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異世界転生騒動記 作者:高見 梁川
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第十六話 戦役前夜  書籍化該当部分5

 ソバトの遺骸とともに、故郷であるサヴォア伯爵領に帰還したダリオは、この十年の間にすっかり肥えて、肝っ玉母さんと化していた義妹に息子を預けると伯爵の私邸へ足を向けた。
 サヴォア伯の抱える密偵のなかでも、ダリオの存在を知るものは限られており、伯爵に面会するためには正規の手段を取らざるを得なかったのである。
 「伯爵さまが御面会になる。ついて参られよ」
 門衛を訪ねてから、案内の執事がダリオを迎えに来るまでに数時間の時間が必要であった。
 ことがことだけに、入念なチェックがされたのであろう。
 勧められるままにダリオは執事の後に付き従った。

 「――そなたがダリオか」
 「御意」
 薄暗く、貴族のものとしては狭い執務室で、待ち受けていたサヴォア伯爵の表情は沈鬱であった。
 その理由がダリオには痛いほどによくわかる。
 同じ胸の痛みを、故郷に戻る道すがら、自分も常に感じ続けてきたのだから。
 「ご苦労であった。ソバトは任務を果たしたのだな?」
 「はい。その命をかけて見事情報を持ち帰りました」
 「……惜しいことだ。あれはわしには過ぎた部下であった」
 事実、ソバトの力量は辺境の伯爵家には相応しくないほど素晴らしいものであった。
 しかしそれは情報を重要視する伯爵の識見があればこそであり、ソバトは決して使える主を間違えたとは思っておるまい。
 だからこそ、ソバトは何のためらいもなく伯爵のために命を捨てたのだ。
 自分がフェルナンド、と地位ではない名で呼ばれていたころから、仕え続けてきてくれた老臣の死はサヴォア伯爵家にとっても、フェルナンドにとっても無視することのできない痛恨事であったと言える。
 「……そなたも長年敵地で苦労をかけたな」
 「お言葉だけで身に余る光栄でございます」
 「では早速だがソバトが遺してくれたものを見せてもらおうか。決して無駄にするわけにはいかんからな」
 「御意」
 ダリオはフェルナンドの前に透明な水晶眼球を差し出した。
 「これは……?」
 「ソバトの義眼です。我々間諜は、文書に残せば遺体を確認されたときに露見する可能性がありますので、本当に重要な情報は身体に刻むのです。胃の中に呑みこむこともありますし、骨に彫り込むこともあります。ソバトの奥の手がこの義眼だったのです」
 「……そうか」
 あまりにも苛烈な間諜の覚悟に、さすがのフェルナンドも二の句が継げなかった。
 華やかな戦場を彩る騎士と違い、裏に生きる彼らは表立っては何の名誉も与えられることはないのだから。
 「忠臣に報いてやれぬ我が身の口惜しきことよ」
 「影に生きるものの運命なれば」
 地位も名誉も得ることのできない間諜は、騎士などよりもよほど高い忠誠心が要求される。
 彼らの任務は言うなれば貧乏くじであるが、誰かがやらなくてはならない必要不可欠なものでもあるのだ。
 主君のため、故郷のため、己を殺す覚悟のない人間に間諜は務まらない。
 バルドが職業的な間諜を組織することを諦め、商人たちを中心に集めた情報を分析する体制にシフトしたのはそうした理由があるからだった。
 そうした観点から見れば、ハウレリア王国の君臣関係のほうが、マウリシア王国のそれよりも忠誠が深いと言っても差し支えあるまい。
 「この義眼は魔道具であろう? 魔法士を呼ぶか?」
 「いえ、この程度であれば私だけで事足りるかと」
 そう言ってダリオは、無造作に手のひらを義眼に向けた。
 義眼の構造はそれほど複雑なものではない。
 ソバトの義眼と同じ転写式の魔法式を、ダリオはかつて何度か扱ったことがあった。
 「投影プロジェクト
 発動術式とともに、およそ二メートル四方の巨大な映像が二人の前に映し出された。
 まず目を引いたのは警備する兵士の数の多さである。
 これはアントリムで生活していたダリオにはよくわかる変化であった。
 領主が変わってからというもの、アントリムの兵力は最低に見積もっても十倍以上に膨れ上がっている。
 おそらく国境の要であるコルネリアス伯爵家と比較しても、それほどそん色のない兵力を維持しているものと見て間違いあるまい。
 果して一介の子爵家にそんな経済力があるものか。
 フェルナンドはアントリムの強化の背後に国王がいることを、このとき信じて疑わなかった。
 アントリムでのバルドの高評価を知っているダリオですら、これに関してはフェルナンドと同意見である。
 次に映し出されたのは国境線に沿って配置された鉄条網。
 二人とも生まれて初めて見る鉄条網の異形に、あんぐりと口を開けて絶句した。
 なんの変哲もない、ただの針金なのに、防御陣地として利用された場合の厄介さは一目見ただけで十分に想像できるものであった。
 間違いなく大量の軽傷者を生み、長い時間を浪費することになるに違いなかった。
 戦いにおいて、負傷者の存在は死者の数と以上に軍組織にとっては大きな負担となる。
 戦場は間違っても衛生的な場所ではないし、薬品も治癒師も限られている以上負傷者は、その数に倍する健常者の助けを必要とするからだ。
 さらに、その背後に見える巨大な石の塊のように見える不可思議な施設と、その施設を繋ぐように張り巡らされた堀。
 「……何故堀が陣の中にあるのだ?」
 「面目次第もございませんが、私には想像もつきませぬ」
 通常、堀とは歩兵や騎兵の進撃をはばむために、戦線の前方に作られるはずのものである。
 わざわざそれを味方の陣地内で掘る理由がわからなかった。
 本来塹壕線の概念は、銃が普及し、歩兵の投影面積を減らしつつ立射を可能にすることを大きな命題として考案されたものだ。
 いまだ銃が開発されていない大陸で、理解が及ばぬのはむしろ当然のことであった。
 そして攻城用の投石機と思われる巨大な機械が数台、置かれているのが確認できるのだが、これにもフェルナンドとダリオは首をかしげざるを得なかった。
 「なぜこんなところに投石機が置かれているのだ?」
 「残念ながら……」
 城壁の破壊などに用いられる投石機は、通常攻撃側の使用する兵器であって、守備側が使用するものではない。
 見れば見るほどアントリムの守備陣地は、堅固であるばかりでなく不可解であった。
 普通であれば無視してもよい疑問ではあるが、ことアントリムに関しては、そうした不可解さの裏に隠された秘密があるような気がしてならない、とフェルナドは思う。
 あのソバトが命を賭して手に入れた情報の価値は、それほど安いものではないはずであるからだ。
 「……そしてこれが最後になるのですが……」
 最後の画像は、ソバトの絶命の瞬間なのだろうか。
 ブレてはっきりとしない画像である。
 画像の中心には、大きな筒のようなものがあり、それが灰色の岩のような建造物にむかって伸びていた。
 「これは…………なんだ?」
 「ただの筒にしか見えませんが……ソバトが着目した以上はきっとなんらかの兵器ではないか、と……」
 仮に兵器だとすれば、弩の亜種であろうか?
 しばし考えていたフェルナンドは、もはや自分の手には負えない、と判断せざるをえなかった。
 何より、この情報が有効に活用されなかったならば、ソバトの死は無駄死にになってしまう。
 「陛下に使者を立てよ! サヴォア伯爵より陛下に至急言上の儀、これ有りとな」
 謎が解決したわけではないにせよ、フェルナンドの心はすでに決まっていた。
 アントリムの防衛体制が未完成であるうちに、これを排除しなければハウレリア王国はアントリムを、引いてはマウリシア征服の野望を諦めなくてはならなくなるであろうからであった。


