高校の時の古典の時間、先生にやたらと冒頭文を記憶させられました。
暗唱できるようになるまで椅子に座れず、古典の時間にひたすら立たされるというスパルタ。今だったら虐待とかいわれるんやろか。でもあの時のおかげで冒頭文はすらすらと口から出るし、気がついたら大学は文学部国文学科に入ってた。(でも専攻は国語学にしちゃったけど文学が苦手だから、という理由は教授には伝えていない)
さて、すこし古典の冒頭文でも思い出しましょうか。
『源氏物語』
いづれの御時にか、女御・更衣 あまた さぶらひ たまひける中に、いとやむごとなき 際にはあらぬが、すぐれてときめき たまふありけり。
『方丈記』
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。
『平家物語』
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
『奥の細道』
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。
いやや、もうすでにコピペだけで580文字(ずるい)
一つのストーリーがあります。
大学には自宅から2時間近くかけて通っていたんですけど、とある私鉄にのると、あまり勉強が得意ではない高校の生徒とよく一緒になるわけです、一時間目に出ようとすると。
ある日も僕が発車前の電車に座っていると真正面に女子高生二人が座りました。
「なぁ!源氏物語の冒頭のテスト覚えてきた?」
「ううん、始まる直前に暗記しようと思って!」
(いやいや無理やしwどうせ短いんやから今覚えてしまったら良いのに)
「私でも直前は違うの覚えなあかんし今覚えてしまうわ」
(そやそや、頑張れ)
「ええっと、ええっと・・・」
「いずれのごじにか、にょごこういあまたさぶらいたまいけるなかに・・・」
(えっ?いま『ごじ』って言わなかった???)
「いや~ながいわ~私こんな長い文字覚えられへんどうしよう~」
「でも最初がでてくるとなんとなく後ろは覚えてる気がするなー」
「いずれのごじにか!いずれのごじにか!いずれのごじにか!よっし、完璧や!」
「あの・・・そこ、御時は『おほんとき』と書いて「おおんとき」と発音するんやで」と喉のこのへんまで出かかったんだけど、「何この大学生キモっ」と思われるのが嫌だったので教えてあげるのを我慢しました。
まぁ確かに「御時」は「ごじ」とよめなくはないけど(よめない)、古典文学の冒頭って音というかリズムというかメロディを楽しむものだと思うんですよ。
こないだの二条河原落書もそう。文学って音が楽しい。
文学もそうだし英語もそう、文法は大事だと思うんだけどメロディというか音というかそういう味わいを学校はもっと教えてほしいと思う(暗記は辛いけど)歴史は断片で覚えずに勢いというか流れというか「歴史上の背景がこうだからこういうことが起きた」という風に覚えると暗記仕事にならなくて済むのに。
まぁあれですよ、受験生頑張れ←そこかい(笑)
古典にでてくる著者の「えっ」というエピソードが書かれてる本。堅苦しく古典を勉強しながらこういう意外性を発見できるとまたいとをかし。