幹部候補生の発表前に防府の大隊本部の人事担当の2曹から電話が入り、我々は21分間トレーニングの最中だったため遠く離れた教官室から助教が走って知らせに来てくれた。道場から電話をすると待ちくたびれていたのか2曹は唐突に用件を切り出した。
「部内の願書を出しておいたから入間で受けるように」「へッ?」つまり部内選抜の幹部候補生を受験しろと言うのだ。
「私は部外を受けていますが」「どうせ陸や海では部外者と同じだから駄目だろう。部外の1次に合格するくらいなら部内も大丈夫、頑張れ」原隊・第1教育群では私が受験資格を得た昨年を辞退してまで今年の陸上自衛隊を志望した理由を全く関知していないようだ。体育学校に入校し、実力に裏打ちされた威厳を備えた教官たちに接し、私は古参空曹の好き勝手にされている航空教育隊の幹部たちにはない魅力と敬意を感じ始めている。それは那覇で現場の作業を遠目に眺め、粗探しばかりに励んでいた整備幹部も同様で、今回の部外に失敗すれば航空機整備員に戻れない以上、警備職の空曹としてやっていこうと考えていた。ところが人事担当の2曹は私の困惑にトドメを刺した。
「受験職種は希望が判らないから教育幹部にしておいたからな。給食通報や宿泊依頼は処置してあるよ。それじゃあ頑張って」2曹は一方的に用件を伝えると電話を切った。こちらとしても道場から気合いが聞こえ始めているので助かったが士気は急降下、超低空飛行だ。要するに教育職の空曹たちの下僕である区隊長、面従腹背の班長連中に担がれる神輿の中隊長への道である。
「どうしても航空自衛隊の幹部になれ」と言うのなら部外でパイロットを目指しただろう。ただし、高校時代に海上自衛隊の飛行学生を受験したものの2次試験で落ちているのでおそらく無理だった。
結局、課程教育も佳境に入っている中、1日半(午後から出発した)も入間基地へ行くことになり、教官、相棒にひたすら謝って出かけた。特に伊東教官は「君は陸の幹部になるんだろう。やっぱり航空が良くなったか?まァ、保険として受けておけ」と嫌味を言ってから送り出した。
しかし、私は基地の食堂で12期曹候学生の教え子たちに会ってしまい、緊急招集された彼らと外出して深夜まで大酒を飲み、翌日は集合時間2分前に受験会場に駆け込んだ。
「防府南のモリヤ3曹、空教隊のモリヤ3曹、体育学校のモリヤ3曹・・・」すでに出席確認を始めていた監督係の声が廊下まで聞こえる中、会場に入り「まだ遅刻ではないですね」と言ったため、その1尉はあからさまに不快そうな顔をして席を示した。
部内の試験は5者択一のマークシートなので感覚で回答できる。したがって10分で問題を読めば記入は5分もあれば十分だった。試験開始から30分間は退室できないので私は机の上で仮眠を始めた。そして監督の1尉が「回答が終わった者は退室しても・・・」と言うのと同時に立ち上がり、回答用紙を渡して退室した。
「アイツ、何しに来たんだ」と言う1尉の声と受験者の失笑が背中を追いかけてきた。
- 2015/08/15(土) 09:00:40|
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昭和24(1949)年の明日8月15日は我が山形県が生んだ天下の奇才・石原莞爾中将の命日です。閣下は明治22(1889)年1月18日に現在の山形県鶴岡市で旧庄内藩士の警察署長の3男として生まれました。閣下は6男4女の10人兄弟姉妹の3男ですが、兄2人は夭折しているので事実上の長男でした。
父の転勤により引っ越しを重ねたため粗暴な性格になった一方で、未就学の閣下を姉が子守りしながら小学校に通ったことで勉強を覚えてしまい、ある日、校長が1年生と一緒に試験を受けさせてみると1番の成績だったそうです。このため2年生として入学しました。
明治35(1902)年、仙台陸軍幼年学校に合格して3年後には中央幼年学校に進み、この頃から正課の勉強だけでなく戦史や哲学書、特に日蓮宗=田中智學の本を読み耽るようになり、東京にいることを活用し、高名な人物を訪ねて教えを受けるようになったのです。
明治40(1907)年、陸軍士官学校に進みますが、ここでも正課の勉強は講義と自習時間だけですませ、休日は外出して図書館に通い、戦史や哲学書、社会科学などを個人研究しつつ高名な人物訪問を続けていました。学科の成績は350名中3位でしたが、区隊長に対する反抗的態度で心象を害して6位にされています。
士官学校卒業後は見習い士官を務めた会津若松の歩兵第65連隊に再配属され、その後、部隊が朝鮮半島・龍山へ移駐したので、大陸と地続きの半島から中国情勢を眺めていたのです。
大正2(1913)年に中尉へ昇任すると連隊長から陸軍大学校の受験を命ぜられ、現場を離れたくない本人は落ちるように全く勉強をしなかったにも関わらず合格してしまいました。
この時の口頭(=面接)試験で「機関銃の有効な使用法」を問われ、当時は実例がなかった「飛行機に搭載して敵の縦隊を空襲する」と答えています。ところが試験官の方が理解できなかったため黒板に図を描き、「酔っ払いが小便を撒き散らすように連続射撃する」と説明したそうです。後年、閣下は最終兵器=核兵器の出現を予言しましたが、これも修験の国・山形県人の霊能力でしょうか?
陸軍大学校でも相変わらず戦史や哲学の個人研究に打ち込み、日蓮宗の革新運動を推進していた田中智學からは直接教えを受けるようになりました。
関東軍の作戦参謀時代、強引な攻撃計画を躊躇する若手に「南無妙法蓮華経を唱えながら突撃すれば佛果による加護があるから必勝間違いなし」と言ったそうですが真偽は不明です。
閣下の卒業成績は2位でしたが、これには首席卒業者は天皇の前で講演する伝統があり、「季節構わず汚れた夏服を着ている石原を天覧に供することはできない」「何を言い出すか判らないから危険」と言う陸軍内の配慮があったためとも言われています。
卒業後は65連隊の中隊長、歩兵第4連隊長(仙台)、第16師団長(京都)を歴任しますが、連隊長として体罰の解消に努力し、各中隊を出身地別にするなどの対策を取り効果を上げました。
また参謀本部に勤務している時に発生した2・26事件では警備司令部に加わり、そこに皇道派の頭目・荒木貞夫大将が顔を出すと「馬鹿!お前のような馬鹿な大将がいるからこんなことになるんだ」と罵倒したと言われています。
このような天衣無縫・傍若無人な言動が閣下の持ち味ですが、小心・狭量な上官には徹底的に疎まれました。特に関東軍参謀本部の上司だった東條英機には左遷・予備役に追い越まれ、後には閣下の方が東條の暗殺を計画する程、対立しました。ところが東條の命令で監視に来ている憲兵たちは閣下の識見と人格に触れると心酔してしまい罪状探索の用を為さなかったそうです。
この東條との対立と左遷・予備役編入のおかげで満州事変を企画・立案・実施した首謀者であったにも関わらず東京裁判の戦犯の指定を受けませんでした。
余談ながら予備役に編入されていた石原閣下が提唱していた日米の対立激化に対する打開策の私案は東條が絶対に受け容れられないと開戦を決意した=最後通牒と受け取ったハル・ノートとほぼ同じでした。

かわぐちかいじ作「ジパング」より
- 2015/08/14(金) 08:51:40|
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銃剣格闘の後半では仮標(かひょう)刺突と言うとても面白い訓練も始まる。これは小枝を絞め込んだ俵を地面に立てた2本の柱に固定し実銃で突くものだ。俵に小枝を絞め込むのは人間の骨格に近づけるためだと言うが、最初は筵だけを巻いた俵からだった。
体育学校での教育は全て段階を踏んでいくので仮標刺突も始めは固定した俵に立ち位置から刺突を繰り返す。その初日には警察予備隊当時の99式歩兵銃に30年式銃剣を着けて銃剣道の木銃の長さを体験させてもらえた。実際に持ってみると99式歩兵銃は64式小銃よりも軽いものの銃身が長いため構える時、左腕にかなり負荷がかかった。
この仮標刺突の最終段階は約百メートルのコースに立つ4本の仮標に向って突撃し、空砲を射ってから構え直して跳躍しながら刺突することを4回繰り返す。最後は銃剣を煌めかせて突入する、つまり航空教育隊が形式的に行っている突撃の実際の姿なのだ。
それにしても練習の時、銃声を「ポン」と言わせるのは何故だろう。航空自衛隊なら「バーン」、子供の戦争ごっこなら「バキューン」、実際に聞こえるのは「ドン」ではないか。
気合いを入れて駈け出しても最初の射撃で「ポン」と叫んだ瞬間、気が抜けてしまうようだった(確かにリラックスさせる効果はある)。

笑ってはいません。
さらに後半では短剣格闘も始まった。これは古来の小太刀の技を海軍士官が腰に下げていた短剣用に改良した武術で、自衛隊では銃剣やナイフでの格闘技術と位置付けている。
短剣格闘の一番の特徴は、剣道の技が斬るのに十分な重さがある刀身の方向だけを操作しているのに対して、短剣は軽いため当てただけでは致命傷にならず、力を込めて切りつけ、突き刺すのだ。さらに刀で肉体を深く斬り裂くことができないので、頚部や胸部の急所を刺し、切ることも重要だ。この動作は妙に少林寺拳法と通じるところがあり、短剣を警棒に換えればそのまま警備訓練にも役立つだろう。したがって私は完全にはまってしまった。
「氏原教官、短剣道を教えて下さい」自主トレの個人レッスンも高段者用の型に入っていたのでこちらから頼んでみた。短剣道にも段位があり、それは日本銃剣道連盟が認定している。さらに国体の団体戦では必ず1名、短剣道の選手が入っていて相手が銃剣道の選手でも他流試合をやることになっているのだ。
「ほーッ、短剣道に興味があるか。珍しい」氏原教官は意外な申し出に感心したようにうなずいた。陸上自衛隊では銃剣道が花形であり、自衛隊の大会に短剣道はないので余計な訓練に手を出す隊員はいないらしい。連隊が国体代表になってから急速練成しているのが実情だと聞いた。ここからは相棒抜きで本当の個人レッスンになった。
「うん、徒手格闘に手刀はないが少林寺にはあるんだな。上手いものだ」「急所を突くのも少林寺式か?流石だな」「短剣道で引きは必要ない。振り下ろす、突き刺すだけで良いんだ」教えながら氏原教官は私が興味を持った理由を納得していた。
- 2015/08/14(金) 08:48:12|
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本日8月13日は「怪談の日」だそうです。テレビでこの話を聞き由来を色々考えてみました。先ずは「13」と言う数字と「カイダン」と言う単語で「死刑台の13階段」が思いつきましたが怪談と結びつけるのには無理があるので調べてみました。
すると稲川淳二さんが1993年8月13日に怪談のトークショー「ミステリーナイトツアー」を始め、その10周年を記念して制定されたのだそうです。
野僧も愚息たちの子供会が開く肝試し大会や盆の説法で怪談を頼まれたものですが、その大半は体験談であり、話しているところを撮られると心霊写真になる確率が高いため、「怖すぎる」と言う悪評が広まり大概は1回きりになりました。
それにしても1985年8月12日にはJAL123号機が御巣鷹山に墜落していますが、その8年と1日後=命日の翌日に怪談会をやって本物の魂魄を招くことにはならなかったのでしょうか?
