意識高い系?
今回も勝手に語っていきます。
マシニキさんがこんな記事を書いていました。
この記事を読んだ時にちょっと自分の中で思い出したことがあった。僕が抱いたあの考え方と発言はもしかして意識高い系だったのだろうか?そう思った。
それ以上に、自分の考え方とか生き方とかを改めて見つめ直してみたってのもある。いや、そんなたいそうなこと言ってるけどさ、常に本気で考えちゃうんですよね。
ということで、僕の体験と思ったことをぶつけてみようと思う。
友人との体験談
昔、友人と会話した時にイラっときた言動があった。その友人は仕事を探している段階だった。とにかく何に対してもネガティブな発言が目立つのだ。
「俺なんて・・・勉強できないし、仕事もできないし。」
「もう仕事を探すことすら面倒くさい。」
「何か楽しいことないだろうか。」
受け身というか悩んでいる自分に溺れている気がした。
だから僕はつい言ってしまった。
「甘えんなよ。」
そして、正直こう思った。
一体、誰に頼まれてそんな風に落ち込む必要があるのだろう。
確かにネガティブな気持ちになることは分かる。何もかもが嫌になることは分かる。でも、そもそもその気持ちを持ったまま自分を否定するのは間違ってるんじゃないか。
それから、あらゆることに対して「待ち」の姿勢が目立つ。
それって、何か面白いテレビないかなー?と同じレベルだよ。
ずっとテレビの前で刺激を求めてるだけ。
自らは動かず、面白いか面白くないかを判断する。完全なる受け身状態。
そんな感じで「甘えんなよ」はその人の言動に対して言ったつもりだ。
正直、ネガティブに生きようがどうしようがそんなのその人が決めればいいだけなんだけど、何だかこっちまでネガティブになってくる。
そんな風にはなって欲しくない。そんな風には生きる必要はない。そう思って、ただ自分の思うことを意見として主張した。それだけだった。
今思えば、それは僕の価値観の押し付けであったのかもしれない。でも、友人なんだから。お互いの意見は対等に主張すべきだと思う。たとえそれが「ウザったい押し付け」であったとしても。
そうしてウマが合わないのならそれまでの関係なのだろう。潔く割り切ってしまう。
人は結局自分のことしか考えていないのか
できること、やることやってたらさ、それで満足でしょ。
愛されるってことは、人から色々気にかけられるってこと。そんなのやだよ。
本気で人のために働くやつなんていんの?
このCM大好きだから紹介しておきたい。
僕が自分のことについて迷っていた時、いろんな本とか考え方を学んできた中でも哲学として共感できたのは北野武さん、立川談志さんだった。
そもそも、「生きる」ということをそんなに重要視していない。むしろ、息を引き取るまでの暇つぶしだと割り切っている。
個人として生きたいように生きていければいい。
そして、人は常に孤独であるということを受け入れている。
僕自身も、その人がどんな生き方をしていようと構わない。
引きこもり?ニート?社畜?自由な生き方?意識高い系?
なんだって良くね?そんなこと。
その人がそうやって生きたいって思ってるなら、その意志があるのなら邪魔する必要はないと思っている。でも惰性でそんなことやってるのならその人を批判するかもしれない。
何も考えてないこと、無関心が自分の人生に向いてしまうことほど悲しいことはないと思っている。自分が必死になって生きているなら、その生き方が自分に合っていると主張できること。それは素晴らしいことだと思う。
最初から最後まで自分のために生きる。自己中心で全然構わない。まずは自分が生きなきゃ、相手に何かしてあげられないんだから。これが僕の意見。
だから、僕の友人に対しては自分の人生に対して責任を持つことを放棄しているように感じた。自分で自分と向き合う。それができずに何ができるのか。そんな生き方はして欲しくない、少なくとも友人であるのだから。そうして飛び出した言葉が「甘えんなよ。」だった。
レッテルを貼って判断するという思考停止
先ほども話に出たけど、ニート、引きこもり、意識高い系、などなど、そういう言葉を作って誰かに対してレッテルを貼るのは簡単。そうして呼び名をつけることでますます批判しやすくなる。
でもさ、そうやってひとくくりにするだけでいいの?
なんか、何にも考えてないだけのような気がするんだよね。
ニート?別にそういう価値観を持って生きているのならそれはそれで認められるべきことだと思うんだけど。
だって、その生き方に自分で責任持ってるわけでしょ?じゃあ良くね?
とは言ってもただ認めるだけでは何も始まらないわけで。
確かに誰しも孤独だと言ったけど、それで誰にも干渉せずに過ごすのはどうなんだろうかとも思う。
孤独とは言っても、人は人に影響を受けていく。必ず、社会という中に生きている以上は人との関係は切っても切ることは不可能だ。
keita-itten-project.hatenablog.com
ある人の一言が自分の人生を大きく変えることだってある。だから、自分の意見はこうだって伝えておきたい。対等じゃないといけない。
だけど、「こうあるべきだ」という話が実に多い気がしてならない。
テレビを見ても、学校に行っても、誰かと話しても、結局はその人が考える「正しさ」に当てはまらないものは否定される。
相手の意見をもっと受け入れるような柔軟性が必要なのかもしれない。
自らの意志で決めることの幸せ
幸せって割り切りだと思っている。
今、この現状が自分にとっての幸せなんだと思えばそれでいい。そうじゃないなら、その不快感を持ってそれを変えようとする。
意識の高い人って、不快感の量が多い人なんじゃないか。
僕もこの部類に入るだろう。自分自身、もっとやれるんじゃないか、もっと楽しい生活があるんじゃないか、常に何かを追い求めてる。今の現状が不快だから、なんとか自分でそれを改善しようとする。
そうやって改善を追い求めている自分が幸せなんだと思う。
逆に言うと、ささいなことに幸せを感じることができないと捉えることもできる。
だからこそ、自分なりに頭を使って考えないといけないんだろうなぁ。
こんな僕は意識が高いだけだろうか
「甘えんなよ」は僕個人としての思いだった。
でもそれは、友人にとっては「は?何言ってんの?」であるかもしれない。
こうじゃないと幸せになれないという脅迫観念
夢を持たなきゃいけない、昇進昇格しないといけない
何かに洗脳されて生きること、そうしないといけない弱い生き物が人間なんでしょうね。
でも、自分の言った言葉が誰かを変えることだってある。
だから少なくとも、意識高い、意識低いのどちらが正しいという議論じゃなくて、お互いに対等に、自分たちの意見を主張して自分たちの生き方を考えていく。
僕は単純にそのことを考えることを放棄すること、自分自身に無関心でいることに対して「甘えんなよ」と言いたい。