太平洋戦争の初期のことです。 海軍は連合軍の捕虜になっていた航空機の搭乗員...
2012/5/1507:53:43
ベストアンサーに選ばれた回答
編集あり2012/5/1509:48:33
陸軍の空閑少佐の話は知っているが、海軍の航空機搭乗員の話は知らない。
と思っていたが、思い出した。
「敵地上空 天候晴レ 高度300 我タダ今ヨリ自爆ス」
主操縦 原田武夫一飛曹
副操縦 徳田秀利一飛曹
主偵察 白井嘉孝二飛曹
副偵察 西田利穂一飛曹
主電信員 首藤勘市三飛曹
副電信員 渡辺禎銀一飛曹
主搭乗整備員 清野五郎二整曹
副搭乗整備員 三浦浅吉二整曹
戦死後一階級昇進、金鵄勲章授与。
参考:「我れ自爆す、天候晴れ」岩川隆
1空上層部が,「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に沿っている体裁を整えるため,捕虜になった後に帰還したパイロットを隔離,冷遇した事件.
開戦4日後のクラーク飛行場爆撃で1機の九六陸攻が損傷,彼らは事前に「日支事変と違う.被弾しても自爆するな」と訓示されていたため,不時着.
搭乗員は生存が視認されていたにも関わらず,「自爆して全員戦死」との虚偽の報告がなされた.
ところがマニラ陥落後,その全員が陸軍部隊によって収容され,1空に送り返された.
帰還後,搭乗員全員が位階勲等を剥奪され,下士官は兵に降格.
さらに彼らは隊内で隔離され,戦死を期待されての出撃を続けたが生き残り,最期は3/31,単機でラエからポートモレスビーに出撃して自爆せよと命じられたという.
また,捕虜となった搭乗員が所属する中隊の中隊長福岡大尉は,この責任を取ってクーパン攻撃支援後に自爆した.
以下引用
blog.goo.ne.jp/1937.../e/ba86c5c43eb57cdfb1a9d1b94557e56a
1932年の第一次上海事変における空閑(くが)昇少佐の事例である。
第9師団第7聯隊、第2大隊の大隊長であった空閑少佐が、2月20日の晩に中国軍陣地に夜襲をかけて猛烈な反撃にあい孤立、重傷を負った空閑少佐を残して部下が撤退(22日晩)したため中国軍の捕虜となったケースである。手厚い治療を受けた空閑少佐は3月16日、捕虜交換で帰還した。
上述したように、このようなケースで罪を問う法的根拠はなかったが、軍内部では「自決すべし」とする声が主流になりつつあった。
秦郁彦によれば特に厳しかったのが陸士同期生たちの声であったという。
東京日々新聞石橋恒喜記者の回想によれば、当時参謀本部庶務課に在籍していた牟田口廉也中佐(当時)は「われわれ同期生で相談のうえ」、潔く自決せよという電報を空閑少佐に送ったと語った、とのことである。
また民間でも、留守宅に怒鳴り込んだり石を投げ込むなどの動きがあり、捕虜となることを恥とする風潮が一般社会にも浸透していたことがわかる。
結局、空閑少佐は3月28日にピストル自殺を遂げるが、それが報道されると世論はこれを美談として受け止める。しかしあくまで自決を前提とした美談扱いであるから、むしろ自決という「解決策」を促進する要因となった。
この質問につけられたタグ
年上の人を好きになっちゃいました
回答受付中の質問
カテゴリQ&Aランキング
- 戻る
- 次へ
総合Q&Aランキング
そのメール間違っていませんか
みんなのアンテナ
Yahoo!知恵袋カテゴリ
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
[PR]お得情報