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【スポーツ】

<創刊60周年カウントダウン企画> 2004、2006年中日優勝

2016年2月16日 紙面から

中日のリーグ優勝を伝える04年10月2日付の本紙1面。優勝原稿は青山記者が担当した

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 東京中日スポーツは23日、創刊から60周年を迎えます。中日ドラゴンズをはじめとしたプロ野球からサッカー、大相撲、ゴルフ、アマチュアスポーツ、F1、競馬、芸能…と、さまざまなジャンルで日々取材を重ね、ニュースを報じてきました。そこで、この60年間で特に読者の反響が大きかった出来事を7つ厳選。当時の紙面をあらためて紹介し、当時取材にあたった記者に、思い出話を語ってもらいます。第1回は、中日ドラゴンズ。落合博満監督(現GM)のもとでセ・リーグ優勝した2004年と2006年当時の青山卓司・ドラ番キャップ(現中日スポーツデスク)が、当時を振り返りました。

 青天のへきれきとは、このことを言うのだろう。東京中日スポーツから名古屋の中日スポーツに異動したのが2002年。東京時代は大相撲から始まって、1996年のアトランタ五輪から、ずっと五輪一筋。異動直前はデスクとして内勤になっていた。年もすでに40歳直前。そんな自分が、名古屋に移った翌年からドラ番、しかもキャップを拝命するなんて。

 やりたくなかったわけではなかった。ただ縁がなかっただけだ。入社した時、先輩記者からは「プロ野球はスポーツ紙記者にとっての基本。プロ野球の経験は必ず生きるから、やっておけ」というアドバイスをいただいていた。そして、アマチュアスポーツのデスクを経て、2003年秋からドラ番見習。その年のオフからドラ番キャップとなり、翌04年にリーグ優勝を経験した。

 チームが強いと世間の注目度も上がる。朝から夜中まで、ほぼドラゴンズと一緒。デスク、部長、部下の記者たち、球団職員などなど、ひっきりなしに電話がかかってくる。何しろプロ野球の取材は「顔」がものをいう。顔を知ってもらって、長い時間をかけて相手との信頼関係を築き、やっと一人前として認められる。それをすべて省略して、キャップになってしまった。しかもマッチアップの相手、当時の監督は、あの落合博満現GMである。解説者時代、放送中にもかかわらず、コンビを組むアナウンサーに向かって「もっと野球を勉強したほうがいい」なんてことを言ったとかいう伝説を持つお人なのだ。

 リーグ優勝を2度経験することができた。2004年は球界再編騒動と重なり、とにかく忙しかった。10月1日、ナゴヤドームでの広島戦。2−5で負けたが、マジック対象チームも負けて優勝が転がり込んできた。プロ野球の優勝原稿を書くのも初めて、監督に手記を頼むのも初めて。相当に緊張しながら原稿を書いたことを思い出す。

 2006年は東京ドームで巨人に9−3で勝って優勝を決めた。10月10日、142試合目だった。その瞬間、落合監督が、大粒の涙を流したことはいまだに忘れられない。

 結局、4年間キャップを務めた。正確には「周りの助けを借りて、何とか4年間、支えられてやってこれた」だ。落合さんとは誤解もあったし、もっと何とかできたのではないかという後悔もある。ただプロ野球を経験できてよかったと思う。一般スポーツではなかなか味わえない濃密な4年間は、今の自分の財産になっている。(青山卓司)

 

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