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インターネットにおける誠実なコミュニケーションの取り方

日記

誠実さとか人望とか良い人柄とかってのはフェイス・トゥ・フェイスじゃなくても伝わるんだなぁと思うことはよくある。実際に会ったことのない人間でも、インターネット上での繋がりでもそれらを物凄く伝えられる人というのはいるんだなぁと感じる。

www.islog.jp

この記事を見て本当にそう思った。よくあるアフィリエイトサイトのような感じでモノについて書いたところで、多分その紹介したモノを製造してる方々から連絡が来ることなんて無いだろう。連絡をとってみたいという気持ちにされるような良い人柄とかそういうものが、そのモノについて書いた記事やそれだけじゃなくてブログからも伝わるからこそ、そういう結果になるんだろうし、本当にそういう誠実さに溢れる文章を書けるというのは凄いなと思い尊敬する。

ブログ経由でアマゾンのウィッシュリストで何かを送ってもらったという人もちょくちょく見かける。それも同じく、会ったことのない人に対してプレゼントを送るなんて、贈られた人も相当好かれて慕われているんだろうなと思える。みんな、どれだけ徳が高いんだ。前世でどんな行いをしてきたのか。前世でいくつ国を救ってきたのか。前世でいくつの惑星を危機から救ってきたのか。もしかして今世でもブログで言わないだけで宇宙人とかから地球を守ってるから徳が高いのか。もうとにかく爪の垢を煎じて飲ませて欲しい。

インターネット上であろうとなかろうと、その付き合いから贈り物が生まれるというのは、変な意味ではなく、どこか一線を超えた感じがあるような気がする。付き合いなら、正直いくらでもどうにでも出来る。テキストを送り合えばもうそれでコミュニケーションは通じるし、それで好印象を持たれるというのも物凄く普通だ。別にインターネットだけでなく、同じ職場とか実際に会って顔を合わせることの出来る人との間でもある程度良い関係というのを築くというのはそう難しいことじゃない。誰とでも仲良くなるのは無理でも誰か1人とでも仲良くなれることはあるはずだ。ただ、それとプレゼントを贈り贈られというような間柄になるのはかなり差があるだろう。仲の良い人が誕生日だからといって、じゃあプレゼント渡すかといえば仲の良い人全員に渡すわけでもないだろう。仲の良い人がアマゾンのウィッシュリスト公開したからってかたっぱしから何か贈るというのも逆に気が引ける感じがある。 何にしても、そういう善意を贈り贈られという間柄になれるというのはそう簡単なことではないし得難いことだろう。その間柄を構築するのは良質なコミュニケーションがそこにあったからに違いない。

考えてる時間=無視

コミュニケーションてどうやってとればいいのか。特にインターネット上で。ずっとよく分からないままでいる。 WORKING!!というマンガ及びアニメで物凄く無口なキャラクターが出てくる。特に何も考えてないとか何に対しても無関心だから無口、というわけでなく、その正反対。何か声をかけたいと思うんだけど、こうやって声をかけたらどうだろうか、いや、でもそういう声のかけかたをすると印象悪くなるんじゃないか、じゃあこういうかけ方をすれば…いやいやそれじゃあ相手を傷づけてしまうし…みたいなことをずっと考えてしまうタイプなため、逆に無口になってしまう。何か声をかけても反応がなくて無口なのは、別に無口とか無視というコミュニケーションをとりたいわけじゃなくて、考え中で何も言葉が出てこないだけ、という感じ。そんなマンガかよって設定のキャラクターがいる。いや、マンガなんだけど。

それが物凄くよく分かる。インターネット上のコミュニケーションだと特によく分かる。特に今やインターネット上のコミュニケーションはフロー型だ。速さが求められ、情報はどんどん更新されていく。コミュニケーションを求めるようなキッカケも、1日経てばすぐに消えていってしまう。何かコメントをすべき状況でも、色々考えてしまってああでもないこうでもない…と考えている内に時間がメチャクチャ経っていたりする。レスポンスの時間があけばあくほど、それは無視として捉えられてしまうんじゃないかと心配してしまって、それに対するフォローも入れなきゃ…とか色々考えてると余計に時間が経ってしまう。対面であれば即座に何かしらのコミュニケーションは出来ることは多いだろう。別に言葉に出さなくとも、ただ愛想笑いしてみたりとかそういう顔に出すだけでも一種コミュニケーションになるし、それだけでも違ってくるだろう。インターネット上では何もしなければそれは無視にしかならない。なんか明確に言葉にはしにくいような何らかの感情をうけたとしても、そういう時の顔をモニタの前でしたところで相手には伝わらない。

コミュニケーションの程度も距離感もよく分からない。例えば「家族の一員であるペットが今日天国へ旅立ちました…」みたいなことを書いたり呟いてる人に対して、何かしら言葉をかけてあげるとか、そこまでしなくても哀悼の意を示す的なことはしたいんだけど、一番簡易的な方法が「いいね!」ボタンを押すしかないとかだと困る。全然良くないのにいいね!とか押したらメッチャブチ切れられても文句は言えない。かと言って、じゃあ普通にコメントするだけでもええやんて感じだけど、今まで話しかけたことなかったのにいきなりそういう時に話しかけるのもなんか気が引けるし、初めて明確なコミュニケーションをとったのがペットが死んだ時というのは何かタイミングとしてどうなんだろうか。全くそんなつもりはないのにもかかわらず、悲しみにつけこもうとしている感を感じさせてしまうのではないかとか思ってしまう。じゃあノーリアクションかといえばそれはそれで薄情すぎやしないかとも思うし…とか何とかウンウン考えながらいたら数時間後に「このケーキ超オイシイ♡」みたいないつも通りの呟きとかしてて立ち直り早すぎだろ!と突っ込みつつも、結局なんか今更そのペットの死について何かしらのアクションを起こすのも、こう立ち直ったところに追い打ちかけてる感じがするし…とかなんとかで結果としては「無視」という態度をとったことになってしまう。

