こんにちは、パラベル(@parabell_life)です。
書き方を変える宣言をしていながら、実はそれほど変わってないぜ!
変える変える詐欺か!なんてことを言ってくる人はいないけど、なかなか変わらないのは思い切りが足りないからだと思う。たぶんそうだ。でも違うかもしれない。
だから一度ガッツリやってしまおう!と思ってこの記事は生まれたわけで、「これからこういう書き方に変えたいんだな」ってことが伝われば、この記事の目的は半分達成。
文章の持つ性質の違い
過去を振り返ると、文章を書くとなるといたく真面目に書くことが多かった。いざ手紙でも書けば、親しい相手をいい意味で泣かせたことも何度かあったし、高校で「卒業にあたって」というテーマで書いた文章が、卒業式で代表として読み上げられたこともある。
そんな今の今まですっかり忘れていた、過去のごくささやかにしろ評価された経験の積み重ねも、今でも硬い文章に傾きがちな一因なのかもしれない。
それと仕事だ。まったく関係していない事故の顛末書を任されたり、始末書の校正もお手の物(といっても一般レベルだと思う)で、書けば書くほど癖も付いてしまう。
でだ!
ここぞってときに書く渾身の真面目な文章と、日常的に書き綴っていくブログでのそれを同じように意識するのが間違いというか、そもそもの性質が違うんじゃないか?
もちろんその内容にもよるだろうし、このブログの記事は真面目な話の方が多いから、雰囲気レベルでは今までの書き方が合っている可能性は高いと思う。
そうは思うんだけど、それもやっぱり伝え方の一つでしかないわけだよ。
問題は、読んだ人の多くにとって読みやすいか、伝わりやすいかどうかで、どうもブログでは硬すぎる文章は最後まで読んでもらえないことが多いらしい。それも長ければ長いほどその傾向にあるんだそうだ。
まぁ、引き込むことができればどんな文章でも読んでもらえるんだろうけどさ。
結論まで読んでもらえないと伝わらないことだって少なくないし、できれば軽快に読めながら気分が上向いて、でも伝わることは同じで、続きや他の記事まで読みたくなるようなものを書けたら、もっといいなぁって思う。
俺自身、くだけた文章を書くこと自体には抵抗はないから、考えるほどにそうするのがいいように思えてくる。
ただ、内容に説得力がなくなる可能性があるのは気になる。でも、それで届かなくなるようなら、所詮はその程度だってことでもあるし、そこはまぁ、いいかな。
対話文とそれ以外との違いと、使い分け
俺は対話文(チャットやショートメッセージ、コメント)とそれ以外の文章(いわゆる文書の類、きっちりしたメールやブログもそう)とでは、まるで別人のような文章になる。
このブログの読者で、俺にコメントアタックを食らってしまった人はわかると思うけど、ほとんどの場合がブログの感じと全然違って、間違いなくどっちも俺なんだけど、コメントは会話文で、ブログは掲載文の違いだってことの現れだと思う。
でね、俺はこう考えた。
もしかすると、俺は対話文のようにブログを書きたいんじゃないか?その時々で、話の内容によって自由自在かつ変幻自在に表現を変えて伝えられるような、よくいわれる「誰か一人に向けた」ような書き方をしたいんじゃないか?
ってね、そう考えながらこの記事を書いたんだ。
これが正鵠を射るかどうかは、この記事を公開してしばらく経てばわかると思うけど、たぶん弦がはち切れんばかりに射るぜ!
