もうひとつの永遠の0 第弐章〜特攻の母と呼ばれた女と朝鮮人特攻隊員
2014年5月10日(土)

 GWにTUTAYAで入会費・更新料無料というキャンペーンをきっかけとして、以前から視聴したかった映画「俺は君のためにこそ死ににいく」を拝見する機会を得ることができた。
 去年2013年8月15日NTV系放送された「ミヤネ屋終戦の日SP 知られざる特攻隊の真実」も踏まえて、特攻とは何だったのか?先の大戦とは何だったのか?を集団的自衛権で揺れた5月3日憲法記念日の後の日本で特攻の事実の検証と共に考えてみたい。

1、「俺は君のためにこそ死ににいく」の事実との相違点と違和感
 映画「俺は君のためにこそ死ににいく」は、1944(昭和19)年10月25日のレイテ沖海戦最終日において、関行男海軍大尉率いる敷島隊による航空機による自爆突撃、いわゆる特攻が初めて敢行された日から始まる。
 関大尉率いる敷島隊により空母セント・ロー撃沈の他空母3隻を小中破させるという“大戦果”を挙げ、これ以降大日本帝国陸海軍は特攻が戦闘の常套化していくことになる。
 特別攻撃隊編成の決断を下したのは、大日本帝国海軍第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将であるが、大西は元は航空主兵主義※1の第一人者であり、故山本五十六元連合艦隊司令長官によるハワイ真珠湾攻撃への大規模航空奇襲攻撃やその後の零戦による連戦連勝も大西(の発案)があってこそとされる。
 しかしその山本も、1943(昭和18)年4月18日ブーゲンビルの空に散り、無敵を誇った帝国海軍航空隊も、ラバウル航空戦※2、珊瑚海海戦※3、ガダルカナル島の戦い※4で消耗戦を強いられ、多くの熟練搭乗員を失うことになる。
 ミッドウェー海戦※5で主力空母4隻を失い、レイテ沖海戦で最後の空母4隻を失い、更には、燃料の無い本土、燃料は有っても本格的な修理改修ができない南方とに分断された残存艦隊は最早組織的攻撃力さえも失った。
 此処々々に至り、通常戦法では敵アメリカ軍を撃滅することは困難と判断した大西の苦渋の選択が特攻だった。
 航空主兵主義の大西は特攻は統率の外道(さげす)みさえし、最後まで特攻に反対しながらも、大西自身も、「特攻はフィリピン戦(レイテ沖海戦)で最初で最後」としていたが、特攻の最大の戦果となった関大尉らの活躍が、皮肉にも軍部に「戦線打開は特攻しかない」という口実を与えることとなった。
 劇中では、「最初に体当たりする者が“確実”に絶対に成功してみせんと後に続く者がいなくなるのだ」という関大尉に特攻を命じた上官の言い分では、これからは特攻が作戦の常態化するということを示唆しており、これが史実と大きく違う所である。

 そして、知覧から初めて振武隊(陸軍特別攻撃隊)が出陣する前夜、第6航空軍参謀川口少佐(遠藤憲一)が上官である第6飛行団長東大佐(勝野洋)に、「彼等の技術では沖縄に辿り着くのがやっと… 米艦隊に突っ込む腕は無いと思われます。海軍の関大尉(後、中佐に昇進)でさえ三度目の出撃で敵艦を葬ったではありませんか。大佐殿!」
東  :「それで?」
川口:「分かっていながら出撃させるのは… 犬死であります!」
東  :「決断が下った以上俺たちにできることは彼等に勇気を与え、夢を(いだ)かせ、一人でも多く散ってもらうことだ」
川口:「大佐!」
東  :「言うな!」
 この二人のやりとりの翌朝には、東は出陣式で死に行く若者たちに、「死んで来い。帰って来る者は不忠である」と冷徹に放ち、悪天候で戻ってきた隊長に対して川口は、「何で戻って来たか!特攻隊員たるもの何があっても突っ込め!」と激しく叱責する有様。これが同じ人間の言動とはとても思えず、違和感さえ感じた。
 それが戦前の軍人の思考回路だと云えばそれまでだが、それが理解できない我々平成人に対して、せめて此処々々に至るまでの人物描写(心の葛藤)くらいは演出してほしかった
 こういうところが、この作品を粗いと批判される所以なのだろう。
 この第6飛行団長東大佐は、第6航空軍司令官菅原道大(みちおお)がモデルと考えられるが、彼(東)も劇中では、「彼等(特攻隊員たち)を犬死にはさせない。俺も後から必ず逝く!」と息巻いていたものの、菅原本人も、1983(昭和58)年12月29日までナント95歳の天寿を全うするまでの間、のうのうと無駄に生き長らえていたというからあきれるばかりだ。
 彼や息子たち(三男道煕は特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会理事長)は戦後、特攻隊員の慰霊活動に心血を注いだとされるが、遺族からしてみれば「表面的なもの」と罵られてても当然である