 「なんとも小面憎い餓鬼よ…………」
 ボーフォート公アーノルドは自らの策謀が失敗に終わったことを知って、屈辱に顔を歪めた。
 今年七十二歳を迎えるアーノルドは、まるで八十を過ぎているかのように瞼は深い皺に蓋をされ、唇はカサカサに乾いてひび割れていた。
枯れ木のようにやせ細った身体からは、彼が十大貴族のナンバー2である、という覇気は一切窺うことができない。
 「ランドルフ家を正面から敵に回すことを嫌がる貴族が多うございまして……小僧を義絶したのは、我が家を含め五家のみにとどまっております」
 そう答えたのはヘイスティングス伯爵ヘンドリックであった。
 大仰な身振りや、いかにも嘆かわしいと言いたげな演技にアーノルドは内心で唾を吐きかけたい思いであった。
 (役に立たぬ奴だ。たった五家では政治的な影響力は皆無に等しいではないか)
 アーノルドは焦っている。
 このまま時を無為に時を過ごせば、ウェルキンとハロルドは我が世の春を謳歌するであろう。
 我が息子の命を奪った愚かなる王が、名君としてマウリシアに名を残すことなど決して認められぬことであった。
 しかしそれ以上に、ハロルドを中心とした官僚の再編成に、アーノルドを含めた守旧派貴族は権力を削られつつある。
 まだ十代の可愛い孫に、そうした王国主流派との権力闘争を期待するのは不可能であることを、長年王宮の権力闘争を生き延びてきたアーノルドは十分によく承知していた。
 だからこそアーノルドはウェルキンの力を削ぎたい。
 そのためには宿敵ハウレリア王国と手を組むことも吝かではないと思っていた。
 「……しかしフォルカーク殿は我らの理想に賛同しております。あの小僧も所詮は袋の鼠にすぎません」
 「袋の鼠では困るのだ。アントリムが滅んでも王家の力を削ぐことが出来なければ我らに未来はないのだぞ!」
 「さ、左様でございますとも。うまくすればランドルフ家に墓穴を掘らせることも期待できるかもしれませぬ」
 ヘンドリックの言葉に、アーノルドは若き日のアルフォードの姿を思い起こした。
 王宮の女性に人気の貴公子として、次世代の十代貴族を担うものとして期待されていた男である。
 息子の政敵として油断のならない男だと警戒していたアルフォードが、あえてアントリム子爵を庇う理由が不審であった。
 (アルフォードめ……何を考えている?)
 少なくともあの男であれば、ある程度アーノルドの思惑を読んでいるに違いない。
 アントリムを餌にハウレリアを吊りあげ、王家の戦力と財力を削ぐ。
 それを防ぐためとはいえ、アントリム子爵を義息とするのはやりすぎだ。
 それとも、アントリム子爵はそれほどの価値がある男とでもいうのだろうか?
 数年前のアーノルドであれば逆にアントリムを味方に取り込もうとするか、少なくとももう少し力量を探る時間をおいたであろう。
 しかしアーノルドにはもう時間が残されていなかった。
 三か月ほど前から腹部に感じる腫瘍が、日に日に体力を奪っていくのをアーノルドは自覚している。
 長くともあと一年後まで自分が生きていることはあるまい。
 この命ある間に、孫に安泰な政治状況を渡さなければ死んでも死に切れるものではなかった。
 「もはや引き返すことはできぬ。たとえこの国を売ることになろうとも」
 アーノルドが死病に侵されていることを、バルドもアルフォードも知らない。
 残り少ない生命を賭け、捨て身となったボーフォート公の策謀は、間違いなくバルドとアルフォードの予想を超えるものであった。

 「今日の気分はどうだい?」
 「悪くないわ……バルドもそうだったけれど、うちの子はお腹にいるときからやんちゃで困るわね……」
 そう言ってマゴットは愛おしそうに大きく膨らんだお腹を撫でた。
 高齢のためか、悪阻つわりや食欲の減退など、マゴットの身体にかかる負担は予想以上に大きかった。
 ひところはベッドから起きあがることも出来ずに、イグニスやバルドをひどく心配させたほどであったのである。
 サバラン商会から紹介された医師は、五十代のよく肥えた女性で、あのマゴットにすら有無を言わせぬ迫力で、マゴットの食事や運動を制限していた。
 「いい年齢して脂っこいものばかり欲しがるんじゃないよ! 子供がオヤジになったらどうするんだい!」
 「肉を食べずにどうやって力を出せって言うの?」
 「あんたも母親なら、生まれてくる子供のために節制しな! もう若くないんだから、身体を整えないと子供に悪影響が出るんだよ!」
 「ぐぬぬ…………」
 これが医師でなければ殴りかかりたい衝動をマゴットは必死に耐えた。
 気持ちはともかく、マゴットが出産には高齢であることは確かな事実であり、それが子供に悪影響を与えることは絶対に避けなければならなかった。
 「す、すごい……あのマゴットが完全に言い負かされるなんて……」
 空気を読まずにイグニスは感嘆する。
 「あんたも嫁の面倒くらいしっかり見な! あたしの見立てじゃ、ちょいと難産になるよ!」
 「なんだって?」
 医師の言葉にイグニスは顔面を蒼白にする。
 生まれてくる子供も大事だが、愛する妻は自分の命よりも大切な存在であった。
 まして高齢出産となるのを承知で子供を望んだのはイグニスであり、医師の口から妻の難産を告げられて平静でいられるはずがなかった。
 「大丈夫よ……私が負けるところが想像できる?」
 「君はいつでも私の最強の女神さ……でも苦戦しそうなときは心配くらいしてもいいだろう?」
 甘い雰囲気でお互いに見つめ合うイグニスとマゴット。
 「いちゃつくのはあとにおしっ!」
 やれやれ、とばかりに肩をすくめて医師は笑った。
 二人ともいい年齢をしているくせに、妙に微笑ましい夫婦である。
 実のところマゴットの身体の消耗は、通常の妊婦に比べて大きく、そのことは本人が一番良く知っているだろう。
 それでも前向きに笑って頑張れる気力があれば、自分がなんとかして見せる。
 言葉には出さずに医師は柔らかい眼差しで二人を見つめた。

 とはいえ、コルネリアスの戦力の要であるマゴットの脱落は、敵味方を問わずに影響を与えずにはおかなかった。
 銀光マゴットは一個大隊に匹敵するという表現は決して誇張ではなく、攻者三倍の法則を鑑みれば一個連隊の戦力がコルネリアスから失われたに等しいのだ。
 しかし、敵の不幸は味方の利益なのが普通であるが、ハウレリア王国としてはいささか困った事情が存在した。
 「この好機を逃せと言うのか?」
 「……確かに銀光が出産のため身動きできないのはまたとない好機。しかし長い時間をかけマウリシア王国に根を張った売国貴族を動かすためにはアントリムでなくてはなりませぬ。何とぞご賢察のほどを!」
 荒ぶる主君をドルンは必死で諌めた。
 ドルンとて断腸の思いである。なんといってもイグニスを討ち果たすことはセルヴィー侯爵家にとっても悲願というに等しい。
 だが、アントリムという火薬庫を餌にして、マウリシア国内の守旧派貴族の取り込みを図ろうとしている今、正面からコルネリアスに侵攻するのはデメリットが大きすぎたのである。
 「あの辺境がなんだというのだ! 今の兵力差なら、すべてはコルネリアスを突破してしまえば解決するではないか!」
 憤懣やるかたなくセルヴィー侯爵アンドレイは叫ぶ。
 強兵で知られ森に囲まれたコルネリアスを突破してしまえば、現在の弱体化したマウリシア王国軍など鎧袖一触になぎ倒す自信がアンドレイにはある。
 問題は王都キャメロンに引きこもってしまった場合だが、そうなれば工作していた守旧派貴族たちが、王国を離反することは確実であった。
 バルドを代表にした新興貴族と、守旧派貴族の対立を煽り、マウリシア王国の弱体化を図った策謀がこんな反動をもたらすなど予想もしなかった。
 よりにもよって、なんというタイミングで妊娠してくれるのだ。どこまでいっても不快な女よ!と理不尽な怒りにアンドレイは駆られたが、さすがに一侯爵家の独断で戦端を開くことは憚られた。
 「口惜しいが陛下の玉断にお任せするしかあるまい」
 未練を振り払うように、乱暴にアンドレイはソファに腰を下ろした。
 ほっと一息ついたドルンもまた、主君の口惜しさを共有して唇を噛みしめていた。
 すでに王宮がアントリム討伐に傾きかけているという情報を、すでに得ていたからであった。