- 2015/08/13(木) 08:40:11|
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明治40(1907)年の明日8月14日に明治新政府の公家・毛利藩出身者と共謀して廃佛棄釋と言う大悪事を為した佛敵・福羽美静が無間地獄に堕ちました。
福羽は毛利藩が謀反を起こした時に山陰道を抑える任を負いながら実質的に毛利藩の属領になっていた津和野藩士の長男で、津和野の郷土史家によれば幼い頃に軽業師の綱渡りの真似をして転落し、腰を強打したため身長が伸びなくなり、そのため勉学に打ち込むようになって藩内で頭角を現したと言われています。しかし、4万3千石と言うのが信じられないような小世帯であった津和野藩なら何もしなくてもどこの誰であるかは互いに知っていたでしょう。つまり毛利藩得意の「贔屓の引き倒し」「痘痕も笑窪」式歴史の歪曲はここにも伝染しているようです。
藩校で山鹿流兵学を修めた福羽は藩主の命を受け京に留学しますが、ここで過激な尊皇攘夷運動を繰り広げていた毛利藩士たちに洗脳され、帰藩後は毛利藩テロリストの頭目・吉田寅次郎と同じ役割を果たします。
福羽は明治政府では尊皇攘夷の悪酒に宿酔ったまま神道による庶民の洗脳と国家統治を押し進めた宗教行政の重職を務め、元来は春日大社を信仰する神道の家系であった藤原家の公家たちの妄言に同調し、佛教の排斥を始めます。
その論拠は「佛教はインド発祥の外来の宗教であって日本の国風に合わない」と言うのですが、江戸時代後期の平田篤胤が古式神道の再生運動で盗作したのは中国の儒教・道教ですから論理的に破綻しています。おまけに福羽は「外国の優れた点は受け入れるべきだ」と主張して宗教行政の重職を罷免されたと言いますが、津和野藩は明治新政府の最初期に桂小五郎が行ったキリシタンの大弾圧・浦山崩れで預かった信徒153名を妊婦、幼児も区別することなく激しい拷問にかけ、36名を惨殺しています。津和野市が観光名所にしている乙女峠の教会は犠牲者の追悼施設であり、いわば郷土の罪の史跡=証拠です。これも福羽が津和野藩内で広めていた尊皇攘夷運動が原因であったすれば、郷土史家たちが「冷静な世界観を持っていた」などと称賛することは明らかな間違いです。然も「外国の優れた点は受け入れるべき」と言いながら、1200年の長きにわたり日本人の精神を善導してきた佛教を徹底的に排除しようとして貴重な歴史遺産の多くを海外に流出させ、平安期に勅命で建立された大寺院・内山永久寺を庭園の築山と池を残すだけまで破壊するほどの大罪過を犯したのですから、郷土史家たちの「贔屓の引き倒し」「痘痕も笑窪」は凶悪な殺人者の罪を不幸な生い立ちが原因と転嫁する弁護士並みの無理があります。
そして福羽が進めた路線の上に国家神道が成立し、毛利藩士が作った帝国陸軍を中心に神国思想・国粋主義の狂気に駆り立てられ、80年にして多大の犠牲を供じてこの国を滅ぼしたのです。
神道の力で無間地獄の底に堕ちている福羽を黄泉の国へ送られるのならやって下さい。中身のない形式的儀式に過ぎない神道では悪事を為した人間の救済は無理でしょうけれど。
- 2015/08/13(木) 08:39:25|
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銃剣格闘の試合はアメリカン・フットボールのような防具をつけて、両端にクッションがついた棒(=木銃に対して改良銃)で突く、殴る、叩くの乱打戦だ。ポイントとしては刺突が一番高いが、肋骨や頚部への強い打撃も有効だった。ただし、頭部はヘルメットをかぶっていることを前提にしているためポイントは低い。特に相手が勢いよく飛び出してくるところを両手で突き出した銃で受ける正面打撃は試合教習でも数メートルは吹き飛ぶほど威力がある。
私は銃剣道に熟達した陸上自衛官には勝てず試合教習では連戦連敗だったが、1つだけ得意技があった。それは接近戦になった時、相手の首筋を棒で押して体勢を崩し、すかさず足を刈る押し落としだ(私の命名)。
「モリヤ3曹は妙な技ばかり得意だなァ」と銃剣格闘の戸村教官は呆れていたが、銃剣道ド素人3段、柔道2段としてはこれくらいしか対抗する技がなかったのだ。
ただ、慣れてきて両端が膨らんだ棒を素早く振り回すようになると気分は如意棒を操る孫悟空だった。それでも私は「三蔵法師」と呼ばれていたのは何故だろう。
アメリカ軍では基本的な動作を練習した後は似たような道具とルールで試合を繰り返すだけだが、そこは武道の国・日本の自衛隊である。銃剣格闘にも型があった。
格闘課程が使う64式小銃は老朽化して実弾射撃は使用不能と判定された廃品だが、針金で固定されている銃剣には刃が入っている。これで入校以来、短木銃で演練してきた各動作を行うのだ。
勿論、実銃(=着剣した64式小銃)でも十分に単独動作を繰り返してから少林寺拳法で言う組演武に移るのだが、格闘指導官の検定基準では刃が相手の身体から1寸(3センチ)以内で止めないと合格できない。このため学生に貸与されている銃剣道衣の左腕の部分には銃剣が刺さった穴と血の跡があった。
刺突技、打撃技なら大量出血、骨折くらいですむだろうが、上に振り上げた実銃で喉を一気に切り裂く斬撃(ざんげき)では下手をすれば首が飛ぶ。初期の格闘課程では頸動脈切断で死亡した学生がいたらしい(これは伊東教官の冗談だった)。
実銃での練習は安全管理のため鞘をはめた状態で行うがそれで重くなった分、勢いがつき身体に当たることが多い。特に斬撃が鎖骨に当たると冷や汗が出た。
課業外の自主トレでは実銃を使えないため、我々は短木銃で3センチ以内に止める練習を繰り返し始めた。つまり踏み込む足の位置、肘の伸び具合などを身体に覚えさせるのだ。
私は相棒と向かい合った状態で目をつぶって動作を繰り返し、身体に刻み込んだ技の精度を確認していた(おかげで上半身は痣だらけになった)。
その頃の私は氏原教官の個人レッスン=銃剣道用の長木銃での練習も並行していたため自主トレは超過密になっている。しかし、土・日曜日も関係なく、毎日消灯直前まで残って指導に当たってくれている教官たちのことを思うと弱音を吐く訳にはいかないのだ。

銃剣格闘用モビルスーツ
- 2015/08/13(木) 08:37:38|
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昭和10(1935)年の明日8月13日に陸軍省軍務局長の永田鉄山少将(死亡後、中将に特別昇任)が相沢三郎中佐に斬・刺殺されました。
永田少将は岡村寧次大将、小畑敏四郎中将との陸軍3羽烏の中でも「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と言われるほどの英才でした。
陸軍大学校への入校時も同期たちが必死になって試験勉強をしている横で趣味の中国語に励んでおり、「俺たちが惨め過ぎるから、せめて勉強をする振りをしてくれ」と頼まれたそうです。
若し永田少将が存命であれば東條英機の如き小心者が陸軍大臣・総理大臣にまで舞い上がることはなく、アメリカの挑発を真に受けて大局を見失い、内向きで非建設的な議論の果てに何の勝算もない戦争を始めることはなかったでしょう。
ただし永田少将はずば抜けた頭脳を持っていたが故に思考背景・真意を周囲に理解されず、それで凡人の勝手な誤解に基づく人物像が陸軍内で蔓延し、精神主義の権化・皇道派の憎悪の対象になっていったのです。しかし、実際は噂されていたような冷酷非情な合理主義者、反皇道派の急先鋒ではなく、思想上の分類では皇道派に属する2・26事件の中心人物の1人・安藤輝三大尉が歩兵第3連隊で下士官・兵のため部外講師を招聘しての講演会を企画した時には元上司(歩兵第3連隊長)として全面的な援助をする度量と人物を見極める眼力がありました。
統制派と皇道派の対立は単なる組織優先の合理主義と尊皇国粋の精神主義と言う個人の思想信条の分類だけではなく大陸での戦略方針の相克もありました。皇道派は共産主義国・ソ連を断固敵視してこれを攻撃する対ソ戦略の堅持を主張していましたが、統制派は広大なシベリアに深入りするよりも関東軍の強大な戦力を石原莞爾中将が実行した満州の獲得に向けようとしていたのです。その意味ではソ連にとっての戦犯は皇道派、中国には統制派と言うことになります。
一方、犯人の相沢三郎中佐は元伊達藩士の息子として仙台市で生まれ、陸軍幼年学校から陸軍士官学校へ進みましたが、必ずしもエリートと言えるような成績ではなく陸軍大学校へは入校していません。むしろ戸山学校(自衛隊で言えば体育学校)を卒業した剣術・銃剣術の達人で、部隊長と一般の学校で軍事教練を行う配属将校としての軍歴を重ねていました。また少尉で仙台の歩兵第4連隊に勤務していた頃、仙台市青葉区北山(現住所)にある曹洞宗・輪王寺に3年間下宿し、坐禅に励んだそうです。こうなると某元2等空尉に重なってくるので嫌になりますが、激し易い短絡的な過激派ではなく、むしろ古武士の風格を感じさせるような人物だったようです。
8月1日付で台湾の高等商業学校の配属将校になり、海路赴任することになっていた相沢中佐は陸軍省の知人のところへ挨拶に寄ったついでに軍務局長室に押し入ると軍刀で斬り、それでも逃れるところを銃剣術の要領で刺殺しました。この模様を新東宝映画「陸海軍流血史」では沼田曜一さん、東映「銃殺」は丹波哲郎さん、同「日本暗殺秘録」では高倉健さんが相沢中佐を演じています。
事件後、相沢中佐は「そのまま台湾に赴任するつもりだった」と言いますが、当然、逮捕されて軍事法廷にかけられ、翌年の7月3日に佐々木衛戍刑務所の建物内に作られた刑場で銃殺に処せられました。この軍事法廷での公判中に2・26事件が起きましたから、青年将校たちは「相沢中佐が統制派の首魁を殺したのだから・・・」と後に続く気分だったのかも知れません。
何にしても幕末に血みどろの内部抗争を繰り広げた毛利藩士が作り上げた「長州の陸軍」であったことを証明したような事件です。山口県人は議論の前に相手を誅殺することを流儀とし、テロリストを英雄視していますから。
- 2015/08/12(水) 09:15:02|
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格闘課程も後半に入ると試合教習が増えてくる。私としては徒手格闘の試合で少林寺拳法の技に磨きをかけるつもりだったが意外な制約に愕然としてしまった。
普通、軍隊の格闘技であれば最強を目指して実戦性をトコトン追求するものだと思うが、格闘課程ではあくまでも格闘指導官=教官を養成することが目的であるため、動作は教範通りであることが重要で、試合での勝ち負けはあまり問題ではなかった。さらに徒手格闘の基礎である日本拳法の技、ルールを踏襲しているため試合もその枠の中なのだ。
「始め!」今日は審判要領の練習も兼ねている。しかし、相手は試合教習が始まる前のミットへの打撃練習で私が少林寺拳法と芦原会館のハイキックやかかと落とし、後ろ回し蹴りを繰り出したのを覚えていて間合いを詰めさせないように下がってばかりいる。
そこで私は飛び蹴りで一気に距離を詰めて接近戦に持ち込み、顔面をジャブで連打した。しかし、確実にダメージを与えているパンチも声を出さない「ふくみ気合い」だったため、審判は取らなかった。続いて近距離から膝へのローキックで転倒させたが、そこで教官が審判に試合を止めさせた。
「防具がない部位への攻撃、反則」伊東教官の指導に私は耳を疑ったが審判と相手も驚いている。これも日本拳法のルールなのだ(柔道の足払いは可能)。
結局、「アチョーッ」とカンフー映画風の気合いを入れた足刀を首に命中させて「技あり」を取ったものの(本来なら「1本」だが徒手格闘に足刀はないので「技なし?」だった)、反則と相殺されて引き分けになってしまった。
相棒と夕食を終えて自主トレに行くと道場で氏原教官が待っていた。
「モリヤ3曹、君の徒手格闘はどうも拙いんだなァ」「はァ、どこがいけないんでしょうか」
「格闘技としては中々のモノなんだが徒手格闘としては何かが違うんだよ。要するに似て非なるモノって言うことだね」これは私も気になっていることだった。だから自主トレの時間には鏡の前で徒手格闘の動作を繰り返し、教範の写真通りになるよう努力しているのだ。
「そこでだ・・・」「はい」氏原教官が姿勢を正したので私も直立不動で返事をした。
「銃剣道はズブの素人だって言っていたな」「はい、初心者の3段です」私のふざけた返事に隣りで聞いていた相棒は噴き出した。
「その素人なのが幸いして体育学校で習ったことが純粋に身に付いている。つまり教範通りの動作ができていると言うことだ」「へッ?」氏原教官は銃剣道8段範士・全日本の覇者だ。その神様のような教官が言うのだからそうなのだろう。
