原発からの放射線物質の影響で放射線量が高い福島県ですが、その風評で福島県内の被災地には物資が届きにくくなっているとの情報がありました。
そこで、福島第一原子力発電所からおよそ25キロの直線距離で、自主避難区域(屋内退避)に指定されている南相馬市の原町区へ、支援物資を運搬しましたので報告いたします。
また、途中経路および支援先の放射線計測結果については、別途ご報告いたします。
支援物資運搬と被災地レポート (文:理事 漆沢祐樹)
4月7日
午前7時、神奈川事務所に集合。今回は副理事長、事務局長、そして前回もお手伝い頂いた、株式会社キャリアコンサルティング 代表取締役の室舘勲 理事、ジェイ・エピセンター氏、室舘理事の会社の社員である伊藤氏、そして私の6名、2台のワゴン車です。
7時半、神奈川事務所を出発。
今回の支援先である福島県南相馬市 は、放射線の風評で、支援物資が届きづらくなっているということでした。
事前に必要な物資の要望を避難所である原町第一小学校に電話で聞いたところ、カップラーメンや水といったものは十分に届いているようで、それ以外の食料、コーヒーカップなどの希望品を追加購入し、皆様からの支援物資と共に運びました。
午前11時、原町第一小学校に到着。こちらには避難者人数は100人から200人とのこと。
南相馬市役所からの担当者にお伺いしたところ、物資は近くにある小川町体育館で管理、分配されているとのことで、私たちもそこへ向かいました。
小川町体育館では全国から様々な物資が届いており、水や食料、生活用品、様々な物が体育館一面に置かれていました。
一見、物資はもう足り過ぎているかのように見えますが、一気に集まった物資はまた一気に無くなってしまうらしく、今はその繰り返しだということです。市内全域の避難所に分配するにはまだまだ不足しているのです。
体育館で物資の管理をされていた南相馬市の職員の方にお話を伺ったところ、その方のご自宅も津波で流され、身一つになってしまったとのこと。幸いにも仕事中で、内陸のほうにいたため助かったそう。「命があればそれだけで十分。今は避難されている方々のために職務を全うしたい」と、大変少ない人数で作業をされていました。
その後は、被災地の視察のため、海岸に向かいました。
東京で見慣れたチェーン店も見渡す限り閉店しており、人気がなく、静まり返った町でした。物資も届いていない上に屋内退避の指示が出ている地域なので、商売もできず、復興のスタートすら切れない、そのような感じを受けました。
小川町から海に向かっていくほどに、津波の被害は大きくなっていき、海辺1キロ近くに行くと、そこには家が多くあったはずですが、それらの姿は全くなく、コンクリートの基礎だけが残されていました。
また、海の中にあるはずのテトラポットがまるで小石のように数百メートルも陸上を流され、あたり一面に散乱。
異様な光景と津波の強さを思い知らされました。
地震発生の3月11日からすでに一カ月がたとうとしていますが、まだ海辺は当時の津波の恐ろしさをありのままに残していました。
しかし、その海だけは本来の静かな風景に戻っており、堤防から海を見る景色と後ろを振り返り町を見る景色は言葉には表わせない感情でした。
その後は、海辺を南下し小高区方面へ向かいました。道路は崩壊が激しく、かろうじて走行できる程度。
しばらく行った原町区小浜では、家屋の跡形もないところ、今にも崩れそうな2階だけが原型留めている家、道路のアスファルトの破片、田んぼに突き刺さった車、本当に信じられない世界が広がっていました。
小高区方面は、立ち入りが禁止されてましたので、引き返し、南相馬市を後にしました。
前回訪れた仙台市からは60キロほど離れていても同じ光景であった南相馬市。今回の津波の規模の大きさと脅威を感じずにはいられませんでした。
22時に神奈川事務所に到着。
ミーティング中、大きな揺れが来ました。かなり大きな地震が東北で起きたのではないかと頭をよぎり、すぐに調べてみると、我々が先週行った仙台市宮城野区が震度6強、本日行った南相馬市が震度5強。後に映像でも見ましたが、相当な激しい揺れのようでした。
ついさっきまでいたところで、、、背中がぞっとしました。
このようないつまた地震が起こるかわからない、いつ街が復興するか分からない日々を避難所で過ごされることが、どんなに不安で苦痛なことでしょうか。
物資もかなり行き届くようになったとはいえ、まだまだ不足しているし、被災地の方々の不安な心を考えると、このような支援も続けていかなければならないことを改めて思う一日でした。