2011年08月
2011年08月31日
珍道中
その方は、何かにとり憑かれたように一方的に喋りだしました。「海老名香葉子さんは本当は2005年ではなく、空襲から50回忌に当たる1995年に建てたかったんだけれど、この上野公園は恩賜公園になっているので、宮内庁が関係しているから、許可が下りなかったんです。一つ許可すると次々と建てられますからね」・・・・・マァよくもこう喋れるものだと感心するぐらい、次から次へと話の切れ目がありません。
ひとしきり喋った後、「今日ここで奥さん達にあって話せて助かった」と言いますので、「何でですか」とお聞きしましたら、某有名タレントに頼まれてここで案内をする事になっていたのに、ドタキャンされて頭に血が上っていたんだそうです。「こうして話せて少し落ち着いた」・・・・・と言われましたが、気がついたら私たちは1時間もそのおしゃべりにお付き合いさせられていました!立ちどうしでしかもやぶ蚊に悩まされながら! 「時間があったら動物園でも覗いてみようか」と言ってましたが、その時間は完全にパア〜ッ。
二人で「お人よしだよね」と苦笑しながら帰り道、すぐそばにあった「子規球場」の碑を撮ってもらったり。正岡子規は、野球が好きだったようで、「春風や まりを投げたき 草の原」という句が刻まれていました。で、この球場は「子規球場」と名づけられたということです。それから国立科学館の前のD51 を撮ってもらったりしながら上野駅に。駅のところまで来ましたら、オ〜ゥ スカイツリーが見えました。「これも撮っておいて」
池袋で孫と待ち合わせ、3人でサンシャインへ。水族館に入りたかったので食事もサンシャインで済ませようと向いました。水族館の入り口には長蛇の列。「只今45分待ち」の看板を持った人が!「じゃぁ、食事を済ませてそれからにしよう」と飲食店街に。時間が2時近くでお腹がすいていたので「上天丼」を頼みましたが、さすがの私でも食べきれず「苦しいよ〜ゥ」
で、「まだ行列してるかな?」と行きましたら・・・・・なんと今度は「1時間待ち」!!ヒャ〜〜ァ 帰りの電車の切符も買ってあるし、喫茶店に入るにしてもお腹はポンポンだし「ここで時間をつぶそう」と、サンシャインの正面入り口のベンチに腰掛けました。「こうして行き来する人を見ているのが好き」「私も」セミの声を聞きながら、風が涼しくて気持ち良いしおしゃべりに夢中になっていました。「それにしてもどうしてこうも人が多いのかしらね」「人が湧いてくるようだね」「若いときはこの人ごみが好きだったけれど、今は人に酔ってしまう」
考えてみたら年に何回しか会えないし、会っても何かの行事の時だから、こんなに時間をかけてゆっくりとお喋り出来ることってなかったから良い時間でした。結局「哀しみの東京大空襲」の碑と「時忘れじの塔」に行っただけでしたが、それが目的だったので充分満足でした。お間抜けでカメラが使えませんでしたが、携帯で撮ってもらったお陰で、書き込むことができました。ハルミさん有難う!
2011年08月30日
やっと行けました。
さてカメラを出して・・・・・エ〜〜ッ!カメラが・・・・・キャッ〜〜ッ、またやっちゃった!またまた私のオッチョコチョイが!明日は撮るぞ〜ッと、バッテリーを充電をしたままカメラに入れるのを忘れて来ていました!! ア〜〜ァど〜しよう・・・・・
ハルミさんが「携帯でとってパソコンに送るから」と言ってくれ、やっと気を取り直しお線香をあげお参りして、碑文をうつしました。正確に書けたかどうかわかりませんが、碑文にはこう書いてありました。
悲しみの心をいつまでも
今年は昭和二十年・千九百四十五年の第二次世界大戦の終結から丁度60年、あの本所、深川を中心とした三月十日「東京大空襲」も次第に人々の記憶から薄れていこうとしています。 この年は元旦早々B29が飛来して浅草付近を空襲したのに始まり一月だけで百機を越える来襲があり、五百発もの爆弾と二千五百発もの焼夷弾が投下され何の罪もない千五百人の一般市民が死傷されました。その後も東京は数十回にも及ぶ空襲を受け、中でも三月九日の夜半から十日にかけての空襲は言葉に絶する程凄しいものでした。房総半島を経て飛来したB29は、十日の午前零時八分から、一斉に下町を襲いました。この日来襲したB29は三百機といわれ、実に千七百トンもの高性能焼夷弾を投下したのです。