「どうだ、本腰を入れて銃剣道もやってみないか」「はい・・・」私は銃剣格闘の打撃技には真剣に取り組んでいたが銃剣道的な部分はあえて無視していた。しかし、教官自らこう言ってくれた以上、やらない分けにはいかない。それからは銃剣道4段、第7戦車連隊で合宿を経験している相棒と一緒に個人レッスンを受けることにした。
- 2015/08/12(水) 09:13:39|
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敗戦から70年が過ぎ本当の意味での経験者たちが次々に三途の川を渡っている今、日本人はあの戦争をどのようにとらえるべきなのでしょうか。
選挙で勝てない自民党色を薄めるための表看板として首相になってしまった村山富市が社会党委員長の立場で表明した戦後50年・村山談話では西郷南洲の征韓論から日清・日露戦争、日韓併合、日英同盟に基づく責任としてドイツの租借地・青島を攻撃した第1次世界大戦、そして日支事変、日独伊三国軍事同盟締結と大東亜戦争まで全ての戦争を侵略として世界に向けて謝罪をしましたが、これを神功皇后の三韓征伐や倭寇、秀吉の朝鮮出兵まで謝罪しなかっただけでもよかったと見るべきなのか。むしろ村山に言えばそこまで謝罪しそうです。
確かにナチス・ドイツはヨーロッパ全土を支配下に置く第3神聖ローマ帝国の樹立を目指し、侵略を繰り広げましたが、日本も本当に東アジア、第2次世界大戦では欧米の植民地になっていた東南アジアまで支配下に置くつもりだったのか。
征韓論は徳川幕府とは外交関係を持っていた李氏朝鮮が明治新政府を認めなかったため西郷南洲が「特使として説明に行く」と言いだしたのですが、それを遣欧使節で欧米との国力の違いを目の当たりにして戻った岩倉、桂、大久保たちが「西郷は自分が暗殺されること戦端を開こうとしている」と推察して強硬に反対し、政争に敗れた西郷、江藤新平、板倉退助などは下野しました。その後は佐賀の乱、萩の乱、神風連の乱、西南戦争によって西郷が目指した不満士族=危険分子の抹殺は実現したのです。果たしてこれが大陸への侵略する意図だったのか。
日清戦争は日本の近代国家建設に憧憬を覚えた李氏朝鮮王朝内の革新派と宗主国・清への忠義を堅持し、東夷の日本を見下す保守派の対立を受け、清国が軍を朝鮮半島に派遣し、それに革新派が救援を求めたことで勃発しました。果たしてこれが朝鮮を植民地化するための侵略戦争だったのか。その後の日韓併合も李氏朝鮮王朝内で主導権を得た革新派からの要請を受けて保護国としたことに始まり、それを貪欲な毛利藩出身者たちが推し進めたものであって、実際は朝鮮半島を合わせて近代化するだけの国力が日本にはなく、むしろ日韓併合により日本国内の近代化は立ち遅れる結果になったのです。
そして日露戦争は日清戦争の勝利により、獲得した遼東半島を三国干渉により放棄せざるを得ず、
その後、ロシアがこれを租借したことで満州の支配を狙う意図が明確になり、満州の次は朝鮮半島、やがて日本と危機感を覚えたのが開戦準備の動機でした。実際の外交交渉は比較的常識的に進んでいたのですが、日露和解は自分の利益獲得の阻害になるからと極東地区の責任者だったエヴゲーニィ・アレキセイエフが譲歩を認める皇帝の訓令を握り潰し、東京の公使には伝えなかったため頓挫し、開戦に至ったのです。果たしてこれが大陸の植民地獲得を狙った侵略だったのか。
実際の侵略と言えるのは第1次世界大戦中に佐賀県出身の大隈重信内閣が建国したばかりの中華民国に突き付けた対華21カ条要求からでしょう。
ここから先はロシア革命を受けて共産主義拡大を懼れる欧米と歩調を合わせシベリアに出兵したことで陸軍の主軸を満洲に置き、そこから日華事変、対中紛争へとつながり、やがて欧米が東アジアで獲得していた権益と衝突して大東亜戦争へと突き進んでしまったのです。
しかし、当時の日本に油田を探索・開発する能力があり中国東北部・黒竜江省の大慶の油田を独自に発見していれば、フランスの植民地・ベトナムの油田を狙って南進する必要はなく、第2次世界大戦も高みの見物ですんだかも知れません。
- 2015/08/11(火) 09:42:12|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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格闘課程も中盤に入った頃、1日だけの気分転換なのか試合運営の参考にするため日本武道館で開催された全日本剣道選手権を見に行った。入校以来、土・日曜日もなく練習に励み、一歩も駐屯地を出ていない我々は遠足に出かける子供のように朝からウキウキしていた。何だか教官まで児童を引率する小学校の先生ような顔をしている。
東武東上線で池袋に出て地下鉄に乗り、九段下駅で下りて靖国に向かって歩きながら反対側の堀を渡ると法隆寺の夢殿を模した屋根が見えた。
正面玄関でチケットを渡され、帰りの集合場所と時間を指示されれば後は自由行動だ。ほぼ満員の場内で2つ空いた席を見つけて座っていると若い女性が「よろしいですか?」と声を掛けてきた。その女性は凛とした美人(垢抜けしてないが)で、165センチほどの長身をピンッと背筋を伸ばして姿勢が極めてよく、膝下までのスカートから見える筋肉質なふくらはぎと細く引き締まった足首が印象的だった。
やがて試合が始めると彼女は真剣に見入っていたが試合の動きと呼吸がピタリと一致しており、私は「かなり剣道をやっているな」と感心しながら時折横顔を見ていた。
数試合後の休憩時間に声を掛けてみると九州訛りがあり、そこで私も博多弁で話すととても喜んで剣道に関する質問にも快く答えてくれた。その内容も非常に専門的な上、体験に基づく見解もあり、「まだ若いのに・・・」と驚いた。
試合が再開すると今度は試合の切れ目ごとに解説してくれたので(剣道は竹刀が当たった音で判定が変わるため試合中は沈黙・無音)少年剣道の経験しかない私も高度な部分まで理解し、何よりも試合を堪能できた。
昼休みになって一緒に階下の食堂へ向かうとすれ違う人たちが驚いたような視線を送ってくる。私は「似合いのカップルなのかなァ」と1人で悦に入っていた。
しかし、その勘違いは食事から戻って驚きと共に吹き飛んだ。無事空いていた席に並んで座ると数人の女子高生が彼女の前に並び、ノートとボールペンを差し出して「サインをお願いします」と声を掛けてきたのだ。
私は何事かと思い覗いてみると彼女は楷書で「福之上里美」と書くではないか。福之上里美選手と言えば高校生・17歳で全日本女子剣道選手権を制覇し、天才女子高生と呼ばれた剣士で、その年の春に鹿児島から警視庁に入り、1年ぶりに2度目のタイトルを取ったはずだ。つまり私はそんな有名選手の解説を1人で独占していたのだが、おかげで水泳と陸上の走り高跳びが得意で鹿児島の記録を持っていると言う個人情報も聞けた。その時、「水着や短パン姿を見たいなァ」と言ったら真っ赤になったのも可愛かった。
それにしてもウッカリ不心得なことをしなくてよかった。相手は婦警さんだから忽ち現行犯逮捕され、翌日の新聞に「自衛官が婦警に痴漢・体育学校の学生が剣道の女王に」と載るところだった。
帰りにこの話を助教にしたところ(「彼女を呼んでいた」と噂になっていたことへの弁明)、柔道の集合教育で筑波大学へ合同合宿に行き、学生が女三四郎・山口香2段の柔道着を盗んで帰ったため以降は合宿を断られた裏話を教えてくれた。

あまり写真写りが良くないですね。実物はもっと美人でした。
- 2015/08/11(火) 09:40:51|
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貞永1(1232)年の明日8月10日(太陰暦)に執権・北条泰時が御成敗式目51カ条を制定しました。この51と言う条文数は「十七条憲法の3倍として決めた」との俗説もありますが真偽不明です。
野僧は御成敗式目を大宝律令や武家諸法度、寺社諸法度、禁中並公家諸法度などと共に大学の法制史で学びましたが、非常に明快な条文だったことを記憶しています。
野僧は現役時代、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」を愛読していましたが、他の御家人と土地や財産の所有権や親族の不仲を巡る今で言う民事訴訟や御家人同士の抗争などの刑事訴訟の裁判記録がかなりあります。征夷大将軍・源頼朝は太古からの律令や平安期に公家が作った法には拠らず、武家の作法を道理として先例を参考にしながらもケース・バイ・ケースで裁判・調停・仲裁を行っており、御家人たちも頼朝が存命の間は忠誠心を優先し、私利私欲については自重する態度を取っていましたが、頼朝没後、2代将軍となった頼家は家臣の妻に横恋慕し、略奪、凌辱するような暗君であり、それが尼将軍・政子によって廃嫡されて3代将軍となった実朝は歌人に憧れる文弱さで武家の頭領としての権威は急速に衰え、同時に御家人たちの統制が困難になっていくのを抑える形で政子の実家・北条家が実権を獲得していったのです。
さらに承久の変で鎌倉幕府が朝廷を圧倒し、支配が西国にまで及ぶと地頭として派遣された御家人と荘園の所有者である公家やその家人(けにん)と境界線や租税収奪、裁判権などの争議が頻発するようになり、幕府側の立場を明確にするため成文法として公家に伝達する必要に迫られました。
それまでの公家の法は格式高く漢文で書かれており、高い教養を持つ一部の者だけが好きなように曲解していました。ところが御成敗式目は御家人にも周知することを目的としており、当時としては平易な文体で書かれていることでも実用の法であったことが判ります。
冒頭第1条は「寺社を修理して祭りを大切にせよ」、第2条は「寺や塔を修理して、僧侶としての勤めを行え」ですが、これは御家人ではなく神職と僧侶に向けた条文で、江戸幕府が発した寺社諸法度の走りのように思われます。
3条から5条では守護の業務内容、禁止事項、処分などが示され、35条以降も様々なケースでの職務権限や裁定基準などを規定しています。
一方、中盤では謀反・刑事・民事の罪過が色々なケースの具体例を挙げて示しており、例えば11条の悪口(あっこう)の罪では「争いの原因となる悪口は禁止。重大な悪口は流罪。軽い場合でも入牢。裁判中に悪口を吐けば直ちに敗訴。理由がないのに裁判を起こした場合は領地没収。領地がない者は流罪」と実用性に富んでいます。さらに家族間の諍いを防ぐため武家としての作法を明文化した条文も多く、特に夫に先立たれた妻の立場については細部にわたって規定しており、例えば24条の再嫁した嫁の財産については「亡夫の弔いを行うのが妻の勤めである。それでも再嫁したのなら財産は亡夫の子弟に分け与えなければならない」と手厳しい内容になっています。
面白いのは34条の人妻と密懐(びっかい)することの禁止で「人妻と密通した御家人は所領の半分を没収、所領がなければ遠流。道で人妻を略奪することは禁止、これを犯せば御家人は百日間の停職、郎従以下の武士は半分剃髪する(=恥を晒させる罰)。僧侶は別に裁く」と僧侶が路上で人妻を略奪することを想定しているのです(今ならやりそうですが)。
野僧は江戸時代以降の「侍」とそれより前の「士」では人種が違うと考えていますが、これもその実例になるのかも知れません。
全文を読むと「自衛隊員並びに隊員家族の服務規則」として採用したくなります。
- 2015/08/10(月) 09:18:46|
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その頃、美恵子は沖縄で念願のファッション・ショーに励んでいた。ファッション雑誌で山口県内は東京の流行から3年遅れであることを知って以降、妊娠中も広島まで足を伸ばして買い集めた自慢の服を着て出かけている。すると那覇市内の国際通りでも同世代の女性たちの注目を浴び、本土からの観光客も感心したような視線を送ってくるのだ。
「おカァ、チョッと出かけてくるさ、淳ちゃんをよろしく」今日も用事を作って出かけようとする美恵子を母は呼び止めた。
「アンタ、旦那さんが学校で一生懸命勉強している時に妻が遊び回ってどうするねェ」「遊び回るって言っても淳之介の物も探してくるのさァ」美恵子の言い訳だったが、淳之介の物がついで・おまけであるのは明らかだった。
「大体、母親がそんな派手な服装してどうするのさァ。母親はいつでも子供が抱けて、抱いた子供が粗相をして汚れても良いような服装をするものさァ」今日の美恵子はフリルが付いたドレスのようなワンピースだ。これも入校前に夫に淳之介を預けて新幹線で広島へ出かけて買って来た今年の秋の最新ファッションなのだ(実際は1年遅れ)。
「モリヤさんは何も言わんねェ?」「似合うって誉めてくれてるさァ」この答えを聞き母は服装の注意は止めた。
「それでお金はどうしてるねェ?」「あの人はケチだから給料でも余裕があるのよ。だから私のバイト代はお小遣いなのさァ」母は娘の考え方に何かが欠けていることに気がついたが明確な答えが出ずその場は収めることにした。
