし、庭に出てきたヒキガエルに飛び上がらんばかりにビビっていました。そのとき、おそらくうちの猫は恐怖を感じていたはずです。
 
 そこで持ちだされるのがホラー映画ということになります。
 著者はヘビを見て恐怖を覚えて逃げ出す体験ような単純な恐怖の体験を「アラコワイキャー体験」と名づけています。人は、ヘビなどの恐怖の対象を認知し、心臓がバクバクするなど恐怖の「感じ」を味わい、逃げ出すという行動に出るわけです(ゴキブリなんかだととっさに叩くかもしれない)。
 基本的に人は自分が恐怖心を抱くものに出会いたくないと思っています。ヘビやゴキブリが怖い人は基本的にヘビやゴキブリに出くわしたくないと思っているはずです。

 ところが、ホラー映画はどうでしょう。ホラー映画を見るという行為は、わざわざお金を払って恐怖や嫌悪を味わう体験にほかなりません。ライオンがシマウマを襲う映画を見たがるシマウマはいそうにないですが、猟奇殺人者が人々を殺し回る映画を見たがる人はたくさんいます。これはなぜなのか?

 さらに、「現実には存在しない怪物をなぜ怖がることができるのか?」、「怖いのになぜ人々は劇場から飛び出したりしないのか?」といった疑問も出てきます。
 このように「ホラー映画を見て怖がる」というのは、極めて複雑な行為であり、探求すべき謎を含んだ行為なのです。 

 では、この謎はどのように解明されているのか?
 それに関しては、450ページ近いこの本の要約は困難なのでぜひとも本書を読んでほしいのですが、一応、大雑把な見取り図だけを示しておきたいと思います。

  『哲学入門』を読んだ人は「オシツオサレツ」という現象を覚えているかもしれません。これは哲学者のミリカンが『ドリトル先生』の中からとってきた動物の行動パターンで、ある入力があればかならずある出力(行動)をするようなものです。
 例えば、カエルはハエが飛んでいるのを見ると必ず舌を伸ばして捕まえようとします。非常に単純なしくみですが、昆虫などはこうした「オシツオサレツ」の行為を組み合わせることで一見すると複雑な行為を行っているのです。

 一方、人間はもう少し複雑なことをしています。映画館の中で怪物を見ても、飛び出さずにそこにとどまることもできるのです。
 本書によると、恐怖は「表象」です。著者はそのことについて次のように述べています。
 ヘビを怖がっているとき、私は二つの表象を持っている。ヘビの表象と恐怖の表象だ。前者は知覚の表象であり、後者は情動の表象だ。(152p)

 「ヘビの表象」というのはわかると思います。一方、「恐怖の表象」は少しわかりにくいかもしれません。
 情動には対象に対するさまざまな評価が含まれています。また、情動はさまざまな身体的な反応を伴います(恐怖なら心臓がバクバクする、血糖値が高まる、など)。情動はこれらの評価や身体的反応を表象しているというのが、この本で紹介されている哲学者プリンツの考え方です(本書での説明はもっと丁寧で、この要約はかなり乱暴です)。

 そして、この「恐怖の表象」というワンクッションがあるので、そこに例えば「映画の存在は虚構である」という信念が介在でき、われわれは映画館から逃げ出さないのですし、また、実在しないものを怖がることができるのです。

 では、なぜ人はお金を払ってまでわざわざホラー映画を見るのか?
 これには古来、「怪物は抑圧された欲望だから!」という精神分析的や、「ホラーは確かに恐怖心や嫌悪を引き起こすが怪物の謎をとくというそれを上回る喜びがある」といったいろいろな説明があります。
 これに対して著者はホラーのもたらす身体的反応そのものが快楽をもたらすのではないかと述べています。ドキドキする心臓やアドレナリンの噴出といった恐怖に対する身体的反応は一種の快楽でもあるのです。

 さらに、この本は恐怖の「感じ」の「感じ」とはいかなるものなのかという問題に切り込み、いわゆる「哲学的ゾンビ」の問題(人間とまったく同じだが「感じ」を持たない存在)をとり上げます。
 ここは簡単に要約しがたいので興味のある人はぜひ本書を読んで下さい。

 このように書くと、かなり硬い本に思えるかもしれませんが、くだけた口調で『ゾンビ』や『スクリーム』や『ミスト』などのホラー映画に言及しながら話は進むので楽しく読めると思います。
 また、さまざまな心理学の実験なども紹介されているので、下條信輔の『サブリミナル・マインド』(中公新書)あたりが好きな人にもおすすめです。
 ちなみに評者はあまりホラー映画が好きではないのですが、ホラー映画が好きではない人でも面白く読めると思います。そして、ホラー映画好きならさらに面白く感じるかもしれません。

恐怖の哲学―ホラーで人間を読む (NHK出版新書 478)
戸田山 和久
4140884789