人々は隅田川や上野公園を目指して必死に逃げましたが、このたった三時間の間に実に十万人以上もの方が犠牲になられたのです。それは今想い出しても本当に地獄図といえる程悲惨な光景でした。そして翌日からこの上野の山には焦土と化した下町から夥しい数のご遺体が運ばれてきました。この慰霊碑の付近の道端にも、米俵やむしろを掛けられたご遺体が並べられたのです。やがて大八車やリヤカーを引いてご遺体を引き取りにみえる方もありましたが、多くのご遺体は身元不明のままでした。そうしたご遺体はこの近くに巨大な穴を掘ってそこに仮埋葬をされ、、二年後に改めて掘り起こされ、荼毘に付されたうえ本所横網町の震災祈念堂にお祀りされました。
無論こうした東京への空襲はその後も続きました。なかでもこの上野の山とその周辺が罹災した五月二十四日、二十五日の空襲は凄しいものでした
今、終戦から六十年の歳月が経ち、こうした生々しい記憶が次第に薄れいきつつあるとき、下町の焦土化を見守りそこでの無事の犠牲者を温かく迎えたこの上野の山に、私たちは心からの慰霊碑を建て、東京全域に亘る悲惨な犠牲者の霊を弔い、これからの日本を支えていく若い人々にこの日本と「哀しみの心」を伝えていきたいと希っているのです。
平成十七年(二千五年)三月十日
海老名香葉子
建立有志一同
慰霊碑ー哀しみの東京大空襲ーを後にして、そのまま公園の中に入り、「時忘れじの塔」へと向いました。国立博物館・国立科学館・国立西洋美術館の前を通り越し、駅から程近いところにある「時忘れじの塔」へ。母親が下の子を抱き、上の女の子が母親のスカートを握り、女の子に手を掛けている母親、この像は海老名香葉子さんの母親と弟、それに香葉子さん自身の姿のように思えます。
この像の裏にはこう書かれていました。
「時忘れじの塔」
関東大震災(大正十二年) 東京大空襲(昭和二十年) 東京にも現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へ時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました。
建立 寄贈
初代 林家三平妻
海老名香葉子
建立有志一同
やっと行く事が出来た上野の山。機会があったら又、訪れたいと思います。ハルミさんのお陰で写真を載せられました。ハルミさんありがとう!
2011年08月29日
六地蔵尊
今年は野次馬根性を出して、カメラを持って出かけていきました。六地蔵尊と言っても、ここのお地蔵様はお地蔵さんではなく庚申塔が建っています。まずお参りをさせていただいて、写真を撮りました。
このお祭りは地区の氏神さまの総代さんの主催で自治会が協賛していますので、地区の役員さんたちはじめ、地区内の人たちが大勢参加されていました。
ふと、竹に熨斗でしめ紙を巻いたものが目につき「これは?」とお尋ねしましたら、「地区の境目の辻辻にこれを立てて地区に疫病が入ってこないように、毎年この日にたて替える」のだそうです。40年も住んでいて、今まで一度も気づきませんでした!
子どもたちも「こんなに居たの?」と言うぐらい小学校低学年以下の沢山の人数が集まり、盛んに花火を楽しんでいました。花火を高く持ち上げたり、けむいと目を擦ったり、子どもの歓声って本当に良いものですね。傍らでは大人たちのための宴会?の準備も行われていました。
地区を回った回覧板には、総代長の末〇さんの呼びかけの文がありましたので、転載させて頂きます。
六地蔵尊まつり
唐申唐を60年に1回の碑を作り、元文4年・享和・万延・大正9年・昭和55年で、300年の歴史を持つ祭りです。 今から300年前の頃から、村の外れにお地道祖を建てるようになり、災厄を被らないように神仏に祈願し、それによって自らを成め心を浄化しました。その対象として神社・仏閣のほかに観音堂や唐申塔、道祖神、馬頭観世音などの石像塔が主要道路の辻などに建てられ、行き帰りに手を合わせてきました。こうした御堂や石堂塔が道路脇にあればその道は村の古道であります。しかし、現在は「仏っとけ、神かまうな」の時代となって、これらの神仏は生活とは無縁の場所に移転されたり取り毀され、それと一緒に人間の心の歴史も失われつつありますが、歴史あるこの祭りをもっともっと広め、大切にしていきましょう。
「仏っとけ、神かまうな」の言葉が、重く響きました。でも、確かお地蔵様って子どもの守り尊だったと思い、インターネットで調べましたら、地蔵菩薩は「病苦の身代わり」「子宝・子育て守護」「厄除け」「災難予知・危険防御」「延命・開運・勝利」など沢山のことを叶えてくださるようです。その中で子どもの守護・救済のところでは「親より先にこの世を去った幼い子どもの魂を救って旅を続ける。幼い子どもが親より先に世を去ると、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいない事から、三途の川を渡れず賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆を永遠に作り続けなければならないとされ、賽の河原に率先して足を運んでは鬼から子ども達を守ってやり、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いていく逸話は有名である。とありました。