「淳ちゃんの晩御飯は母親が食べさせなさいよ」「うん、晩のオカズも買ってくるさァ」美恵子を送り出した母は居間で昼寝をしている淳之介の様子を確かめ、寝顔を見詰めながら「馬鹿なお母さんでごめんね」と呟いた。
夜、美恵子が帰宅すると個人タクシーの仕事に出かけているはずの父が待っていた。
「美恵子、ここに座れ」父は居間で自分の正面に座らせた。母は淳之介を抱いて隣に座ったが、淳之介は美恵子の顔を見ても来ようとしなかった。
「お前はモリヤさんの仕事をどう支えようとしているんだ」「支える?何のことねェ」「自衛官の妻としての務めは何かと訊いているんだ」父の語気が少し強まり淳之介は祖母の胸にすがりついた。
「モリヤさんが仕事に打ち込んで毎月の給料を家に持って帰ってくるからお前や淳之介の生活が成り立っているんだろう」「イザとなれば私が働くさァ。頑張ればあの人の給料くらい稼げるよ」美恵子の自信に満ちた返事を聞き、両親は顔を見合わせた。
「あの時、モリヤさんにお前とやり直してくれって頼んだことを後悔させないでくれ」両親は柱の時計を見て立ち上がり、父は座っている美恵子に声をかけた後、そのまま足音も荒く玄関に向かい、母は黙ってついていった。
「イライラしてるから運転気をつけるさァ」玄関から夫を見送る母の声が聞こえてきた。

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- 2015/08/10(月) 09:16:26|
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1975年の明日8月9日はソ連の代表的作曲家であるドミートリィ・ショスタコーヴィチの命日です。
野僧は中学時代にブラスバンド部の友人にレコードを借りて聞いて以来、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番が大好きなのですが、日本では「革命」で通っているこの作品をモスクワ放送では「交響曲第5番」としか紹介しておらず、11月7日のロシア革命記念日に放送されることもありませんでした。実際、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンの交響曲第5番と同様に日本、韓国、中国以外でこの副題は用いられていないようです。
ベートーベンの第5番の場合は、弟子に「冒頭の4つの音=ジャジャジャジャーンの意味」を訊かれ、「このように運命は扉を叩くのだ」と答えたと言われていますが(かなり嘘っぽい)、ショスタコーヴィチは曲の意味を問われても、「ソ連共産党の評論家に批判されたことへの反論」と言ったとされる以外、特別な説明はしていないようです。
おそらく日本人の音楽関係者がソ連の作曲家であることで「革命」と短絡的にイメージし、その先入観を持って曲を聴き、勝手に納得してしまったのでしょう。それが韓国と中国に広まったと言うことかも知れません。しかし、この作品は1937年の初演ですが、中国はまだ日本を通じて西洋音楽を学んでいたのでしょうか。
ショスタコーヴィチについて西側先進国では長く「ソ連共産党の広告塔」と看做され、作品の質以前に敬遠されてきましたが、没後4年目の1979年に「ショスタコーヴィッチの証言」と言う告白本(かなり嘘っぽい)が出版されると「秘めた反共産主義者」と再評価され、作品には新たな解釈が加えられ、演奏会には多くの聴衆を集まるようになりました。
交響曲第5番の第1楽章の冒頭は悲壮感あふれるカノン(複数の同じ旋律の担当グループが別々に演奏を開始する)から始まり、217小節からは弦楽器のカノンが26小節続き、そこに金管楽器主体のカノンが覆いかぶさるように演奏されます。この2重のカノンが不条理な感情の葛藤を表わしているようなので第1楽章は「自問自答」と新解釈されています。
そして野僧も大好きな第4楽章はオーケストラの大音響の後、ティンパニーの勇壮な連打で始まります。そして旋律は追い立てられるように加速し、後半は252回の「ラ」が流れる中、「ラレミファラ」が重なり合い、これをショスタコーヴィッチが内心に抱く共産主義への疑問・反発を告白する「二枚舌」と新解釈されているのです。
しかし、この作品自体は「革命」を意味して作曲された訳ではなく、ヨーロッパ古典主義的なこれまでの作品(クラシック音楽としては正統派)を「ブルジョワジーへの迎合」「資本主義への憧憬」=「反革命的」などと批判されたことへの反論として作曲したのですから、あくまでもヨーロッパ古典主義の正統派へのアンチ・テーゼ=技法的試行として解釈すべきでしょう。
野僧がこの作品が好きなのはティンパニーやシンバル、トライアングルなどの打楽器が効果的に使用され、日本の太鼓や持鉢、鐘の音に通じる響きに高鳴る鼓動を感じるからです。
ショスタコーヴィッチの交響曲としては第5番と並んで人気が高い第7番「レニングラード」については少し軽く、映画音楽のようなのであまり好きではありません。
自衛隊の幹部の中には「ウィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーが好き」と言う人がいますが、彼らが好むオペラ「ニーベルングの指環」の第1夜「ヴァルキューレ」第3幕冒頭の「ワルキュレーの騎行」や「さまよえるオランダ人」「タンホイザ」などは意図的に興奮さられているようで、やはりアドルフ・ヒトラーが好んだ作曲家です。
- 2015/08/09(日) 08:38:43|
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陸曹と空曹の違いを痛感させられることがあった。徒手格闘の教育中、伊東2尉が説明した「波動突き」が大学で聞いた技とまるで違ったので確認の質問をした。すると伊東2尉は自分の勘違いだったことを認め、その場で訂正したのだが、休憩になると私は陸曹たちに取り囲まれ吊し上げられた。
「教官がこうだと言われればこの課程ではそれが正しいんだ」「陸曹は幹部の言うことに黙って従うのが任務だ。疑問を持つことは許されん」「頭で考える前に教官が言われるように身体が覚えるように努力しろ」私は彼らが熱弁を奮う陸曹の美学を噛み締めながら、陸上自衛隊の飛行隊の整備員たちが同様の考え方をするのでは「パイロットは幾つ命があっても足らないだろうな」と思っていた。そんな気持ちが表情に出てしまったのだろう。1人が言い得て妙な台詞を吐いた。
「お前たちは隊員が自分勝手に考える空中分解自衛隊だな」確かにそうかも知れなかった。
格闘道場は銃剣格闘の板の間(球技用の体育館とは弾力が違う)と器材倉庫を挟んで畳敷きの徒手格闘、シャワールームの向こうは重量挙げの道場になっている。このため訓練中にも重量挙げ道場から「ドシーン」とバーベルを下ろす音と地響きが伝わってきた。
ある日、22分間訓練を終えて格闘道場に行くと重量挙げの若手選手たちが大掃除をしていた。それも道場内とシャワールームだけでなく道路から道場までの通路まで掃き清めている。我々は「エライお客でも来るのかな」と思いながら道場に入ったが、休憩になって外で煙草を吸っていた連中が他の学生を呼び集めた。すると重量挙げのコーチ、選手たちが道路から道場までの通路に並び、いわゆるト列を作っている。
やがて1台の黒塗りのクラウンが止まり、運転席のドアを重量挙げのコーチが開けると非常に小柄なジャージの小父さんが下りたのが見えた。
「副校長閣下、本日は御試技を有り難うございます。準備は整っております」コーチの挨拶でそれが副校長の三宅義信1佐であることが判ったが1佐は「閣下」ではないはずだ。ちなみに黒塗りのクラウンは三宅1佐の私有車で、小柄過ぎて運転していても外からは正帽しか見えないらしい。
三宅1佐は並んでいる若手選手たちの敬礼を受けながら歩いて行き、松葉杖をついている選手の前で立ち止まって声を掛けていたが、その選手は感激して泣き出した。
玄関の前で出迎えている責任者で実弟の三宅義行3佐(女子重量挙げの三宅宏美選手の実父)に「よォ、一汗流させてもらうぞ」と声を掛けて一緒に入っていった。
そこで我々の休憩は終わったのだが訓練中も重量挙げ道場から拍手が聞こえてきた。それも命令や指導ではなく選手たちは本当に感激して拍手しているらしい。
昼食の隊員食堂で並んでいると重量挙げの若手選手たち(=陸士)がシャワーで三宅1佐の背中を流したことや出てきた後、バスタオルで全身(前も)を拭いたことを自慢し合っていたので、かなり異常な世界を感じてしまった。
- 2015/08/09(日) 08:37:08|
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昭和49(1974)年の明日8月8日は今も絶大な人気がある画家・岩崎知弘=いわさきちひろさんの命日です。原発性肝臓癌・55歳でした。本名は弁護士で日本共産党の元衆議院議員・松本善明氏と結婚しているので松本知弘さんです。
ちひろさんは絵本作家としても有名で、野僧も「おにたのぼうし(文・あまんきみこさん)」を読んで非常に感銘を受けました。ただ、ちひろさんの絵は暗い色調や輪郭線がハッキリしない点など個性が強過ぎる上、人物の目に表情が乏しいので(「虚ろな目」と言うべきでしょう)、ご本人はアンデルセンが好きだったそうですが西洋の童話には向かないようでした。
ちひろさんの没後、多くの伝記や人物像に関する研究書が出ていますが、時代背景を考えながら読めば当たり前の人生なのに、共産党系の人が書くとやはり悲劇の主人公になっているのです。
陸軍築城本部の建築技師である父と女学校の教師だった母の間で生まれますが、両親とも仕事を持っていたためそれぞれが単身赴任で、母の赴任先の福井県武生市で生まれたのです。
この辺りから「軍の命令に忠実で家庭を顧みない父の横暴により、心細い1人暮らしの中で母は雪が降る日にちひろさんを生んだ」と悲劇「ちひろ物語」が幕を開けますが、しかし、当時としては恵まれた高収入の職業である父を単身赴任させる母のワガママを許していたのですから、両親は互いを尊重し合っていたと見るべきでしょう。
母は職業柄多くの書物を持ち、その中には多くの児童書も含まれていましたがちひろさんが好きな本はなかったそうです。「親の価値観を押し付けられて可哀そうなちひろちゃん」と筆者は言いたいのでしょうけれど、この時代、家に児童書があること自体が贅沢であり、それを選り好みするのは子供の勝手=ワガママ以外の何物でもありません。
母が上京したためちひろさんも東京の小学校に入り、そのまま女学校に進みますが、ここで抜群の画才と運動神経を発揮します。しかし、この時代にスキーや水泳、登山を趣味にできた少女がどれ程いたのでしょうか?つまり労働者の敵・ブルジョワジーの子供なのです。
14歳の頃、母もちひろさんの画才を認め当時の一流西洋画家・岡田三郎助に入門させますが、後年の作品とは全く共通性がなく、これも「親の押し付け」と言うことになるかも知れません。
20歳の時、3人姉妹の長女だったため両親が進める相手を婿養子に迎えますが、相手はちひろさんを気に入り、愛してくれたもののちひろさんは好意を持たず、夫の勤務先である中国・大連へは嫌々行ったようです。翌年、夫が自死したため帰国しますが、野僧が命を削って耐えている同居人との愛がない生活を思えばちひろさんにも原因はあったのでしょう。
終戦は空襲で家を焼かれたため(当時としては都市部の住人の多くが受けた被害です)疎開していた長野県松本市で迎え、そこで敗戦による混乱に乗じて共産革命を策謀する活動家から「戦争の実態」を吹き込まれたことで日本共産党に共鳴するようになり、やがて入党しました。早い話、ちひろさんの作品・著作物を買えばそれが日本共産党の活動資金になっていたのです。
この後は遠心力のように大きく左へ振れ、夫・丸木位里との共作「原爆の図」で有名な丸木俊に師事し、あの暗くボンヤリした画面と虚ろな目の絵を身につけました。そして「2度と結婚なんてしない」と言う誓いを自ら破り前述の夫と再婚しますが、結婚式はレーニンの命日でした。
やはり思想的に偏った画家の絵は、そのイメージの奥に危険なメッセージが潜んでいる危険性があります。ちひろさんの遺作なった絵本「戦火のなかの子どもたち」はベトナム戦争の実態に関係なく一方的にアメリカを批判する声を母親や子供たちにも広げました。
- 2015/08/08(土) 09:45:39|
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格闘課程の教育日課は基本的に午前が銃剣格闘、午後は徒手格闘で、課業終了後も自主トレとして訓練を続ける。つまり昼食・夕食の1時間を除けば朝7時からの22分間トレーニングに始まって夜9時で自主トレを終えてシャワーを浴びるまで1日12時間の体育訓練なのだ。
