延命寺(逗子大師)
京浜急行の終点新逗子駅近く、田越川沿いに黄雲山地蔵密院延命寺、通称逗子大師がある。由緒では天平年間(七二九年~七四九年)、行基が開創し、自作の延命地蔵菩薩像を安置したと伝わり、平安時代、弘法大師がこの寺を訪れて延命地蔵の厨子(ずし)を設置したことで、この地を逗子と呼ぶようになったという伝承が伝わっているが、ともに確かなことではない。行基も弘法大師(空海)も日本中の小さな寺院まで創建伝説が残る人々で、その寺院の歴史に箔をつける目的で登場させられることが多く、この延命寺に実際に関っていたかどうかは不明だ。
逗子の地名の由来
逗子の地名の由来については、この弘法大師伝説由来のものの他、古語の辻子(づし)に由来する説もある。辻子は横町、小路、横道などを指す当て字であり、特に室町時代から戦国期にかけて大河川沖積地の開発において“村の地域集落名”としてズシ(辻子、図子、厨子)が使われた。『その区域割には道、辻が重要な境界になっていた』ためだ。弘法大師伝説に由来するものよりはこの辻子説の方が信憑性はかなり高いが、一方でズシを使っている地名で逗留する、留まるなどを意味する「逗」を当てているのは非常に珍しく、この「逗子」だけであるため、「辻子」説も決め手を欠き、逗子の地名の由来がどのようなものかは不明のままである。(『逗子市内の地名調査報告書』P62より)
三浦道香主従の墓
経緯は不明だが鎌倉時代には三浦氏が延命寺の修復を行うなど祈願寺としていたという。永正九年(一五一二)、急速に勢力を伸ばしていた北条早雲と三浦半島を支配下に治めていた三浦義同とが激突。義同が小田原城を攻めたのに対して早雲は岡崎城に軍を進め、義同は小田原攻めをあきらめて岡崎城に引くが北条軍の攻撃に現在の逗子マリーナ裏手にあった住吉城へと撤退、しかし北条軍の勢いが凄まじく、さらに新井城へと引くが、その撤退戦の最中、義同の弟三浦道香が戦死する。その道香の墓がここ延命寺の境内の一角に設けられている。この墓は道香家臣の菊池幸右衛門の手によるもの。
その後三浦義同は北条早雲によって滅亡させられるが、三浦氏滅亡後、延命寺はその北条氏に保護されていたという。天文二〇年(一五五一)、北条氏の庇護下で僧侶朝賢によって中興させられ、文禄三年(一五九四)の検地帳に田畑を、文禄一二年(一六九九)の検地帳に若干の除地(非課税の土地)を保有していた記録が残っている。
概ね北条氏以前の寺の上記のような記録についてはたしかなことはわからないのだが、『延命寺に残る「大般若経」にみえる奥書や識語などから考えると、総じて当寺が復興したのは、江戸中期から幕末にかけてのことと思われる』(「逗子市文化財調査報告書第五集」P9延命寺の寺史より)という。
明治五年の学生発布にともない逗子小学校が民家に開設され、明治十二年に正式に新校舎が建設されるが、明治七年から明治十二年までの間は延命寺が逗子小学校の校舎替わりだったという。明治二十九年、火災により鐘楼を除いて焼失、現在の本堂は昭和五十二年に新設されたもので、新本堂落成時に、逗子大師を公称するようになった。
厨子弁財天
湘南七福神の一つ厨子弁財天がある。
境内は隣接する逗子幼稚園のグランドとしても使われ、子供たちの歓声が賑やかな地域に密着した寺院になっている。
参考書籍・サイト
・「逗子市内の地名調査報告書」P62 「逗子」と言う地名
・「逗子市文化財調査報告書第五集」P9 延命寺の寺史
・「逗子 道の辺百史話」P8
・高野山真言宗 黄雲山 逗子大師 延命寺(公式ホームページ)
・住吉城 埋もれた古城
・美と歴史 こゆるりと 三浦道香の墓[逗子延命寺]
・三浦義同 – Wikipedia
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京急逗子線「新逗子駅」下車
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