自民党の丸山和也参議院議員が、2月17日の参院憲法審査会で「黒人奴隷が米大統領になった」という旨の発言をしたということで、ちょっとした騒ぎになっている。(こちら)
はじめにお断りしておくが、私は、丸山議員のこの発言を、今回の原稿の主題に据える気持ちは持っていない。
最初にこの発言のニュースを引いたのは、ほかの政治家の問題発言と対比するためだ。
私は、ここしばらく頻発している政治家による不穏当な発言と、それらの発言に関するそれぞれの報道のトーンに、釈然としないものを感じている。今回はそれらの「失言の伝えられ方」を見比べてみることでメディアの役割について再考してみたいと考えている。
丸山議員の発言は、問題外の軽率な発言だ。
「どこから突っ込んで良いのやら」
というヤツだ。
なにより、「黒人の血を引く」「奴隷ですよこれは」といったあたりの言葉の選び方に無神経さが露呈している。
昭和の時代ならいざ知らず、21世紀の政治家である以上、このあたりの言葉についての感覚の鈍さは、資質を疑われても仕方のないレベルだと思う。
とはいえ、発言の内容自体は、全体の文脈から言って、人種差別意識に根ざしたものではない。大統領や米国に対して悪意のこめられた主張でもない。米国の自由さと変化のダイナミックさを強調する話の流れの中で、例として引いた奴隷のたとえが、結果として無神経なお話だったということに過ぎない。
その意味では、今回の彼の発言は、異常な政治観や露骨な差別意識を反映した「暴言」というよりは、単に言葉の選び方を間違えた「失言」に近い。
「失言」だから勘弁してやれ、と言っているのではない。
悪気が無いんだから大目に見るべきだと主張しているのでもない。
私が言いたいのは、軽率さや言葉遣いの稚拙に起因する「失言」と、考え方そのものの暴力性や異常性のあらわれである「暴言」は、別種の問題として分けて考えるべきで、処分の仕方や記事の書き方についても、両者は峻別した方が良いということだ。
丸山議員が前述の失言をその日のうちに謝罪・撤回した日から数えてちょうど5日前の2月12日、丸川珠代環境大臣が記者会見を開いて、自身の発言を撤回し、関係者に陳謝している。
撤回の対象となった丸川大臣の発言は、以下のようなものだ。
彼女は、福島第一原子力発電所の除染長期目標値の設定について、2月7日に松本市で開催された自身の講演の中で「何の科学的根拠もない」と述べている。(こちら)
この発言は、様々な点で問題を含んでいる。