それでも毎朝、ヘルスメーターで体重を計り、脈拍数や用便の回数、尿の色、便の固さなどを含めた健康状態の記録を提出しているので心配ないのだろう。むしろこれも運動生理学研究のデータ収集なのかも知れない。
このような日程のため洗濯物も朝に入れるとそのまま訓練に行き、昼休みに戻って脱水をして干すことになり(昼に入れて夜に干す場合もある)、洗濯機の台数は異常に多かった。
教育内容の銃剣格闘では64式小銃に着剣した長さの短木銃で長い木銃に慣れている銃剣道の選手たちは戸惑っていたが、私は「これぞ実用」と嬉しくなるのだ。
銃剣格闘は防具の付け方から始まった。航空教育隊では教える班長たちも見よう見真似だが、こちらは銃剣道8段の歴代全日本チャンピオンが連盟の教範通りに説明してくれる。
胴の紐の締め方1つとっても「鎧結び」と言う古式だそうで、面の紐も結んだ後、側面で重なっている紐を綺麗に揃えるのが作法だ。
そして最初は前足を上げて後ろ足で踏み切り、前足から着地しながら体重を移動させる足運びからだが、教育隊でも見よう見まねで教えるだけなので、このような理論的な教育方法は非常に参考になった。
徒手格闘は大学時代に少しかじった(=2級)日本拳法そのもので、那覇で少林寺拳法を始めた時、日本拳法の癖で苦労した逆を味わうことになりそうだ。ここでも正面構えや右構えなどから始まったが、大学の日本拳法部で先輩に「見て覚えろ」と教えられたいい加減な形ではなく拳の握り方から体重の配分まで理論的に説明され、それを点検・修正されるため鏡で見ても、自分の姿勢が教範の写真通りになっていく。
そんな1日が終わり消灯ラッパまで数十分間の使い方は陸上自衛官と航空自衛官(=もう1名は熊谷から通勤していたので私だけ)で全く違っていた。
陸上自衛官は格闘課程の学生には黙認されている昼休みに買っておいた温いビールと摘みを開け、1日の疲れを癒す宴を始めるのだが、私は個人ロッカーを机にしてその日の教育内容の記録を作成している。それは得意の絵で図解を描き、そこに教官の説明を加えたもので、銃剣格闘と徒手格闘、さらに運動管理などで毎日B4判3枚になった。
そんな私をソファーで盛り上がっている陸上自衛官たちは冷やかに酒の肴にしていた。
「航空自衛隊ってお勉強家なんだな」「頭がお良ろしいんでしょう」「知識があっても戦場では役に立たないぞ」「そう、咄嗟に動く野性の勘」「俺たちは猛獣だァ、ガオーッ」教官には私が陸上自衛隊の幹部候補生を受けていることは内密にしてもらっているのだが、知られれば人間関係がガタガタになるのは間違いないだろう。
- 2015/08/08(土) 09:44:02|
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8月3日の夜、「きかんしゃ やえもん」の作者である阿川弘之先生が老衰で亡くなりました。94歳だったそうです。合掌。
我々の世代の乗り物好きな男の子にとって「きかんしゃ やえもん」と「しょうぼうじどうしゃ じぷた」は人気絵本の双璧でした。図書室で借りようと思っても順番待ちで、借りても歴代の子供たちが代わる代わる借りているので分解寸前だったのです。
「じぷた」は最後に山小屋の火事で活躍しますが、「やえもん」はスクラップになる寸前で博物館の展示品になります。やっとスポットライトが当たった「じぷた」と第2の車生として見世物になった「やえもん」、子供ながらに男の人生を考えさせられる絵本でした。
野僧が2作目の阿川作品を読むことになったのは中学3年の夏休みです。シーレーン防衛の重要性を知り、海上自衛隊を目指すことを決めた野僧に担任の教師が「雲の墓標」を手渡し、宿題の読書感想文を書くことを命じたのです。この作品は学徒出征で海軍予備士官となった主人公が、操縦要員として飛行訓練を受け、神風(しんぷう)特別攻撃隊として出撃するまでを日記形式で描いています。教師としては死への恐怖と軍隊生活の不条理を知れば自衛隊志望を止めさせられると思ったらしいのですが、野僧の感想文は「私も後に続き、国のために命を捧げ、美しく立派に散りたいと思います。こんな素晴らしい本を教えてくれた先生に感謝します」と締めくくっていました。この作品は阿川先生の同期で特攻隊員として戦死した予備学生の日記を元に執筆されたそうで、題名になった「雲の墓標」は友人への遺書の冒頭にあった「雲こそ吾が墓標、落暉(らっき)よ碑銘をかざれ」から採られていますが、実際の遺書では「海こそ吾が墓標」だったそうです。それでも野僧は航空自衛隊に入隊して以降、同期や友人のパイロットが殉職した時の弔電に「雲こそ君が墓標、落暉よ碑銘をかざれ」と打っていました。
こうして担任の教師に教えられた阿川作品は高校に入ってからも読みましたが、自伝的小説「春の城」、提督伝「山本五十六」「米内光政」までで離れました。と言うのも自分自身が戦史研究を進めていたこともあり、阿川先生が描く海軍軍人の「贔屓の引き倒し」「痘痕も笑窪」な点が鼻につきだしたからです。やはり阿川先生自身は予備学生出身のポツダム大尉であり、その軍歴を不完全なものと感じて、殊更に帝国海軍のスターたちを演出・賛美したのかも知れません。
その後、阿川先生は別の形で再登場しました。それは遠藤周作先生の「ぐうたら交友録」です。そこでは海軍と乗り物と美食については絶対に譲らない「大人になったキカン坊」として紹介されていました(遠藤先生ならではの誇張・創作も混じっているそうですが)。
さらに幹部候補生学校に入校する時、中隊長から餞別として渡された「国を思えば腹が立つ・自由人の日本論」を読みましたが、野僧自身も沖縄時代から感じていた大江健三郎の偽善性や昭和の陛下への想いに共鳴し小説よりも好感を持てました。
ところでお嬢さんは現在も活躍中の阿川佐和子さんですが、幹部候補生の同期で小牧の第5術科学校では学生長だったF原くんは求婚を考えるほど佐和子さんの大ファンでした。彼には「将を射らんと欲せば先ず馬を射よ」戦術で阿川先生に「『航空自衛隊の幹部だ』と名乗ってファンレターを送れ」「トトトトト・・・(ト連符=突撃せよ)」とけしかけていたのですが実行しませんでした。佐和子さんはまだ独身ですから勿体ないことをしました。
阿川先生は先祖が山口県下関市豊北町の阿川地区出身ではないかと考えていたそうで、佐和子さんがNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」で訪ねてきましたが史実としては確認できていません。
とうとう三浦朱門・曽野綾子ご夫妻だけが「第三の新人」の生き残りになってしました。
- 2015/08/07(金) 09:33:26|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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「そんなに緊張するな。俺も曹学を卒業して体校に来るまでは教育隊にいたんだ」森山2尉は体育学校が長いため先日、教官から指導された陸上用語を使うようだった。
「私も曹学の7期です」「そうかァ、後輩だな・・・よし、後輩と判れば面倒は見る。今度、景気づけに飲みに行こう」「はい」突然、森山2尉に掛けられた言葉で私はその場に固まってしまった。すると森山2尉は温和な顔で話しを続けてくれた。
「それにしても曹学は何期になったんだ?」「この春で13期です」「ふーん、もう10年以上続いているんだな。俺たちの頃は毎年、『最後の』と言われていたが」「はい、私たちも言われていました」しばらく立ち話になったのでその場で土産を手渡した。土産は防府名物の白銀の蒲鉾だった。これは防府の土産としては高級な方だろう。
「おッ、白銀の蒲鉾だな。今回は張り込んだね」「要冷蔵とは書いてないので常温でも大丈夫だと思います」「おい宮原、後で板ワサにして喰おう」重量級の森山2尉の巨体で見えなかったが奥のソファーにロサンゼルス・オリンピックのゴールド・メダリストが座っていた。
「うん、それは楽しみだ」その返事もテレビで聞いた声だ。森山2尉が蒲鉾を置きに行った隙に見渡すと部屋には宮原1尉の他にも本田多門2尉などテレビや新聞で見たことがある顔が揃っている。気がつけば全員が着ているジャージもオリンピック代表の物だ。それが自衛隊体育学校なのだ。
ソウル・オリンピックでの惨敗は学校全体にピリピリとした緊張感を与え、我々の一般課程もいつも以上に気合が入っていて、とんでもないことになっていた。
朝は7時からグランドへ行き、イスラエル軍が新入兵士に実施させている21分間トレーニングを陸上自衛隊に導入するための成果確認のデータ取りが毎日行われた。実際、課程教育が本格化して疲労による筋肉痛を訴える学生が多い中、データがどのように推移するかを検証することも目的のようだ。
21分間トレーニングとは懸垂、腕立て伏せ、腹筋、背筋、バービー=腕立て起立、スクワットなどの種目を1分間に何回できるかを測定するもので、腕立て伏せは顎が地面から10センチまで、背筋は顎が40センチまで、懸垂は腕が伸びた状態からと基準が決められており、測定係りが確認して不十分な場合は回数から除外される。
実は近い将来、このトレーニングを陸上自衛隊の体力測定にするための偏差値のデータ取りでもあるらしい。
最後は走った距離を記録する12分間走だが朝から燃え尽きてしまう訳にはいかない。そこから格闘課程の厳しい教育が始まるのだから。
- 2015/08/07(金) 09:32:16|
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野僧のブログ記事では便宜上、大陸で行われた中国との紛争を「大東亜戦争」、昭和16年12月8日以降、主に米欧との戦争を「太平洋戦争」、ヨーロッパでの戦争、若しくは世界規模の戦争を「第2次世界大戦」と呼び分けていますが正式な呼称区分ではありません。
「大東亜戦争」は対米英開戦直後の昭和16(1941)年12月12日に東條内閣によって閣議決定された呼称で、趣旨は「東アジア各国を欧米の植民地支配から解放する=大東亜共栄圏の実現が目的」と言う大義名分でした。この時、昭和12年に近衛内閣が認定した「支那事変」も「大東亜戦争」に含めることが併せて確認されたのです。
これは大陸で日本の関東軍と中国の国民党軍が繰り広げていた戦闘は、当時の武力紛争関係法が開戦の手続きとして定めていた宣戦布告が行われておらず正式な戦争ではなかったためで、この3日前の12月9日になって蒋介石が対日宣戦布告を行ったことを受けての処置でした。つまり最近の報道などで用いられる「日中戦争」なる呼称は史実から言えば誤りです。
しかし、「大東亜戦争」と言う呼称には前述のような大義名分の意味があるため、敗戦後の昭和20年12月15日に占領軍が出した「神道指令(国家神道の禁止などを命じた)」の中で使用を禁止され、以降は「第2次世界大戦」、アメリカとの主戦場から「太平洋戦争」と呼ばれるようになり、教科書や報道などでもこの用語で統一されています。
野僧は中学時代、教師に「太平洋戦争では大陸での戦争が抜け落ちている」と質問したことがありました。と言うのは薫陶を受けていた祖父が戦争を語る時、「今度の大戦」若しくは「大東亜戦争」と呼ぶことに慣れていたため授業で教師が口にする用語に違和感を覚えたのです。
すると教師は「また授業妨害か」と激怒し、「教科書を見てみろ」と「太平洋戦争」と書いてあるページを読ませたのです。しかし、野僧は「大東亜戦争」と置き換えて読みましたから、その場で軍隊のような鉄拳制裁を受けました(野僧だけは体罰が日常茶飯事だった)。
尤も野僧は英語の授業でも「日本の国名はJAPANではなくNIPPONだ」と質問し、テストの回答でも「NIPPON」「NIPPONESE」で統一していたので、職員室では要注意人物=問題児だったのでしょう。幸い英語の教師は海軍兵学校出身でしたから激怒はせず、「確かにオリンピックのユニホームではNIPPONだよな(ミュンヘンまで)」と正解には「○」をくれましたが、殴ってもらえば海軍兵学校の修正=鉄拳制裁を経験できたのに惜しいことをしました。
同じような問答は国会でも行われたことがあります。中曽根康弘首相が答弁で「大東亜戦争」「支那事変」と言う用語を使ったことを野党議員が「国民に判りにくい言葉を使って答弁を誤魔化している」「支那と言う呼び名は中国に対する蔑称だ」と批判し、それに「これは当時の日本政府が決定した正式な呼称だ」と反論したのです。
確かに占領軍が出した「神道指令」の効力が現時点でも続いているかの問題はありますが、神道関係者の間では国家神道復活を目指す政治活動が密かに進んでいる一方で、占領軍が作らせた日本国憲法を後生大事に護持しているくらいですから判断が難しいところです。
ちなみに「支那」と言う呼称は始皇帝の「秦」を語源とする「China(チャイナ)」に漢字を当てはめた逆輸入の単語なので蔑称ではないはずです。
やはり国際用語・WWⅡ=「第2次世界大戦」に統一した方が間違いないでしょうか?