 セルヴィー侯爵家で主従が切歯扼腕している数日前のこと。
 ハウレリア国王ルイはサヴォア伯爵から届けられた魔道具の映像に固唾を飲んでいた。
 「これがあのアントリムだというのか……?」
 ルイの知るかぎり、アントリムは牧歌的な片田舎であったはずであった。
 しかもハウレリアとマウリシアの係争地であることもあって、何度も戦火に焼かれ大きな産業が育たずにいた不毛の地であった。
 地政学的にハウレリア王国の中央部を狙える要地でなければ、敵も味方も見向きもしなかったであろう。
 ところが目の前に映し出された映像には、見るからに堅固な防御陣地に、予想を何倍も上回る常備兵力がそんなルイの認識を咎めていた。
 アントリム子爵が赴任してきてから半年余り。
 いくらバルドが天才的な内政家であったとしても、ありえない変化だとルイは思う。
 「……ゆゆしき事態でございますね」
 絞り出すようにそう呟いたのは宰相のモンテスパン公爵である。
 今年三十四歳になる若き宰相は、国王とともにハウレリア王国の悲願であるマウリシア王国征伐の中心人物であった。
 対マウリシア王国戦の要は時間との勝負であることを知っているだけに、アントリムの要害化は決して見過ごすことのできない問題なのだ。
 「ふん、たかがこの程度の兵力で我が軍を食い止められると思ったら大間違いだ」
 つまらなそうに鼻を鳴らすのは、軍務卿のリュビニー公爵であった。
 「なるほど、防備に手をかけていることは認めよう。だがこの程度でアントリムを防衛できると考えているのなら自信過剰もいい加減にしろ、と言ってやりたいところだな」
 初めて見る有刺鉄線や塹壕は、確かに厄介そうに見えなくもない。
 しかしアントリムに侵攻する兵力は、アントリムの総兵力の十倍ではきかないのだ。
 数の暴力に抵抗するには有刺鉄線や塹壕はあまりにもか弱い防御施設であるようにリュビニー公爵には思われたのだった。
 「ここで損害を増すと後の戦略に障害が発生します。アントリムなどに何千も消耗する余裕は我が国にはないのですよ?」
 「苦戦することも余は認めぬ。鎧袖一触でなくては日和見どもは動かぬからな」
 「御意」
 アントリムが陥落すること自体は、この場に集まった閣僚の誰ひとりも疑ってはいなかった。
 問題なのはただ、そこで浪費される時間と兵力である。
 ハウレリアの国家戦略は今も昔も兵力差を利用した短期決戦であった。
 経済力、農業生産力、工業生産力全てでマウリシア王国が勝る現状、人口と兵力で勝負する以外にハウレリアに勝ち目はない。
 「このアントリムの増強……宰相はどう見る?」
 国王の下問に宰相は困惑した表情で、自信なさげに答えた。
 「我が国とマウリシア王国が開戦する場合、いつもアントリムは真っ先に攻められる土地ですから……ここを固めるのは時間稼ぎとしては間違ってはいません。しかしいかにも非効率的すぎるという懸念はございます」
 アントリムを放置しておくと、マウリシアからがら空きの王都に逆侵攻される、という危険性を拭えない。
 ゆえにこそハウレリアはアントリムを攻撃するのだが、アントリムは三方をハウレリア王国に囲まれた、いわば袋の鼠である。
 わざわざ巨額の投資をして守るには、効率が悪すぎる土地であった。
 本気で守るつもりなら、本格的な砦と一個連隊規模の騎士団を常駐させるくらいでなくては、時間稼ぎすることすら怪しい。
 それをあえてやってきたことに、宰相は不気味さを感じずにはいられないのである。
 「軍務卿はどうだ?」
 「腑に落ちないことは確かですな。しかし少なくともこの指揮をとっているのはアントリム子爵で間違いありますまい」
 「ウェルキンの指示ではないというのか?」
 「資金はともかく、この防御施設からはマウリシア軍の色が何一つ感じられませんので」
 両国とも、長年敵対しているだけにお互いの手の内はある程度見通している。
 リュビニー公爵はアントリムから感じる戦略思想が、どこか異質であることを感じ取っていた。
 もっとも、素人くさいという感覚ではあったが。
 「では尋ねる。アントリムをどれほどで陥とせる?」
 「被害さえ惜しまねば一日で、そうでなければ三日もいただければ」
 「その言葉、嘘はないな?」
 リュビニーはいかにも心外な、と言いたげに目を丸くしてみせた。
 「陛下におかれては、どうか我が国の鍛え抜かれた兵士たちを信じていただきたい」
 平和にふ抜けたマウリシア王国と違い、常に臨戦態勢にあったハウレリア王国軍は兵の練度で圧倒的にマウリシアを上回る。
 戦力に絶対の自信を持つリュビニーは、あれしきの施設でアントリムを守れるはずがないことを確信していた。


 時はバルドがセイルーンとセリーナに土下座する二日ほど前に遡る。
 「しっかりして! ブランドンさん! 明後日にはアガサ様が帰ってくるわ」
 「うおおおおおおっ! 鬼か! 俺にあと二日も寝るなというのかあああああ!」
 土気色をしたカサカサの肌で、眼だけはらんらんと輝かせたブランドンは無情に積み上げられた書類を前に絶叫した。
 この一週間で熟睡できたのはわずか六時間に満たないだろう。
 ひたすら書類と格闘してきたブランドンにとどめを刺すように、大量の書類が追加される。
 その書類を持ってきたマチルダも、化粧はしても疲れは隠せず、髪も艶を失ってところどころに枝毛が目立っていた。
 しかしこの地獄の日々にもようやく終わりが来ようとしている。
 それだけを希望にブランドンは気力を必死に奮い起こし、雄々しく書類に立ち向かった。
 「あ、すいません。私たち明後日から有給休暇を取らせてもらいますので決済お願いしますね」
 「てめえの血は何色だあああああ!」
 自分を差し置いて休暇を確保しようとする部下たちに、ブランドンは血の涙を流して慟哭した。
 哀れなブランドンが休暇を取れるのは、残された事務職たちのなかで最後になるのは明らかであった。

