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【スポーツ】<創刊60周年カウントダウン企画>有森裕子 銀2016年2月20日 紙面から
1992年夏。バルセロナ五輪女子マラソンで有森裕子(当時リクルート)が2位に入り、日本の陸上女子では64年ぶりとなるメダルを獲得しました。師匠・小出義雄(当時リクルート監督)との秘話、64年前にメダルを取った人見絹枝との縁。バルセロナなど五輪取材を数多く経験した満薗文博記者にとって、最も記憶に残る五輪の物語です。 《尾てい骨をたたくものがある。コツ、コツと小さな音をたてながら、メッセージを伝えてくるのだ。「もうすぐだ、もうすぐだ」−》 1992年8月2日に書いた原稿の冒頭部分である。バルセロナ・オリンピックの女子マラソンは酷暑を避け、現地時間1日午後5時半に始まった。だが、それでもスタート時の気温は32・5度だった。まさに過酷な条件下で、当時25歳の有森裕子は熾(し)烈なメダル争いに挑んだ。36キロから始まったモンジュイクの丘でのエゴロワ(当時独立国家共同体、現ロシア)との一騎打ちは壮絶を極めた。マラソンゲートまで続く上り坂は、4キロの間に80メートル上がる難コースだった。そのゲートを目前に、有森はエゴロワの逃げを許し、ゴールでは8秒差で銀メダルとなった。 冒頭の「コツ、コツと尾てい骨をたたいていた」のは、ショートホープの小箱である。メダルの余韻に酔う小出義雄監督が、意味深な言葉を吐いた。「あれじゃ吸えないよー」。聞けば、6月下旬の米国合宿で、有森と約束したのだという。「お前は一生懸命だ。僕も何か我慢する。メダルを取るまで煙草をやめるか」。監督は、レース後の一服を楽しみに、日本からショートホープをバッグにしのばせていた。だが、それを有森に見つかった。彼女は「もうしばらく我慢して」と取り上げ、パンツに縫い付けて走ったのだった。 銀メダルの後で「ハイ、監督どうぞ」と差し出された小箱は、汗と水で、とても吸える状態ではなかった。壮絶なレースの後で、なんとも爽やかな風が吹いた。私は「師弟愛」をテーマに原稿を書くことに決めたのだった。 8月3日付の本紙1面は満杯となった。今だから明かすが、そのために、原稿の一部が削除されている。ここで、24年ぶりに復活させることをお許し願いたい。 《この日の朝だった。「(腰を痛めていたから)はうようにして有森の部屋へ行きました。魔法瓶8個に、私が水を詰め込み、それに有森がラベルをつけていきました。暑いレースに、水は欠かせない」。小出監督が詰めてくれたその水を、有森は口に含み、頭からかけ、太ももに振りまきながら栄光のゴールを目指した》 1928年アムステルダム大会の800メートルで人見絹枝が銀メダルを獲得してから64年。日本女子陸上が五輪で得た2つめのメダルだった。バルセロナとは時差8時間。日本は2日未明になっていた。くしき因縁がある。人見が銀メダルを取ったのも8月2日、その後、病のために人見が逝ったのも8月2日だった。人見も有森も同じ岡山の出身である。 灼熱(しゃくねつ)と、不思議な因縁に彩られた銀メダルが忘れられない。ちなみに、あの日のショートホープの小箱は、監督の自宅の神棚横に飾られている。 (満薗文博) PR情報
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