エジプトのマスタープラン“国民所得倍増計画(2012年〜2022年)”策定支援

2015年3月4日
JICA計画専門家 鳴尾 眞二

はじめに

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鳴尾専門家。手元にあるのは2007−12年(旧版)の経済計画

2011年7月より約1年間、JICAの計画専門家としてエジプトの計画省でエジプトの今後10年間の経済・社会の発展に関するマスタープラン(基本計画)の策定に従事しました。

日本は資本主義の国ですが、実は世界で最も多くの経済計画を策定し、実施してきた国です。ソビエト連邦(現ロシア)、中国のような社会主義を標榜している国よりも、日本は多くの経済計画を策定し、実施してきました。そこで培われてきた経験や実績をもとに、エジプトの将来設計を支援してきました。

戦後日本の復興と革命後のエジプトを比較して

革命後のエジプトと戦後の日本を比較するのは、その違いが大きく、時代的にも67年のギャップがあり、無意味だとする方もいます。確かに、時代背景の違い、教育水準、出発点となる経済水準の違い等、数え上げればきりが無いくらい違いはあります。

しかしながら、本質的に重要な共通点もあります。それは、「過去を清算して、新しい社会を構築しなければならない」ということです。日本は戦前の社会を否定し、エジプトはムバラク独裁政権を否定しました。否定したからには、それにかわる新しい社会システムを構築しなけねばなりません。新しい社会のルールと、新しい社会秩序を構築しなければならないのです。

日本の戦後はGHQ(連合国軍総司令部)の占領下で進められ、新憲法制定、財閥解体、公職追放、普通選挙、教育勅語の廃止、農地改革、労働民主化等、経済・社会を大きく変えていきました。その変革のスピード、影響の大きさは、国民生活を根底から変えていく力がありました。それに比べると、エジプトの改革は中途半端で、不徹底なものかもしれません。革命後、既に1年半が経過しましたが、新憲法も見通しが立たず、政治、経済、国民の生活も混沌としています。新大統領こそ選ばれましたが、モルシー新大統領が公約した就任後100日で取り組むと宣言した課題は何一つ実現していません。

アラブの春とは、そもそも何なのか−市民革命?

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革命の象徴、タハリール広場

歴史的に見ると、欧米の近代国家というのは、宗教改革、産業革命、市民革命の3つを経験しています。中世から近代に移行するにあたって、宗教の呪縛から解き放たれ、社会を支える経済・産業の基盤ができ、市民としての権利義務の観念が浸透するというのは、歴史の必然かもしれません。しかしながら、中東諸国では、宗教改革を経ずして、産業革命も不完全なままで、いきなり市民革命を経験した状況ではないかと観察します。つまり、極めて脆弱な基盤の上に、民主主義や自由主義経済といった高度に洗練された先進資本主義の経済・社会概念がいきなり出てきたという状況ではないでしょうか。

ところで、この民主主義というのは、その起源は遠くギリシャ時代にさかのぼる事ができますが、近代社会における民主主義の概念は18世紀後半あたりからではないかと思います。欧米でも、しばしば流血を伴う市民革命を経て、民主的な社会システムが徐々に導入されてきました。18世紀ラテンアメリカの大西洋市民革命、1848年のパリの2月革命をきっかけとした欧州での市民革命。現在の中東のアラブの春の広がりは、200年前の欧州での出来事を連想させます。歴史の歯車は、この人類社会の中で確実に動いているのだと実感します。

そろそろ本論−エジプトの”経済・社会長期計画”の歴史

前書きが長くなりましたが、私がこの1年で取り組んだエジプト経済・社会の10年のマスタープランは、この国の過去半世紀の計画策定の仕方を全面的に否定する試みでもありました。エジプトでは、ナセル、サダト大統領の時代から社会主義的経済運営を行ってきました。この流れは、ムバラク大統領の時代にも継承され、1982年から5カ年計画の策定が始まりました。最後の5カ年計画は、第6次5カ年計画で、2007年7月から2012年6月までの期間をカバーするものでした。これらの計画は、基本的に国家の投資計画であり、年度予算と連動するものでした。社会主義経済の運営であれば、それなりに意味のある計画ですが、市場経済化を標榜する革命後のエジプトにとっては、ほとんど意味を持たない代物でした。