 作品中に見られる粗はさておき、鳥濱トメと特攻隊員たちとの“心の交流”は真実であり、大韓民国女性家族部による売春婦だったババァどもを従軍慰安婦などとでっち上げた嘘の証言とは雲泥の差である。
 劇中では、
6歳から育ててくれた継母に最後まで「お母さん」と呼ばなかったことを悔い、手紙に認める隊員Aとして描かれた第77振武隊相花信夫少尉。昭和20年5月4日出撃。享年18歳
婚約者に、「自分のことは忘れ、新しい人生を歩む男性を見つけてくれ」と願い手紙を書く隊員Bとして描かれた第20振武隊穴澤利夫大尉。昭和20年4月12日出撃。享年23歳
特攻隊として出撃しながらも三度戻り、飛行実験で命を落とす田端絋一少尉のモデルとなった川崎渉少尉。
「蛍になって帰って来る」と言って季節外れの蛍が富屋食堂に帰って来る河合惣一軍曹のモデルとなった第104振武隊宮川三郎少尉。昭和20年6月6日出撃。享年20歳
など、史実に基いたエピソードを取りあげているがなかでも衝撃を受けたのは金山少尉のモデルとなった卓庚鉉(タク・ギョンヒョン)である。

※1…海上戦の勝敗は空母に搭載した航空機の差(つまりは戦闘機の数)で決まるという考え方
※2…1942(昭和17)年1月20日〜1944(昭和19)年2月20日
※3…1942(昭和17)年5月8日
※4…1942(昭和17)年8月7日〜翌1943(昭和18)年2月7日
※5…1942(昭和17)年6月5日〜7日

2、特攻の母と呼ばれた女と朝鮮人特攻隊員との心の交流
 金山少尉のモデルとなった卓庚鉉は1920年6月5日、慶向南道(キョンサンナムド)、(日本統治時代の朝鮮行政区画。現在の大韓民国南東部。釜山・蔚山(ウルサン)を合わせた地域)に生れ、京都府の立命館中学校(現:立命館中学校・高校)、京都薬学専門学校(現:京都薬科大学)を卒業後、1943(昭和18)年10月、特別操縦見習士官(特操)一期生に合格し、鹿児島県知覧の陸軍大刀洗飛行学校分教所に赴任。翌1944(昭和19)年10月、陸軍少尉に昇進。
 卓庚鉉は日本人名を光山文博と名乗っていた。
 文博とは初代内閣総理大臣であり統監府初代統監だった伊藤博文公の名前を逆にしたものであり、これは卓が公を尊敬していたことを意味し、当時の朝鮮人が公の功績を高く評価していた証でもある
 劇中で金山少尉は朝鮮出身の軍人として描かれているが、富屋食堂の女主人のトメや次女の礼子も「金山さん」と親しく接し、金山もトメを「おばちゃん」と呼び、実の親以上に可愛がってくれるトメを慕っている様子が忠実に再現されるものだった。実際の卓も知覧赴任1年前に実母を亡くしており、それだけにトメの誰にも分け隔てない愛情に魅かれていたいった心理を理解するのは容易である。

 光山少尉には、出撃前日の1945年5月10日に富屋食堂を訪れアリランを謡ったというエピソードがあるが、
「故郷朝鮮を憂い、日本に来て日本人を愛し、トメのことをお母さんのように慕っていました。だからトメに言いました、
ぼくらが逝かなければ今度は皆が殺されてしまうよ。だから僕は逝くんだ。」(ホタル館 富屋食堂館長鳥濱明久氏(トメの孫)の証言より)

 そしてその翌日の1945(昭和20)年5月11日出撃し、沖縄洋上で戦死したとされる。享年24歳。

 島濱トメさんも1992(平成4)年4月22日、89歳でこの世を去った。
 現在、富屋食堂は2001(平成13)年に、島濱トメさんのお孫さんである明久氏を館長とする特攻隊員記念館「ホタル館 富屋食堂」として復活し、同じく知覧町にある陸軍知覧特攻基地跡地にできた知覧特攻平和会館・特攻平和観音と共にトメさんと亡き特攻隊員たちの遺志を今に伝えている。
 

