夜の街は昼間よりも明るい。

そう勘違いしてしまうくらいのギラギラしたネオンがそこら中に溢れている。

夜は寝る時間だという常識すら覆ってしまいそうだ。






すれ違う女の人の香水の香りに顔を顰める。

良い匂いだと思うけれど、いくら素敵な香りを身にまとっても、付け過ぎは逆効果なんじゃないだろうか。

人工香料の毒々しさが毛羽立っていた。






結婚式の帰りのような格好の人たちが行き交うこの街を、人は「歓楽街」と呼ぶ。

眠らない街と称され、まるで吸血鬼の住処のようだとも思う。

日の出前に静間に帰り、日暮れとともに活気が宿る。







「ねぇーキミ暇?1杯飲んでいかない?」

「す、すいません。急いでますから!!」

「そんなつまらない事言わないでさ、ね!」

「未成年なんです勘弁してください!!」

「大丈夫だって!1杯くらいなら今時中学生でも飲んでるよ」

「すいません!!通してください!」






知らない人に声を掛けられて、口から心臓が飛び出るんじゃないかって思うくらいに驚いた。

今までに体験したことの無い雰囲気に圧倒されて不安になる。

進行を塞がれるように話しかけてくる店員から逃げるように踵を返すと、「ちぇ、なんだよ」と舌打ちが聞こえてきて肝の小さい心がギューっと痛んだ。








こ、怖い!!

ここは本当に日本なのか疑ってしまう。

通学のために毎日通っていたはずのこの道は、普段ならば閑散としていて道路の割に通行量が少ないくらいだったのに、今はお祭りのように人、人、人で溢れている。

ドラマの中の作り話くらいにしか思っていなかった夜の街は、私の想像以上の賑わいだった。











ど、どどどどどうしよう・・・・










心臓がバクバクと荒ぶり、緊張のためか呼吸が浅くなる。

引き返してきた道を戻るのが自宅への最短ルートなのだけど、さっきの人にまた見つかったらと思うと怖くて戻れない。

誰かを頼ろうにも、周りの人たちは夜の街に慣れてしまっているのか、話しかけられる雰囲気ではなかった。

それどころか浮いた格好の私を不審そうにチラチラと見ている。














こんな事になるなら居残りなんてするんじゃなかったよぉ・・・・












泣きだしたくなる気持ちを堪えて周りを見渡す。

大学のレポートのため図書室で調べものをしたままうっかり寝てしまった事を、今更ながら猛烈に後悔する。

友達の家に泊まらせてもらえば良かったと思い直してみても、それは後の祭りでしかない。





原色のネオンや呼び込みの人たちの熱気に尻込みながら、どうにかしてこの区画を通り過ぎなければと視線を彷徨わせる。

大胆なドレスのお姉さんの肩を抱き、吸い込まれるようにドアの中に消えて行く人。

電線の上で羽を休めるカラス。

どこかで喧嘩が始まったのだろうか、物凄い怒鳴り声と大きな音に萎縮しまくっている私の肩が大きく震えた。










こ、こ、怖いぃぃぃーー!!!










とにかくここから離れないと!!

鞄を両手で握りしめて早足で本通りから逸れた路地へと入り込む。

店の勝手口が並ぶ裏道は、1本裏に入っただけなのに驚くほど暗く、そして静かだ。






極端な変化に息苦しくなる程心臓が縮む。

暗いのは怖い。

人が1人も居ない裏路地の先には、古い街灯が今にも切れそうな薄明りを点滅させながら照らしているだけだった。

エアコンの室外機や換気扇から流れ出るジメッとした空気のせいで、お化け屋敷の中のような恐怖心を煽ってくる。






普段ならば絶対に通らない小さな路地。

しかも辺りは闇に包まれ、照らす街灯も頼りない。

けれども本通りに戻ったほうが何倍も怖い。

竦みそうになる足を叱咤して、家のある方向へと向かってザリ、ザリっと震えながら踏み出した。






心臓の音が煩く感じる。

本通りで交わされる会話なのか、それとも店の中の会話なのか、話し声が遠くの方から聞こえてくるように感じた。

その代わりに機械のモーター音がブォォーンと低い音を響かている。

どこからか現れた猫がゴミ袋を倒し、その音にヒッ!と小さな悲鳴が漏れた。


























怖い、怖い、怖い、怖い、怖い・・・・
























早くここから抜け出したい!!

自然と足取りは早くなる。

メインストリートと違って入り組んだ裏路地は、進むたびにどんどん幅を狭くし、圧迫感が恐怖を誘う。

早く早く、向かう方向の信ぴょう性などなかったが、それでもどこかへ抜けるだろう。今の状況よりもマシになるだろう。

そう信じて、ついには走り出した。







表と違って古臭い店の外観をいくつも抜き去る。

積み上げられたビールのケースや転がる酒瓶に足を取られそうになりながら、それでも必死に前に進んだ。

分かれ道や行き止まり、斜めっている道やL字路。複雑な道は巨大迷路のようで、二度と抜けられなくなるんじゃ・・・・という恐怖に涙が浮かび上がる。

心の中でお母さんやお父さんに助けを求めながら、とにかくひたすら出口を求め走っていた私の目の前に、物凄い勢いで何かが横切りブロック塀にぶつかった。



















それは何だったのか・・・


















驚きに足を止めてしまった私は、呆然としながらその正体を確認しようとする。

見ない方が良い!!絶対見るな!!

理性がそう叫ぶけれど、本能が勝手に動く。

それは危険から身を守るための手段だったのかもしれない。

真っ白になった頭のまま視線を地面へと下ろすと、茶色い物が落ちているのが分かった。








掌よりも大きいサイズだ。

硬そうな凹凸がいくつもあり、形はボールを両側から潰したヒョウタンに似ている。






これは何だっけ?





頭がゆっくりと思考を始める。

見た事がある物体を記憶の中から探そうとしていると、落ちているのはヒョウタン型の物体だけじゃないことに気が付いた。

ヒョウタンから長細い物が伸び、2つに分かれ、片一方は同じヒョウタンが付いている。

そして反対側は太く長く・・・・









アレ、これって・・・・何だ・・・・・・アレ?








すごく見覚えがあった。

でもどこで見たのか思い出せない。

何だっけ?

確か・・・確か・・・そう。テレビの中で・・・・見・・・・・・・




















!!!!??























咄嗟に両手で口を覆った。

落ちているのはヒョウタンなんかじゃない靴裏だ。

人だ。

人が倒れている。












「だ!だ!大丈夫ですか!!!」













ガシャンッッ!!
















ピクリとも動かない人に駆け寄り声を掛けたのと、ガラスを叩きつけたかのような激音が響いたのは同時だった。

驚きに首だけで音の下方向を見ると、倒れている男が飛ばされて来た方向に動く2つの影が見える。

チカチカと点滅する街灯のせいでよく見えないけれど、1人は白いシャツに金髪だと分かった。











や、やばいかも・・・・










身体を強張らせて震える手を握りしめる。

この状況は10人が10人とも「ヤバい」と言い切る状況だ。

だって白いシャツの人はフラリと足元をふらつかせ、肩口を鮮血に染めている。

どこからどう見ても乱闘だ。間違いない。

誰と誰が味方で誰が敵なのか分からないけれど、こんな状況下と行き成り遭遇して冷静になれるはずはなかった。

警察の「け」の字すら出てこない。

ただただ「どうしよう」と浅い呼吸を繰り返す。









古ぼけた街灯がジジジっと鈍い音を立てながら珍しく明るい光を灯した。

それは消える刹那の輝きとでも言うのだろうか?

それともただ接触不良がなんだかの原因で直っただけ?