無言フォローは無礼か否か

「無言フォローすみません」という言葉がよく分からなかった。ツイッターって別に承認制でフォローするわけでもないし、むしろ全く知らない人をフォローしていくとかそういうものだと思っていたので、無言フォローに対して申し訳無さを感じるというのがよく分からなかった。それが良くない行為であれば通報ボタンをつけるなり、そもそも無言フォローが出来ない仕様になっているはずだし。まぁそんなに単純なことじゃなくて色々なカルチャーを渡り歩いてきた人がいるからこそそういう言葉を掲げている人がいるんだなとわかった。単純に昔あったバイト先の冷蔵庫に入ってる写真をツイートして炎上みたいな、(やってる事の善悪は別問題として)オープンな場所でクローズドな関係性を保とうとしてるところに全く知らない奴が割り込んできたというのはそういう前提でやってるところに入ってこられたら確かに気持ちとしては分かるし、今までLINEくらいしか使ったことなかった人がツイッター使い始めて、全く知らないbotと共にbotかよく分からん人にフォローされたらちょっと怖いという気持ちもわかる。散歩してたら知らない爺さん婆さんが「いやぁ今日も寒いね~」と声かけてくるような田舎と、知らない人間とすれ違ったところで特に何もコミュニケーションを取らない都会。別にどっちが良いとか悪いとかじゃなくて前提条件というかコミュニケーションの土台というか文化が違う。それと同じような感じだろう。そういう違う文化の人への配慮としての言葉として「無言フォローすみません」が生まれたのかなぁと思う。が、自分としてはその言葉を掲げたいと思わないし、全員がそれをするべきだとも思わない。今のインターネット上でのコミュニケーションの入り口となるフォローするという行為もそれ自身が結構な意味を持ったコミュニケーションとしてカウントされるとなると、余計にどうコミュニケーションとればいいのかわからなくなる。

スタンスを明確にするのが一番?

『電話にでる時のお母さん』現象がある。今、宿題をしなかったことや家事を手伝わなかったことに対して思いっきりお母さんにブチ切れられている最中なのに、家電話が鳴るや否や、ブチ切れを一時中断して電話に出る。で、電話にでる時の「もしもし」がブチ切れていた最中の声よりも3オクターブくらい高くなる。7秒前に出していた、岩下志麻並にドスの効いた声が、なんかソプラノな感じになってる。あの現象である。正式名称はよく知らないけど、誰でも体験したことはあるだろう。で、電話をかけていた主が知らないところからの営業電話やパート先の上司だったらそのままソプラノで対応するし、友達だったら普段通りに戻るし、お父さんだったらまた岩下志麻みたいになる。お父さんだと岩下志麻どころか竹内力くらいになる。

何にしても、誰に対しても幾つもの顔を持ち合わせている。仲の良い友達と同じようなテンションで上司に接したりはしない。友達モードもアレば上司モードの時も、上司の上司モードや、取引先モードとか、色々な形を変えているだろう。インターネット上だとそれが出しにくい。フェースブックモードとツイッターの裏アカウント(非公開)では全くモードが違うというのならあるけど、基本的にはインターネット上だと自分のコミュニケーションの態度って色んな所から丸見えだし、それに合わせようとすると最大公約数的にならざるを得なくなるけど、その最大公約数がよく分からない。

結局は自分のスタンスを貫くしかないのかなと思う。色んなカルチャーや色んな距離感の人がいる中で、そしてそれらの人が、その人達それぞれと自分とのコミュニケーションを見てるかもしれない中で、八方美人的に振る舞うのって無理だろう。無視と思われようと馴れ馴れしいと思われようと、自分の明確なスタンスでコミュニケーションを測って、ある程度それを一貫させることが一番良いコミュニケーションなのかもしれない。多くのコミュニケーションは敵意や悪意なく行われるものだろうし、大体どっちかに偏っている。悪意や敵意むき出しか、親交を深めたいか。前者は別にどういう顔しててもどうでもいい。何にしても一貫させることで、自分はどういうカルチャーに属しているのか、どういうコミュニケーションスタンスなのかを分かってもらえるようにした方がいいのかもしれない。もう全く文化が違う人だったら離れていくだろう。別に自分のコミュニケーションスタンスに合わない奴とは一切かかわらないという意味じゃなく、多少なりともそのスタンスが分かればお互いに歩み寄りながらその2人だけの距離感のあるコミュニケーションが徐々に形成されていくんだろうなと思う。それが一番誠実な方法なんだろうなと思う。誰かのスタンスに合わせていたら都度都度こっちは疲れて無口になるし、かといって我が道を行き過ぎればコミュニケーションどころか誠実ささえ失われてしまうだろうし。

スタンスを明確にするというのはインターネット上には限らないのかもしれない。ある程度一貫した立場を貫くというのが誠実であり続けられる唯一の方法なのかもしれない。そんなことを思いながら、一貫して妄言と屁理屈が積み上がった自分のブログを見て、誠実ってなんだろうか…と頭を抱える。