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黙劇ノート

さよならと言った背中は次に何を語るのでしょうか

寺山修司と観る「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ」:劇の終わりはどこにある?

劇の終わりはどこにある?









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「fin」

これで映画は終わる。しかしこれがなかったらどうだろう。私たちは映画の終わりを見ることができるのだろうか。

クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ」を観た。児童映画なんか、といって侮ることなかれ。この映画はしんちゃんの活躍もさることながら、ものすごい映画なのである。

あらすじは、古びた映画館に迷い込んだしんちゃんの友達と家族が、誰もいない映画館で映写されている荒野に引き込まれ、映画の中に入り込んでしまう。映画の中では毎日が単調に過ぎてゆく。映画は終わらないのだ。おかしいと思った野原家は映画を終わらして現実に帰るため、映画を終わらせまいとする悪役と対決することになる。



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映画における「fin」の喪失はなんという絶望だろうか、と思うかもしれないが、しかし、登場人物たちはそんなに絶望していない。日にちが経つにつれ、現実での記憶を忘れていってしまうのだ。時間がなく、ただ生きてゆく空間は心地よいのだろう。映画の中の生活に順応し、埋もれてゆく。

私はこんなことを思った。時間と「fin」つまり終わりを忘れることは、生活をしてゆくものにとって、非常に都合が良い、と。私たちの生活を思い出せば分かるもので、たとえば楽しいことをしているとき、集中しているときは時間を忘れている。同時に、死も忘れている。


映画の終わりが、ちゃんと終わらなかった映画の例といえば、世の中にはたくさんあるのだろうが、浅薄な私には寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」が思い出される。この映画の最後は鑑賞者に語りかけるカタチで映画が終わる。いわば、終わりを私たちの手元に放り投げてオシマイにしてしまったのだ。この映画の主人公がどうなったのか、どんな思いが最後にあったのか、それは映画において語られることなく、オシマイになってしまった。

質問はいつも「アナタは?」ということなのだ。
(寺山修司「遊撃とその誇り」)


この映画はフィクションであるところの世界(虚構)を、私たちの生活する世界(現実)に直接的に繋いだ映画であった。つまり、あるべくしてある私たちの現実に、虚構を繋ぐと同時に、虚構を現実に流入させたのである。

作品における終わりの喪失は、私たちの現実にモヤモヤとした感情を抱かせる。
これは、私たちの現実に虚構が入り込んでいる証拠である。

ここらへんで話を「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ」に戻そう。
結局、しんちゃんたちは無事に悪役を倒し、現実に戻ってくるわけだが、この映画は私たちに油断を許さない。
劇中のヒロインであるツバキが、映画の中の登場人物であったのである。これにはやられた。
しんちゃんはツバキのために悪役と戦ったが、そのツバキは残酷ながら、映画の中の登場人物、つまり虚構だったのである。
しんちゃんはヘコんだ。



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書物の中の少女に恋してしまったぼくは
書物の中に入ってゆくための道を見出さなければならない
(寺山修司「ぼくが男の子だった頃」)

映画の中という特殊な空間では、人物、人格さえも虚構になってしまう。姿も、言葉も、笑顔も。

映画はなんて悲しいものだろう。いや、映画だけじゃない。あらゆる劇はきちんと終わりがあって、「虚構でした」と教えてくれる。そうすると、「ああ(虚構は)、おもしろかった」とかなんとか言って、席を経って、トイレに行ったあと、仕事か何かの催促のメールを確認して、頭を掻いて現実に戻ってゆく。戻ってゆける。

しかし、「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ」のような「終わりの喪失」をちらつかせる作品に出会うと、虚構のはかなさ、現実の物足りなさに気が滅入ってくる。

劇は出来事であり、出会いでもある。
(寺山修司「地平線のパロール」)


そう、私が観た映画も出来事であり、出会いだったんだ、だから、私たちは現実か安心して虚構を楽しむべきなんだ。劇である出会いには限りない。だから出会いが続く限り、劇は終わらない。

だがしかし、私たちが現実を観る眼という映写機は、死んでも動いてくれるだろうか。




クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ - Wikipedia