 ハウレリア王国が戦の動員を開始した、という報告はたちまちマウリシア国王ウェルキンの知るところとなった。
 どこの国もそうであるが、常備兵力として養うことのできる騎士の数は限られており、限定的な紛争であればともかく、本格的な戦争となれば平民から大量の兵を徴兵しなければならない。
 農業国で人口密度の低いハウレリア王国では、この徴兵を実行するのは容易なことではないのである。
 当然の結果として相手国に侵攻の意図を知られてしまうため、往々にして戦争は騎士団による奇襲攻撃から始まり、順次本格動員に移ることが多かった。
 「――予想の範囲内、というところか?」
 人の悪そうなウェルキンの笑みにハロルドはため息をついて首を振った。
 「いえ、予想以上です。おそらくは我々が考えていた以上に我が国に巣食っていた病根は深いかと」
 もともとバルドを餌に反国王分子を釣りあげるというのが、ウェルキンの目論見であり、マイルトン家を足がかりとした一連の騒動は当初から国王の監視下にあった。
 すでにマイルトン家に同調し、アントリム子爵家排斥に動こうとした貴族はリストアップされ、不穏分子として内偵が進められていた。
 その数は決して多いものではなかったが、かといって無視できるほど少ないものでもなかった。
 守旧派貴族の勢力を削ぐには、むしろ手頃な規模であるとウェルキンは考えていたが、ハウレリア王国のあからさまな反応を見る限り、もっと多くの内通者がいる可能性が高かった。
 「ボーフォート公爵はどうしている?」
 ウェルキンは十大貴族の長老にして、かつての筆頭貴族でもあった老人の反応を尋ねた。
 王国でも影響力の大きい、十大貴族の一角が、本格的に反旗を翻せばその影響は計り知れないものとなる。
 何かとウェルキンに批判的な守旧派貴族の黒幕が、どの程度を覚悟を決めているかによってウェルキンの方針も大きくかわるのであった。
 「ヘイスティングス伯爵らと頻繁に連絡はとりあっているようですが……少なくとも軍に動きはないかと」
 かの公爵が、謀反の先頭に立って決起する可能性は低いであろうとハロルドは考えていた。
 そうしたリスクに立ち向かう気概から縁遠いからこそ、彼らは王国の発展についていけない守旧派であるのだから。
 「おそらくはハウレリア王国の軍が成果をあげるかどうかで、去就を決めるつもりでしょう。緒戦に敗れると危険ですね」
 彼らがマウリシア王国に対して、まともな忠誠心など持ち合わせていないことを、ウェルキンもハロルドも先の戦役で思い知らされていた。
 あのときの無秩序な貴族たちの暴走を、ハロルドは片時たりとも忘れたことはない。
 若き日の屈辱を二度と味わぬために、現実主義の徒であることを自身に科してきたつもりだが、それは甘くはなかったか?
 迫りくる軍靴の足音を前にして、ハロルドはそう自問せずにはいられなかった。
 「危険なしに王国を変えることなどできるものか。そう心配せずとも、あの戦役を繰り返すことなどありはせん」
 「……根拠をお聞きしても?」
 陰謀を企んでいても、内面は甘い夢想家である国王に、辛口の宰相としては問いただしておく必要があった。
 「ハウレリアの第一手はアントリムであることは変わらん。考えてもみよ、アントリムの小僧がやすやすとハウレリアにいたぶられる男か? ましてあの男には、敵も多いが味方も多いであろう?」
 かつての戦役で一族郎党全て滅ぼされてしまった先代のアントリム子爵は、領民思いではあったが、指揮官としては無能であった。
 だがバルドはそうした平凡さとはもっとも縁の遠い人物だ。
 少なくともハウレリア王国軍のど肝を抜く程度のことは軽くやってのけるに違いなかった。
 細部の内容まではわからなかったが、バルドがアントリムで進めている防備が、常識を一歩も二歩も踏み外したものであることは想像に難くない。
 「期待のしすぎは禁物です。アントリムの兵力ではハウレリアの精鋭を相手に善戦することは出来ても勝利することは難しいでしょう」
 「相変わらずつまらん奴だな。もしかしたら十倍以上の敵を蹴散らして勝つかもしれんじゃないか」
 演技とも本気ともつかぬ様子で肩をすくめる国王に、ハロルドは冷たい声で釘をさすのを忘れなかった。
 「勝てなかった場合を考え、有能な家臣を無駄死にさせないのが我らの務めです。面白がるのは勝ってからにしてください」
 勝つための布石は打ってきたつもりでも、想定していたより開戦の時期が早い。
 バルドという異分子の登場が、果して吉と出るか凶と出るか。
 戦うからには負けることは許されないのが、国王の懐刀としての使命である。
 宰相にとっては眠れぬ夜が続きそうであった。


 ハウレリア王国軍には七つの騎士団が存在する。
 マウリシア王国が所有する四つの騎士団の、ほぼ倍の規模を誇る精鋭であり、ハウレリア王国がマウリシア侵攻のために鍛え上げてきた切り札的な存在でもあった。
 そのひとつである蒼竜騎士団の団長を勤めるのが、先の戦役で不慮の死を遂げたソユーズ将軍の息子であるボロディノ・ダンピエールである。
 父に似て非凡な戦術眼を持ち、部下を心服させるカリスマに溢れた彼は、ハウレリア王国軍の次代を担う者の一人として期待を一身に集めていた。
 しかし彼が武門の名門であるダンピエール家の当主で、名将ソユーズの後継者であることを考えれば、その地位は不相応に低いものと言わざるを得ない。
 騎士団長は将軍の地位から二段階ほど下の戦術指揮官である。
 父ソユーズが次期軍務卿として、軍の最上位に立とうとしていたのに、なんという零落ぶりであることか。
 それを思うとボロディノは腸が煮えくりかえる思いであった。
 あの運命の日、コルネリアスの物騒なひとつがいによって首を落とされるまで、ソユーズはハウレリアに連戦連勝をもたらして名将の名を欲しいままにしていた。
 そんな父が誇らしく、自らも立派な軍人たることを志して騎士に入隊したばかりのボロディノは、訓練先の営庭で、父の死の報告を聞いた。
 「嘘だっ!」
 信じられなかった。
 誹謗中傷の類であってくれ、と祈りもした。
 しかし父が乱戦のなかで討ち取られ、味方が壊滅的な被害を被ったことは逃れようもなく事実であった。
 勝利の立役者として賞賛と尊敬を集めてきた父は、一転して敗北の無能な指揮官となった。
 これまで父に阿るようにまとわりついていた人間たちは手のひらを返したように、ボロディノを非難した。
 ソユーズ将軍は軍人としてあるまじきことに暗殺に手を染め、軍神の怒りを買ったのだ、と。
 後日、父が銀光マゴットの暗殺を企図したことを聞いたボロディノは、父らしい合理的な策であると首肯した。
 味方を無駄死にさせることを何よりも嫌った父であった。
 作戦は奇をてらうことなく、あくまでも愚直に合理的、そして負けない戦を心がけることにかけて、父以上の指揮官をボロディノはいまだに見たことがない。
 すべてはあの銀光と、コルネリアス伯爵があまりに規格外すぎた、不幸な偶然の産物なのだ。
 今こそ父の汚名を雪ぎ、因縁に決別する日がやってきた、とボロディノは信じた。
 「腕がなりますな、団長殿」
 副官のモールスはボロディノの静かな闘志を誰よりもよく承知していた。
 もともと彼は、ソユーズの代からダンピエール家に仕えた長年の部下である。
 落ち目のダンピール家を誰もが見捨てていくなか、忠誠をつくし続ける数少ない家臣であった。
 「相手が息子バルドというのが残念ではあるが……やるからには圧勝して格の違いを見せつけてやる」
 語気も荒く断言するボロディノの宣言は、決して自信過剰というわけではない。
 経済復興を優先したマウリシア王国と違い、軍事力の再建を優先したハウレリア王国では、その装備や質量ともに、明らかにマウリシア王国を優越している。
 兵力の数や、士気の高さ、練度もさることながら、武装や馬の品種にいたるまで、その違いは様々なところにまで及んでいた。
 彼が騎乗する馬にしても、戦役のあとにガルトレイク産のアルトセイユを改良した軽種馬で、地球上ではプロイセン王国が改良したトラケナーによく似ていた。
 在来種よりスピードに優れていながら、スタミナも優れた品種で、軍馬としての性能は世界最良とまで言われたものである。
 スピードこそサラブレッドに劣ったため、競馬界からは廃れて久しいが、軍事用として用いるならば今なおこのトラケナーを越える馬は生まれていないといえるだろう。
 これに対し、マウリシア王国で一般に普及している軍馬はマチェッタである。
 太い首と広い胸が特徴的な馬で、農耕用として用いられることの方が多い。
 地球の馬に例えるとすると、重種のブルトンに近いだろうか。
 力が強く、忍耐強くて素直な性格だが、反面瞬発力やスピードに欠けるきらいがある。
 どちらが軍馬として優れているかは、いまさらいうまでもあるまい。
 「ソロバン勘定だけで戦争など出来ぬことを教えてやる」
 一般的なハウレリア軍人の評価として、軍事費を削り、経済発展のため投資に予算を割いてきたマウリシア王国に対する採点は辛い。
 経済力は国力の重要な指標ではあるが、軍事力の裏付けのない経済力は敵の餌にしかならない、というのが現在の軍人の常識であった。
 せっかくの美味しい果実も、敵国に占領されてしまっては何の意味もないからだ。
 「ダンピエール団長閣下、フランドル将軍より伝令です」
 まだ十代の若々しい従騎士の少年が、ボロディノを指揮する上司の命令を伝えた。
 今年四十八歳になるフランドル将軍は、父ソユーズの副官を務めたこともある叩き上げの実戦指揮官である。
 動員された新編の二個旅団と、三つの騎士団を率いることになるアントリム侵攻軍の司令官として抜擢されただけあって、速攻と果敢さに定評のある人物であった。
 「すぐに向かう」
 復権を狙うボロディノにとって、同じ騎士団の団長たちは手柄を競うライバルである。まずは軍議でフランドル将軍の評価を得て、先鋒の栄誉を獲得しなくてはならなかった。

