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ポジ熊の人生記

雑記です。ブログが大好きなので定期的にブログ論を書く癖があります。

自分とは何だ?アイデンティティの強い喪失感を体験する

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自己喪失感

いつもと変わらぬ朝だった。ブログを更新して、Twitterの他愛もないやりとりをして。追い込むかのような積雪に対応する。除雪中に、ふと気づく。

 

・・・自分って何だ?

 

※一部アニメ『サイコパス』のネタバレが含有しているので注意を

強い喪失感

上手く説明ができない。けど、いつもと明らかに違う。足元が不安定。除雪にも力が入らない。「僕は何をやっているのだろう。疲れた」こんなことばかり考える。そもそも自分とは何なのか、全然わからなくなった。変だなー、昨日までは自分の足元が揺らぐことなんてなかったのに。どうしてこうも不安定になるのか。今まで体験したことも無いグラつき。何でこんなに頑張ってるのだろう。なんか意味があんなかな?なんて卑屈にもなったりして。立ち直りの早い自分が、今日はどこかに行ってしまったかのような・・・

 

必死にその感情の根源を探した。

 

原因は何だ?

 

「ブログ書き過ぎた?」う~ん、どうだろう。自分の考えをあけすけに綴る日々。これはこれで気持ちの整理になるし、むしろ居場所を確認する良い活動だと思う。逆にこれがなければ、もっと早いうちに致命的な心の病にもなっていたかもしれない。パスだ。

 

アニメ『サイコパス』を見すぎた?縢(かがり)君の強烈な殉職シーンを見たかけども。確かにあれは強烈だし、好きなキャラなので喪失感も強い。かといって初めてそれを見たわけでもなければ、とりこまれるほどにのめり込んでいたわけでもない。これはパスだろう。

 

「結婚観を考え直したから?」昨夜のキャスで某サイトを閲覧し、とある幸せそうな夫婦を見て心の氷を溶かされるという強烈な体験をする。これにより、諦めかけていた他者との共存というものに一抹の望みを復活させた感は否めない。むむむ、これはなくもないだろう。が、決定的な原因ではない気がする。

 

「春から職場に復帰するから?」半年近くも自分と見つめ合い過ぎて、所属する社会との接点というものを直視してこなかった。そこにきて自分の環境変化が間近に迫り、それに焦りと不安を覚えて自分の足元が揺らいでいるのかもしれない。これは大いにあり得る。

 

「アドラー心理学を読み過ぎた?」確かに刺激的な学問だったし、『嫌われる勇気』は僕に気づきを与えるには十分だった。半ばかぶれていたと言っても過言ではないだろう。この学問は大変に厳しい。生きることに勇気を強いる(あえて強いる、と言おう)。それをかみ砕いて、飲み込み、自分のものにするのは一朝一夕には不可能。それを今まさに飲み込もうとしているから、拒絶反応が起きているのだろうか。これも十分にあり得る。他者との課題の分離。褒めても叱ってもいけない、横の関係。共同体という大きな概念のもとで、社会との所属感を忘れずにコミットしていく。言葉にはできても、それは非常に至難の業。今後の大きな課題と言えそう。

 

ーー

 

結局、決定的な答えを見いだせずに考えるのをやめた。ただ、「自分が何なのか」という堂々巡りな思考は継続していた。

 

とにかく気持ち悪い

今まで「でん」と構えて生きてこれたように思う。いや、思っていたのかも。自分というのが当たり前に存在して、目の前の課題に当然のように取り組み、それを越えていく。そのことに何の疑問も浮かばなかった。自分にはそれが普通にできると思っていた。

でも、今日はどうだろう。何だろうね、このフワフワ感は。自分は社会のどこに所属して、誰に影響を与えて、どうやって立っているのか。それが確実に揺らいでいる。気持ち悪かったなぁ、こんなのは生まれて初めてだ。う~ん、放っておくと良からぬことが起きそうな気がしてきた・・・

 

キャスで相談

電話で誰かに、この不安な気持ちを聴いてほしかった。理想を言えば直接会って心情を吐露したい気持ちだった。兎にも角にも誰かにこの気持ちを離したかった。そうじゃなければ、自分というものが確認できなかったからね。けど、僕にはリアルでそんな気持ちをぶつけられる人はいないのさ。

 

だから、いつもの場所へ行こうと考えついた。

 

日中だったけど、ツイキャスを立ち上げたのさ。幸いなことに、懇意の方が数名、集まってくれた。「僕だって揺らぐ」「私だって」みんな揺らぐことはあるみたい。揺らぐのは自分だけじゃないんだって、この時に解った。気持ちが少し楽になった。

 

人の繫がりに救われる

なんだかんだで、今回も人の繫がりに救われた。完全にフワフワした感じは拭えてないけど、今は確実に自分がここに存在することを確信している。これはひとえに、ツイキャスというサードプレイスで僕の話を聞いてくれた、救ってくれた人たちがいたから。

自分の気持ちを話す場所がない人は、とっても苦しい思いをしているのだと思う。よくもまぁこんなにヘヴィーなものを抱えていられるなって。

親の縁、友人の縁、制度の縁。それら3つの縁に恵まれながらも、このように足元が揺らいでいる自分。僕は全然、恵まれている方なのだろうね。それらが欠如した人の苦しみはこんなに幸せな僕が察するには不遜なほどに大きいものなのではなかろうか。そりゃ、人生にも絶望するわな、と。

そんな人たちに「甘えるな、強くなれ」なんて、中々言えないよなぁなんて今更ながらに感じる。自分が見えない状態というのは、こうもグラつくものなんだ。想像を絶するぞ、こりゃ。

午前中から怪しかったんだなー(笑)ネガティブモードに突入した決定的瞬間。まじでこんなことを考えちゃってた。絶望はすぐ隣にある!なんてね。けど、裏を返せばい合わせだってすぐ隣にあるんだよな!

 

うんうん、書いてるうちに前向きになってきたぞ。ごめんな、なんか変なもの食わしてさ。次の記事から、また元気に前向きに綴るからさ、みんな見てくれよな!

 

さてさて・・・

 

今もまだ自分という存在が確認できずに苦しんでいる人は、ブログを始めるなりそのような場所を訪れてみると良い。そこには現実世界で諦めた人の縁があるかもしれない。そこで自分の存在を確かめることができるかもしれないよ。

 

終わりー♪