何から始めるか?−新しい社会を構築していく事の意味を問いかける

新しい計画作りを推進するために、まず計画省の人たちの今までの仕事の仕方、組織を否定しなければなりませんでした。計画省の人たちに、「今まで作ってきた5カ年投資計画は、意味が無いので作るのをやめましょう」と語り、「今までの計画作りの体制、手順は新しい計画作りの理念に適合しないので、新しい手順を考えましょう」と提案し、「今までの計画の枠組み(投資計画)を超えて、本当にこれからのエジプトに必要な経済・社会計画の策定に取り組みましょう」と説得していきました。

繰り返しになりますが、否定するのは簡単ですが、それに代わる新しいものを作るのは知恵と時間と根気が要ります。知恵は外(先進国?)から借用できたとしても、根気は外から借りてくることはできません。エジプト人自身で、じっくりと根気良く仕事をしていくしかないのです。私がこの1年でやってきた事は、日本の過去に蓄積された知恵を提供する事と、その知恵を根気よく彼らと一緒になって形にすることでした。

日本の国民所得倍増計画は、如何にしてつくられたか?

それでは、日本の知恵と経験としてエジプトに提供できる具体的な計画とは何か?日本は、戦後14回経済計画を立案し、実施してきました。その計画期間は短いものは5年、長いものは10年です。その14の計画の中から私が選んだのは、戦後2つ目の長期経済計画であった「国民所得倍増計画(1961年〜)」です。池田首相の肝いりで推進されたこの計画は、戦後日本の経済復興に大きく寄与し、1960年代の日本の高度経済成長をもたらしました。国民所得倍増計画では、民間部門を経済発展の主役として位置づけ、政府の重点的投資計画、開発計画と民間セクターが連携するように意図しています。何よりも、国民に対して、「この国はこれから発展していくぞ〜」という強いメッセージを送りました。この政府の国民に対する、将来に向けてのメッセージというのは非常に大事だと思います。

さて、この国民所得倍増計画を詳細に調べてみると、首相が指名した経済審議会のメンバーが約1年かけて答申を出し、それを内閣が閣議決定しています。経済審議会の主要メンバー(20~30名程度)は、民間人から選ばれますが、広く学会の権威、財界の重鎮、技術者、専門家など、当時の日本を代表するそうそうたるメンバーです。それに加えて、経済企画庁が中心となり約400人の官僚(課長、局長クラス)が各省庁からノミネートされて運営されます。

エジプト版、国民所得倍増計画は、いかにして作られたか?

エジプトで計画策定にあたって、この経済審議会に該当する機能を立ち上げようと大臣に提案したところ、大臣から快く了解をもらいました。しかし、実際にメンバーを集めようとして暗礁に乗り上げました。革命前の政府と民間企業の癒着が厳しく糾弾された事もあり、民間企業のトップは、政府と距離を置こうとしているのです。また、企業側が参加に同意してくれても、今度は政府の側が、「あの企業トップは政府に対して批判的な立場の人なので、メンバーとしてふさわしくない」等と拒絶してきました。要は、政府と民間部門の間に信頼関係ができていないのです。これは、今後のエジプトの重要課題です。結局、民間企業の人材を取り込むことはできませんでした。大学の研究者、国際機関の経験者、研究機関のリサーチャー、コンサルタントといったメンバー(約20名)となりました。