こうしてお祭りを伝えていく事は大切な事ですね。
2011年08月28日
美味しかったよ〜〜ッ
歩いて汗をかいて行ったせいか、最初の生ビールの美味しいことったら!「生き返ったネッ」なごみさんはビールは敬遠なので、紹興酒を温めていただいていました。「うんまいなぁ」
料理はそれぞれ好きなものを頼んで、3人で分け合って食べました。
左から野菜餃子・信玄豚もつ煮・大根もち
牛のたたき・春巻き・バンバンジーサラダ
これは上海おやじのポテトサラダ 飲んで食べておしゃべりをして、ストレス解消です! 〆にラーメンをと思っていましたが、お腹一杯になりとても入らなくなりました。美味しかったね。又行こうねと言いながら帰って来ました。
2011年08月27日
8月14日講演
山梨平和ミュージアムで8月14日に行われた講演会には、お盆中で参加できませんでした。が、山梨日日新聞の記者さんが書いてくださった記事を入手しましたので、転載させて頂きます。ちなみにこの記事は新聞には掲載されませんでした。
甲府で戦争と平和を考える講演会
「シベリヤで大勢死んだ」 内藤さん
戦争と平和について考える講演会「戦時下の証言ーあの戦争とは何だったのか」(山梨平和ミュージアム主催)が14日、甲府市朝気1丁目の同ミュージアムで開かれた。シベリヤ抑留を経験した内藤正義さん(88)=韮崎市=と、航空兵で終戦直後に自刃を決意した永関慶博さん(88)=北杜市=の2人が、それぞれの悲惨な戦争体験を語り、平和の尊さを訴えた。
内藤さんは1944年1月、旧満州(現在の中国東北部)と旧ソ連の国境守備に当たる満州第506部隊に入隊。終戦後すぐにシベリヤに抑留され、酷寒の地で森林伐採や道路建設を担わされた。労働は過酷を極め「冬の夜、故郷の思い出話に花を咲かせた仲間が、朝起きると凍死していたということもあった」
48年6月、機関命令を受けてナホトカから舞鶴港に帰還。両親と再会を果たしたが、「こらえきれずに『命を落とした仲間がたくさんいる』と叫び、泣き崩れた」と振り返った。
永関さん「玉音放送聞き自刃決意」
永関さんは44年6月、戦闘機「隼」の操縦士として台湾の台中飛行場に配属。死と隣り合わせの激烈な射撃訓練を重ねた。戦局が悪化した45年5月からは松戸、印旛沼(千葉)の飛行場に転属。本土決戦を覚悟する中、8月15日の終戦を迎えた。
玉音放送を聞いた後、、戦死した仲間を思って「割腹自刃を決意した」(永関さん)。しかし、幼少時に重度の髄膜炎を患いながら、両親の必死の看病で一命を取りとめたことを思い出し、「自分の命は父母の命」と、ふみとどまった。「命果てるまで、世界平和を訴えていこうと思う」と力を込めると、約30人の聴衆が大きな拍手を送っていた。
同ミュージアムの春日正伸館長は「戦後66年がたち、戦争体験者が少なくなる中、貴重な話が聞けた。加害者としての面も含め、戦争について改めて考え直す機会になれば」と話している。
さすが記者さんだけあり、その場にいたような記事にしています。この記事で、当日の様子が私にもよく伝わってきました。有難うございました。
2011年08月26日
命・幸せ
29日月曜日まで、西公民館のロビーで「命のメッセージ」と言う展示をしています。戦争による負傷・飢え・飢餓に苦しんでいる子どもたちの写真が展示されていて、難民キャンプなどで活動している「国境なき医師団」の杉藤さんの講演を聞いた、北西中学校の生徒達が書いた感想文も読めるようになっています。
この展示は市内の公民館を巡回して展示しているようです。栄養失調で骨と皮のような体・異様にお腹が膨れている子・爆撃で片足を失った子、そこには今の日本では考えられない姿の子どもたちの写真がありました。
講演ではDVDを見ながらのようで、もっとリアルだったらしく、「思わず目をそむけたくなりました」「でも一生懸命に我慢して見ました」などと書かれていました。
子ども達は一様に、普段の何気ない生活・「蛇口をひねれば水が出る」「食べたいものをお腹いっぱい食べられる」「病気になればお医者さんにいける」そんな生活が実はとても幸せな事だと気づいたと書いていました。そして「自分たちは多くの人に支えられて生きているのだ」とも気づいたようです。