- 2015/08/06(木) 09:53:16|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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間もなく入校式が行われ課程教育が始まったがソウル・オリンピックも閉会し、首脳陣の多くはソウルへ視察に出掛けて不在で、校長閣下もそのまま成田からソウルへ向かうと言う話だ。つまり体育学校の意識はそちらに向いていて我々はオマケのような扱いだった。しかし、今回のオリンピックでは日本の各スポーツ団体の体質と自衛隊が置かれている立場が大きく影響しており、体育学校勢が前回のロサンゼルス・オリンピックに比べ成績が振るわない理由も明らかになった。
ソウル・オリンピックの1年前、韓国のレスリング協会からオリンピック要員の合同練習を申し入れられた日本のレスリング協会は大学の強豪校ではなく自衛隊体育学校に相手を押しつけた。すると韓国の選手たちはルールを無視したタックルや無理な姿勢からのバック・ドロップなどのラフ・プレイを繰り広げ、若手有望選手の多くが重傷を負い、回復が間に合わずオリンピック予選にも出場できなかったのだ。
また空前の好景気を満喫している企業はこれまで見向きもしなかった陸上のトラック競技や重量挙げ、射撃などのマイナーな競技も宣伝に利用するようになり、各競技の協会は多額の寄付を寄せる企業の選手を優先し、同程度の成績を収めている体育学校の選手は落選させられていた。
校長閣下は競技人口が皆無に等しかった競技を支えてきた体育学校の功績を仇で返すような仕打ちに怒る選手や指導者に「この欝憤は成績で晴らせ」と訓示していたが思うような結果にならず、帰国後はオリンピックの話題が禁句なるほど機嫌が悪かった。
課程が始まって間もなくそんな選手団が帰国し学校朝礼で紹介が行われた。過去のオリンピックでは駐屯地朝礼で華々しく成績発表が行われるのだが、今回は前回のロサンゼルス・オリンピックで金メダルだった宮原厚次1尉が銀メダルだった以外はメダルがなく、学校側が辞退したとのことだ(後日、駐屯地朝礼で宮原1尉だけが紹介された)。
私は教育隊からレスリング・グレコローマン重量級の全日本で6連覇(最終的には14連覇)し、ロサンゼルス、ソウル両オリンピックに連続出場した(後年、バルセロナにも出場した)森山泰年2尉に土産を預かっており、昼休みに第2教育部の隊舎を訪ねた。
廊下ですれ違った若い選手に森山2尉の部屋を訊くと「押忍、森山2尉ですね」と非常に緊張し、親切にも案内してくれた。
「レスリング班・幹部室」と言う看板がある部屋の引き戸のガラスをノックすると、その選手は外から「森山2尉に面会希望者です」とだけ声を掛け、私を残して歩いて行ってしまった。森山2尉は一般空曹候補学生の2期=私の先輩でもあるが、この選手の態度にかなり怖い人物を想像して緊張しながら戸を開けた。
「航空教育隊から格闘課程に入校したモリヤ3曹です。☓☓2曹から土産を預かって来ました」「おう、防府の☓☓さんからかァ」入口で挨拶するとテレビで見たことがある顔の人物が歩いてきた。
- 2015/08/06(木) 09:51:53|
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教官室で人事書類が入った茶封筒を提出すると受け付けた1曹はその場で開封し、休暇票や身体歴、被服貸与簿を抜くと「伊東2尉」と呼んだ隣りの席の教官に手渡した。
伊東2尉は手招きすると机の前の椅子を勧めたので私は直立不動で敬礼をしてから座った。伊東2尉は身上票の最初にとじてある訓練記録を通読しながら面接を始める。私も航空教育隊で着隊した学生の面接を行ったが、それは地方連絡部から届いた資料などを読んで確認すべき事柄を把握してからであり、余りにも唐突なやり方に少し困惑した。
「ふーん、少林寺拳法初段かァ」「はい、昭和58年の全自衛隊大会では優勝しました」「ほーッ、組み手でか?」「いいえ、少林寺拳法は組演武のみです」「試合経験は?」「練習では乱取りをやっています」私の答えに伊東2尉は何かをメモした。
「柔道も2段だな」「はい、高校時代に初段を取り、曹候基礎課程で2段を取りました」「曹候?」「一般空曹候補学生です」「曹学だな・・・陸上では曹候は陸曹候補生を指すから曹学と呼ぶんだ。覚えておけ」「はい・・・」と返事をしたが航空自衛隊で新隊員が空曹になるのは初任空曹なので今一つピンとこなかった。
「徒手格闘の経験は?」「いいえ」本当は大学時代、徒手格闘の原型である日本拳法をかじったことがあるのだが、本当にかじっただけなので黙っておいた。
「格闘課程の入校基準は徒手格闘と銃剣格闘がそれぞれ1級以上と決まっているんだ。まァ、航空は特例になっているが少林寺でも全自大会で優勝したなら頑張ってみてくれ」「はい、よろしくお願います」「お願いではなく自分が頑張って勝ち取るんだ」「はい」この絶妙の指導に「流石は体育学校の教官だ」と感心した。
「ところで銃剣道は得意か?」そこへ伊東2尉の奥の席の3尉の教官が訊いてきた。顔を向けると胸には「氏原」と言う名札があった。
「銃剣道ですか・・・」私は銃剣道こそ陸・空自衛隊が引きずる旧軍の汚物であり、海上自衛隊のように一刻も早く廃止するべきだと考えていた。しかし、ここでそれを口にすることはどう考えても拙いだろう。
「3段だね」中々答えない私に代わって伊東2尉が身上票を確信して答えてくれた。この3段は自分の空曹候補者課程で初段を取り、今年の空曹候補者課程で3段を買ったのだ。
「試合経験は全くありません」「全く?部隊で大会ぐらいは出ただろう」「いいえ、教育隊の学生の大会だけです」「そうかァ、航空自衛隊でも銃剣道をやっていると思っていたがな・・・」少し氏原3尉は困惑した顔をした。
「おッ、陸上自衛隊の部外の1次に合格かァ」ここで伊東2尉が身上票の最後に書いてあることに気がついて声を上げた。
「はい、結果待ちです」「発表はいつだ?」「11月15日です」「ならば格闘技術だけでなく陸上精神も教え込まないといけないな」「それは合格してからにして下さい」「陸上では幹部の言うことに陸曹は反論しないんだ」そこに私と幹部教官のやり取りを聞いていた最初に茶封筒を受け取った竹浪1曹が最初の指導を加えてきた。
- 2015/08/05(水) 09:15:03|
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前日は春日基地に宿泊し、基地からのバスで福岡空港と同居する板付基地に向かい久しぶりにCー1輸送機に乗った。入間基地で下りて西武池袋線で池袋に出て、そのまま東武東上線に乗り換えて和光市駅で下りると徒歩で朝霞駐屯地に向かう。
体育学校から届いた簡単な地図を頼りに駅前商店街を抜けるといきなり広い道路に出た。そこから道路の歩道を歩いていくのだが防府では経験することがない交通量に少し恐怖を感じたのは愛知県の感覚が抜けてきていると言うことかも知れない。
朝霞駐屯地に入ると妙に雑然とした雰囲気だった。グランドで銃剣道をやっていたり、道路上を走ったりしているのは我が防府南基地も変わらないのだが、空気が埃っぽく、薄汚れているように感じた。そして東京オリンピック以降、数多くのメダリストを輩出している栄光の自衛隊体育学校の建物には驚いた。
それは木造2階建ての帝国陸軍の遺物で、3棟並んだ一番奥が学校本部、中央がオリンピック選手と練習生の第2教育部、そして手前が我々一般学生の第1教育部の建物だった。
学校本部の玄関に入ると階段の横に「ここで映画・陸軍中野学校の撮影が行われた」と説明した市川雷蔵の写真入りのパネルが貼ってあった。確かに正真正銘の日本陸軍の建物だからそのまま撮影しても時代考証は必要ないだろう。この映画を見ていた私は市川雷蔵が手を置いた階段の手すりでポーズを真似してみた。
隊舎の端にある格闘班へ長い廊下を歩いていくと途中には「体育医学班」「運動生理学研究班」「記録分析班」「科学測定班」などの古い建物には似合わない看板が並んでおり、その下には見学者用の業務内容を紹介したパネルもあるので1つ1つ読んでいったが中には最新の機材があるらしく、そのアンバランスが不思議な気分だった。
さらに資料室は開放されていたので覗いてみたが、その頃の副校長・三宅義信1佐と悲劇のランナー・円谷幸吉3尉の資料が壁の一面ずつを占めていた。ただ、当時の週刊漫画雑誌に連載されていた円谷3尉の物語では東京オリンピックで国民的ヒーローになったことで特例(本来は優勝しなければ該当しなかった)の幹部に昇任させたため、幹部候補生学校に入校することになり、半長靴をはいての訓練でアキレス腱を痛めてしまった。その致命的な故障から必死に立ち直ろうとしているのを支えてくれていた女性との結婚を旧軍出身の体育学校首脳が「メキシコで日の丸を上げて国民との約束を果たしたからだ。それまで余計なことを考えるな」と反対した上、最大の理解者だった教官が抗議したことで解任されたこと=自衛隊体育学校の体質が自死の原因であると描かれており、自死した当時の校長の写真を見て、「こいつかァ」と舌打ちした。
その他にはプロボクサーのロイアル小林の自衛隊時代や前回のロサンゼルス・オリンピックで金メダルを獲得したレスリングの宮原厚次1尉、ピストルの蒲池猛夫3尉などのパネルの下に成績や略歴が表記してあり、出口の手前にはソウル・オリンピックに出場している選手を紹介する展示もあった。
- 2015/08/04(火) 09:31:57|
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夜、座敷で義父母と3人で泡盛、美恵子はウーロン茶、その前に淳之介はミルクを飲んだ。腹が膨らんだ淳之介は義母の横に並べた座布団でよく眠っている。
「自衛隊体育学校って聞いたことがあるけど何をするのさァ」義父が質問してきた。
「今回は格闘課程って拳法と棒術みたいな格闘技の指導者を養成するコースです」沖縄の家族にも判るように説明したつもりだが表現がいささか乱暴に思った。義父は沖縄のタクシードライバーの多くが護身のため習っている上地流・実戦空手の黒帯で義弟・松真の師匠でもある。
「拳法ってモリヤさんがやってる少林寺拳法ねェ?」「いいえ、似ているけど違う日本拳法です」「日本憲法って法律の勉強ね?」「そっちじゃあなくて柔術の流れを汲む日本古来の武術です。当身技に投げ技、関節技があるんですよ」私が中退した大学にも日本拳法部があり、少林寺拳法部と共に強豪校だった。両者は体育会系の武道部として競合していたが、影では防具をつけて殴り蹴りする日本拳法部は演武のみの少林寺拳法のことを「形だけ」と馬鹿にし、少林寺拳法部はリングで殴り合う日本拳法を「粗野な暴力」と揶揄していたのだ。
「前から一度、モリヤさんと勝負してみたかったけれど卒業したら1つお手合わせを願うことにするさァ」「それじゃあ防具を買ってこなきゃいけませんね」「それじゃあ、遠慮はいらないな」笑って請け負ったが私は以前、友人に誘われて上地流の道場に稽古の見学に行き古式のままの鍛錬、組み手を実践している迫力に圧倒されたことがある。
武道家の端くれとして試合をしてみたいと言う子供じみた好奇心と共に若干の恐怖も感じている。黙ってしまった私に義母が質問してきた。
「体育学校ってオリンピック選手がいる所ね?」「はい、あちらはそれ専門のコースですが」義母は自衛体育学校を少し知っているようだが、東京オリンピックの頃、沖縄はまだ本土復帰しておらずそれ以上詳しいことは判らないようだ。
仕方ないので私は円谷幸吉や三宅義信などの有名選手の名前を出して説明した。
月曜日の朝一番の飛行機で防府に戻ったが美恵子と淳之介、両親まで空港に送ってくれた。
「久し振りだからって羽目を外し過ぎないように気をつけてな」「ウチは賑やかな方が落ち着くのさァ」「淳ちゃんをシマンチュウにするのさァ」私の心配に美恵子だけでなく両親まで「心配ご無用」と笑って答えた。
「何にしろ淳之介をよろしくお願いします」「ウチの孫さァ」「なァ、淳ちゃん」そう言って両親は代わる代わる美恵子の腕の淳之介の頭を撫でた。
私は官舎に戻り、翌週に朝霞の自衛隊体育学校へ入校した。
- 2015/08/03(月) 09:18:45|
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昭和41(1966)年の本日8月2日に日本陸軍の最後を汚し尽した牟田口廉也が死に腐りよりました。
牟田口は明治21(1888)年、佐賀県の生まれですが、佐賀県からは海軍なら連合艦隊司令長官として殉職した古賀峯一大将、第1次上海作戦で海軍特別陸戦隊を指揮した大河内伝七中将などの提督がいますが、陸軍では2・26事件の元凶である真崎甚三郎など日本軍国主義の暗部・汚点のような人間しかいないのはどう言う訳でしょうか。
牟田口は旧制・佐賀中学校から熊本陸軍幼年学校に入校し、中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入学・卒業しますがトップ5人の恩賜組ではなかったようです。それでも熊本・歩兵第13連隊から中尉で陸軍大学校に合格したものの、ここでも成績は中央付近でした。