3、靖国の柱(神)となった朝鮮人の英霊たち
 朝鮮出身の特攻隊員は知覧からも11人(光山少尉含)が飛び立った。
 聖戦時、帝国軍人若しくは軍属として働いた朝鮮人の数は24万2341名に及び、そのうち靖国に柱(神)として祀られている朝鮮人は2万1千余。朝鮮人特攻隊員も光山少尉を含め14名に上る。
1)慮龍患(ノ・ヨンウ)
 そのなかで、日本のために華々しく散って下さった一人の朝鮮人をここで紹介したい。
 彼の名は河田清治少尉。享年22歳。朝鮮人名を、慮龍患
 事の起こりは1945(昭和20年)5月29日、静岡県大井川中流域上空を通過中のB-29の大編隊に、愛知県清洲飛行場陸軍飛行第五戦隊所属のキ-45弐式複座戦闘機(通称:屠龍)に搭乗した河田清治少尉と土山茂夫兵長(20)が肉弾突撃を敢行。
 M.R.クラークJr中尉の操縦するB-29を撃墜したが、河田少尉の落下傘が開かず、弐日後、河田少尉の遺体が東川根村南側の山で発見され、結果空中特攻となってしまった。
 その様子(河田少尉の奮戦)を見上げていた聴衆たちは、ある者は、「万歳!」と叫び、ある者は手を叩いて称讃し、「感動」さえも与えたという。
 慮は1922年12月23日、京畿道(キョンギド)水原(スウォン)郡で産まれ、仁川北商業学校から1941年4月に京城法学専門学校(現:ソウル大学校法科大学)に入学。この時の校長が慮の運命を変える。
 校長の名は増田道義。東京帝国大学卒業後、警視庁警部から平壌専売局長、慶向南道内務局長を歴任した彼は、皇民化教育の信奉者でもあり、慮は在学中、「徹底した皇国臣民教育」を受けることになる。その後は、慮以下京城法学在校生76名全員は特別志願兵として仕立てられ、陸軍に志願した慮は、卓と同じく特別操縦見習士官(特操)一期生に合格したが、1800名に上る特操一期生のなかで朝鮮人は卓・慮・金尚弼(キム・サンピル)(後述)の他1名の4名だけである。 

2)金尚弼
 金尚弼は創始改名施行後の日本人名を結城尚弼とし、1920年平安南道(ピョンアンナムド)(現:朝鮮民主主義人民共和国中西部、朝鮮半島北西部)に生れる。1943年7月に京城の私立延禧(ヨンヒ)専門学校(現:延世(ヨンセ)大学校)卒業後、特別操縦見習士官(特操)一期生の合格者となる。
 1945(昭和20)年4月3日、宮崎県新田原(にいたばる)基地から朝鮮人ながら第五編隊長として出撃。享年24歳。

 朝鮮人特攻隊員各員の想いも様々だったようで、金が、作戦直前の2月25日、平壌の三根旅館で日本軍将校になることを最後まで反対していた兄・尚烈(サンヨル)に会うことができましたが、弟が特攻に“志願”したと知るや逃げるように説得しますが弟は、

 自分は朝鮮を代表している。逃げたりしたら祖国が笑われる。多くの同胞が一層の屈辱に耐えねばならなくなる。僕は日本人になりきって死のうとしているのではありません。そこをよく理解して下さい。
 日本を勝利に導いてその暁には我々の武功を認めさせ、独立にもっていくのです。
 日本が強くなればなるほど独立運動は無力になります。それより日本に協力して独立を勝ち取る方が確かだと思います。日本人が憎くないと云えば嘘になりますが、僕は少年飛行兵出身の部下を連れて行きますし、佐藤曹長には親身になって機体の整備をして貰いました。
 戦友や部下達とは一心同体であり、そこには民族の壁はありません。
 民族の魂は売り渡してはいません。朝鮮の魂で頑張ってきました。僕の考えはきっと御先祖様も許してくれる筈です。

と言い残して沖縄の空に散って逝きました。

 祖国の為と思って命を投げ出した若者たちに対して現在の韓国は、彼等を「国賊」扱いしています。
 現在の韓国は皆さんも御承知のようにセォウル号沈没事故で転覆し、海洋警察が船内に取り残されている乗客を見逃したという事案に、「何故船内に入らなかったんだ!?」という非難が集中していますが、元々腰抜けの馬韓国人が決死の覚悟などできるはずもありません
 私も自衛隊出身者ですが、日本の警察・消防・海上保安官、そして自衛隊は命を賭してでも任務を遂行するという気概は持ち合わせています。それは大日本帝国陸海軍から続く自己犠牲と滅私精神を受け継いでいるからであり、それが特攻という悲劇に繋がったわけでありますが、任務遂行という貫徹精神を持つ日本と日本人が、人に頼るしか脳の無い、自分は何もしない韓国人と逃げるしか脳の無い中国人に負けるはずが無かったのです
 韓国は占領されたと云い、中国は侵略されたと言い張りますが、そうなった理由が自分達の不甲斐無さにあることを自覚すべきですね(笑)

 祖国の為と命を捧げた朝鮮人特攻隊員を国賊として断罪した現代の韓国は御存知のように客船一隻の沈没で転覆している有様で、公僕である海洋警察官は自分の命を惜しみ自らの職務を全うしないという為体ぶりに、靖国に奉られている朝鮮人特攻隊員を(はじめ)とする2万1千柱の朝鮮人軍人・軍属の方々はどう映るのでしょうか?

