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【スポーツ】<創刊60周年カウントダウン企画> セナ激突死2016年2月22日 紙面から
F1関係者やファンのみならず、全世界に衝撃を与えたのが、音速の貴公子、アイルトン・セナの激突死でした。その速さで3度のワールドチャンピオンを獲得し、その速さでタンブレロの壁に突き進んでしまったセナ。東京中日スポーツ60周年カウントダウン企画最終回は、本紙がモータースポーツ報道に突き進んでいくきっかけをつくってくれたスーパースターの面影を、長く担当を務める谷村光一デスクが追いました。 これはまずい。東京中日スポーツ報道部のデスクでF1中継に見入っていた小生は、画面が映し出したシーンに頭を抱えた。 1994年5月1日。イタリア・イモラサーキットで行われたF1第3戦サンマリノGP決勝で、アイルトン・セナが時速312kmのスピードで左へカーブするタンブレロコーナーを直進、コンクリートウオールに激突した。 「事故の瞬間はよく覚えてないんですよ。金曜日の予選でクラッシュした(ルーベンス)バリチェロは無事だったけど、土曜の予選でクラッシュした(ローランド)ラッツェンバーガーは亡くなっていた。なのでもしかするととは思ったけど」 レースを取材していた吉岡潤記者(当時東京中日スポーツ・モータースポーツ担当。現在は東京新聞)は、サーキットに満ちていた重い空気を思い起こして、ぶるりと肩をふるわせた。 F1のレース中の死亡事故は82年のジル・ビルヌーブ、リカルド・パレッティ以来12年ぶり。F1は死と無縁の関係になりつつあったが、死に神はひそかに爪を研いでいたのか、間もなくセナの死も明らかにされた。激突の衝撃で、前輪から外れたサスペンションアームがヘルメットを貫いて脳を直撃、ほぼ即死だったという。 以後、吉岡記者はセナの遺体を追い、ブラジル・サンパウロへ移動して、葬儀までの一部始終をリポート。肉体的精神的に、まさに世界を股に掛けて走り回った。 本紙で「ギョロ目でチェック」を連載するモータースポーツジャーナリストの尾張正博記者の経験はさらにすごい。事故後、遺体安置所まで足を運び、動かぬセナを実際に目にできた数少ない一人だった。頭部は腫れ上がり、本人かどうか判別不能だったというが、最速を誇った不世出のドライバーが帰らぬ人となったことを実感した。 そして、その死は東京中日スポーツにも大きな影響を残した。 本紙がモータースポーツ情報を連日紙面に展開するようになったのは90年。87年に中嶋悟さんが日本人として初めてF1フル参戦を果たし、10年ぶりの日本GPが鈴鹿で開催されてから3年でその体制を作り上げた。 フジテレビがレース中継を始めたことにより、速さと強さ、そして甘いマスクを兼ね備えたセナの人気はぐんぐん上昇。日本を代表する中嶋さんをしのぐほどに。その事実にいち早く気付いたのが当時プロ野球を担当していた本紙松本洋二記者だった。 星野仙一監督率いる中日ドラゴンズがセ・リーグを制してナゴヤ球場に西武を迎え、日本一を争った88年、東京から名古屋へ応援取材に向かった松本記者は名古屋市内のホテルに空きがなく難儀した。「今年の日本シリーズはそんなに人気があるのか」と確認すると、その返事は「いや、F1のせいです。鈴鹿市周辺で収容しきれず、名古屋市内にまで人があふれてくるんです」というものだった。 「そんなにすごいならこれからはF1の時代。これを見逃す手はない」と上司の佐藤靖邦部長に提案。本紙がモータースポーツを看板にするようになった一端がこの出来事にある(と思う)。そして、日本にそのF1人気を沸騰させたのは間違いなくセナの存在だった。 そのスーパースターがあっけなく逝ってしまった。これを境に日本のF1人気は衰退の道をたどり始めたように感じる。もちろんトーチュウの売り上げにも痛手になったはず。あのクラッシュの瞬間に感じた不安は当たっていた。 音速の貴公子は本紙に大きな恩恵をもたらし、そしてちょっぴり苦い思い出を残して、去っていった。 <事故原因> セナがなすすべなくウオールに激突した理由はいまだ謎のまま。(1)セナが好みのハンドル操作を求め、スタッフにステアリングコラムに加工を頼んだが、そのせいで強度不足となり走行中に折損。マシンがコントロール不能となった(2)オープニングラップでセーフティーカーが導入され、スロー走行となったために、タイヤの空気圧が低下し、高速走行下でマシンが制御できなくなった(3)当時のイモラサーキットの路面は尋常とはいえない荒れ方で、これに足をすくわれた…。が、事故原因をめぐって2003年まで行われた裁判でも、結論は出ずじまい。被告はそれぞれレース主催者、サーキット、チーム関係者だが、いずれも無罪判決。ちなみにセナの家族はこの裁判にはかかわらず、賠償請求などは全て放棄している。 <アイルトン・セナ・ダ・シルバ> 1960年3月21日、ブラジル・サンパウロ生まれ。94年5月1日、34歳で死去。84年トールマンからF1デビュー。86年にロータスへ移籍し、87年からホンダのエンジン供給を受け、中嶋悟が僚友に。88年にホンダとともにマクラーレンへ移籍。僚友アラン・プロストと2人で伝説の16戦15勝を達成し初王座も獲得。以後90、91年と計3度王座に就いた。92年には空力性能とコンピューター制御に優れるウィリアムズに惨敗。同年限りでホンダがF1を撤退。93年はフォードエンジンを搭載して奮戦したものの、プロストがステアリングを握るウィリアムズに歯が立たず、翌94年に勝利を求めてウィリアムズへ移籍。開幕3戦目のサンマリノGPで悲劇に遭った。 PR情報
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