「国境なき医師団」の人たちは、命の危険も顧みずボランティアで活動していると言う事にも、感動したようで「私も誰かの役に立つような人間になりたい」「今、何が出来るか考える」と書いてありました。心が柔軟な思春期の中学生が、世界には戦争で痛めつけられている子どもたちが居る事、平和がどれほど素晴らしいものかと言うことを学んだ事は、大きな収穫であったことだろうと思います。
人権とは命が守られ、幸せになれる権利だとも教えていただいたようでした。そばに居た小学校低学年の子どもが「気持ち悪い」「可哀想」と言ってましたので、「戦争が起こるとこんな風に食べるものもなくなるんだよ。だから戦争をしてはいけないよね」 解ってもらえたかどうか解りませんが、この子たちの生涯が、どうか戦争とは無縁であって欲しいと願いました。
2011年08月25日
到来もの
食いしん坊の私には嬉しい食べ物の到来ものが。愛知県からやってきた梨、息子が大好きなので、私が見た時には箱の中は半分になっていました
静岡からのメロン、孫が大好きなので帰って来たら食べさせようと、冷蔵庫の中に。その頃がちょうど食べごろだとありましたから、さぞ喜ぶ事でしょう。
北海道からは、私の好きなお菓子やゼリー海産物。一番上の孫が好きなので帰省するまでとっておきましょう。
自宅で作ったものですと、今度は大粒系のブドウ。巨峰・キングデラ・サニールージュと書いてありました。ブドウは種類が多いので、何と言うブドウか判らないままいただく事が多いのですが、こうして書いてあるとよく判ります。キングデラは普通のデラの3倍ぐらいの大きな粒です。
ブドウは11月末ぐらいまで観光ぶどう園で摘み取る事が出来ます。頼まれたわけではありませんが宣伝です。暑さが過ぎると山梨の自然は素晴らしいんですよ。是非お出かけください。
2011年08月24日
狩りに目覚めた
草や花ばかり銜えて帰って来る草食系のサスケが、少しはネコらしくなるようにと、先日与えたネズミのオモチャの特訓が効いたのか、このところ生き物を取ってくるようになりました。それも毎日のように捕まえてくるのが「蛾」 サスケが大好きな息子の枕元に明け方運んできて見せるので、息子が音をあげて「やめてくれ〜ッ」
その後もショウリョウバッタ・トカゲ・そしてセミを捕ってきました。でも、そのどれもかなり弱って動きが鈍くなっているものに違いないと、お嫁さんと話しています。お腹がダブダブでジャンプは苦手だし、敏捷性に欠けていますから、元気な虫は捕まえられる筈はありません。
トカゲはモモが捕ったものを・セミは地上での生活が終わって土にかえる寸前の状態でした。でもマァ草や花を持ってくるよりは、少しはネコらしさに目覚めたサスケのほうが良しとしましょう。
2011年08月23日
県・母親大会
まだ大分先の話ですが、今から予定に入れていただくようにお知らせです。「第54回山梨県母親大会」が、9月25日(日)市内朝気にある「ぴゅあ総合」で開催されます。(TEL235-4171)
母親大会は「生命を生み出す母親は 生命を育て 生命を守ることをのぞみます」のスローガンをかかげて、子どもたちのための運動をすすめてきました。7月30〜31日と広島で行われた全国大会には、1万5千人もの日本中のおかぁさんが集まり、教育・生活・平和・医療・食の安全などについて話し合い、吉永小百合さんの平和の詩の朗読もありました。
その全国大会を受けての県大会です。午後の全体会では日本で初めてストライキをした「雨宮製糸」を紙芝居で見せてくれますし、全国大会の報告もあります。
記念講演では、評論家で立正大学名誉教授の富山和子さんの「水と緑の国日本 ー子ども達に伝えたいことー」と題してのお話が伺えます。環境問題に取り組んでこられた富山さんから、原発もんだいを含めた貴重なお話が伺えることと思います。
受付は朝9時30分・開会は10時〜16時です。保育をご希望の方は8月31日までにFAX055-226-5364へ申し込んでください。なお、昼食のお弁当も販売します。参加協力費は700円・当日は800円です。連絡先は055-226-5334です。
2011年08月22日
胃も心も
河口湖船津にある「チョイスキッチン」という、私には嬉しい野菜料理バイキングのお店。しかもお食事代だけでゴスペルが聞けるのです。最もこのお店では殆ど毎週のように土曜日の夜は生の音楽が聞けるようです。
開演前に行き、あれこれと野菜料理をとりわけて、先ずは腹ごしらえ。どれも野菜の味が生きていておいしいお料理です。勿論飲み物もお願いしました。女性に人気だというコラーゲンがベースでアルコール入りのもの。アルコールゼロもあるんですよ。
