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【社説】

人口減少社会 ピラミッドを越えて

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 日本の人口は人類が経験したことのない規模と速度で減少に向かうという。危機感を煽(あお)る言説も目立つが、そもそも人口減少は何を意味するのだろう。

 子どもを産み育てにくい東京への一極集中が続けば、やがて、若者が流出する地方自治体は九百近くも消滅の危機に瀕(ひん)し、日本の人口は急減する…。日本創成会議が提起した「地方消滅」のシナリオの衝撃は大きく、政府は「地方創生」を打ち出し、二〇六〇年に一億人程度の人口を確保するとした長期ビジョンを閣議決定した。

 その根幹にある人口の推移は次のように説明される。

 日本の人口は、一三年時点で一億二千七百万人だった。今のままの出生率、死亡率で推計すれば、二一〇〇年には半分以下の五千二百万人、二百年後には十分の一の千四百万人と減っていく。三〇〇〇年には千人となり、やがて、なくなってしまう。

 この推計だけ見れば、なるほど大変なことである。

 そもそも一億人とは、日本にとってどんな人口なのか。

 明治初期には三千万人余、大正期に五千万人、太平洋戦争のころは七千万人。一億人を超えたのは一九六〇年代後半になってからだったことを考えれば、絶対的な基準とは言い難い。

 将来不安の元は、人口減より、むしろ人口構成の変化である。石破茂地方創生担当相も先日の講演で「正三角形がつぼ型になり、これからは逆三角形になる。人口が減って何が悪いという論もあろうが、では、人口構成はどうするのか」と指摘していた。

 上段のグラフが一三年十月一日時点の日本の人口ピラミッドである。こうなると、ピラミッドと言うには無理がある。

◆人口学の大理論

 正三角形が変形していくのは「人口転換」の結果だ。

 出生率も死亡率も高い「多産多死」の社会から、死亡率だけが低下する「多産少死」を経て、最終的に出生率も低下する「少産少死」に移行するという人口転換学説は、人口学のグランド・セオリー(大理論)といわれる。この人口転換の間に、その社会の人口は爆発的に増えるのである。

 多くのヨーロッパ諸国では、人口転換は十八世紀後半に始まり、二十世紀前半に終わった。日本では一八八〇年ごろに始まり、一九五〇年代に終わった。

 先進国の人口増加が収まったころ、今度は途上国の人口転換が始まり、世界人口の増加率は二十世紀後半にピークに達した。

 歴史的に見れば、人口問題とはつまり、食糧問題であった。

 英国で産業革命と人口転換が始まったころ、『人口論』を世に問うたのがマルサスだった。その核心部は「人口は幾何級数的に増えるが、食糧は算術級数的にしか増えない」という警告にあった。

 途上国の人口転換が始まると、今度は一九七二年、世界の学識経験者百人からなるローマクラブが『成長の限界』を発表し、人口増加に警鐘を鳴らした。

 七四年には国連の世界人口会議が開かれ、世界人口行動計画が採択された。その家族計画については九四年の国際人口開発会議で、国家主導型の発想から、女性の自己決定権を尊重するリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖の健康と権利)へと深化した。途上国での近年の出生率低下は、リプロダクティブ・ヘルス/ライツの浸透とともに進んでいる。

 いわゆる正三角形の人口ピラミッドが意味するものは多産多死、つまり、どんな年齢層でも毎年、一定の割合で人が減っていく社会である。いくつまで生きられるのか、個々人にとっては見通しの立てにくい不安定な社会である。

 だれもが相当の確率で熟年期を迎えることが期待できる社会は、決して三角形は描かない。

◆少子社会、少死社会

 人が減ると思えば、確かに不安は広がる。いつまでも子どもたちが健やかに生まれてくる社会であってほしいと誰もが願う。かと言って、人口こそ国力の源という時代に時計の針を逆戻りさせることはできまい。

 乱れた人口ピラミッドを少子化社会と見るのか、それとも少産少死の成熟社会と見るのか。

 社会の将来像を考えるには、つい三角形を連想させてしまう人口ピラミッドという言葉を忘れる必要があるのかもしれない。

 

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