何故だは分からないけれど、突然明るくなった視界で白いシャツの男の金髪がキラキラと輝いているように見えた。

同時に、倒れているのが目の前の男だけじゃないことにも気が付き息が詰まる。







身体も小さくない大の男たちが裏路地に出来た小さな広場に点々と倒れ、中には呻いている人もいた。

何かの撮影じゃないかと錯覚してしまう程、この状況は異常過ぎる。














「・・・・ってぇ」














金髪の男が額を抑えながら憎らしげに呟く。

対峙しているもう1人の男は、手に握っていた割れた瓶を地面へと放り投げた。

さっきのガラスの割れる音は瓶で頭を殴られた際の音だったのだろう。

足元に転がるガラスの破片が宝石のように光を反射する。







何か・・・喋っているようだった。

「だった」という表現は、私の把握能力を超えた出来事に脳内処理が追いつかず、音声まで認識が回らなかったのだ。

金髪の男は切れた額から流れた血を乱暴に拭い、地面に血の混じった唾を吐き出す。

ふと、その鷹のような目が私に向けられた気がした。

しかし、すぐに外れた視線に私の考え過ぎだと認識を改める。








そうこうしている内に事態は動いた。

思わず目を瞑ってしまったから全く見てはいない。

ただ、やっと正確に音を拾い始めた聴覚が、鈍い打撲音と悲鳴を捉えた。

耳を塞ぐ。









怖い。

ただただ怖い。










ガタガタと震えながら座り込んだ私だったが、急に髪の毛を掴まれて上に引き上げられた。

痛みで口から悲鳴が漏れる。

力の入らない不安定な足のせいで揺れる身体は、後ろから首に腕を回され固定された。









「おい、テメー!!」







息苦しさに目を開ける。

物凄い力で体を拘束しているのは、さっきまで倒れていた男だった。

死んでいるかのように動かなかった男が、私を人質にするように前に出る。

怖くて、苦しくて・・・私もうここで死ぬんじゃないかって・・・そこまで考えてしまうレベルの恐怖に涙した目に映ったのは、1人立残っている金髪の男の姿だった。









「調子乗んのもいい加減にしろや!!」

「・・・・」

「テメーが何をしたか分かってんのかコノ野郎!!」

「・・・・」

「こんなことしてタダでは済まさねぇーから覚悟しやがれ!!!」








耳元で男が叫ぶたびに首が締め付けられる。

身長差のせいもあって爪先でどうにか立っているだけの私は、壊れた人形のように体がガタガタと震えていた。







金髪の男はただ黙って私を拘束する男を見る。

そして負け惜しみともとれる文句をある程度聞いてから、私に視線を向けた。







「ねぇ」

「何だよこの野郎が!!」

「お前じゃなくて隣の彼女に言ってんの。それ、仲間?」

「だったらどーすんだ!!!」

「別に、今後の対応が変わるだけ」

「はぁ??意味分からない事言ってんじゃねーよ!!ゴラァ!!!」








飄々とした態度が気に食わなかったのか男が鼻息を荒くする。

私は恐怖でおかしくなりそうにしゃくりあげながらも、金髪の男の視線に「答えなきゃ!」と必死になる。

首に回る腕に爪を立て、泣きながら一生懸命に首を左右に振った。






























「助けてほしい?」






















今度は上下に首を振る。
















「そっか」

「なーーに1人で納得してんだ!!テメーはこれから・・・・・・」











金髪の男が小さく頷いたと思ったら、隣のガナリ声がうめき声と共に沈む。

ズルっと首を締めていた腕が外れ、男の体に潰されるように地面に倒れ込んだ。

ようやくまともに吸えた酸素にゲホゲホと咳き込み涙が流れる。

ハァ、ハァ、と苦しげに眼をつぶると、金髪の男が振り上げた足が男を蹴り飛ばし、私はまた悲鳴を飲み込んだ。










「ねぇ、キミさ」

「・・・・」

「こんな所で何やってんの?」

「・・・・」

「ここがどんな場所なのか知ってるよね?」

「・・・・」

「ねぇ」

「・・・・」

「答えないと何も分かんないんだけど」










喜怒哀楽が全くない無表情で私を見下ろす金髪の男に、忘れかけていた恐怖心が再びよみがえる。

この男は普通の人間じゃない。

倒れている男たちは、全部この男の仕業なんだと直感で感じ取った。











「ねぇ、聞いてる?」











男が倒れた私に手を貸すわけでもなく目の前に座り込む。

近づいた視線に身を硬くする私は、伸ばされた手にギュッと目をつぶった。

しかし何かされる気配は一向に無い。

















・・・・?















恐る恐る目を開くと、男は私が落とした鞄と、学生証を手にしていた。










。大学1年の18歳。へぇ、良い大学通ってんだね」

「あ・・・・」

「この学校ってことは帰宅途中?」

「・・・・・あ、あの・・・」

「もしかして迷子?・・・って事はねぇーよな。この歳で」

「・・・・・・」

「じゃ〜何でこんなところにいるの?」

「・・・・・・そ、それは・・・・」

「さっきは否定してたけど、コイツらの仲間?」

「ち、ちが!!」

「だよな。お前、そんな度胸ありそうに無ぇ〜もん」

「・・・・・・」












学生証という身分証を見られた事態に愕然とする。

所属大学や生年月日、そして何よりも裏の世界の人間らしき人に自分の本名がバレてしまったのだ。

やましい事は何もないのだけれど、関わってはいけない人間に正直には知られたくない情報である。











「か、返し・・・」

「なぁ」

「!!・・・・・・な、何で・・・すか?」

「お前暇?」

「暇、じゃ、ない・・・です」

「じゃあコイツらの仲間?」

「違います!!」

「じゃあ暇?」

「・・・・・あ、あの?」

「暇だよな?」

「・・・・・・」

「暇だな?」

「・・・・・・」

「暇?」

「・・・・・・ひ、まです」

「よし来た!」














その言葉を待ってましたと言わんばかりに、男は私の腕を掴みながら立ち上がる。

足がもつれて転びそうになるのを器用に支えた男は、物凄くお酒臭くて思わず「臭っ」と呻いてしまい、慌てて取り繕い肝を冷やす。

が、男は気に病む気配はなく「だろ?」と渋い顔をしただけだった。


「せめて空の瓶で殴ってくれりゃーいーのによぉー」と恨みがましく見つめる目線の先には割れた酒瓶。

殴られ割れた弾みで頭から酒を被ったらしい。








濡れた前髪を乱暴に撫で上げて、男は私の肩を抱いた。

「ちょ!」慌てて抵抗するが、さっきの光景が頭に焼き付いて尻込みする。

抵抗したらこの倒れている男たちと同じ末路が待つんじゃないだろうか?












行くも地獄。

逃げるも地獄。

八方塞がりで何も言えずにいたのだけれど、「暇だと言え」と答えを強要されたという事は、私はまだこの男と一緒に居なきゃいけないのだろう。

最後の「暇?」の一言のと共に細められた眼光の圧力に早々に屈してしまったツケが、これから起こるのだ。










「じゃあ行こっか」

「え?!あ、あ、あの!?」









グイッと私の肩を抱いたまま男が歩き出し、力が入らず踏ん張りの効かない私は連れて行かれるがままに足を進めてしまう。

恐怖で奥歯がガチガチと鳴って異常に喉が渇いた。

この先に待っている結末をどれだけポジティブに想像しても、最悪な部類しか浮かばない。








私はただ家に帰りたいだけなのに、どうしてこんなことに・・・








血の気の引いた指先が冷たい。

激しい運動をしたわけでもないのに浮かぶ汗は、冷や汗で間違いないだろう。








こ、ここここ殺されたりとか・・・しないよね?