胃が満足したところでいよいよゴスペルのメンバーが入ってきました。このBefree Gospel Choir(ビーフリー ゴスペル クワイヤ)は30人余りのメンバーですが、とてもそんな人数が入りませんので、6名が選抜されて!・・・・・指導者のマミ先生によると「お店に見合って6名をチョイスしてきました」なんか特に男性はイケメンをチョイスしたような・・・・・・(色の変わったところをクリックしてご覧ください)
残念な事に英語がわかりませんので、歌詞は理解できませんが、喜び・悲しみを歌った歌だということは理解できました。聞いていて胸に迫ってグッと来るものを感じた曲は、「人の命の重さ、苦難の中で懸命に生きようと言う歌だった」と解説され、「私でも感じることができたのだ」と思いました。
ゴスペル・ソングとは、アメリカのキリスト教音楽で、黒人霊歌にブルース・ジャズなどの要素が加わって生まれた音楽だそうです。辛さ・悲しみ・絶望・と共に喜び・希望・期待なども歌われているようで、静かな曲からリズミカルな曲、力強い曲等バライティにとんでいました。
特にソプラノを担当した高校生で17歳のお嬢さんは、天性の声がゴスペルのための声、と言うぐらい土臭い黒人の声そのものでした。「持って生まれた素質」なのでしょうね。ビーフリー社長のお父様が音響担当と陰の応援でマイク係をしたりして、皆さんを支えていました。
途中休憩を挟んで16曲も聞かせて頂き、最後のアンコールでは皆立ち上がって手拍子が飛び出し、会場全体が大盛り上がりでした。追っかけも居るらしく、遠くから来た人も居たようでした。また機会がありましたら、是非駆けつけたいと思います。
2011年08月21日
夏期限定
この時期、夏季限定で「冷やしうどん」が食べられます。ヒロミさん曰く『お客さんから、までしていないのか、と催促されたけれど、中々茗荷が取れなくてネ。ここんとこへきてやっと取れるようになったからはじめられたサ』ここの冷やしうどんには、茗荷は欠かせないのです。
これが夏季限定の冷やしうどんです。冷たいので喉越しも良いんですよ。ネギと茗荷・それに味噌漬けのショウガが味を引き立てます。ちょこんとおいてある唐辛子はから〜〜〜い!のでご注意を。いつもはコーヒーを立ててくれるのですが、この時期はアイスコーヒーをサービスしてくれました。
四股名が水戸泉だった親方が、部屋の人たちと来たと記念写真が撮ってありましたので、その写真を写してきました。みさきうどんの夫婦もさすが小さく見えますね。
「ねぇさん、これをもって行って食べて」と、箱根へ行ったお客さんからお土産に頂いたと言うお饅頭を持たせてくれました。ヒロミさんのこの気さくさとサービス精神がここにお客さんを呼ぶのですよね。
2011年08月20日
福源寺
富士吉田にある福源寺には徐福伝説につながる鶴塚があります。ここにコメントを寄せてくださる黄梅さまも、訪れた事があるとブログに書かれていますので、この色の変わったところをクリックしてごらんください。
私の家はこのお寺の檀家ですから、お盆の間は毎年吉田に居る事にしています。甲府の暑さから逃れる良い口実でもありますが。檀家が多いので、いつ行ってもお線香もお花も無人販売で買うことができますが、お盆とかお彼岸には、お花屋さんがワゴン車にお花を一杯積んできて、その場で販売しています。
墓地の入り口にお墓がありますので、以前はこの時期に捨てられた花や草が山にように積まれた事もありましたが、「ゴミ持ち帰り」が徹底してきて、この頃はゴミは見かけなくなりました。不心得者が一人居て、ゴミをおいて帰りますと、たちまちその場所にゴミの山が出来るものですね。きれいになっていればゴミをおいていく人も居なくなります。
聖徳太子を祀った太子堂もお盆の時期には扉が開き、お参りできるようになっています。太子堂については色の変わったところをクリックしてごらんください。ここもお参りされる方がひきもきらずでした。
年間通して甲府より5度は低いので夏は天国です。日中は暑くなりますが、湿気が少ないので風が爽やかで日陰に入ると汗が引きます。夏は出かけたくなる場所です。が冬は・・・・・ねぇ・・・・・
2011年08月19日
孫
女の子同士なので、とても仲が良くていつも一緒です。最も横浜ではもう、それぞれのお友達との交流のほうが多くなったようですが。
おバァちゃんにサービスをしてやろうと思ったのか、二人で歌を歌いながら踊ってくれました。テレビのドラマのテーマ曲だそうです。身びいきかもしれませんが、とても上手なんですよ。
吉田は涼しいけれど、今夜は甲府で兄弟の家族で行く集まりがあるからと、息子の車で甲府に向って出発していきました。まだまだ可愛いこの二人、今度は下の孫の七五三で11月に会うことが出来ます。それまで暫くサヨナラね。11月には横浜へ行くからね。
2011年08月18日
五重塔に