 ハウレリア王国軍務省は、王都から北へ三キロほど離れた場所にある。
 重厚な大理石をふんだんに使った巨大な建造物が発する威容は、下手をすると王宮よりも迫力を感じてしまうほどだ。
 ボロディノが到着したときには、すでに遠征軍の主要なメンバーは軍務省内にある会議室に集まっていた。
 フランドル将軍を中心に、その右を首席幕僚のバルノーが陣どり、左右に白竜騎士団長と黒竜騎士団長が座っていた。
 ただでさえ殺伐とした雰囲気のなか、軍議の席に座ったボロディノは、フランドル将軍が思ったより険しい表情を見せていることに、内心で首をかしげた。
 フランドル将軍は、本来陽気で攻撃的な戦術指揮官である。
 こうした軍議においても、自ら進んで積極的な運動戦を好むことを、かつて部下を勤めたこともあるボロディノは知っていた。
 「今回の先陣だが――民兵に任せることになるだろう」
 「そんな……! 承服できませぬ、将軍!」
 激高して抗議の叫びをあげたのは白竜騎士団の団長であり、ボロディノのライバルでもあるマッセナ・ランパードである。
 久々の対外戦という華舞台に、騎士団が後塵を拝するなどあってはならぬことであった。
 ボロディノもまた、この点に関してだけはライバルに完全に同意した。
 「アントリムの攻略は速戦即決が基本であったはず。一刻も早く突破しなくては渓谷の出口を塞がれますぞ!」
 アントリムを攻略することは何も難しいことはない。
 ボロディノもマッセナもそのことについていささかの疑いももたなかった。
 問題なのはアントリムの先の隘路の渓谷を塞がれると、進退が著しく困難となることである。
 渓谷の出口はフォルカーク准男爵領であるが、そのすぐ背後には精強で知られるブラットフォード子爵が控えているため、侵攻するには難しい土地柄なのだ。
 「アントリムを以前のアントリムと思っていると足元をすくわれるぞ。これを見ろ」
 そういってフランドル将軍は、先ほど軍務卿から渡されたアントリムの資料をテーブルに放り投げた。
 魔道具で保たれた鮮明な画像に、ボロディノたちは息を呑む。
 「こ、これは……」
 「いつの間に……」
 初めて見るアントリムの防御施設に対する脅威が理解できないほど、二人は愚かな指揮官ではなかった。
 「……これを短期に突破するのは至難の業かもしれませんな」
 そう言葉を発したのは騎士団のなかでも最年長の黒竜騎士団長、ランヌ・ベルナールである。
 口数は少ないが、どんな困難な任務でも黙々と果たす献身的な粘り強い用兵で、騎士団のなかでも一段高い信頼を得ている男であった。
 「マウリシア王国との戦いは時間が勝負となることは卿らも承知のことと思う。まして敵中に孤立したアントリムごときに苦戦した、ということになればマウリシアの士気は上がり、何より彼らに戦力を蓄える時間を与えてしまうだろう。我々は鎧袖一触にアントリムを占領せねばならぬ。たとえ彼らがどれほど防御を固めていようと、だ」
 華々しい先陣の名誉を与えられたかと思えば、それは達成の困難な茨の道であった。
 フランドルにしてみれば、言い方は悪いが騙されたような思いなのであろう。
 ボロディノにはフランドルの懊悩が理解できた。
 父ソユーズもそうであったが、勝利を期待されて敗北した指揮官に待っているのは屈辱と非難の嵐しかない。
 ただ勝つだけではなく、短期間で、しかも圧勝しなくてはならないハウレリア軍は、圧倒的な戦力を所有しながらも逆に追い込まれていた。
 「民兵どもの数で押すしかありますまいな。この風変わりな防御陣地は厄介ですがアントリムの兵力では数に対抗するのは難しいでしょう」
 「そのアントリムの兵力だがな。控えめに見てかつての倍以上、千名程度はいるものと考えてよい」
 「あの田舎で賄える人数ではないように思えるのですが」
 周りを敵に囲まれたアントリムは、子爵領ではあるが、実質的に男爵領よりも収入は低いとみられていた。
 にもかかわらず伯爵領に近い兵を動員しているとなれば、そこに何らかの理由があることは明らかである。
 「あるいは罠、という可能性もある。しかしこのまま手をこまねいてアントリムが要塞化されてしまっては今後の対マウリシア戦略が根底から覆り、場合によってはマウリシアとの戦いそのものを諦めることにもなりかねん。――――今しかないのだ」
 フランドルも軍人として培われた性質ゆえか、戦いを諦めマウリシアと修好を結ぶという選択肢は考えもしなかった。
 いかにしてマウリシア戦に勝利するか。
 それこそが戦役後のハウレリア軍部の存在理由であり、これを捨て去ることなど出来ようはずがなかった。
 「……しかし民兵の損害も馬鹿にならぬでしょうな……」
 沈痛そうな表情でマッセナは呟く。
 騎士団と違い、徴兵された練度の低い民兵は、失われても補充が容易い兵ではある。
 しかし一般民衆から徴兵されているだけに、大きな損害を被ると、ダイレクトに世論に影響してしまうのだ。
 封建国家であるハウレリア王国であっても、国民世論というのは馬鹿にならぬ影響があるのであった。
 「基本は陽動に徹するしかありますまい。ごく一部の部隊で一点突破を図ればあるいは」
 幕僚のバルノーが渋々といった様子で提言した。
 彼自身が、その策に自信を持っていないことが明らかな口調であった。
 「魔法士を集めて、敵の解除を上回る飽和攻撃をしてはいかがか。兵の数は集められても魔法士までそうそう集められるものではありますまい」
 ボロディノの提案にフランドルは深く頷いた。
 「なるほど、数に頼るのであれば、魔法を生かせば損害は減らせるであろう。私からも各隊に魔法の拠出を頼んでおこう」
 魔力程度ならば一晩寝れば回復する。
 ようやく勝ち方に一定の目途がついたことで、フランドルはホッと胸をなでおろした。
 「将軍閣下。我が蒼竜騎士団は、騎士団の中でももっとも魔法士の多い部隊でございます。なにとぞ民兵とともに先陣をお申し付け願いたい」
 見事な駆け引きというべきであろう。
 ボロディノを見てフランドルは不敵に笑った。
 どうしてボロディノが武功を立てなければならないのか、ソユーズの副官であったフランドルは痛いほどによく知っている。
 この際、その高い戦意は非常に利用しやすいものである言うこともできた。
 「よかろう。見事手柄をあげてみせよ」