く、口封じとか・・・わ、私喋らないし、こんなこと誰かに喋っても誰も信じないと・・お、思うんですが・・・








体験したことの無い恐怖に心が憔悴していく。

今にも吐き出したいくらいの気持ちの悪さに胸もムカムカする。

しかし男はお構いなしにグイグイと先へ進み、1件のお店の裏口に立ち止った。






私の肩を抱く手の反対側の手が胸ポケットからカードキーを取り出し、入口横にあるセンサーに滑らせる。

赤いランプが点いていた電子錠が、軽快な音と共に緑色に切り替わり開錠を告げた。







ガチャリとドアノブが開く。

ゆっくりと開いたドアの隙間からは賑やかな音楽と生ぬるい空気が流れ出して来た。

唾を飲み込み喉を鳴らした私の耳元に、男が低い声で囁いく。









「先に言っとくけど」

「??」

「オレに話し合わせてね」

「・・・え?」

「家に帰りてぇーだろ?」

「・・・・」









恐怖に肩が竦んだ私を男の鋭い眼光が捉え笑う。

「そうそう、良い子にしててね」なんて言われても、意識を保っているだけで精一杯だ。

いっそのこと倒れて気絶してしまったほうが楽なんじゃないかとさえ思う。








一応家に帰してくれる気はあるらしいのだが、定かではない。

約束したとしても、この男が守ってくれる保証もない。

一寸先はドス黒い闇で閉ざされている。

先の見えない綱渡りをしているような状況に、体験したことない恐怖で身体が支配された。










ドアが完全に開く。

あまり華美ではない漆黒のドアの先には薄暗い細い通路が続いていた。

遠くから聞こえてくる音楽に混じるように、時折人の動く気配がある。

お化け屋敷のような嫌な暗さだ。



















入りたくない。



















心の底から本心が訴えて入室を拒否する。

けれども男に肩を押され、顔をひきつらせながら足を踏み入れた。

中に入るとさっきまで判別出来なかった会話の内容が切れ切れだが聞き分けられる。

「次は」とか「そっちへ運べ」とか内容は特別ではないけれど、現在置かれている立場のせいか、証拠隠滅とか何かを処理しているんじゃないかと邪推してしまう。







胸の前で潰れてしまうまで強く鞄を抱きしめた。

そうしないと、息さえ止まってしまいそうだった。

誇張表現じゃない。

唐突に突きつけられた不条理な恐怖は、正常な神経を狂わせるのに十分な破壊力を持っている。

どこからか楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

吐き出した息まで震わせると、誰かの足音がバタバタと近づいてきて声を荒げる。









「だーかーらー、それは5番だって言ってんだろーが!いい加減にしねぇと切れるぞ!!」









乱暴に奥のドアが開かれたようだ。

足音の正体の主が誰かに強い口調で支持を出しながら視界に現れる。

暗闇でも目立つ赤色の髪を苛立ち気にかきあげて「さっさと行け!」と激を飛ばし、指示を受けた誰かが駆けて行く。

明らかに不機嫌な様子の赤髪の男は、歩きながら私たちの存在に気が付き「遅ぇ!!」と怒鳴った。

ヒィッ!と喉が悲鳴を上げる。

ドスドスと大股で近づいてきた男が「遅ぇーぞジロー!」と男のだろう名を呼んだ。










「ごめんがっくん。遅くなっちった」

「「なっちった」じゃねーよ。跡部が怒り狂ってんぞ。買い出しに何時間かけてんだ!!って」

「ちょっと色々あってさぁ〜」

「色々って何だよ。つかその女誰だよ。酒くさ!!ってかお前その顔どうしたんだよ!!血が出てんじゃねーか!!」

「質問が多いよがっくん」

「当たり前だろーがよ!普通買い出し行ったら商品持って帰って来るんだよ!!血流して酒の匂いプンプンさせながら正体不明の人間を連れて来たら誰だって質問攻めにするわ!!」

「だから〜色々あったんだって」

「その色々を説明しろよ!というか先に例の物渡せ。オレが跡部に持ってくからよ」

「それの事なんだけどさぁ〜〜」













金髪の男が困ったように頭の後ろを掻く。

その行動と言葉で全てを悟ったのか、赤髪の男は目を大きく見開いて「はぁーー!!?」と裏返った声を上げた。









「おま・・・え?お前まさか・・・」

「色々あってさぁ〜〜」

「マジかよ!!は?マジで??ちょ・・・ウソだろ!!?」

「えへへ〜」

「笑い事じゃ済まされねぇよ!!おま・・・」









驚き過ぎて気管に唾が入り込んだのか、赤髪の男はゲホゲホと苦しそうに咳き込んで「あり得ねぇーー!!」と絶叫した。









「色々あって大変だったんだよね〜」

「色々で済まされるレベルを超えてんだよ!!オレ知らねーからな。ぜってぇー庇わねーから!オレを頼るんじゃねーぞ!!」

「え〜〜がっくんだけが頼りなのにぃ」

「知るか!!」









赤髪の男がキュっと足音を立てながら後ろを向いた。

その背中に金髪の男が「お願ぁ〜い」と声をかけるけれど「ぜってぇーお断りだ」とベーと舌を出して拒絶される。

金髪の男は断られることを予想していたのか「残ね〜ん」と、ちっとも残念そうじゃない声色で呟いた。

私はというと、金髪の男が一体何をしたのか分からずただただ身を硬くする。







赤髪の男が怒っているから何か失敗したのだということは何となく理解した。

じゃあ何を失敗した?

頭の中を過ってしまったのは白い粉の取引イメージ。

「例の物」はマフィアとかがドラマの中でよく使っている単語だ。










ま、ま、まさか・・・私が遭遇してしまった現場は・・・・











眩暈がした。

クラリと視界が回る。

私は相当ヤバイ現場に出くわしてしまったらしい。

一般市民がまず関わることのない部類の事件が、つい目の前で起こってしまった。














この男たちはヤ・・・・クザ・・・・だったり?














考えてしまった推測が現状と的確に当て嵌まってしまい怖気づく。

もしこの男たちがソッチの世界の人間だったと仮定すると、倒れていた男が売人。金髪の男がディーラー。そしてこの場所が・・・・本、部?











咄嗟に違う!と頭の中で叫ぶ。

私の仮定が恐ろしいほど筋が通ってしまっているが、それでも肯定したくない。

そうであるはずがない!!

必死に仮説を頭の中から消そうと追い払うけれど振り切れられず、こみ上げてきた吐き気に喉が熱くなった。








胃の気持ち悪さに涙が浮かぶ。

すると、さっきとは比べ物にならないほどの乱暴な足音が、赤髪の男の去った方向から近づいて来た。








もう嫌だ!

そう思う暇もなく新たに暗闇から現れた男は、廊下の端に積まれていた段ボール箱の前で足を止める。

そして躊躇することなく行き成り足で蹴り上げた。







衝撃で吹き飛んだ箱が潰れながら崩れ落ちる。

中に入っていた白い布らしき包みがバラバラと廊下に散らばった。

素人目でもハッキリと読み取れる怒りのオーラを全身にまとった男は、無表情で残骸を見下ろし「通路は物を置く場所じゃないと何度言ったら理解すんだ」と、体が底冷えするほどの低い声を出す。