今年もまた、吉田の五重塔(地元の人たちは「忠霊塔」と呼んでいます)の扉が開けられる日に、みさきうどんのヒロミさを誘って行ってきました。今年は15日の夕方上って行きました。五重塔のすぐそばまで、急な坂道ですが自動車で登ることが出来るようになっています。(色の変わったところをクリックしますと、昨年のページが開きます)
今年もまた、扉が開いていて、女性がお二人でお守りしておられました。「中で写真を撮らせていただけますか」とお断りして、中に入れて頂き位牌の写真を取らせて頂きました。あの3・11の地震の時には1055柱の位牌のうち、所々の位牌が下に落ちていたとか、やはりここでもかなり揺れたのですね。
お二人にお話を伺おうと思っていましたら、市役所の職員さんがやってきて、「4時で扉を閉めます」5時ごろまではあいていると思っていましたが、4時で閉めるのだそうです。本当にタッチの差でした。後10分遅かったら、鍵がかけられていましたもの。
この扉が開けられていることは、吉田に住んでいる人も殆ど知らずに居ます。ヒロミさんも始めて知ったと言ってました。折角遺族会の方々が、せめてこの富士山と吉田の町を見たかっただろう戦没者のために、こうして3日間扉を開けているのですから、広く皆さんにお知らせしたり、何かイベントを考えて御霊をお慰めしたらどうかしらと思います。
それにここには、兵士や看護婦さんしか祀られていませんが、あの戦争では吉田も爆撃され、武蔵航空で亡くなった方も居ます。その方たちの位牌も祀られると良いと思うのですが。
この日はあいにく美しい富士山は見られませんでしたが、ここから見る富士山は本当に素晴らしく、何回見てもこの富士山は日本一だと思います。富士吉田市はこんなに素晴らしい場所がありながら、観光地にもしないで居ますが、勿体ないことだと思います。取り付け道路の整備は大変でしょうが何とかこの景観を世に出して欲しいと思います。
昨年・一昨年のブログもありますので、色の変わったところをクリックしてご覧ください。タッチの差でしたが、今年もお参りできて本当に良かったと思っています。
2011年08月17日
富士山駅
富士急行の駅へヒロミさんに送ってもらいました。なんか駅の様子が一寸変わった!と思いましたら、駅名が「富士山駅」になっていました。駅ビルの入り口に赤い鳥居が建っていて、「アンラララ」
「7月から富士山駅になっただよ」とヒロミさん。なるほど「富士山駅」と大きく書かれた看板が鳥居の左右に置かれていました。
バスの切符を買ってベンチに腰掛けていましたら、向かいの建物の軒下にツバメの巣が。親が盛んにえさを運んでいます。雛ももうすぐ巣立ちそうに大きくなっていますが、親が来るたびに大きな口をあけてえさをもらっています。もう仲間達は南に向って帰りだしている筈。早く大きくならないと置いていかれますよ。
この巣で先に巣立ったと思われる巣立ったばかりのような子ツバメが、両親のお手伝いをしたいらしく、えさを銜えて巣のそばへ行くのですが、うまく巣の中の雛に渡す事ができません。雛にエサを渡すのも簡単なことではないのですね。
バスの発車が20分も遅れたお陰で、ツバメの子育て風景が覗けました。
2011年08月12日
みさきうどん
このところ暫くご無沙汰していた「みさきうどん」へ、やっと行く事が出来ました。混雑する時間を避けて、1時半過ぎに行きました。目論見どおり、一段落したところらしく、2組のお客さんが居ただけでした。ヒロミさん「今日は若い人が大勢来て忙しかった」といっていましたので、ナイスタイミングだったわけです。
「いつもの肉うどんを半分にしてね」半分にしてもらっても、漬物2種類でお茶を頂くとかなりお腹に溜まります。私にはいつも特性のキンピラもサービスしてくれるし、コーヒーやお菓子も出してくれるので、半分で充分なのです。
みさきうどんの名前の由来になっている孫の「みさきちゃん」が、この日はお手伝いに来ていました。夏休みなのでアルバイト。可愛い孫に手伝ってもらうと、高いアルバイトさんになるんでしょうね。一寸見ない間にもう高校生になって、おジィちゃんより大きいのではと思うほど伸びていました。
知り合いで馴染みのお客さんが、釣をしてきたとヤマメとイワナを持って来てくれました。近くの桂川で沢山釣れたので届けてくれたそうです。25センチぐらいありそう、内臓を出して塩を振り「今夜の酒の肴」 お酒が一段とおいしい事でしょう。
「イワナやヤマメが釣れるなんて!確か以前は居なかった筈」 今では養殖したものを放流して有料で釣れるんだそうです。道理で・・・・・納得です。
食べ終わる頃、次々とお客さんが。ヒロミさんの応対が良いので、みさきうどんは繁盛しています。