 バルドがアントリムに赴任して以来、フォルカーク領はかつてない好景気に沸いていた。
 当初はバルドの赴任を快く思っていなかったアランも、アントリムの人口が拡大し、様々な物産が流通するようになると、必然的に商隊はフォルカーク領を通らざるをえず、結果的に多くの金がフォルカーク領に落ちることとなったのである。
 税収が増え、懐が豊かになってくると、アランはバルドに対して抱いていた敵意も忘れて、ヘイスティングスら守旧派貴族と距離を置くようになっていた。
 先日のバルドとアガサの婚約においても、アランは使者から求められたバルドに対する義絶を断っていた。
 しかもただ豊かになるばかりではなく、アントリムとの取引を通じて、王都でもなかなか手に入らない貴重な品をアランは手に入れていた。
 このままいけば、守旧派貴族に頼らずとも、アランは中央に返り咲くことが出来るかもしれなかった。
 「それはまことかっ!」
 憤懣やるかたなくアランは叫ぶ。
 ハウレリア王国で、軍部が臨戦態勢に入ったことを部下に告げられたアランは、せっかく順調であった夢が瓦解していく音を聞いた気がした。
 「矛先はほぼアントリムで間違いございません。すでに国境の村々からは若者が徴兵され、王都で編成に入ったといわれています」
 冗談ではなかった。
 アントリムがいかに栄えていようとも、ハウレリア王国との戦力差はいかんともしがたい。
 ほとんど瞬時にアントリムは蹂躙され、このフォルカークへ向かって敵が攻めてくるに違いなかった。
 「あと少し……せめてあと二年あれば我が宿願も叶ったものを!」
 戦争は控えめに見積もっても金喰い虫である。
 人件費と食糧や武具、宿泊の費用を考えただけでアランは目まいがする思いであった。
 劣勢での防御戦である以上、何ら得ることなく戦費が出し損に終わることは明らかであった。
 また一から王都で運動費用を貯蓄しなくてはならない、その時間と労苦を思うとアランは夢を諦めなくてはならないかと本気で考えた。
 「当主様、ヘイスティングス家から手紙が参っておりますが……」
 「何っ? 早く見せよ!」
 恐る恐る現れた使用人から、奪うように手紙をもぎ取ると、アランは貪るように手紙の文字を追った。
 ――――アントリムわずかに兵員千名、対するハイレリア軍数万名、勝敗は自ずと明らかである。すぐにも勝利の勢いにのったハウレリア軍は、一気呵成にフォルカーク領を蹂躙するであろう。仮にブラットフォード家がこれを押しとどめるのに成功したとしても、膠着した戦線を支える費用はフォルカーク家の財政を根幹から破壊することは間違いない。
 手紙にはアランが想定した通りの予想が綴られていた。
 やはりヘイスティングス伯爵もそう考えておいでなのだ、とアランは頷く。
 ――――ならばいっそ渓谷を崩落させハウレリアの侵入を阻むべし。フォルカーク家が辺境から離れたいなら、これよりほかにその術なし。
 さらに手紙は最後にこう結んでいた。
 フォルカーク家の将来はかしこき所に任せられよ、と。
 そのかしこき所がボーフォート公爵を指すであろうことは、貴族であればだれでも推測が可能な話であった。
 「――――我が国を守るためだ。やむをえん」
 絶望の淵で差しのべられた手に、アランは一も二もなく飛びついた。
 このところ利益をもたらしてくれたとはいえ、アントリムのためにアランが身を切ることはありえない。
 バルドを見捨てることに、アランはなんらの良心の呵責も感じていなかった。

 ヒュン、と風切る音とともに、刃のきらめきが宙に踊ったかと思うと、風に運ばれてきた木の葉が細切れにされて跡形もなく散っていく。
 普通であれば、見事というほかはない光景なのだが、ひどく不満そうに眉を顰めて、マゴットはため息をついた。
 彼女にとってその出来は、本来の力の十分の一どころか百分の一程度にしか思えなかったからだ。
 大きく膨らんだ腹に手をやり、その愛おしさにいくぶん表情を和らげたものの、人生を武で切り拓いてきたマゴットにとって自らの無力さは歯がゆくてしかたのないものであった。
 「銀光ともあろうものが、戦を前にしてこの体たらくとはねえ……」
 コルネリアスにも、いや、むしろコルネリアスだからこそハウレリアとの再戦が近いという情報はたちまちのうちに広まっていた。
 同時に、ハウレリアの第一目標はアントリムである、ということも。
 もしもマゴットの体調が万全であれば、彼女は今すぐにもアントリムに向かったであろう。
 愛する息子が置かれた状況の深刻さがわからないほど、マゴットは戦略にうとくはないのである。
 かつてコルネリアスが陥落の一歩手前までいったときよりも、現在バルドが置かれた状況は過酷であるとマゴットは確信していた。
 苦しみながら育てあげてきたたった一人の息子である。
 生まれたばかりのバルドを、その手に抱いたときの心を衝き動かす感動を、マゴットは片時も忘れたことはない。
 本能が確かに感じる血のつながり。
 戦いのなかで死ぬだけだと思っていた自分が、人の親になったのだという実感。
 そして愛するイグニスとの間に子供を為すことが出来たという安堵。
 そんな感情がないまぜになって、マゴットは声もなく哭いた。