決して大きな声じゃなかった。

けれど、男の澄んだ声色は周りの騒音に混じることなく鮮明に鼓膜を震わせる。










男の怒りに通路の奥から数人の人間が駆けつけ「申し訳ありません」「すぐに片付けます」と慌ただしく拾い集め出した。

何も蹴り散らかすことはないのになんて、普段の私ならそんな風に考えれたのかもしれないが、並み並みならぬ存在感に圧倒されて体が凍りついた。







よく分からないけど、彼には気安く関わってはいけないと感じる。

まるで野生のライオンだ。

彼の縄張りに入り込んだ瞬間、容赦なく喉を噛み切られてしまう。

ただ目の前に立たれただけで人はこれ程までに相手を恐れられるのか・・・











肌を焦がすような緊張感。

焼けつくような喉の渇きにいよいよ血の気が消え失せた。





































「ジロー」


































低いテノールが空気をゆっくりと震わす。

落ち着いた重厚感のある声は、今まで聞いたことの無いくらいに透き通っていた。

どう表現したら良いんだろう・・・








キレイ








単純に思う。

そしてその声と同じだけ美しい容姿を男はしていた。

人の視線を奪って独占してしまうほどの狂おしい美。

ダビィンチがミロのビィーナスと対する男の彫刻を作ったのなら、この男になるんじゃないだろうか。

まるで芸術品だ。








目を奪われて息を飲む。

一挙一動の動きさえ釘づけにさせてしまう男は、氷のように冷たい眼差しで上から私と金髪の男を見下ろした。

涼しげな目元の中にある瞳はアパタイトやサファイアのような青色で、静かなのに凶悪な光が宿っている。







人の上に立つべき人。

逆らう事を許さないオーラを放ち、地上に君臨した皇帝。






他人の呼吸する権限さえも奪ってしまう威圧感に頭の芯がクラクラと痺れた。

無意識に立てた爪が太ももの肉を抉る。

そんな私の行動を横目で見ていた金髪の男の口元が怪しい笑みを浮かべた。

それから1度目を閉じて目の前の男を見やり、臆することなくふにゃりと格好を崩す。








「跡部ただいまー!遅くなってごみんにぃ」

「全くだな。どこまで買い物に行ってやがった。ロシアか?それともブラジルにでも行ってきたのか?」

「やだな、跡部。忘れちゃった?オレ、馴染みの卸屋に行ってただけだよ」

「だよな。オレもそう頼んだと記憶している」

「でしょ〜?色々あって遅れたけど無事帰還しましたー!」

「ほぉ?無事だと?」









男の眉がピクリと反応する。

納得のいっていない様子に金髪の男は「あ〜、無傷じゃなかったかもしれないけどぉ〜」と曖昧な返事を返した。








「1つ1つ質問していく。オレの聞いた事にだけ簡潔に答えろ」

「え〜〜オレにそんな難しいこと出来っかな〜?」

「まず1つ。例の物はどうなった」








『例の物』発言にイコール白い粉を思い出して、今度は私がビクリと反応してしまう。

身体の振動に私の肩を抱いたままの金髪の男は気が付いたはずだが、特に気にする事無く「それは最後に聞いて欲しいC〜」と口角を上げただけだった。








「なら次の質問だ。その怪我は?」

「厳ついオジちゃんたちにやられちゃった☆」

「何をしやがった」

「う〜んとね、人助け?」










男の視線が私に移る。

凍りつく眼差しに瞬きすら忘れた。

文字通り凍りついたのだ。










薄い唇が空気を吸い込む。

吐き出した空気は言葉と共に形になり、私の元まで届いた。
















































凡愚者たちの行進
















































「この女は誰だ」















一言一言区切るよう、男はそう言った。

跡部と呼ばれたこの男は、一体何者なんだろう・・・






恐ろしいほど美しい。

いや、美しいから恐ろしいのかもしれない。

ホラー映画の幽霊が美人なのと同じ理由だ。






男の視線から逃れたくて体を引く。

下がった分だけ金髪の男の腕に深く抱かれ、強い力で引き戻された。

上擦った悲鳴を上げたつもりが声にならない。

ガタガタと震えて歯を鳴らす。

ハッハッと苦しげに呼吸を繰り返す私を、感情の色の見えない瞳が射抜いた。








「跡部にはちゃんと紹介しなきゃね。オレがこんなに遅くなっちゃった色々の末端の原因のちゃんだよ」







飄々と紹介された内容は、俄かには信じられないもの。

現実とは全く違う。

真実がひとつも無い。

私は関わっていないのだ。

私が通りかかった時点で金髪の男はすでにトラブルに巻き込まれていた。






なのに虚偽で塗り固めた説明を、金髪の男は悪びれもせずに言いのける。

デタラメの報告を受けた冷徹な支配者は「ほぉ」と顎をしゃくって「続けろ」と短く言葉を切った。







反論しなきゃいけないのは分かっている。が、恐怖で声が出ない。

「違う」「違います」「私じゃないです」

言わなきゃ。

言わなきゃ!!


























言わなきゃいけないのに・・・・












・・・ダメ、声が・・・・・出な・・・
























「昔々あるところに、ジローくんという若い青年が住んでおりました」

「短く話せと言ったはずだ」

「買い物帰りにちゃんにが絡まれてて助けた」

「で?」

「酒かぶった」

「そこはちゃんと説明しろ」

「酒瓶奪われて殴られて壊した」

「何をだ」

「仕入れたばっかのスクリーミング・イーグル」












聞き慣れない単語が出てきた。

冷淡な表情を崩さずに、男は相変わらずの無表情で「それで、景気付けに最高級のワインでひとっ風呂浴びてきたってことか?」と吐き出し、一呼吸おいてから1歩を踏み出す。

重たい革靴が廊下を踏み鳴らし、手を伸ばせば届く範囲に立ち止まる。

威圧感で人は死ねるんじゃないかと思った。

少なくとも私は何かを悟った。

絶望だ。









真っ黒い暗闇に飲み込まれた感覚を経験した人間はこの世にどれだけいるんだろう。

足元に底なしの大穴が開いているようだった。

この男のさじ加減が私の全てを握っている。








「さすがは跡部のお得意様が特注したお酒だよね。すっげー良い香り」

「言いたいことはそれだけか?」

「もう1個残ってる」

「それは?」

「自分のせいでって気を病んだちゃんが、出来る事は全てやらせて下さいって進言してくれた」

「この女が?」

「そう、ちゃんが」

「何が出来るんだ?」








何もできるはずがない。

しかし金髪の男が「何でも任せて」とホラを吹く。







「へぇ、ならオレが待ち望んでいる物を手に入れて持って来てもらおうか」

「あ〜それは無理」

「同等の品、もしくはランクを1つ下げても構わない」

「ん〜難しいかな」

「何なら用意が出来る?」

「そうだね。心と体を満たしてあげられるかな」

「コイツか?」

「そう。ちゃんが」








背中を押されて男の前に押し出される。

支えを無くした私は、その場に崩れるように座り込んだ。

両肩を自分の手で抱きしめてガタガタと震える体を必死で慰める。

俯いた視線に入り込む男の靴先が、やけに艶めいて見えた。











どうしよう。

どうしよう。

どうしよう・・・・













このままじゃいけない。

逃げないとダメだ。

どうにかしてこの場を離れないと・・・












危険を察知して 頭の中に警戒音が鳴り響く。

真っ赤な色がけたたましい音で「逃げろ」と。ただそれだけを命令する。

分かってる。

分かってるよそんな事。

分かってるけど!!





















