タイトルで完結しているんですが。
レトロゲームを遊んだり評価する時に、「説明不足過ぎわけわからん」という言葉を聞くことはよくあります。
「昔のゲームはシンプルだった」と述懐されることが時折ありますが、実際のところ「昔のゲーム」というのは括りとしてはちょっとデカ過ぎます。「ドンキーコング」や「ギャラクシアン」辺りの最初期の固定画面型アクションゲームやSTGならまだしも、ある程度時代を下ったRPGやSLGの中には、今のゲームですら相手にならない程複雑なゲームが山ほどあります。悪魔城ドラキュラIIを、アイギーナの予言を、バベルの塔を遊んだうえで、それでもなお「昔のゲームはシンプルダナー」と言える人が、果たしてどれほどいるでしょうか。
最近のスマホゲームなんて非常にシンプルなタイトルが山ほど出ている訳で、「昔のゲーム = シンプル、最近のゲーム = 複雑」なんて図式を単純に信じてしまっている人は、昨今のゲーム事情をよくご存知ない方と断定してもいいくらいでしょう。
それはそうと。
近年こそ、「ユーザーは説明書を読まないもの」というのはデベロッパーにとってある程度常識になっておりますし、ゲーム内で様々なチュートリアル的な工夫が行われることも珍しくはなくなっておりますが、かつてはそれは「常識」ではなかった、ということは頭の片隅においておく必要があると思うのです。
遊び方、だけの話ではありません。ストーリーが、世界観が、ゲーム攻略上の重要なヒントが、説明書にはしばしば記載されていたのです。ワルキューレのクジラについてだって、ドラクエ3のオリビアの呪いについてだって、説明書を読めばちゃんとヒントが書いてありました。
かつては、説明書は「セットで読む」ことが想定されたものだった。
かつてのゲームは、「一緒に説明書を読んでもらう」ことを想定されてデザインされていた。
となると、「説明不足過ぎ」「理不尽過ぎ」という言葉をゲームに投げつける前に、まず「自分がこのゲームの説明書を読んでいない」ということは計算に入れておいてしかるべきなのではないかなあ、と私は思うのです。
いや、勿論、工夫自体は色々とありました。別に、「説明書を読まないユーザー」「説明書無しで貸し借りされるゲーム」というものが、最近まで開発者に感知されなかった、という訳ではありません。ゲーム開発者は、ゲーム内だけでなるべく多くの情報をユーザーに届ける為に、色々な工夫をしてきました。
例えば、「なかまにするならせんし そうりょ まほうつかいのさんにんがいいぜ。ひっく!」と教えてくれる酔っ払い。
例えば、ジャングルウォーズで「こらこらパンツをはきなさい」と、さりげなく装備コマンドの存在を示唆してくれるお父さん。
ただ、それらは徹頭徹尾「追加の工夫」であって、必要な数多くの情報が、説明書に詰め込まれていたことに変わりはないのです。
かつてのゲームの説明書は、教科書であり、参考書であり、小説であり、辞典でありました。説明書には、そのゲームの遊び方が、世界観が、キャラクターが、製作者がユーザーに届けたい思いが、そのままに詰まっていたのです。
「げーむのせつめいしょ」というサイト様があります。ファミコン、スーファミの色々なタイトルの説明書内容を記載しているサイトで、いつも色々な情報を参考にさせて頂いています。
たとえば、「キングオブキングス」という名作ファンタジーシミュレーションがあります。非常に良く出来たゲームなのですが、当時のファミコンキッズたちが、説明書なしでそのゲームシステムを理解することはかなり困難でした。
たとえば、「株式道場」というゲームがあります。ゲーム自体がエラい複雑なこともさることながら、その説明書の密度は凄まじいもので、中にはゲームと直接関係ない株式の用語の記載までありました。
たとえば、STG面での謎解きの理不尽さが時折話題になる「スーパースターフォース」の説明書には、各ステージの謎のヒントがきちんと記載されています。
説明書の重要性、そして説明書の凄まじいバラエティというものを、少しは感じて頂けるでしょうか。
つまるところ私が言いたいことは、
・一見理不尽に見えるゲームタイトルでも、実は説明書に色々書いてあるかも知れないからあながち理不尽とも言い切れない
・説明書は、もしも手元にあるならばきちんと保存し、ちゃんと読むべきである
・ゲームの説明書はただ読んでるだけでも十分面白い
・ところで半熟英雄の説明書でアドバイスを書いているバケラッタ・こんど〜さんは一体何者なのでしょうか
ということだけであり、他に言いたいことは特にない、ということを最後に申し添えておきます。
今日書きたいことはそれくらいです。