日本で国民所得倍増計画を作成するのに、430名が1年間かかっています。エジプトでは、20名で半年でやりあげたわけです。単純計算すると、エジプトでは日本の40分の1以下の時間・人月でやってのけたわけです。作業の途中で、「本当に、このリソース、体制でエジプトのこれからの10年の経済・社会のグランドデザインをやっていのだろうか?作っても、実効性に乏しいものになってしまうのなら、次の政権に計画策定を委ねた方がいいのではないだろうか?」と悩みましたが、私の背中を押してくれたのは、時のアボルナガ大臣(国際協力省・計画省)、そしてゴンゾウリ首相でした。

首相、計画省大臣の覚悟

アボルナガ大臣からは、「大統領選挙後、新しい政権が誕生するだろう。そのとき、誕生したばかりの政権には道しるべが必要だ。今のエジプトは、足踏みをしている余裕はない。とにかく、新政権に新しいマスタープランを手渡さなければならない。」との明確な意思をお持ちでした。また、主要閣僚を集めた閣議で首相に報告した際にも、首相から、「この内閣は、繋ぎの内閣に終わるかもしれないが、それでもやるべき事はやらねばならない。この政権で、将来のエジプトのマスタープランを打ち出す。」との明確な指示がありました。

これらの大臣、首相と接してみて、「この人たちは、本当のステーツマンだな。立派な政治家だ。」と感銘を受け、仕事の励みになりました。

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アボルナガ大臣(当時、右)と協議中の様子

今回、外国人である自分が革命後のエジプトのマスタープラン策定に深く関わる事ができたのは、アボルナガ大臣との深い信頼関係があったと思います。国際協力省と計画省の大臣を兼務され、内閣にあっては実質副首相格の位置づけで仕事をされ、超多忙な方でしたが、どんなに忙しいときでも必ず時間を取ってくださり、長いときは数時間にわたって議論しました。首相、閣僚への報告の場を何度か作って頂き、色々な方を紹介してくださいました。

人、人、人にあう。

今回の仕事を通して、何人かの元大臣(革命前、革命後)にも面談、インタビューをし、政府機関のトップを勤める退役軍人等とも接点がありました。大学の名誉教授、現役教授、国際機関のエジプト、又は中東地域の元代表といった方達とも一緒に仕事をする機会があり、貴重な経験をしました。

計画審議会のメンバー約20名でしたが、メンバーに対しては一定の報酬が計画省から支払われましたが、最後まで一切報酬を受け取らなかった人もいました。そのような人に私から、「ご協力頂き、ありがとうございます」と言うと、「お礼を言うのはこちらの方だ。あなたがこのようなプロジェクトを立ち上げてくれ、私のような老骨に、最後のご奉公の機会を与えてくれた。感謝している。」といった反応が返ってきました。この方は既に80歳近い方でしたが、国土開発の分野では皆に敬意と親しみをもって、ゴッドファーザーと呼ばれていました。このような人と接すると、「この国もまんざら捨てたものじゃない」と思いを新たにしました。

やっと、結論

革命後の最初の長期計画策定に従事してみて、「まだまだ、道のりは長い」と痛感しました。計画策定は、確かに大変な作業でしたが、その計画の実施は次元の異なる大変さを伴うものだと思います。どこの国の計画も、実はいいことを書いているのです。でも、ほとんどの国がその作文を実行できないのです。理由は色々あるでしょうが、計画が実行されるためにはたくさんの環境が整わなければならないのです。人材、組織、制度、、、。

2011年1月の革命は、爆発的な国民のエネルギーによってもたらされましたが、新しい社会制度を構築していくのは、それとは対極にある、地道な取り組みが必要なのです。綿密で、緻密で、具体的な制度構築作業を、地道に、忍耐強く、根気よく、数十年の単位でやりとげなければならないのです。この間、生活が急激によくなる保証などありません。むしろ、途中経過では、一時的に悪くなる事もあるでしょう。指導者は、国民を励まし、叱咤激励し、時には厳しい議論を戦わせなければならないのです。新政権の国家指導者層にそのような覚悟があるか否か、定かではありません。ある事を期待しています。

以上