4、映画「俺は君のためにこそ死ににいく」と映画「永遠の0」の差
 映画「俺は君のためにこそ死ににいく」は、石原慎太郎という狂信的ともいえる右翼爺が島濱トメさんとの出会いから始まったものであるが、製作者新城卓の監督の質というか力量の無さに大分損をしているというのがこの作品を、事実上の失敗に追い込んだ原因ともいえる。実際、総製作費18億円に対して興行収入は10億にしかならず、石原も、「わたしの弟子(新城)がお金を使い過ぎた」と自虐とも取れる“言い訳”をしている。
 しかしそれでも石原の、特攻隊員に対する崇高ともとれる想いには共感できるし、島濱トメさんの証言にも嘘偽が無く、それにも感銘を受けた。
 この作品たちを、「戦争賛美」だと抜かず馬鹿共は多いようだが、石原にしても百田氏にしても、「戦争はしてはいけない」という“反戦”が根にあることが理解できない日本人は、日本で生きる資格すらない。

 「自分の記憶から消したくなった」と映画「永遠の0」に対して辛らつな批判をした井筒和幸に対する反論から始まった永遠の0を観て〜井筒よ、これの何処が「戦争賛美」なんだ?だが、井筒は映画「俺は君のためにこそ死ににいく」に対しても誹謗としか言いようのない酷評をしたが、それは彼が朝鮮総連から資金提供を受けているからに相違無く、純然たる日本人である井筒和幸が敵国に金で魂を売り渡した売国奴であることを私たち国民は覚えておかねばならない
 井筒以外でこの作品(映画「俺は君のためにこそ死ににいく」)を批判した人物に猪野亨という北海道の弁護士が居るが、彼は石原の意向を無視しただけに止まらずトメさんの想いを踏み躙りこの作品を戦争賛美の映画と酷評した
 遉は反日売国団体「日教組」の下部組織北教祖の腐った教育に毒されただけのことはありますね。
 この人も法律家(弁護士)の端くれというなら「法の不遡及(事後法)」くらいは知っているはずだろう。
 事後法とは、「当時合法であった行為あるいは罪に問われない事例を、事後(現代)に定めた法令によって(さかのぼ)って違法とし、処罰することを禁ずる」という、要するに「過去に犯した行為を現代の感覚で罪に問うてはならない」という民主主義の原理原則のひとつである。
 確かに、「法律(刑罰云々)とは無関係」と言えばそれまでだが、現代の感覚で当時の特攻隊員やそれを取り巻く人たちの思考に対しての良し悪しを決めるのは横暴というものであり、無意味である

 戦時中、特攻で亡くなった方々を軍神と(あが)(たてまつ)った世論は、戦後、体制が変わると同じく(てのひら)を返したように、「特攻隊員は犬死」「特攻要員は特攻崩れ・死に損ない」と世の中から切り捨てられました。
 しかし、百田尚樹氏の登場と映画「永遠の0」の大ヒットで状況は一変し、「特攻」を真正面から見つめるという機運が高まっております。
 石原慎太郎という狂信的ともいえる右翼爺が製作(つく)った映画「俺は君のためにこそ死ににいく」に対し、作者百田尚樹氏の情熱と信念を理解した製作者(山崎貴監督)というパートナーを得たことで結実した映画「永遠の0」は、今もロングランを続けるこの作品が国民に受け入れられていることを証明しております。
 ただ、この作品が受け入れられた要因として、岡田准一と三浦春馬というアイドル俳優観たさに集まった女性客の存在は見逃せませんが…

 私は常々、今の我々日本と日本人が日本人として生きていられるのは、命を捨て勇敢に戦い散った特攻隊員の方々、戦地に赴き戦い、あるいはその見知らぬ土地で命を落とされた先人たちの御陰、彼等が死んで呉れたからこそだと思ってましたが、大東亜聖戦の実情や、軍令部の無理無茶無謀な作戦の結果起きた無残さ(特攻・玉砕)を知るにつれ、
もっと早く軍令部・大本営が戦争を終わらせることができれば特攻隊の悲劇は回避できたのではないか?
 彼等特攻隊員を一とする若者が生きて内地(日本)に帰還(かえ)ることができたら日本はもっと豊かで良い国になっていたのではないか?
 そう思って止みません

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