足が立たないんだ。

動かないんだ。

動けといくら命令しても、全く動かないんだ。

男の纏う空気が私の精神を狂わせてしまっている。

匂ってくるムスクの香りが媚薬のように空中を漂い、ウイルス感染のように神経に入り込んだのかもしれない。












震える指先は服の繊維を掻き毟る。

大きく見開いたままの瞳からボタリと大粒の涙が零れ落ち、廊下にポタポタと垂れた。


















助けて・・・

誰か助けて・・・





















心の叫びは誰にも届かない。

震えすぎて過労した肺が、空気を吸うのすら辛いと訴える。

何も悪い事なんてしてないのに、どうしてこんな事になってしまったんだろう。

胃が縮小して胃液が競り上がる感覚に喉が焼けた。




















「おい」























男の声が頭の上から降ってくる。

「はい何ですか?」と私じゃなく金髪の男が答えた。

「お前は黙ってろ」と男は私の正面に立つ。

磨きこまれた皮の靴が、鏡のように私の姿を映す。













「おい」













男が私を呼ぶ。

けれど反応は出来ない。

息を忘れないように自分に言い聞かせるだけで一杯一杯で、顔を上げる筋肉も、声を出す気力すら振り絞る余力がないのだ。

男が小さく舌打ちする。







ハァ・・・・と震える息を吐き出し、断罪を待つ罪人のように男の出す判決を待つ。

耳鳴りがした。

この世の恐怖が今この場に凝縮されているんじゃないだろうか・・・

涙で色彩がぼやける。

白みを帯びて見えるのは、私の目の錯覚なのかもしれない。



















空気が重い。

身体も重い。

何もかもが重たく感じる。



















濡れた視界の中に映り込む男の靴が、不意に方向を変えた。

「どしたの跡部」金髪の男が疑問形で声を投げかける。







「こんな事に割く時間が勿体無い。持ち場に戻る」

「例の酒はどーすんの?」

「嘘で誤魔化したって仕方無い。ありのままを話して詫びるだけだ」

「マジで!じゃあオレのお咎めもナッシング?」

「ざけんなよ」

「だよね〜〜」

「服だけ着替えろ。そんな酒臭い格好でフロアに出られたら迷惑だ」

「え〜〜怪我したオレに接客させるの〜?」

「お前が割ったんだから当たり前だ。客の反応によって今後のペナルティーを考える。精々上手に謝ることだな」

「謝るのは大得意だから大丈夫だC〜」










金髪の男の言葉を鼻で笑う。

そして同じ抑揚で「その女をお前の控室へ入れておけ」と言い背中を向けて歩き出した。

ビクっと肩を震わせる。

私の代わりに金髪の男が「何させる気〜?」と意地悪気を声に含ませて笑った。










「とりあえずお前のゴミ部屋の片づけさせとけ」

「しっつれいだな。全然ゴミ部屋じゃねーし」

「十分ゴミ部屋なんだよ」

「ぶーーー」

「タイミングを計って呼びに行かせる。それまでに着替えて準備しておけ」

「へ〜へ〜りょーかーい」









男の足音が遠ざかり、ドアの開閉音と共に周りの空気がふぅっと本来の重力に戻った。

自分の心臓の音しか聞こえなかった耳の中に、クラシック調のピアノが奏でるリズムと沢山の人間の喋り声が入り込んでくる。

気温も上昇した気がした。













長距離走を走った後のように激しく肩で呼吸をする。

まだ震えが止まらずに床に手を着いた私の肩を金髪の男が叩いた。














「大丈夫?」

「・・・・」

「アイツは跡部って言ってこの店のオーナーなんだよね。ちぃーっとどころかかーなーりー怖い奴だから、逆らったら大変なんだ〜」

「・・・・」

ちゃんもそれは良く分かったよね?」

「・・・・」

「んじゃあ行こっか。跡部に呼ばれる前に着替えなきゃいけねぇーし」











「あ〜面倒」と私にだけ聞こえるように小声で言った金髪の男が、私の腕をつかみ引き上げる。

僅だが抵抗を見せる私に八重歯を見せ笑い、楽しげに目を細めた。








「だーめだって。ちゃんは今からオレの部屋のお掃除するの。忘れちゃった?」

「・・・・」

「逃げられないって。というか逃げても無駄?もし下手な真似したらど〜なるか想像つくだろ?」

「・・・・」

「オレならまず狙うのは大学かな。大学行けばちゃんの友達がいるでしょ?心配じゃない?」










ゾクリと背中に震えが走る。

金髪の男を塗れた目で見上げると、彼はネズミを前にしたネコのように凶悪な笑顔で私を見下ろしていた。











「友達と接触持ったらちゃんの家も分かっちゃうな〜。1人暮らし?実家?家族はいるよね?お父さんの会社はどんな所か知りたくなっちゃうのはオレだけじゃなかったりして」

「そ、それは!」

「それは?」

「や・・・・やめて・・・・・・くだ・・・」

「あのねちゃん。オレはな〜んもするつもりはないよ。今のはただの作り話し。空想。仮定」

「・・・・・」

「まぁ、全てはちゃん次第だけどね」











肩を抱き寄せられて耳元でそう囁かれた。




限りなく脅迫に近い忠告だ。

逃げる気力も希望も全てこそげ落とされて、首に見えない首輪を結び付けられたようだった。

行きたくないと足を踏ん張るが、首輪の先に繋がれたリードで無理矢理引っ張られて進むしかない。

恐怖にしゃくりあげた私を、金髪の男は開けた扉の中に押し込んだ。








倒れ込むように床に座り込む。

「ここがオレの部屋ね」と紹介されたから、跡部という男が言っていた控え室の事なんだろうと察しがついた。

金髪の男の後ろで扉が閉まると、防音加工でもされているのか驚くほど静かになり周りの音を遮る。

そんな静かな部屋の中は本や雑誌、ゲームや服、食べかけのお菓子や何故かある招き猫の置物が、ぐちゃぐちゃに折り重なるように部屋を占領していた。









「ゴミ部屋じゃなくて宝の部屋って言って欲しいよね〜〜」







金髪の男はそう言いながら、床に広がる自称宝物を足で踏みつけながら、酒臭いシャツを脱ぎ捨てる。

思わず視線を逸らすが、男は私の存在などまるで気にも留めず部屋の中に備え付けられているもう1つのドアの中に入っていく。

チラリと隙間から見えたシャワーヘッドに、あの部屋は浴室なんだと分かった。







脱ぎ捨てられたばかりの服の下に埋もれてしまったUFOキャッチャーにありそうなヌイグルミの虚空な目が私に向いていた。

無機質な黒のボタンが蛍光灯の光を取り込んで、何か言いたげな顔をしている。







ザァザァと聞こえる水音。

「痛ってぇ」と憎らしげ聞こえるうめき声は、傷口を洗い流しているんだろう。








しばらくすると濡れた髪をタオルで拭きながら男が浴室から出てきた。

まだ大量の滴がついているせいで歩いた後にポタポタと水たまりが出来る。

お母さんの前でやったら怒られるだろうことこの上ない行為を平然とする男は、部屋を軽く見回して、同じ場所で座り込んでいる私に首を傾げた。







「あれ?なんでやってないの?」

「・・・・・え?」

「片づけ。やるように言われたでしょ?」

「・・・・」








口を閉じる。

言われたのは確かだ。

あの帝王のような男は、確かにそう言った。

言ったのだけれど・・・









動かない私の前に男がしゃがみ込む。

目線を合わせられ逸らすと、「ねぇ」と低い声で呼びかけられて唇を噛んだ。









「何してるの?」

「・・・・」

「腰が抜けて動けない?」

「・・・・」

「それとも誰かが助けに来てくれるのを待ってる?」

「・・・・」








助けなんて・・・・・・来るはずがない。

私がどこにいるだなんて、友達も親も知る由はないんだから、助けに来ようがないじゃないか。

それに、私の鞄の中から男が携帯を抜くのを見た。

警察すら呼ぶ手立てがない。









無言を貫く私を、男は頬杖をしながらしばらく眺めた。

それから深くはぁぁ〜〜〜と肩を落とし、「あのさぁ〜」と怠慢に喋り始める。














「何を考えてるのか知らないけどさぁ〜」

「・・・・」

「片づけ終わらなきゃ家に帰れないよ〜」








「家に帰れない」その言葉に私の瞳が揺れた。

ゆっくりと、ゆっくりと瞬きして強く唇を噛みながら男を見上げる。

ようやく反応した私に満足したのか「ね?」と首を傾げる男の様子に、私の中の恐怖が爆発した。

ボロボロと涙が涙腺のダムを壊してあふれ出る。

歯を食いしばって嗚咽を堪えるけれど、耐えきれずに声を上げた。













「はな・・・話し、が、ちが・・・」

「ん?」

「違う、じゃないです、か」

「何が?」

「だ、だって・・・・・わ、私、は・・・・・何もして・・・な・・・」

「うん、してないかもね」

「なの、に・・・・どうして・・・あんな・・・」

「跡部に嘘ついたって?」
















激しくしゃくりあげながらも男の言葉に頷く。

子供がイタズラした責任を誰かに擦り付けたのとはレベルが違い過ぎる。

「ごめん」で許される次元ではない嘘を、この男はついたのだ。

しかし男は悪びれもせずに「日本昔話って知ってる?」と変なことを言い出して私を戸惑わせる。




















・・・。





















数秒間をおいて、言葉の代わりに頷く。

真っ赤に貼れた目の下の皮膚がピリリと痛んだ。







「お爺さんに助けられた鶴は人間に化けてまで恩返しを果たすんだよね。義理に熱いと思わない?」







それが・・・何だというのだ。

確認するように同意を求められたって頷く事しか出来ない。

無理な泣き方で披露した喉がヒュウと収縮して小さく咳き込んでしまった。







ちゃんはオレに助けられたよね?」

「・・・・・・・え?」

「助けてほしい?って聞いたら助けてって言ったよね?」

「・・・・そ、れは・・・・・」

「お礼の恩返しを貰ったってオレは悪くないでしょ」









男の真意がようやく分かった。

『助けたんだから見返りを寄越せ』。

男はこう言いたいのだ。