お盆中は留守になりますので、ブログは暫くお休みします。立秋を迎えたとはいえ暑い毎日が続きます。体調に留意されお元気にお過ごしください。
2011年08月11日
少年の目
そのお部屋のそばの畑から、「懐かしいでしょう」と、‟マクワウリ„と、蓮の実を採って来てくださいました。マクワウリは子どものころ、当時の満州でよく食べました。あちらのものはスイカのように縞があり、緑色のところが黄ばんできているものは、甘い香りを放っていて、割ると夕張メロンのような橙色をしていました。こちらでは殆ど見ませんでしたから、本当に懐かしく食べやすいように切り分けていただくと、歓声を挙げて口の中に・・・・・舌が確り覚えていたあの味でした。蓮の実は取立てのものは始めて食べましたが、取りたてでなければ美味しくないのだそうです。青い実を取り出し皮をむいて食べてみました。うす甘くて想像以上に美味しいものでした。中にある緑色の芽のようなものは食べないほうが良いのだそうです。
お部屋の中の様子は後回しにして、お食事を頂きに近くのお店に。オーナーは大きな結婚式場の板前さんだったそうです。これに釜飯がついたのですが、とても美味しくてお腹いっぱい!デザートのティラミスも、丁度良い量でした。話は33年前の「ガキ大将行進曲」制作の話、夏休みに集中して撮影したのですが、あの夏も暑い暑い夏でした。あの年、手〇先生はとうとう夏休み全部を映画制作のお手伝いに費やしたと思います。
美味しい食事が済んで、再び手作りのお部屋へ。入り口ではご自分で石に彫ったお孫さんたちの姿が迎えてくれます。お部屋の中は、ミシンをはずしたテーブル・自然木を生かした椅子・火鉢の流し・オルガンの食器入れ・おかぁさまの嫁入り道具だったといわれる裁ち物板も、テーブルになっていました。
古い椅子を張り替えたら高級椅子に早変わりしていたり、アンテイックのステンドグラスが天井近くに埋め込まれていたり、子どもが見たらよじ登りたくなるような太い柱、階段箪笥に合わせた天井・それを上るとロフトになっていて、寝室になっているのです。この場所から正面に富士山が! 寝ながら見られる贅沢さです。
なんと言っても圧巻は、大きな窓がそのまま額縁になっている!アイデァ。 窓枠も自分で彫ったと言われていましたが、素敵な額縁です。そして中の灯りを消し外の照明をつければ、まさに「一幅の絵」なのです!。お宅から5メートルほど崖のようになっている地形をうまく利用して、石を積み水を流して滝をつくり、ツバキやかえでを植えて、その下にはスズランなどの丈の小さな花が植えられ、1年中自然の絵が楽しめるようになっているのです。夜目にも鮮やかに月見草となでしこの花が咲いていました。
手〇先生は以前も竪穴式住居を建て、その中の囲炉裏で土器を焼いたりした事もある方で、もう教職からはリタイヤしたはずですが、今も尚、少年のような目を持ちそして夢を次々と実現していく素敵な方です。33年前のキラキラした少年の目が、全然年をとらずにそのまま持ち続けていました。
ご自分できちんと記録していた「ガキ大将行進曲」の制作発表から上映会までの、アルバム写真帳を見せてくださいました。監督も持っていないそうです。皆で広げて、「あのとき」の話で盛り上がりました。あの時の全員の自分の姿がそこにあり、共有の懐かしい時を思い出していました。本当に素敵な時間でした。有難うございました。
2011年08月10日
無尽
私もご近所の奥さん達で作っている無尽に入っています。この無尽もう40年近く続いています。一時は40人ものメンバーでしたが、亡くなられたり転居されたり、体調を崩されたり一人二人と段々減っていき、今は9人になってしまいました。月1回お寿司屋さんで昼食をとりながら、おしゃべりを楽しみます。こうして集まることが町内や地域の結束につながっていきます。
私たちも年齢を重ねて老人になりましたが、とうとう会場のお寿司屋さんも跡継ぎがないために、お店を閉めると言われました。あと何ヶ月かは営業するそうですが、長いお付き合いで無理や我儘をきいてくださって助かっていました。今度また、どこか他のお店を探さなければなりません。なんだか淋しい気分です。
2011年08月09日
平和への思い
6日(土)ヒロシマの日に、私たちにとって素晴らしい体験をさせていただいた、「ガキ大将行進曲」の映画監督・大澤豊氏が南アルプス市の若草生涯学習センターで、講演をされるとお聞きし、その折の関係者で会場にうかがいました。
「私の平和への熱い思い」と題しての講演です。その前に混声合唱団「快」の方たちが、平和に関する歌を歌ってくださいました。「1本の鉛筆」「1枚の絵」「この星の名前は地球」指導の斉藤京子先生も独唱を聞かせてくださいました。最後に会場全員で東日本の応援歌「上を向いて歩こう」を歌いました。
