第14回目のアドラー心理学を始めます。
「褒める・叱る」は縦の関係を作る
- 課題を分離し、対人関係において互いに協調し、協力し合うためには「横の関係」が大事
- 親子関係においてもそれは言える
- 子供や部下の育成方法において「褒める・叱る」2通りあるが、どちらもアドラーは否定する
- 褒めることも叱ることも、対人関係において相手を上から見ていることになる
- つまり、相手を操作するのが目的なのだ
- 褒めてはいけないし、叱ってもいけない
- 相手と自分は立場は違えど、同じ人間なのである。ここをはき違えてはいけない
「ほめるという行為には、能力のある人が能力のない人に下す評価という側面がある」
今まで散々、子供や部下を褒めちぎってきた人は、これを聞いてたいそう驚くに違いありません。人によっては憤慨するかもしれない。だって、今まで自分の行ってきたことを、こうも真っ向から否定されるのですからね。
でも、考えてみればわかる話でしょう。自分が叱られた時は当然として、褒められた時にはどこかくすぐったいというか、不快感のようなものを感じることはありませんか?それが相手によって変わるのだとしたら、それも対人関係において縦の関係を作り出していることに他ならず。残念ながらアドラーがいうところの共同体感覚までの道のりは、まだまだ遠そうですね。
ここで疑問に思われるであろう「じゃあ、どうすれば良いというのか?」という問いに対しても、アドラーは答えを用意しています。
「勇気づけ」を行え
- 対人関係を縦にとらえるから、相手に介入してしまうのである。自分より低く見ていないか?
- 横の関係を築くことができたなら、介入など、しなくなるのだ
- 困っている人を見離せと言っているわけではない、それに対して援助することは必要だ
- だが、それに対する最終的な責任を負うのは本人であり、あなたの課題ではない
- こうした横の関係に基づく援助をアドラー心理学では「勇気づけ」と呼ぶ
困り果てた人を放置するは非情です。親子関係でいえば育児放棄ですし、仕事でいえば責任放棄ともいえるでしょう。しかし、アドラーはそんなことを推奨していない。援助はすべきであると言っているのです。
「あれをしなさい」「これをしなさい」これは介入です。本人の責任の所在を曖昧にし、勇気ある全身を妨げる越権行為でしょう。そうじゃなくて、親であれば資金面であるとか、部下であれば技術を教えるであるとか、そのような援助はしてもかまわない。ただ、頑張るのは本人なのです。誰かにやらされているようでは、どのような結果にしろ「本人にとって」結実しないということになる。
他者を評価しない「ありがとう」の言葉
「人はほめられることによって、自分には能力がないという信念を形成する」
- 能力のある人が能力のない人に下すのが「ほめる」であることから、上記は自明と言えよう
- いちばん大切なのは他者を評価しないことだ
- 褒めるも叱るも他者への評価にほかならぬ
- 一方、「ありがとう」という言葉は評価ではなく、もっとも単純な感謝を示す言葉
- 人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知る
- アドラー曰く「人は、自分には価値があると思えた時にだけ、勇気を持てる」
「人は、自分が共同体にとって有益なのだと思えた時にこそ、自らの価値を実感できる」
- 他者から「良い」と評価されるのではなく、自らの主観によって他者貢献を実感することこそが重要である
褒める、叱るは縦を生む。ありがとうは、純粋な感謝の言葉。もちろん、気持ちが伴っていなければ形骸的なものになってしまうのでしょうけども。
さて、以上のことを見てもまだ、誰かを褒めたり叱ったりしようという気持ちになりますか?誰かの課題に「こうしろああしろ」と介入する気持ちになれますか?そのような行為がいかに尊大で身の程知らずだったかを、噛みしめると良いでしょう。
褒めるでも叱るでもなく、勇気づけのアプローチによって横の関係を築き、感謝されるような共同体へのコミットを実践して生きる。理想的ですが、簡単なことではありませんね。しかしながらこのような基礎的な心構えを持つことにより、徐々に身に着けていくことは可能だと考えます。
対人関係においては縦を作り出さぬよう、相手を一人の人間として並列で見ることのできるよう、生きたいものです。
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終わり
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