この男は最初から・・・・私があの場所に現れた時から・・・・

私を身代わりに差し出そうと企んでいたんだろう。

だから助けた。

わざわざ「助けてほしい?」と意見を聞いたのは、より「助けてやった」と私に強調付けるため。

私に見返りを飲み込まるための罠だったのだ。








まんまと張り巡らされたクモの糸に絡みつかれた私は、言葉なく泣き出す。

怖いし、不安だし、怒れるし、寂しい。

震える私のおでこに金髪の男が手を当て、クイっと顔を上げさせる。

そしてつまらなそうに「あのね、泣いたって状況は一向に変わらないんだよ」と、表情を変えずに言う。










「帰りたかったらやるべきことがあるんじゃねーの?」

「・・・」

「泣いてる暇なんてねぇだろ」











手が離された。

押されていた掌が消え、私の顔はそのまま下を向く。

床に着いた掌がブルブルと震えているのは、現実の光景だ。











理不尽だ。

瞳を閉じる。










悔しくて悲しくて堪らない。

なんで私がこんなめに会わなきゃいけないんだ。

どうしてこんな事になっちゃったんだ。












「どうして」と「なぜ」が頭の中をループする。

けれども男の言う通り、何もしなければ事態は動かない。

帰りたかったら・・・・悔しいけど、情けないけど・・・言われた事をするしか無いのだと、自分に言い聞かせ掌を握りしめた。










泣きながら手元すぐに落ちていた雑誌を集める。

重ねてまとめて置き、次はゴミ箱の周りに散乱したお菓子の空箱を潰して捨てる。

ペットボトルのおまけについていただろうゴム人形を拾うと、手の届く範囲に物がなくなってしまった。

だから膝を着いて遠くの物へ手を伸ばす。










「うん、うん。良い子だね」









男が満足そうに声を掛けて来たけれど、まだ中途半端に泣き止んでいない私はしゃくりあげるだけで返事をしなかった。

男を視界から排除して片づけだけに専念する。

また落ちていた雑誌をさっきの山に置き、漫画はその隣に。

ダーツボードの赤のダーツだけが1本転がっていたり、どれ用のか分からない充電コンセントがたこ足配線にこれでもかとくっついている。







腕の服で涙をぬぐって、ついでに鼻も啜った。

早く帰りたい。

ただそれだけを一心に片づけを進める。






団扇とコイン。タバコの箱に折り畳み傘。

ありとあらゆる物が混在していて、片付けは骨が折れるだろうと予測はついた。

が、嘆いてはいられない。

早くこの場から解放されたい。

足の指先の感覚が戻らないまま立ち上がり、ふらつきながら壁を支えに拾った物を選別していく。








男は暫く働く私の様子を興味深そうに眺めていたが、すぐに飽きたのか物で溢れたベッドの上に転がった。

丁度寝転がった頭の下にあった目覚ましにぶつけたのか、「痛て!!」と呻き「あーもー!」と目覚ましをベッドから床へと投げ捨てる。

後ろの蓋が外れて電池が飛び出し転がるが、そんな事は気になら無いようで寝やすいように体の向きを変えて枕を叩いた。

そこに「おい、ジロー」とさっきの赤髪の男が入ってくる。






「跡部が呼んでんぞ」

「あ〜〜〜ついに呼ばれちゃったぁ〜?オレの命ももうここまでだったりして」

「バーカ。自分の責任なんだから同情しねーぞ」

「あ、やっぱり?」

「つかよ、どうすんだよアイツ」









話し声のボリュームが下がる。

赤髪の男は話し辛い内容だと感じているようで声を潜めるが、金髪の男は私に気を使う必要性など皆無だと思っているようで「それは跡部が決めることっしょ」と普通の音量で返す。













「でもよ〜・・・」

「あれ?もしかしてがっくんが変わってくれたりする系?」

「いや、それは・・・・アレだけど」

「オレが酒を持ってこられなかった原因を担ってるんだから、手伝いは当然でしょ?」

「まぁ・・・そうかもな」

「でしょ?それよりオレはどこの席へ行けばいーの?ビップ?スィート?」

「スィート。跡部の上客だから気をつけろよな」

「分かってるC−!その辺は上手くやるから大丈夫ー!」

「ああそうかよ」








赤髪の男が先に部屋を出る。

その後に続くように金髪の男も扉から半身を出したが、無心に片づけを続ける私に「逃げちゃだめだよ」と忠告のような置き土産を残して扉を閉めた。

誰も居なくなった部屋で、やっと気が抜けたのか尻餅をつくように座り込む。

納まったはずの涙が目尻から流れた。






逃げちゃだめ?

あれだけ私に逃げたらどうなるか脅迫したくせに!!

逃げられるはずないじゃん!!

学生証も携帯も家の鍵もアイツが持って行った鞄の中に入っている。

逃げた後に待ち受けるのは悲惨な結果だけ。


























逃げたい。

けど逃げられない。
























恐怖で人は支配出来るらしい。

ただ学校を知られただけで・・・名前を知られただけで・・・・こんなにも簡単に友達を人質にとられるだなんて、私は知らなかった。






込み上げてくる吐き気にゲホゲホと咳き込む。

震えが止まらない。

体中の筋肉が強張って、動くたびにあちこちが軋む。








今。私が出来る事。

それは男の言う通り、言われたことを終わらせるだけ。

でも本当にそれで終わる?

家に帰してくれる?

もう脅迫されることはない?









竦み上がりながらも何とか立ち上がる。

産まれたての小鹿のように動いては転び、歩いては躓きながら、それでも目の前にある物を1つ1つ片づける。

酒臭いシャツや皺の寄ったズボン、片方しかない靴下を拾い上げ、衣類はどこへまとめようかと考える。

良い置き場が見当たらなかったので洗面所の前に置き、ついでに男の歩いた道しるべになっている水溜りを服で拭いた。せめてもの仕返し・・・じゃなくて本気で意味を考えていなかった。

ただ「片づけなくちゃ」という思想が、普段はやらない斬新な方法を生み出していく。










大きなクッションの下にはパンツが落ちていて思わず嫌な顔をしてしまった。

ハンガーから落ちかかっている背広をかけ直し、転がった電池を目覚まし時計にセットする。

テレビのリモコンや寝る前に遊んでいたんだろうゲームは、まとめて机の上に置いた。






徐々に部屋が片付いて行く。

足の踏み場も躊躇してしまう様子だった部屋は、友達を呼んでも怒られないレベルくらいにまで整頓が終わる。

所々にへそくりのように散乱していたお札や小銭は全部で数万円。

タバコは吸いかけの物が8箱も出てきた。











場違いな人形はベッドの上に並べる。

舞い上がった埃に咳き込むが、この部屋は何故か窓が1つもない。

浴室の扉を開けて換気扇を回し、ハウスダストが少しでも飛んでいくように知恵を凝らした。

仮置きした洗濯物は、浴室の端に置いてあった洗濯機の中に放り込む。









掃除機が無いからティッシュを使って部屋を軽く水拭きした。

本も埋もれていた本棚に戻した。

ゴミ箱に入りきらなかったゴミはコンビニのだろう袋に入れ、扉の横に積み上げた。















やるべきこと全部やりきった。

しかし、やりきってしまうと今度は何をしたら良いのか分からなくなって急に不安に襲われる。

片付けという仕事に気が紛れていたから考えずにすんでいた「これからどうなる?」という現実がジワジワと心を侵食し、押しつぶされそうな重圧が襲いかかってきた。











ベッドの影に隠れるように壁を背に座り込む。

体育座りの要領で膝を抱え、静かに涙を流す。
















「お父さん」と何度呼んだだろう。

「お母さん」と何度助けを求めただろう。

まだ親孝行も出来てない。お爺ちゃんやお婆ちゃんに成人式の着物姿も見せられてない。

友達と夏に旅行に行こうと計画も立ててた。

そのすべてを・・・・私は失ってしまうのだろうか・・・・


















謝れば時間を巻き戻してもらえるなら、私は土下座したって構わない。

声を失えば家族の元へ帰れるなら、魔女に売ったって良い。
















































どのくらい1人で泣いていたんだろう。

時間を知るための時計はこの部屋には目覚まし時計しか無い。その目覚まし時計もしばらくの間時を止めてしまっていため、正確な時間は分からなかった。

喉は枯れ、もう流れる涙もない。

啜り過ぎた鼻は、微かに血の匂いがする。







静かな・・・・

とても静かで孤独な時間だった。







このまま壊れてしまった方が楽かもしれない。

そんな気さえしていた。

わずか37歳の若さで処刑になったマリーアントワネットは、独房でどんな事を考えていたのだろう。

乾いた体は酷く怠い。






























「・・・・お父さん、おか、さん・・・・」
































ごめんなさ・・・・・







































突然空気が変わった。




















心臓を鷲掴みされたような感覚に身体が震える。

何が起こったのか、私は一瞬で理解した。








身体が覚えてる。

記憶が鮮明に覚えている。

刻みつけられた恐怖が蘇えり、呼吸が上手く出来なくなって荒く息を吸い、吐き出す。














あの男の気配だ。














段々と近づいて来た気配に、体を出来るだけ小さくして息を殺した。

ライオンに怯える兎のように、戦う術を知らない私は隠れることしか出来ない。

いや、私なんかを兎を比べたら失礼だ。

兎は最後の最後まで逃げ走る。

私は、「隠れる」という手段すら選べそうにない。










廊下と部屋を繋ぐ扉の前。

男が立ち止まった気配を感じ取る。

ドクンドクンと今まで聞いたことのないくらいに暴れる心臓が、口から飛び出してしまいそうで苦しい。








ガチャリとドアが開く。







来るな。

来ないで。

見つかりませんように!