「ガキ大将行進曲」の撮影では、陰の力で大活躍した手〇先生から大澤監督の紹介があり、いよいよ大澤監督の登場です。大澤監督は、群馬県高崎市生まれで、子どもの頃から映画が大好きでした。が、反面戦争中から戦争が大嫌いでした。高校生の頃から将来は映画の世界に進みたいと思ったそうです。家族に反対されましたが大学卒業後上京し、山本薩夫・黒澤明監督の下で助監督を務め、1978年、山梨を舞台に当時の市川大門町を中心に撮影した「ガキ大将行進曲」で監督デビューをしました。この作品は今見ても、古いと感じさせない素晴らしい作品です。
以来主な作品は、1985年「ボクちゃんの戦場」・1990年「遥かなる甲子園」・1996年「GAMA−月桃の花」・2003年「アイ・ラヴ・ピース」・2007年「日本の青空」・2009年「いのちの山河」などです。中でも「GAMAー月桃の花」は沖縄戦を描いていますが、沖縄の事はやはりヒキノ様が書かれていますので、色の変わったところをクリックして是非お読みください。
大澤監督作品はその八割がたは反戦映画だと言われていましたが、確かに題名を見ただけでもお分かりかと思います。子どもの頃、灯火管制で家も町も暗かったことがとても嫌で、戦争が嫌いだった事が根底にあるのでしょうね。これからもスクリーンの上で平和を訴えて行きたいと語られました。
お話は今回の原発にも及びましたが、目に見えない「放射能」と言うものを理解してもらうことは難しいからと、1883年に制作された「せんせい」と言う作品の一部を会場で映し出しました。
「せんせい」は子どもの頃、ヒロシマに原爆が落とされた翌日、母と一緒に焼け跡の中で、父を探して歩ぎまわります。そして白血病が発症します。せんせいが放射能による白血病で亡くなっていく姿を教え子が看取ります。せんせいは教え子に苦しい息の中で「よく見ておいて」と言い残します。その臨終に間に合わなかった先生の妹も、生まれた子どもを急性骨髄性白血病で亡くします。放射能の恐ろしさが伝わる作品です。
監督は次回作品として、実際にあった葛飾区でビラを配布しただけで弾圧された事件を取り上げ、憲法で保障されている基本的人権や、言論の自由について描きたいと言われていました。
あれから33年、そうです「ガキ大将行進曲」製作のお手伝いをしてから、33年たちました。あの頃は皆若かった! 会場にはあの映画で準主役を演じた南アルプス市の佐〇君も駆けつけてきました。あの頃は確か10歳ぐらいでした。もう中年に差し掛かっているんですね。大澤監督もあの頃は疲れ知らずで動いていましたっけ。見たところは老人になりましたが、まだまだ心の中では平和への熱い情熱が燃え滾っている事でしょう。「日本の青空」「いのちの山河」に続く憲法を描いた三作品目です。来年3月ごろ完成予定だといわれていました。きっと見ごたえのある作品が出来ることでしょう。期待しています。
2011年08月08日
やっぱりネコ!
防虫剤がきれたのでホームセンターに行きました。「そうだ、サスケが今朝首輪を落としてきたっけ」と思い出してペットコーナーへ。ぅわぁ〜っ、ペット用の物がずらっと並んでいます。缶詰の種類もスゴッ! 子猫用から老ネコ用・・・・・犬の服も子供服かと思うほど可愛いものが・・・・・
サスケは黒いので、赤い首輪がよく似合います。サスケ用の真っ赤な首輪を選んでいましたら、ピンクにハートのついた物もありましたので、それはモモ用に。首輪を持ってレジに行く途中で「ネコのオモチャ」があるのに気づきました。サスケは草食系で、草や花ばかり銜えてきますので、このネズミのオモチャを買ってやれば、男の子らしく狩猟の特訓!になるかしら、と思い、ネズミのオモチャを選びました。見た目は尻尾も付いていて本物のネズミのように見えます。
家に帰って首輪をして、ネズミのおもちゃを与えてみました。尻尾を持ってチョコット動かしてみましたら、興味を持ってらしく遊びだしました。「サシュ、よく捕ってきたね」「サーちゃん良かったね、ネズミだね」お嫁さんとエールを送りました。
サスケはだんだん面白くなったらしく、ネコらしい仕草で前足で持ち上げたり、抱え込んだり、そのうち興奮しだしたようで、夢中になって遊びだしました。「サスケにもネコらしいところがあったのね」
一日中寝てばかりで、外にもろくに出て行かないサスケがこんなに遊ぶなんて思ってもいませんでした。これで草や花ではないネコらしい獲物をとってくるでしょうか。モモはトカゲやスズメまで捕ってきますけれど。トカゲは逃がしてやりましたが、スズメはもう死んでいて、モモが食べてしまいました!