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すみません、本稿を以って一応の終結とする予定で
おりましたが、昨日の聖教新聞の感動を間に挟ませて
頂きます。
聖教・本27日付『今週のことば』は、次の通りでした。
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難を乗り越える信心だ。
妙法は絶対なりとの 大確信で祈り切れ!
今の労苦が必ずや 生命の財宝となる。
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昨26日付・聖教5面には、この大確信を自らの89年の
人生で体現された方の体験が、掲載されていました。
大感動の体験談でした。
浮舟さんも、そして、他の皆さんも勿論、感動しながら
読まれたことと存じますが、一部抜粋して引用致します。
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信仰体験
『後藤のおばあちゃん 入会50年の貫禄を語る』より。
※89歳にして、岩手県久慈市の支部副婦人部長が
語っておられます※
「年を踏まねば分がんねえべなす」。
80歳を過ぎてようやく手にした確信。
※人生の宿業を「障害物競走」だと仰っていますね※
信心したから嫌なごどがなぐなるわげはねえ。
信心すれば宿命を受げ入れる力がつくこってす。
※人生の荒波を越えて来られた方の至言ですね※
祈るだげではだめだ。
御本尊様のお使いせねば。
折伏とか、聖教新聞の拡大とか。
両肩から同生天・同名天が暇(いとま)なく報告すんだ
もの。
だがら、いざって時は御本尊様がちゃんと守ってくれ
るんでねすが。
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この方は、4年がかりでといいますから、85歳の頃から
御書の全編読破に挑戦され始め、間もなく完結するとも
仰られていますが、御書を頭で理解し、それを実践する
ことの難しさは、皆さん、よくご存知の通りです。
この広布の大先輩であるおばあちゃんは、まさに大聖人
が魂魄を留められた御書の文々句々を証明する人生
そのものであったのだなと、感じずにはいられません。
ご長寿で在られる方は、ましてや信心をされている方は、
それだけ罪障を消滅できる機会、福徳を積める機会を
多く持てるわけですから、それだけでも素晴らしいことです。
しかし、ある意味では、長生きをするということは、お身内、
ご友人に先立たれる悲しみもまた多く経験されることでも
ありますね。他、苦悩を多く経験する機会も多いということ
にもなります。
この方も、ご長男に先立たれた時の悲しみと、それを
信心でどう捉えてこられたかにも言及されています。
体験を通して仏法の極意を学び、御書の世界そのままを
生きてこられた。
何と貴く、何と深い人生を歩んでこられたか。
若手の幹部など、束になってもとても適わない方だなと、
つくづく思います。
※この方の体験談が綴られた面右上の笑顔のお写真、
私たち家族が、神奈川で子育てに奮闘中だった時に、
実の母親の様にお世話になった方(本年96歳で他界)
が80歳代半ばの頃のお顔によく似ていらっしゃる。
思わず懐かしさに涙するところでした※
更には、同日付4面(見開きで、先の体験談の右面)の
『声』の欄・上段左には、神戸市の64歳の壮年の方が、
一緒に大誓堂での勤行会に参加された89歳のお母様
(奇しくも、先の方と同い年)のことが書かれていました。
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『医師も感嘆した母の前向きな姿』より
かかりつけの医師から
「いつも明るくて、お元気そうですね」
と声をかけられ
「『できない』ことを嘆くよりも、『今できること』に
喜びを感じます。毎日が歓喜に満ちています」
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広布の諸先輩方に教えて頂くことは、まだまだありそう
ですね。
過去世で強く願い求めて、ようやく今世で、この信心に
めぐり遭い、所願成就、罪障消滅、其罪畢已の機会を
得ながら却ってより深い悪業を積んでしまい、そのこと
に気付くことすらできずにいる人が、いかに多いことか。
いくら信心を重ねても「師弟不二」の意味を知らなけれ
ば、苦難に立ち向かう気概を持てずに、世間的な安逸を
貪りたくて仕方がない境涯を抜け出せなければ、結局は
「自身の無明に負け」て、悪道に転がり落ちてしまいます。
その罪は、過去世からの罪に倍にする重さになって、
来世以降に持ち越されてしまいます。
そのことに気付かせてくれる最大の教訓こそが、戦って
勝ち得た自らの体験です。
それを掴む前に白旗を挙げて、大きな体験の機会を
放棄してしまう愚かしい行為。
しかし、まだ自分が成仏への軌道に外れるだけであるならば、
また次により大きな、泣いてお題目をあげずにはおれない
ような試練を受けて気付くこともあるでしょう。
しかし、「自身の無明」による行為で、他の信仰者・学会員
までを巻き添えにしてしまえば、それこそ「度し難い
(救い難い)」「一闡提(いっせんだい)」の道に、我が
境涯を落としてしまいかねません。
だからこそ、そういう人は厳しく糾弾し、気付かせて
あげなければいけない。
仏法の因果とは、「希望の原理」でありながらも、それに
反する行為を繰り返す者には、極めて厳しく厳粛なもので
あると、私は思うのです。
(続きます)
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