お願い神様!

どうか私を助けて!!









強く願うけれど、コツンと響く靴音が部屋の中へと入ってくる。

その足音はまるで導かれるように私の元まで最短のルートを響かせて立ち止まった。








男の気配がすぐ上にある。

剥き出しの牙を目の前に、噛み締めていたはずの歯がガチガチと震え始めた。

こんな人間は知らない。

存在するだけでこんなにも恐怖を覚える人間が、この世に居て良いはずがない。









それほどの恐怖感を男は従えていた。

同じ空気を共有する事すら許されない気さえする。




















「・・・・」



















男は数秒間無言だった。

無音なのに耳にキーンと金管楽器の残響が響く。

ガクガクと震える私を前に、男は氷のような冷たい声で「お前の損害賠償金額を簡単に試算した」と、難しい言葉を発する。








損害・・・賠償?

って、・・・・・何の・・・・こと?









「まずは駄目になったスクリーミング・イーグル。これが何だか分かるか?」

「・・・・」

「答えろ」










声に含まれた苛立ちに肩が跳ね上がる。

あまりの恐怖に泣きたくなるが、カラカラに乾いた体にはもう流せる水分が残っていない。

人は泣くとストレスを発散すると言うが、そのストレスの発散方法すら奪われたら、一体どうすれば良いのだろう?









言う事を聞かない体に必死で命令して首を横に振る。

ほんの数センチしか動かせなかったけれど、男には伝わったようで「カリフォルニア産のカルトワインだ」と説明をしてくれた。

どうやら白い粉の名前ではないらしい事に少しだけホッとする。









「今回取り寄せたのは2006年物のソービニヨン・ブラン。貴重な白のワインと言えば分かるだろ。原価で25万。売値は80万を下らない。オレの店での価格は175万で提供する予定だった」

「・・・・」

「次に代替え品の購入。多少価値は落ちるが同じカリフォルニアワインのオーパス・ワン1984年もの。原価13万。この2つが実物損害だ」

「・・・・」

「単純に175万の売り上げと余計な出費が13万で合計188万。この他にジローの負傷の治療のため1週間の休業分の損益」

「・・・・」

「あんなのでも一応稼ぎ頭だからな。1日の売り上げ平均からジローの手取りをマイナスすると、店の損益は1日90万」

「・・・・」

「90万×7日の合計が630万。プラス実物損益で818万」

「・・・・」

「本来はその他雑費等を計算に入れるところだが算出する時間のほうが勿体無い。オレの店での計算は繰り上げ方式だ。818万を切り良く繰り上げて合計1000万円」

「・・・・」

「不備が無いか確認しろ」













男が手書きで書かれた用紙を私の前に突き出す。

話しがよく分からない。

それでなくてもこの男が恐くて正気を保っているのがやっとなのに、言われている事をすべて理解など出来るはずがない。










チカチカと危険信号が鳴り響く頭は「逃げろ」とばかり私をせっつく。

しかし金髪の男の忠告のせいでそれも叶わない。

恐ろしさと恐怖で固まる。

震えるだけで動こうとしない私にしびれを切らしたのか、男が手にしていた紙を床に落とす。








ヒラリと空中をゆりかごのように揺れながら落ちた用紙は、私の足の上に落ちた。

僅かな紙の感触にさえ体を強張らせてしまう。

涙で腫れあがった目は普段の半分以下の視界しか開けられなかったけれど、それでもなんとか紙の上の文字の羅列を眺める。

私の知っているはずの単語がキレイな文字で書きつづられていた。









読めるはずなのに書いている内容が頭に入ってこない。

これは何?

男は何を言っている?

この状況は、一体どういう訳なんだ??









ヒックと、喉が引き攣る。

恐る恐る膝を抱えていた腕を解いて膝の上の用紙を掴む。

万年筆で書かれたのであろう楷書に似た文字は、最後の最後を黒い棒1本で締めていた。

その棒の前には署名と書かれている。















「問題がなければその黒線の上に名前を書け」



















問題・・・・

問題が何かあるのかな?

というか問題だらけなんだけど、この他に問題出てくるほどバリエーションがあるのか??














ぼんやりと考える。















書かれた数字。

日付。

難しい文面。

そして署名欄。




































・・・・・・・。





























・・・・・・・。
































・・・・・・・。





























・・・・・・・・・・・え?


































・・・・・も、もしかして・・・・・・・コレって・・・・・







































目の奥で瞳孔が大きく開き切る。

息が止まった。

息と言うか私の時間が止まった。

背中の底の方から悪寒が駆け上り、体を竦ませる。
























・・・・・・・もしかして・・・・
























「・・・あ・・・」

「不備があったのか?」









不備とか・・・・そういう部類じゃない。

私は違うんだ。

何もしてない。

ただ巻き込まれただけで助けられたわけじゃ・・・・助けられたのは事実だけれど、でも全然違う。








私のせいで金髪の男がお酒の瓶を割られたんじゃなく、私が巻き込まれる直前に割れたはず。

だから、だから・・・・

だから違うのに・・・

私はやってない。

私じゃない。

私のせいじゃない。

それなのに・・・









説明しようにも男の威圧感のせいで喉が圧迫されてしまっている。

例え声に出せたとしても順を追って説明できるかすら怪しい。










違う。違う。違う。違う。違う・・・・











頭の中では何度もそう訴える。

けれど頭の中の声は男に聞こえるはずがない。

苦しげに息を荒げながら時折引き攣る私を、男の冷たい目が見下ろしていた。











「不備が無いなら署名しろ」










ビクリと肩を震わす私を前に、男は落ち着いた仕草で胸のポケットに付けていたペンを引き抜き放り投げる。

シルバー色の細身のペンは文房具屋で見た事がないようなデザインをしていて、一見しただけで高そうだと判断がつく。

そんな安くないだろうペンは私の右足の横に弾みながら落ち、コロコロと転がった。




















署名・・・・・






















これは契約書だ。

借用書とも呼ぶ。

金髪の男の嘘のせいで背負うことになってしまった負債を、私が弁償するという証明をするための物。

例え子供が書いたのであっても、内容さえ正しければ裁判で有力な証拠にもなるとても重たい書き物だ。








もし署名したのなら・・・・・契約は成立してしまう。

全くやって無い他人の責任が、合法的に私の負債になる。










駄目。

絶対駄目。

認めてしまっては駄目!!