もちろん例外もあって、以前も同じようなことを書いたけど、たとえば半生記シリーズは文語でしっかり書いた方がいいのは肌感覚でわかるし、今読んでもらっているこの記事は、この書き方が合っている気がする。そんな具合に、記事ごとの書き分けはありだなーと感じているし、同じ記事の中でも、要所要所で使い分けていくと効果的だと思う。
だから、俺は使いこなせるようになりたい。記事ごとでもそうだし、記事内で生み出される文章の「波」に乗るようにも、その時々で伝えたいことを滑らかに伝えられるように、いくつもある「書き方」を自在に使いこなせるようになりたいって強く思っている。
それに、記述上の細かい正しさを極力排除したい気持ちも、強くなってきている。正しさが大事なところもあれば、いかにも口語な語り口の方が伝わることもあるから、そこはうまくやろうって感じだ。
細かいところは大事だけど、細かすぎるといちいち「おおごと」になるから。
そういうのは、「そういう記事」でしっかり書けばいいし、そうすれば「こいつ、まともな文章もかけねーのなw」みたいな腸が煮えくり返るようなダメ出しも問題ない。
華麗に「これは表現手法でございます。こちらの記事をご覧ください」とか言いながら、「そういう記事」のリンクを提示すれば回避できる。
何だ、この予防線は。
そういう意味で、はてなブログ界隈で人気ブロガーとして扱われることに困惑している例の海洋生物の人は、上手いなぁと思う。彼の記事でよく書かれている文章は、文壇で評価されるようないわゆる「いい文章」とはまったく違うけど、何しろ軽快なテンポで読ませて、伝えたいことを伝えるのが特に上手い。
対して俺の文章はとにかく真面目一辺倒で、基本的に硬いものが多かった。それがいいって言ってくれる読者もたぶんいるだろうし、それ自体は歓喜ってくらいに嬉しい。これから書き方を変えたとしても、ここぞってときにはそういう文体の記事も生まれてくると思う。
どっちも大事だから、問いたい
いろいろ考えて書いたけど、大切なところに触れたい。
今まで読んでくれた読者をすっぱり裏切る?ようなことは、やっぱりそう簡単にはできないなって思った。
書き方を変えることが裏切ることになるのかはさておいて、結局、俺にとっては今まで読んでくれた読者も、これから読んでくれる読者も、自在に使いこなす書き方も、どれも大切だ。
でもって、今まで読んでくれた読者には本当に恩を感じていて、宣言はしてみたものの「今までは今まで、これからはこれからだから!」とはいかなかったんだ。
だから一度、書き方をガラリと変えたこの記事を公開して、どう感じてもらえるのかを確認したくなった。論より証拠とはちょっと違うけど、実際に書いたものを読んでもらわないことには、書き手と読み手としてのお互いがどう感じるかは、わからないから。
俺は今まで読んでくれていた読者を失いたくないし、自由な書き方も増やしたい。まぁ、そんな虫のいい話はないよ、普通は。
どっちも大事なことは、どっちを取ってもいいってことでもあるから、変えてもいいだろうし、元通りに書くのもいいのかもしれない。今までの書き方だけが俺の価値のようなものなのかもしれないし。
でもさ、自分だけで考えても、どっちも取れないんだよ。
だから一度は問いかけたいんだ、「これでもいいかな?」ってさ。
ここはWebの隅っこにある始まって間もないブログだから、そんな大それたものじゃないことはわかってる。こういう場合はほとんど、肯定してほしいから問いかけるんだってこともわかってる。この記事を読ませること自体が、そもそもどうなんだってことも考えた。
わかっていながら、こうでもしないと進退窮まっちゃうんだよ。誰かが読んでくれている事実は、俺にとってそれほどのものなんだ。
ブログは俺にとっては仕事人間から脱却して、ようやく見出した「続けたいと思える何か」で、とても大切なものだし、大切なことでもあって、ブログを支えてくれるのは、大切な読者なんだ。めいっぱい考えて、悩んだから、次は反応をもらって、また考えて、悩んで、そうやって決めたいと思った。
俺の中にどうしたいかの既定路線があるとしても、それを覆すにしても、どう転んでも実際に今までとは違う書き方で記事として書いて、公開する段階は必要なんだと思う。そうしないと、進むも戻るもどうにもできない気がしたから。
さて、書きたいことは大体書けたと思う。
届いて伝われ、この思い!
あ、問いかけの反応はどうもらうんだ?全然考えてなかった。スターがいつも通りならありってことでいいか!いいのか……?わからん、後で考えよう。
お前どんだけこの話を繰り返すんだ、って思われてもしょうがないレベルだ。
俺が読者なら呆れて苦笑を禁じ得ないと思う、ごめんね。
それでもこの記事を読んでもらえて嬉しく思うよ、ありがとう!
それでは、また次の記事で!