ところが陸軍大学校を卒業した後は参謀本部勤務が続き、少佐になって一度、近衛歩兵4連隊に出て大隊長になったものの2年弱で陸軍省に転属し、フランスへの出張後は再び参謀本部に戻っています。
自衛隊でも「六本木馬鹿」と言う連中がいました。当時は防衛庁・陸海空幕僚監部は六本木にあり、そこで長く勤務すると一種独特の勘違いに陥るのです。全国各地の部隊からの問い合わせに答えている間に自分が担当業務に精通している権威のようなつもりになり、要望に了解を与えているとそれが上級者の名で与える許可の承認に過ぎなくても自分に権力があるような気分になるようです。ましてや牟田口は陸軍省でも勤務していますから自衛隊で言えば内局を経験したことになります。つまり軍服を着た官僚以外の何物でもなかったのでしょう。
この勘違いのまま大佐に昇任し、いきなり北平(現在の北京市)の歩兵第1連隊長=お山の大将になったのですから感覚のズレは増幅の一途だったはずです。
実際、共産党工作員による日中双方への銃撃によって盧溝橋事件が勃発した時も応戦を命じたことで「日中戦争は自分が引き起こした」と思い込み、後々まで武勇伝として自慢していたのです。
そんな半分、狂人と化していた牟田口も太平洋戦争では第18師団長として山下奉文中将のマレー半島上陸と突進南下、そしてシンガポール作戦に参加することになりました。
そこでイギリス植民地軍に圧勝した第25軍の一員と言う扱いになり、現地に留まったまま中将に昇任し、ビルマ戦線を担当する第15軍司令官になったのです。
こうして牟田口はインド経由で中国の国民党軍に物資を供給する援蒋ルートを遮断すると共にスバス・チャンドラ・ボースのインド独立運動への助力としてビルマとインドの国境線を形成する2000メートル級の山脈を越えてインドを攻撃するインパール作戦を強行します(上級部隊の南方軍と隷下各師団は強硬に反対したが、援蒋ルートの遮断を口実にして大本営の意向を利用した)。
しかし、この作戦は始めから補給が度外視されていて、牛に荷物を背負わせ、山を越えたところで殺して食べる「ジンギスカン作戦」なる空理空論を実行したものの現地の牛は牧草に不自由しないため脚力が弱く、平地でも役に立たなかったのです。ましてや山岳地帯では足手まとい以外の何物でもありませんでした。
こうして戦死11400人、戦病死7800人、行方不明1100人と言う多大な犠牲を出したのですが、牟田口は戦後になってイギリス軍の中佐が「奇襲的効果はあった」と肯定的な評価をしたことを受けて、「部下(=特に独断撤退した佐藤幸徳師団長)が無能だったから失敗した」と自己弁護を始めたのです。
これは気管支喘息、胆六嚢症、心筋梗塞に脳溢血を併発して死んだ時も葬儀への出席者にこの弁明を記した紙を配らせたほどです。これでもホンの一部です。本当に最低でしょう。
- 2015/08/02(日) 08:41:43|
- 日記(暦)
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夏期休暇が終了して今年も個人研究に励んでいた頃、中隊長の小野沢1尉に呼び出された。
「モリヤ3曹、体育学校の格闘課程に入校しないか?」「エッ?」「君は航空機整備からの職種転換だから教育職としては実績がない、いい経験になると思うんだがどうだ」教育隊の班長要員は長距離走、武道、球技などの選手として華々しい成績を収めてきた人が多く、それが一種のハッタリとして学生教育での権威付けに使われている。それが私の班長としての弱点ではあった。
「でも、私は運動神経が悪いし、経験がありませんから・・・」「それでも少林寺拳法では結構活躍していたみたいじゃあないか」「はあ」確かに少林寺拳法では全自衛隊大会での優勝、沖縄県大会での準優勝など頑張ってはきた。
「まあ、子供さんが生まれたばかりだし奥さんにも相談してみろ。陸上の幹部候補生に行けば役に立つと思うよ」「はい」小野沢1尉はいつもの温和な笑顔を見せてくれたが私はまだ迷っていた。
「えーッ、入校?3カ月も」夕食後に相談すると美恵子は即座に反対した。その大声に隣の布団で眠っていた淳之介が泣きだした。
「確かに淳之介もまだ小さいしなァ・・・」私は淳之介を抱いてあやしながら呟いた。
「そうさァ、築城だって2カ月だったさァ。今度は淳之介もいるんだよ、3ケ月も大変さァ」そう言われると腕の中の淳之介は美恵子の人質のように見えてくる。
「でも、あのまま整備員だったらアドバンスで半年も浜松に入校するはずだったんだよ」この反論は美恵子には堪えたようで返事をしなかった。しばらくのシンキング・タイムの後、美恵子の逆襲が始まった。
「整備員だったら沖縄のままさァ。私は淳之介と一緒に実家に帰られたのさァ」この反論を聞いて本当は入校したい私は美恵子に提案した。
「だったら沖縄に帰るか?」「そうかァ、その手もあったァ」淳之介をまだ沖縄の両親や姉たちに会わしていない。私の入校中に淳之介が1歳になることを考えると祖父母に祝ってもらうのも1つの選択だろう。
「私の家は松真までいなくなったから部屋は空いているさァ」「寂しいだろうね」「うん、きっと喜ぶさァ」美恵子が電話をすると案の定、玉城の両親は「メンソ―レ=大歓迎」と即答した。
私たちは入校直前の土日に前後1日ずつ休暇をつけて金曜日に宮古島へ帰省し、ようやく沖縄の両親と姉、叔母たちに淳之介を合わせることができた。
- 2015/08/02(日) 08:40:28|
- 夜の連続小説8
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これまで我が国の宗祖・高僧・名僧を紹介してきましたが、今回は佛教の原点まで遡り、釋迦十代弟子について語らせていただきます。
佛教の経典では基本的に釋尊が参集する者たちに法を説く形式を取るため、多くの弟子たちの名前が列挙されていることがあります。さらに釋尊が聴講している弟子たちの代表者と問答を交わし、念を押すように名前を呼び掛けることもあります。
例えば「摩訶般若波羅蜜多心経」では「舎利子」と繰り返し、「佛説阿弥陀経」や「妙法蓮華経」では何度も「舎利弗」と呼び掛けられています。特に長くはない「阿弥陀経」の中では37回も繰り返されて、区切りに入れる合いの手にもなっているようです。一方、浄土三部経の「観無量寿経(いわゆる観経)」では「阿難」と息子によって命を絶たれた頻婆娑羅王の妻・韋提希の質問に答える形で教えを説かれています。さらに「金剛般若経」では「須菩提」です。
そして、釋尊が最期の教えを説かれた「佛垂般涅槃略説教誡経」になると固有名詞ではなく「汝等比丘」と集まってきた多くの弟子たちに何度も呼びかけられますが、臨終の時を迎え「阿▲楼陀(あぬるだ)=阿那律」が弟子たちの様子を確かめて「もう結構です」と心配を除き、涅槃へ導きます。
このような弟子たちの中でも、特に優れた方たちを十大弟子と呼び、それぞれ完成された境地に於いて突出した点を尊称としています(順番は舎利弗、目犍連、摩訶迦葉までは決まっていますが以降は不定です)。
○智慧第一・舎利弗(しゃりほつ・パーリ語ではサーリプトラ)
舎利弗尊者は幼馴染の摩訶目犍連と共にサンジャヤが率いる懐疑主義の教団に所属していましたが釋尊の教説を知り、一緒に弟子入りします。この時、2人を慕う弟子たちが250名も同調したためサンジャヤの恨みを買ったとも言われています。その辺りの経緯は手塚治虫先生の名作「ブッダ」の後半(昔の単行本なら12巻)で判り易く描かれています。
舎利弗尊者は智慧第一と評されているように、釋尊の教えを最も深く理解していたので後継者と目されていたのですが、残念ながら病で先立ってしまいました。
平家物語で有名な祇園精舎は舎利弗尊者が建てたと伝えられています。

手塚治虫「ブッダ」より・舎利弗尊者
○神通第一・摩訶目犍連(まかもっけんれん・パーリ語ではマハーモッガラーナ)
摩訶目犍連尊者は一般的には目犍連と呼ばれます。神通(じんづう)第一とは五感(目耳鼻口肌)では感じることができないことを察知する超能力のことです。超能力を認めない日本の佛教界には、これを「足が速く、忍者のような働きをしていた」と解釈する者もありますが、それが神通なのでしょうか?
ある日、目犍連尊者がこの超能力を使って死後の世界を見ていると、母親が餓鬼道に堕ちて苦しんでいることを知り、これを救おうと大勢の僧侶に供養して、その力で救い上げた説話が「盂蘭盆会」の由来です。このため現在では、盂蘭盆会を祖先供養の法要としています。
目犍連尊者は危険を察知する能力で釋尊の護衛を勤めていたとする記述もあり、残念ながら釋尊を襲撃した他の教団の者たちによって殺されてしまいました。

同上・目犍連尊者
○頭陀第一・摩訶迦葉(まかかしょう・パーリ語ではマハーカッサバ)
摩訶迦葉尊者は大迦葉と呼ばれることもある佛教教団の2代目の教主です。頭陀(ずだ)とは衣食住にとらわれず清浄な生活をすることで、僧侶が肩から下げる大きめのポシェットを「頭陀袋」と言いますが、本来は托鉢などで受けた施しを納めるための袋だった名残です(形は違いますが南方佛教にもあります)。
大迦葉尊者は若い頃、畑仕事をしていて土から這い出た虫が鳥についばまれるところを見て、生者必滅の理と殺生の罪を考えるようになり出家したとされています。
釋尊が大迦葉尊者に教団を継がせることを決めたのは、後継者と目されていた舎利弗尊者と目犍連尊者を失い、突出した弟子がいなくなった中で行った試験でした。
ある日、集まっていた多くの弟子の前で釋尊は一輪の花を掲げて見せました。すると他の弟子たちが困惑して首を傾げる中、大迦葉尊者だけが微笑みました。多くの弟子たちは釋尊が花を掲げたことの意味を頭で考えたのに対して、大迦葉尊者だけはその花を愛で一体となって笑顔を咲かせ、それで「不立文字」「教外別伝」の教えを体得していると判断されたのです。

同上・大迦葉尊者
○解空第一・須菩提(しゅぼだい・パーリ語ではスブーティ)
須菩提尊者は「空」の真理を最も会得している解空(げくう)第一と証されていますが、心が激昂することのない無諍(むそう)第一とされている場合もあります。須菩提尊者は祇園精舎を寄進した須達多(すだった)長者の甥ですから、釋尊に深く帰依していた伯父の影響を受けて出家したのかも知れません。
「空」を解すると言えば般若心経ですが、そこで問答の相手になっているのは前述のように舎利弗尊者で須菩提尊者ではありません。尤も、あの経典では「観自在(観世音)菩薩は一切の執着を立ち、心の自由を得ているからあのように大きな働きができるのだ」と説かれているのであって、問答の相手は智慧第一の舎利弗尊者でも良いのです。それを隣で聞いていた須菩提尊者は「空」を会得したと理解にしておきましょう。
また無諍第一と証されていますが、若い頃は大変短気で粗暴な性格だったようです。それが「空」を解することで怒る心が抜け落ちて、空っぽになったのでしょう。
○説法第一・富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし・パーリ語ではプンナ・マンターニープッタ)
富楼那弥陀多羅尼子尊者は一般的には短く富楼那と呼ばれています。と言うのも名前は富楼那で、その後は母の出身部族を表す姓のようなものだからです。釋尊が悟られて最初に説法された「初転法輪」の時に参じた最古参の弟子の1人です。
説法第一と証されたように比喩が巧みで判り易く、さらに60種類の言語に通じていたそうです。それでは口先だけの講釈師だったのかと言えば全く違います。
ある日、辺境の地に説法に出る富楼那尊者に釋尊が尋ねられました。
「お前が向かう土地の人々は大変に気性が荒いそうだ。若し、殴りかかって来ることがあったらどうするかね?」すると富楼那尊者は「私は思うでしょう。この地の人々は良い人だ。何故なら棒で殴りかかったりしないから」と答えました。釋尊は重ねて「それでは棒で殴りかかってきたらどうするかね?」と問われました。それにも富楼那尊者は「私は思うでしょう。この地の人々は良い人だ。何故なら刃物で斬りつけてきたりしないから」と答えました。そこで釋尊は「それでは刃物を振るって命まで奪ったらどうするね?」と最後の問いを投げかけられました。すると「私は思うでしょう。この地の人々は良い人だ。何故なら人はいつか必ず死ぬものであり、時には自ら命を絶つこともある。しかし、私は自分の手で死なずにすんだと」と答えた富楼那尊者に釋尊は「もう何も教えることはない」と言って旅立ちを見送ったそうです。
○論議第一・摩訶迦旃延(まかかせんねん・パーリ語ではマハーカッチャーナ)
摩訶迦旃延尊者は一般的には迦旃延と呼ばれています。幼い頃から聡明だったのですが、同じように頭が良かった兄の嫉妬を心配した母によりアジタ仙人に預けられました。このアジタ仙人は出家前の釋尊に「いずれ佛陀になる」と予言した人です。ある時、難解な文章が理解できず釋尊に教えを乞い、その縁で弟子になったと言われています。つまり釋尊は「不立文字」と言いながら文章も教えていたのでしょうか?