 ――――自分はこの世に生まれるべきではなかった、と考えていたころもあった。
 だから持って生まれた名を捨て、マゴットを名乗った。
 自分が生んだ子供を不幸にしてしまうのではないか、という不安に眠れぬ夜を過ごしたこともある。
 イグニスの過剰なまでの愛情表現がなければ、マゴットはこの懊悩から解き放たれることはなかったであろう。
 まさに目に入れても痛くないほど可愛いバルドであったが、五歳になったある日、突然謎の高熱に倒れ生死の境を彷徨った。
 どうして病に倒れたのが自分ではないのか、理不尽な怒りを覚えつつ、マゴットは寝食を忘れてバルドの看病にあたった。
 奇跡的にもバルドは回復したものの、今度は三重人格となってしまった我が子にマゴットは内心で頭を抱えた。
 しかし禍福はあざなえる縄のごとしとはよく言ったものである。
 武将の前世を受け継いだバルドは、マゴットが驚愕するほどの武人としての素質を開花させた。
 命よりも大事な可愛い息子が、同時に鍛え甲斐のある有望な弟子となったのだ。
 それからの親子の肉体言語による修行と言う名の会話は、マゴットにとって何にも勝る悦楽となった。
 育児に没頭しすぎて、バルドに続く第二子の誕生がひどく遅れたことからも、どれだけ彼女がバルドに夢中であったかがうかがい知れる。
 成長した愛息は、セイルーンとセリーナという嫁を迎え、母の手を離れた寂しさとともに、孫の誕生という、親ならば誰もが夢見る至福の悦楽をマゴットに期待させた。
 自分の手で鍛え上げるという楽しさから、少し離れた場所で、我が子の成長を見守るという楽しさを覚え始めた矢先でもあった。
 「バルド……」
 息子の強さを信じていないわけではない。
 あれはマゴットが知るかぎり、戦場でもっとも敵に回したくない有能な指揮官だ。
 問題はバルド自身の経験の少なさと、その手足となるべき兵の質と数である。
 幕僚となるブルックスやネルソンはいかにも経験が足らず、ジルコを中心とした傭兵あがりは経験は豊富だが忠誠心に疑問が残る。特に圧倒的な戦力差で侵攻してくるハウレリア軍を前にして、彼らが逃亡しない保証はどこにもないのであった。
 これまで気の向くままに殺しまくってきた兵士、暗殺者、傭兵……彼らの無惨な死に様が、今になってマゴットの脳裏にバルドの死を連想させた。
 自分が本来の調子でさえあれば、アントリムを勝利させることは無理でも、バルドを無事脱出させることぐらいはわけはないのだが……。
 「ふがいない……息子一生の危機に母として何もしてやれんのか」
 闇雲に剣を振りまわし、肩で息をつくマゴットを背後からたくましいふたつの腕が抱きしめた。
 「……気は済んだかい?」
 「済むわけがないっ! いいのかイグニス? あの子が死ぬかもしれないんだぞ?」
 一瞬、マゴットがバルドを殺す確率のほうが割と高かったんじゃ、とイグニスは思ったが、賢明にも口には出さず愛する妻を抱きしめるに留めた。
 「夜風はお腹の子に悪い……今は私に任せておけ」
 口惜しそうに唇を噛みしめる妻に、まるで舌先で舐めあげるようなキスをしてイグニスは微笑んだ。
 もちろんイグニスもバルドを無策のまま見捨てることなど考えてもいない。
 しかしアントリムの後、戦場になることが確実なコルネリアスの守備に手を抜くこともまたできなかった。
 いくら財政的に好転してきたとはいえ、戦争の準備には莫大な資金と人手が必要となる。
 そこでイグニスが頼ったのは親友であるマティスであった。
 マティスのブラットフォード子爵領はアントリムからほど近く、援軍を送りやすい状況にある。
 またかつての戦友として、マティスの優れた戦術手腕をイグニスは深く信用していた。
 ましてマティスにとってバルドは娘テレサをサンファン王国王太子妃に押し上げてくれた大恩人である。
 むしろ嬉々として援軍の整備を始めていた。
 「今こそバルド殿に積年の恩を返すとき!」
 そう叫ぶマティスは十年ほど若返ったように見えたという。
 「マティスは領内全軍をあげて支援することを約束してくれている。マティスの弟のギーズ男爵も協力してくれるようだ。ハウレリアにしてもアントリムだけに全軍を差し向けられる余裕はあるまいよ」
 ハウレリアとしては、所詮アントリム侵攻は前哨戦であり、勝って当たり前の戦いである。
 逆侵攻の拠点となりうるアントリムを制して、コルネリアス攻略に本腰を入れるのがハウレリアの基本方針である以上、それほど多くの軍勢をアントリムに向かわせる理由がなかった。
 この時点でイグニスはアントリムの守備態勢が、ハウレリアで大いに警戒されていることを知らない。
 マティスと、その近郊の諸侯で数千の援軍を送ることができれば、あとはバルドの采配で十分に勝算はあるものとイグニスは考えていたのである。
 「甘い――――甘いよイグニス」
 力なくマゴットは頭を振った。
 初めて見る妻の弱々しい少女のような表情に、イグニスは困惑を隠せない。
 いつだって自力で道を切り開いてきたマゴットである。
 性格は可愛らしく乙女なところはあるが、根っこのところは間違いなく一個の美丈夫であった。
 そのマゴットが、身も世もなく無力な少女のように泣いていた。
 「私にはわかる……この戦の中心は間違いなくアントリムになる。下手をするとコルネリアスには様子見にすらこないよ。あれほど感じられた兵気が全く感じられないんだ」
 長年傭兵として戦争の最前線にいたマゴットには、理由はわからないが、不可視の兵気を察知する能力があった。
 戦役の当時、コルネリアスはまるで南方のサイクロンのように凶暴な兵気が取り巻いていた。
 しかし今のコルネリアスは晩秋の小春日和のように穏やかな空気に満ちている。
 対照的にアントリムを巨大な竜巻のように、悪意ある兵気が渦巻いているのがマゴットにはわかった。
 (バルド……無力な母を許してくれ……)
 下腹部に感じる確かな生命の鼓動も、マゴットにとって愛しいものであることに変わりはない。
 断腸の思いとともにマゴットはイグニスの胸にすがりついて慟哭した。


 「いい加減にしろ!」
 これほどバルドが声を荒げるのは珍しい。
 しかしその声にはどこか張りがなく、焦りのようなものが感じられた。
 「何と言われようと、うちらはこのアントリムから離れへん! こればっかりはバルドの言うことでもきけへんで!」
 「こればかりはセリーナに同意します」
 徹底抗戦の構えを崩さないセリーナとセイルーンにバルドはいらだたしげにテーブルを叩いた。
 「もうすぐこのアントリムは戦場になる! だから一旦王都に避難するように言ってるんだ! これは命令だ!」
 アントリム防衛の手は打っているバルドではあるが、それでも非戦闘員に不測の事態が生じることまでは防ぐことは不可能である。
 二人をアントリムから避難させたいというのは、バルドなりの二人に対する愛情の発露でもあるのであった。
 「なんと言われようときけんものはきけへん。うちらだけ安全な場所に逃げるとかありえへんわ」
 「無理やり言うことをきかせようとしても無理ですよ。女たちの連携を舐めてもらっては困ります」
 暗に協力者を匂わせるセイルーンの言葉に、バルドは頭をかきむしって顔を歪めた。
 開戦を控えたアントリムでは猫の手も借りたいほどの人手不足である。
 仮に二人を避難させるとしても、まさか供も付けずに放りだすわけにもいかず、二人が抵抗するならば少なくない兵を同行させなくてはならない。
 しかも供の女性が二人に協力するとなると、安全に二人を隔離することは事実上不可能であった。
 「お諦めください、ご当主様。お二人がいやだと言っている以上、時間の無駄です」
 親の仇でも見るように睨みつけられてもアガサは飄々と受け流した。
 セイルーンやセリーナと違い、アガサはバルドの秘書長としてアントリムに残ることがすでに決定している。
 それはアガサの手腕がアントリムの行政能力の維持に必要なこともあるが、彼女のためにランドルフ家の援軍を引き出すための餌でもあるのであった。
 アガサをランドルフ家に帰してしまっては、援軍をもらう大義名分が成り立たないからだ。

 自分でも我がままを言っていると、セイルーンもセリーナも自覚していた。
 二人の脳裏に思いだされるのは、かつてコルネリアスでトーラスに捕らえかかったときの情景である。
 あの日自分たちの存在が、バルドの足でまといになってしまったのを忘れたことはない。
 それでもなお二人は、バルドのもとを離れることを心のどこかで拒否していた。
 女の本能と言い換えてもいい。
 バルドから離れてはいけない理由がある――――。
 説明のつかぬ確信であるだけに、二人はそれをバルドに告げるわけにはいかなかった。
 「式は挙げていなくとも心は妻や。夫の留守は守らせてや」
 「……です」
 往々にして女たちの連帯に男は無力だ。
 三人の妻と、その配下の部下たちの連帯を前にして、ハウレリアも恐れるバルドに為す術はなかった。

