「賢人論。」第7回(後編)やまもといちろうさんは「「年金廃止」「医療費負担を増額」 なんてことをしてしまうと 猛烈な勢いで高齢者が死んでしまう。 そんな社会は望ましくない」と語る

中編「介護行政の厳しい現状を緩和させるためには、「姥捨て山拠点」をつくる必要があるかもしれない」で、“介護の今”について厳しい指摘をしたやまもと氏。最終回となる今回は、自身がロシアで体験した「社会保障が崩壊するということ」を踏まえて、高齢化が進む日本社会における、社会保障全体が抱える問題の解決策を探っていく。

取材・文/安濃直樹(編集部) 撮影/伊原正浩

「社会保障をこれだけ下げましょう」という結論に至るには、まだまだ議論が足りない

みんなの介護 中編のお話(「介護行政の厳しい現状を緩和させるためには、「姥捨て山拠点」をつくる必要があるかもしれない」)を伺っていると、「地方創生」という命題が本当に必要なことなのか、疑問に思えてきてしまいます。

やまもと 福島県のとある町があるんですが、ここを例にとってみましょうか。ここは、中核市からさらに奥まった秘境のような場所なんですが、そこにいた企業群は早くに撤退していきましたね。理由は、労働力が調達できず採算が合わないから。その次に出て行ったのは農協で、地場で根幹になるべき産業が、これまた後継者不足などで労働力確保できないといった理由から。現地の人たちは努力しているのは間違いないのですが、衰退地域の持つ現実は、少なくなり年老いていく人たちの合理化努力を上回る落ち込みになってしまいます。

みんなの介護 それでも残る人はいるわけですよね?そういう人は、その町で何をされているんですか?

やまもと まず手っ取り早いのが林業。そこでしか出来ない仕事ということで福島県から林野系の助成がありますからね。それと、警察と町役場、郵便など配送事業。地域GDPの65%を占めているのは年金。つまり、官僚と政府の補助でやっている産業の3つしかないわけで、国の収支からしたら赤字も極まりないですよ。そこで生きているだけで負債が増えていくという地域であり、それでもそこに1万数千人がいるんです。

みんなの介護 そうして廃れてしまう地域を今後も生かすのかどうかという話は、乙武洋匡さんに話を伺った時(「『まちの保育園 小竹向原』は、カフェを併設することで地域とのつながりを作っていきました」)も、話題としてあがりました。

やまもと 色々な合理的なことを考えてだとは思うのですが、切り捨てられる側の情緒的な問題も考えなければならないですよね。そこに対して、できる限りのことは尽くしてあげなきゃいけないと、私は思っています。

本人はもちろん死にたくないし、死ぬときだって人間としての扱いを受けたいのは当然でしょう。家族やきょうだい、いろんな人の情が必ずあるわけで、それらを十把ひとからげに切り捨てるっていうのはダメ。もしそうするのだとしても、例えば「あなたは、そこに住み続けていると、もし何かあったときに救急車を呼んで来ないですよ」ということを、しっかり納得してもらうように説明をしなければなりません。

みんなの介護 それこそ、国民的な議論が必要な議題ですよね。

やまもと 「だめなものは止めればいいんだよ」「そういうところにしがみついて行く人は死んでくださいね」くらいのドライなことを言う人がいて、一方で、「日本人が日本人として生きてきたからには、誇りをもって日本人として死んでもらうにはどうすればいいかを考えなきゃ」と言う人がいて。私が思うに、議論の始まりは「その中間を取りましょう」という感じですね。みんながおおよそ納得できるロジックをつくり、国民の認識をそこに方向付けなければ社会が混乱してしまうと思います。

財政が危機的な状況の中で、合理的に考えなきゃならない部分はどうしても出てくる。でも守らなきゃいけない日本社会、日本人的な価値って何だっけ?という議論をちゃんとしなきゃいけない。「社会保障をこれだけ下げましょう」という結論に至るには、そうした議論をした上での国民の合意を得なければダメですよね。

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