少しだけ昔話を。
日本の教育システムに完全に順応していたボクは、高校時代に一生懸命勉強して「名門」と言われる私立大学に入学することができた。
空虚・・・なぜ?
中学校や高校は楽なものだ。
部活を一生懸命やって結果を残せば褒めてもらえるし、勉強で点数をあげていい大学に入れば褒めてもらえる。
言われたことを一生懸命やり、結果を残せばいいだけ。
やる気と一般的な社会生活を送れるだけの知能があれば、なんら問題なくそこそこ幸せな日々が送れるんだ。
大学はおかしい。
やらなければいけないことはない。
褒めてくれる人がいるわけでもない。
「やりたいことを自由にやっていいよ」と言われる。
今まで黙っていても勝手にやるべきことが明示的に与えられ、その枠組みの中で結果を残すことが最優先された中高時代から見ると、異世界に来たレベルの変化だ。
その変化に対応できた人はいい。
大学でしっかり自分で考えてキャリアプランを作り、自分の描いた幸せに向かって突き進むことができるだろう。
そうではなかったボクはどうしたか。
ゾンビのように毎日を過ごしていた。
いろいろなものに手を出すものの、どれも中途半端になり、結果を残すこともなく、心が躍ることもなく。
なんとなく授業に出て、サークルに出て、ゼミに出て、カラオケに行き、二郎に行き。
もちろん楽しい。
ただ、ボクはこんな空虚な楽しさを求めてはいなかった。
「つまらない、つまらない」と呟きながら、だらだらと生きていた。
哀れで愚かな廃人である。
今までで一番つらかった時期はいつですか? と問われることがあれば、ボクは間違いなく「大学生時代です」と答えるだろう。
大学生時代のボクのような廃人は、残念ながら掃いて捨てるほどいるようだ。
- 「何か面白いことないかな」と呟きながら、ダルそうに仕事をするOL。
- 「こんなことがしたいんじゃないのに」と嘆きながら、鬱々と働く新入社員。
- 30、40を超えても社会に文句を言いながら、すべてを他人のせいにしながら生きているおじさんたち。
彼ら廃人は、ある意味理解はしやすい。
現状を変える力もやる気もないが、生きていく分には不自由はない。
なので、不平不満を言ってガス抜きをしながら、毎日なんとなく生きていく。
一言でいうとダメ人間である。
友達になりたいタイプではないが、特に思うところもない。
「やりたいこと」を探す人たち
怖気が走るのは、彼らの対極に位置するようでいてその実本質が全く変わらない「やりたいことを探す」人たちである。
「やりたいことを探している」ということは、裏返すと「今熱意を注いでいることがなにもない」ということだ。
そういう意味では、大学生時代のぼくのようなダメ人間と本質的には何も変わらない。
しかしながら、そのダメさを隠すために、彼らは「やりたいことを探しているんです」と明るく言う。
何もできず、何もないのに。
生きていくうえで一番大事な、熱意の注ぎ場所すら持っていないのに。
「やりたいことを探している」という言葉のみを免罪符にして、大きな顔をしている。
怖い。
彼らの笑顔がとても怖い。
最近、そういう人が静かに、かつ急速に増えている。
やる気や力がないならないなりにだらだらと過ごせばいい。
やる気が力があるなら社会にどんどん価値を提供していけばいい。
いったい何をしたいのかわからない「やりたいことを探している人たち」が、あまりに不自然すぎてボクには怖気が走る。
目の前のことにすべてを捧げる
やりたいことを探すとか探さないとかどうでもいいから、とにかく今取り組んでいることにおいて誰にも負けないように必死に努力すること。
仕事でもいいし勉強でもいい。
どうせやるなら最大の価値を出し、誰よりも飛び抜けること。
少しでも興味を引かれることがあったらそれにも手を出し、真剣に打ち込んで結果を出すこと。
金が欲しいならどう金を稼ぐか考えてなりふり構わず商売すればいいし、英語が話せるようになりたいなら死ぬ気で勉強してディスカッションしまくればいい。
仕事ができるようになりたいなら、時間を捧げ体力を捧げ知力を絞り、全力で立ち向かってみればいい。
自分の力で人を救いたいなら、困っている人がいるところに飛び込んで全力で助けてあげればいい。
ダラダラとやりたいことなんかを探している暇は、無い。