 動員を完了した兵を督戦したドルンは、思っていたよりも早く訪れた復讐の昂揚に酔っていた。
 セルヴィー侯爵家が動員した兵数は、実に三千名にのぼる。
しかも準戦時体制をとり、長年兵士の練度を落とさぬよう鍛え続けられた精鋭ばかりで、その実力はハウレリア王国の諸侯のなかでも群を抜いていると言ってよい。
 惜しむらくは長期戦に耐えうるほどの補給態勢が整っていないことであるが、それはセルヴィー侯爵家ばかりでなくハウレリア王国軍に共通した弱点であった。
 だからこそハウレリアの戦略は短期決戦を前提として立てられており、そのための軍事を優先して戦役後を耐えてきたのだ。
 「…………ようやくこの日がやってまいりましたな」
 「うむ」
 ドルンと肩を並べるようにして、兵たちの様子に目を細めるのは、セルヴィー侯爵家の軍団長を務めるエマールであった。
 髪には白いものが目立ち始めているが、まだまだ身体の筋肉は衰えることなく堂々たる体躯を誇っている。
 かつてはハウレリアにその人ありと知られた騎士であったが、兄の死とともに故郷に戻り、長くセルヴィー侯爵家の軍事を任されてきた人物であった。
 付き合いの長いドルンとエマールだが、二人にはある共通の苦い思いがある。
 「……トーラスにもこの光景を見せてやりたかった」
 表向きには演習中に事故死したことになっているトーラスを誰よりも高く評価していた二人であった。
 生きてさえいれば、この戦では騎士団の先陣を任せ、将来は騎士団長へと歩を進めていたであろう。
 忠誠心が高く、武力も人並みはずれていたが、武人ながら政治も理解し、独自の判断で動ける得難い男であった。
 「すまんな。わたしが命じてしまったばかりに」
 ドルンはトーラスの死亡が確認されたときの、エマールの言葉にならぬ失望と怒りと哀しみをまざまざと思い出すことができる。
 なぜトーラスを生還の難しい過酷な任務に出したのか、そんな怒りとともに、トーラス以外に適材がいないということへの理解。そしてトーラスを救うことのできなかった己に対する無力感。
 エマールは一言もそれを口にせずに、ドルンに対する思いを呑みこんだ。
 何一つ責めらることのなかったことが、ドルンにとっては痛かった。
 「今こそ借りを返そう」
 コルネリアス東部国境の諸侯軍を統括するセルヴィー侯爵家は、およそ七千の軍を率いる予定になっていた。
 すでにセルヴィー侯爵家より南部の諸侯たちの軍が、続々と集まりつつある。
 アントリムを攻略した王国主力部隊の到着を待って、コルネリアスの北部と南部から同時に侵攻するというのが今回の計画であった。
 これに対し、コルネリアス伯爵が率いる軍はおよそ二千程度で、周辺諸侯からの援軍もままならぬ状態であることは、間諜からの情報でわかっている。
 もっとも警戒すべき銀光マゴットが、出産で無力化している以上、もはや恐れるべきものは何もない。
 今こそ積年の怨念に決着をつけるべき時であるはずだった。
 戦役で死んでいった主君の息子、そして自らの息子の姿を瞼に思い浮かべ、ドルンは万感の思いとともに復讐を誓う。
 思っていたとおり、戦を前にしてもマウリシア王国の反応は鈍い。
 ハウレリアのことわざに動かぬ鉄は錆びるという言葉があるが、いざ戦争となったときに平和ボケしていた諸侯が役に立たぬのはドルンに言わせれば当然の話であった。
 今頃マウリシアの王宮では、戦争計画の遅れで、計画の修正にてんやわんやとしているだろう。

 「絶望した! あまりに使えない諸侯に絶望した!」
 「嘆いている暇はありません。早くしないとどうなっても知りませんよ!」
 一方のマウリシア王宮では漫才のような悲鳴をあげている国王と宰相がいたとかいなかったとか。

 セルヴィー侯爵家が営々として積み重ねてきた工作は、国内ばかりでなくマウリシア王国にも及ぶ。
 前の戦役では、功名心の強い諸侯の突出を誘ってせん滅したが、今や力を失い戦を嫌う諸侯には日和見をさせればそれだけでよい。
 戦争に対する消極的な姿勢はそのままハウレリアの利益なのだから。
 「愚かなイグニスよ。今こそ報いを受けよ」
 ハウレリアに約束されていた勝利を、一人の傭兵の特攻を奇貨として盗んだ道化者。
 のうのうとその傭兵と結婚し騎士の面目を穢す戦馬鹿よ。
 貴様は敗北の不名誉とともに報いを受けるべきなのだ。
 トーラスの遺体を返還されて以来、片時も忘れることのなかったイグニスに対する怨念をドルンはもはや隠そうとはしなかった。
 「諸侯軍と本隊合わせて二万七千、防げるものなら防いでみよ」
 かつての戦役をも遥かに上回る戦力差に、ドルンは必勝を確信していた。
 その肝心の本隊の行方にドルンが驚愕することになるのは、まだしばらく先のことであった。


 アントリムへの侵攻ルートは三つある。
 そのうち北側はモルガン山系の険しい山々が自然の要害となり、大軍の侵入を阻んでいた。
 もっとも大軍が展開しやすいのはアントリム西部である。
 ほとんど障害らしい地形もなく平野が広がっているため、約二万に及ぶハウレリアの正規軍は数にものをいわせてこの西部から侵攻する予定であった。
 かといって南部を放置するのは戦術的に見ても愚策である。
 陽動として南部から侵攻するのはサヴォア伯爵とその周辺諸侯千数百名であった。
 この南部国境は、ポトマック川が自然国境を形成しており、その豊富な水量でアントリムを守っていた。
 アントリム側としては開戦と同時に橋を落とし、見張りの兵力を張りつけておけばそれほどの障害にはならない。
 もっとも、サヴォア伯爵他の千数百名だけでもアントリムにとっては大軍であり、その対応に兵力を裂かれるのは非常に痛い問題であった。
 「水門の建設は順調か?」
 「どうにか間に合いました。親方たちを褒めてやってください」
 バルドの言葉に、打てば響くような返事を返したのはテュロスである。
 ブルックスやネルソンといった騎士とは別に、アントリムの工事を一手に任されていたのがテュロスであった。
 バルドにとって、もっとも古い側近となるテュロスは、同時にもっともバルドの常識離れした知識を習得した家臣でもあった。
 「工区を十に区切り、さらに工区ごとに働く班を出身地別に五つにわけます」
 場所に応じて班を分けるのは特に珍しいことではない。
 しかし同じ出身のものたちを集め、それらを競争させることによって作業速度を劇的に改善したことだけが違っていた。
 「八日ごとに進捗状況が一番進んでいた班に褒美を与えます。さらに働きの目覚ましいものにはアントリム子爵の直臣となることができるようはからいましょう」
 この言葉に職人たちの意気の上がるまいことか。
 「今回の褒美は俺達のもんだ!」
 「なめるな! モルガンの山育ちは伊達じゃない!」
 あれよあれよという間に作業は進んだが、これにはモデルとなった前例が存在した。
 左内が仕えていた蒲生家は、主君氏郷が信長の娘婿になったこともあり、その影響を強く受けていた。
 本能寺で信長が横死した後は羽柴秀吉の中核的な存在となり、その手法を学んだ織豊系大名の典型と言ってもいいだろう。
 銭で人の欲望を刺激し、職人を競争させるのは秀吉が得意とした手段であり、左内もまたその方法を熟知していたのだ。
 またプロイセンのカントン制度や、旧日本軍の師団制度のように、軍隊において兵士たちを出身地別に組織して、連帯感を養い競争意識を煽るのは一般的に使われてきた手法である。
 左内と雅晴の知識を吸収したテュロスは見事にそれを使いこなし、アントリムの防御網をなんとか形にすることに成功した。
 おそらくバルドの部下の中で、もっともバルドの意図を正確に受け取ることができるのはテュロスである。
 武においてはブルックスやジルコが、文においてはアガサがバルドの両輪となっているが、本当の意味でバルドの女房役をこなしているのはテュロスなのかもしれなかった。
 「――――あれの貯蔵は?」
 「量が量ですので……一会戦分だけはなんとか」
 「ない袖は振れんよな」
 疲れたようにバルドはため息を吐く。
 ここ何日かで十年も歳を食ってしまったような気がした。
 「重要個所以外は職人の撤収を急いでくれ。もう作業していられる時間は少ない」
 「お任せください」
 もうすぐそこまでハウレリアの侵攻が迫ろうとしていた。
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