弟子になってからもやはり聡明で、釋尊の教えを一度聞いただけで忘れず、内容も理解していたと称賛している経典は数多くあります。また他の教団から送り込まれた論客に佛教代表として対戦したり、弟子たちと哲学的な立場で討論していることで論議第一と評されました。
○天眼第一・阿那律(あなりつ・パーリ語ではアヌルッダ=阿▲楼駄)
阿那律尊者は釈尊の従弟で、親戚の阿難陀と一緒に出家した言わば同期の桜です。
ある日、阿那律尊者は釋尊の説法中に居眠りしたため、「尊い話は智者にとって楽しく、聞く人の心を和ませるものである。それを居眠りするとは何のために出家したのだ」と叱責されました。そこで「釋尊の前では横にならない、眠らない」と「不眠」「不臥」の誓いを立てたのです。
その慢性的な睡眠不足により視力が衰えたため、心配した釋尊は「怠慢も過剰も共に煩悩なのだから眠りなさい」と諭しましたが、阿那律は「立てた誓いを破る訳にはいかない」と頑なに「不眠」「不臥」を守り、やがて失明してしまいました。その結果、真理を見通す天眼を得たのですが、阿那律尊者の天眼と目犍連尊者の神通ではどう違うのかと言えば、神通は五感が届かないモノを見通す望遠鏡であるとすれば、天眼は肉眼では見えない物事の真実の姿を見る顕微鏡のようなものかも知れません。いささか無理な例えではありますが。
○持律第一・優波離(うぱり・パーリ語ではウパーリ)
優波離尊者の元の職業は理容師で、釋尊の頭を剃っていた縁で出家しました(佛像の螺髪・らほつ=パンチパーマは坐り続けて悟られた時の髪が伸びた姿です)。出家時期は阿那律尊者や阿難陀尊者と同じですが、この2人は釋尊と同じ王族の出身であるのに対して、庶民である理容師出身の優波離尊者は一段低く見られたのです。ところが優波離尊者の実直な人柄に触れた2人は自分たちの思い上がりを反省し、出家の儀式である受戒の順番を譲りました。
優波離尊者はその実直な性格で戒律に精通し、しかも厳格に守ったため釋尊の入寂後に佛教の教義の散逸と変質を防ぐため5百人の比丘を集めて行われた結集(けつじゅう)では大迦葉の座主の下で経の阿難陀尊者と共に律を担当しました。なお結集は過去6回行われていて、最近では1954年にビルマで開かれました。
○密行第一・羅喉羅(らごら・パーリ語ではラーフラ)
羅喉羅尊者は釋尊が出家する前に儲けた実子です。釋尊が出家を考えている時に生まれたため、それを引き留める「障害」「束縛」と言う意味の名前をつけられました。現在も浄土真宗を除く寺の子供を「羅子(らご)」と呼びますが、由来はこの方です。
釋尊が悟りに至られて帰郷した時、12歳になっていた羅喉羅尊者を出家させますが、これが佛教に於ける最初の少年僧=子坊主になりました。密行とは緻密、厳密、綿密な行いのことで、羅喉羅尊者は常に周囲から「釈尊の子」と見られるため、常に細心の神経を使いながら修行していたため、このような境地に至りました。ただ、この父としての釋尊を敬慕・追従する姿勢は執着となり、長く悟りには至れませんでした。十大弟子ではただ1人、十六羅漢にも加えられています(羅喉羅の「喉」は「日」偏ですが変換不能でした)。

同上・羅喉羅尊者
○多聞第一・阿難陀(あなんだ・パーリ語ではアーナンダ)
阿難陀尊者は手塚治虫先生の「ブッダ」では元盗賊の殺人者として描かれていますが、実際は釈尊と同族の出身で、25五年の長きにわたり侍者として身近に仕えたため、最も多くの言葉を聞いた多聞第一と証されました。大変な美男子だったため托鉢に出ると女性は阿難陀にばかり喜捨するので、他の弟子の嫉妬を買ったとも言われています。
ある日、阿難陀尊者は焔口餓鬼から「お前の命はあと3日だ」と告げられ、「死んでからは俺のような姿になる」と言われました。焔口餓鬼は口の中で火焔が燃え、喉は針のように細くのびた物凄い形相をしており、阿難尊者は怖れ慄き、釋尊から陀羅尼(だらに・一種の呪文)を習い、それを唱えながら無数の餓鬼に食物を施して、死をまぬがれたと言う物語が「施餓鬼」の由来です。阿難陀尊者も釋尊への個人的私淑の念が強過ぎたため長く悟りに至れませんでしたが、餓鬼に脅されて怖れ慄くようではマダマダでしょう。
ちなみに古い禅宗寺院では釋迦如来・文殊師利・普賢両菩薩ではなく、右に阿難陀尊者、左に大迦葉尊者を配した三尊像の場合もあります。これは厳格な大迦葉尊者と優和な阿難陀尊者で佛教の修行・戒律の厳しさと慈悲・救済の優しさの両面を表しているとも言われています。
また大迦葉尊者と阿難陀尊者舎利弗の三尊像を本尊とする寺院が堂内に十大弟子像を祀っている場合、人数を合わせるため十六羅漢から人気・知名度がある周利槃陀伽(しゅりぱんだか)尊者と賓頭盧頗羅堕(ひんずるはらだ)尊者を加えていることもあります(あくまでも作る佛師、売る佛具店と買う住職の裁量の問題ですが)。

同上・阿難陀尊者
△周利槃陀伽尊者(しゅりはんだか・パーリ語ではチューダパンダカ)
兄・槃陀伽と共に出家したのですが、あまりに愚鈍なため恥じた兄は家へ追い返そうとました。しかし、釋尊は1枚の布を与えるとやってくる者の履物を「塵垢を払え」と唱えながら拭くように命じたのです。やがて「本当に拭き清めなければならないのは己の心ではないか」と気づき悟りに至りました。兄と共に十六羅漢の1人です。
なお、赤塚不二夫さんの「天才バカボン」に登場する「レレレの小父さん」のモデルではないかと言う俗説がありますが真偽は不明です。

赤塚不二夫「天才バカボン」のレレレの小父さん=周利槃陀伽尊者?
△賓頭盧頗羅堕尊者(びんずるはらだ・パーリ語ではピンドーラバラドゥーヴァージ)
医者から出家しましたが、極めて頭脳明晰だったため他の弟子たちを見下す言動をとるようになりました。それをたしなめた釋尊から医術の心得を役立てて病に苦しむ人を救うように命ぜられ、今では日本の寺院でも祀られ、治癒したい箇所を撫でるように教えられる赤い坐像「ひんずる様」です。十六羅漢の1人です。
それにしても2千5百年前の人物たちの個性が生き生きと伝わっていることは、本来は釈尊の肉声である佛教が体温まで伝えているようです。
南無本師釋迦牟尼佛
各経典に列挙されている佛弟子たち(○印は釋迦十大弟子・△は十六羅漢)
浄土三部経「佛説阿弥陀経」
①舎利弗、②摩訶目犍連、③摩訶迦葉、④摩訶迦旃延、摩訶倶稀羅、離婆多、△周利槃陀伽、⑤阿難陀、⑦羅喉羅、憍梵波提、△賓頭廬頗羅堕、迦留陀夷、摩訶劫賓那、薄拘羅、⑧阿▲楼駄。
同じく「無量寿経(いわゆる大経)」
本際、正願、正語、大号、仁賢、離垢、名聞、善実、具足、牛王、優楼、頻■迦葉、伽耶迦葉、那提迦葉、①摩訶迦葉、②舎利弗、③大目犍連、劫賓那、大住、大浄志、摩訶周那、満願子、離障、流灌、堅伏、面王、異乗、仁性、嘉楽、善来、羅云、④阿難
「妙法蓮華経」
阿若憍陳如、①摩訶迦葉、優楼頻螺迦葉、伽耶迦葉、那提迦葉、②舎利弗、③大目犍連、④摩訶迦旃延、⑤阿▲楼羅、劫賓那、憍梵波提、離婆多、畢陵伽婆蹉、薄拘羅、摩訶拘稀羅、難陀、孫陀羅難陀、⑥富楼那弥多羅尼子、⑦須菩提、⑧阿難、⑨羅喉羅

平山郁夫「祇園精舎」
- 2015/08/01(土) 09:46:51|
- 月刊「宗教」講座
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「ニンジンさん、ここの公園には動物園があるんだって」車が小郡を抜けて宇部市に入ると美恵子は常盤公園の看板を見つけて歓声を上げた。
「ジョーバン公園かァ」「トキワ公園だろう」沖縄育ちの美恵子にとって本土の地名の知識は教科書と地図だけなので仕方ないことではあった。
「私、動物園なんてこどもの国しか行ったことないさァ」沖縄こどもの国は沖縄市にある動物園で私は梢と一緒に行ったことはあるが美恵子とはない。だからノーコメントだ。
「動物園ってライオンとかトラとか象とかカバがいるんだよね」「うん、普通はそうだな」私は子供の頃から日本で1番大きい名古屋の東山動物園を見ていたため地方の動物園では感動しないのだ(上野動物園でも非常に狭く感じる)。しかし、沖縄こどもの国では生きたイリオモテヤマネコやヤンバルクイナが見られて感動し、普通は暖房が効いた屋内で飼われているワニの池が外なのに感心したのを覚えている。
「帰りに寄ろうよ」「うーん、広いと回り切れないぞ。それに秋吉台にはサファリパークもあるらしいよ」「えッ、サファリパーク?そっちが良い」珍し物好きの美恵子は飛びついた。確かにサフェリパークなら車で回ることができる上、ついでに秋芳洞に寄っても快適だろう(常盤公園がペリカンのカッタくんで有名になったのは後年のことだ)。
結局、亀山八幡宮は理容師の神社ではなく、鎌倉時代に京都から来た武士の親子が朝鮮半島からの渡来人に髪結いの技を習い門前で店を開いた場所だった。おまけにその店に床の間があったことが「床屋」と言う呼称の由来だそうで、その名前を嫌っている美恵子には複雑なようだった。
赤間神宮では意外な事実を知り私は怒ってしまった。先ず地名が「阿弥陀寺町」であることに気づいたことが発端だ。駐車場に車を止めて参道を歩いていくと不自然な場所に鳥居があり、その向こうにどう見ても寺院の唐風山門にしか見えない水天門がある。
社殿も後で作ったらしい拝殿の奥には寺の堂宇のままの本殿がある。そこで巫女さんに訊くと「明治時代になって真言宗の寺が神社になった」と悪ぶれることもなく説明した。つまり壇ノ浦以来、幼くして崩御した安徳天皇や平家一門の慰霊を勤めてきた佛教寺院を神道が収奪し、勝手に天皇社にしているのだ。
資料館で学芸員に「阿弥陀寺の本尊さまは?」と訊いても「知りません」の一点張りだった。初代宮司は商人出身だったそうなので、おそらく売り払ったのだろう。
平家一門の墓「七盛塚」に参りながら「これでは浮かばれませんね」と同情の念佛を唱えると「だから奴等が作った国は80年で滅ぼした」と言う声が聞こえてきた。
下関市立水族館は昭和31年開館だけに全てが古びていたが、大手水産会社のマルハが寄付した鯨館や皇帝ペンギンは中々のものだった。それでも沖縄海洋博記念公園の水族館を見ている美恵子には物足りないのは当然だろう(下関市立水族館は平成11年の大型台風で壊滅的な被害を受け閉館され、現在は別の場所で海響館になっている)。
- 2015/08/01(土) 09:38:10|
- 夜の連続小説8
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