署名してしまったら、この男たちからも、法律からも逃げられなくなってしまう。







恐怖で狂いそうになりながらも踏みとどまった。

書けない。

書いては駄目。

この男の言われるままじゃ駄目なんだ。反論しないと。

私はやってない。

私じゃない。

お酒を割ったのは私じゃなくて・・・・・・




























私じゃ、ないのに・・・・




























無言で紙を握りしめる私の前で、男がゆっくりと足を上げる。

とても鈍足な動きだ。

部屋の電気の光が光沢のある男のスーツをキラキラと際立たせる。

いくつもの皺が男の動きに合わせ、出来ては消えて行く。


















そして・・・・


















物凄い轟音が耳の真横で響いた。






























声は出なかった。

唐突過ぎて出せなかったのかもしれない。

風圧にフサリと舞った横髪が耳にかかる。




























・・・・・・・あ、

















あ、あぁ・・・・・































限界まで見開いた瞳。

そのわずか10センチ横。

男の重たい靴底が、私の顔のすぐ横の壁を叩き蹴った。




















・・・・・。























私の中の全思考が止まる。

この世のモノとは思えない恐怖に精神が限界をきたしたんだろう。

買ったばかりのノートのように真っ白な画像が頭の中一面に広がり、1秒ごとに周りのほうから白が歪んで普通の景色に切り替わっていく。

徐々に徐々に、ゆっくりと・・・

段々とクリアになっていく意識のまま、真横に突き刺さったままの足を辿って男の顔まで視線を向けた。
























・・・・・っっ!



























途端に意識が鮮明に戻った。

恐怖が再び体を遅い、ガタガタと震えだした私に「時間をかけさすんじゃねーよ」と低い声で男が言う。







怖い。

怖い。

怖い。






金髪の男も怖いと思ったけれど、この男はその比じゃない。

人間じゃないみたいだ。









逆らったら殺される。








混乱して吐き出した息が喉に止まり激しく咳き込んだ。

ゲホゲホと乾いた喉が咳に耐え切れず、鉄の血の味が喉から込み上げてくる。







怖い。

怖い。








男の氷河のように冷たい目が真っ直ぐに私を射抜く。

あまりの恐怖に理性が負けた。

右手が床を触り、手探りで男が投げたペンを探し出す。









指先に触れた異物の感触。

それを取り上げると、震える右手で掴み紙の上まで引き上げる。









私が書く意思を見せたせいか、男の足が元に引き戻された。

そんな事にも気が付く余裕もなく、最後に少しだけ残っていたのだろう涙で顔をグチャグチャにしながら署名欄に黒い線を引いて行く。







思うように書けなかった。

尋常じゃない震えでペン先が揺れ、左手で文字を書いたよりも酷い線が描かれていく。

当然署名欄に収まるはずがない。

日本語とは到底思えないガタガタの名前を書き終わると、男がスルリと私の手から用紙を引き抜いた。










咄嗟に掴み返そうとするけれど、それよりも数秒早く手の中は空になる。

男は受け取ったばかりの契約書を神経質に2回折り曲げ、ポケットへとしまった。












奪い返さないと。

どうにかしてあの紙を捨てないと・・・











意識は妙にはっきりとしてきた。

けれど体がついてこられず、視線で男の手の動きを追うので精一杯だ。












「これで、正式に契約は完了だ」

「・・・・」

「質問があれば今だけ受け付ける」

「・・・・」

「無いみたいだな。なら次の話しだ」









無いわけがない。

質問というか弾叫したい事が山のようにあるし、男の正体すら私は知らない。

全部聞き出してやりたい。

ここがどこなのか。

どういう店なのか。

そして貴方は誰なのだ・・・と。














それでもゼェゼェと苦しげに息をするだけの喉からは声が出ない。

細かくぶつかり続ける歯が、言葉の代わりにカチカチと鳴るだけだった。











「返済方法はどうする?」

「・・・・」

「1000万。ガキにすぐ払えれる金額じゃねーだろ。それとも親族から借りられる当てがあるか?」











私は小さく頭を振った。

そんな大金持った事もなければ見た事もない。

親の貯金がいくらあるのかは想像もつかないが、ポンと一括で1000万を差し出すには無理があるだろう。















「ならどう返済していくつもりだ?」

「・・・・」













そもそも私に返済義務はあるのか?

考え付いてしまうのは根本的な問題だけれど、サインしてしまった契約書があるかぎり私の責任は放棄出来ない。











1000万。

100万円の束が10個。

今働いているバイトの時給は950円。学校帰りに4時間と、週末フルに働いたとしても1年間で150万程の返済となり、全てを返済するまでに6年間かかってしまう。

しかも何事もなくバイトを続けられたとしたら・・・・だ。

そして可能なら、この事は両親に内緒にしていたい気持ちも強い。

心配をかけたくないからだ。

毎日遅くまで働いているお父さんに、これ以上無理をさせたくないし、何よりこんな事態に関わってしまった事で私を嫌ってしまったら・・・・そう思うと怖いのだ。






自分1人でどうにかしたい・・・

無謀だとは分かっているけど、それでも黙っていたかった。

男は私の心情を読み取ったのか、「稼ぎ場を斡旋してやろうか?」と言った。









ソッと顔を上げる。

動きによって目尻に残った最後の涙が頬を流れた。

男は冷酷な表情を崩さずに、つまらなそうに口を開く。










「ある程度の保証がされた店と、バカみたいに金だけが稼げる店がある」

「・・・・」

「前者は経費は抜かれるが、危ない綱渡りはしないで済む。固定給1万。その他歩合制。客の人数×利用費の6割だ。1日3人相手にすりゃ1万8千円の歩合費を稼げる」











なんだか・・・・非情に聞いてはいけない部類の話しのようだ。

1日3人の相手とか・・・相手?

話し相手とかそういう意味じゃない事は、支払われる金額からも予想がついた。







「後者は馬鹿みたいに金が稼げるが、その分リスクも大きい。なんせ「どんな客でも金さえ払えば拒みません」がうたい文句だからな。1回相手すりゃ6万。その8割が丸々支給される。つまりは1人につき4万8千円」

「・・・・」

「まぁ、いくら稼げるかはお前の腕次第だがな」










カラカラに乾いた喉が引き攣った。

これは売春だ。

男は体を売って稼げと私に進言しているのだ。







1日にそれだけ稼げるのなら返済期間は短くて済むだろう。

コツコツとバイトして6年。1日5万稼げば1年もかからずに返済が終わる。

考えようによっては効率的だ。

少しの間我慢すれば・・・

そんな妥協案が頭の中に浮かぶ。










少しでも楽して返せたなら、それで良いじゃないかと。心の中の黒い住人が呟く。

早く解放されたい。

早く逃げたい。

早くこの男たちから関わりを失くしたい。

だったら・・・・





















・・・・・でも・・・・



























嫌だった。

どうしても嫌だった。






まだ恋人だって出来たことない。

男の人とデートしたことだってない。

私の初めては大好きな人と・・・・・したい。

お金で売りたくない。

間違ってる。












私は首を横に振った。















違う。

駄目。

絶対違う。

こんなこと受け入れちゃいけない。











例え借金を背負わされても、脅されても・・・

譲れない物がある。

譲っちゃいけないラインがある。




















「ならどうやって返済する気だ?お前ごときが稼げる金はたがか知れてるが?」





息を思い切り吸い込んだ。

身体はまだ震えてる。

正直怖くて怖くて堪らない。

今すぐにでも逃げたいと思ってる。














それでも・・・
















逃げられないから歯を食いしばった。

怖いから腕を爪で引っ掻いて自分を奮い立たせた。










「は・・・・・」










出した声は喉の震えをそのまま反映していて、面白いほどに音が外れる。

だからもう1度息を吸い込んだ。












「はた、働いて、か、返し、ます」

「どっちの店で?」

「ちが、違いま・・・す、どっちの店も・・・嫌です」









消え入りそうに小さい声しか出なかったけれど、男は聞こえたようで「はぁ?」と不機嫌そうに眉を寄せた。








「どういうつもりだ?」

「ど、どっちの、お、お店も・・・・行きたく、ない、です」

「理由は?」

「い、嫌、・・・だから」

「そんな理由がまかり通ると思ってるのか?ガキの遊びじゃねーんだぞ」

「わ、わ、分かってま・・・・でも、それでも・・・」












「約束のお金は絶対に払います」と、私は精一杯伝えた。

「無理だ」と男は即答で否定する。
















それでも首を縦には触れなかった。

ガキの考えだと言われても、見通しが甘いと言われても仕方ない。

それでも譲れない一線がある。











込み上げてくる吐き気に大きく咳き込んだ。

抑えた掌に少しだけ血の色が滲んでいる。
















このまま死ぬのかな。




















恐怖に沈む意識が生み出した考えは、私の司令塔である脳を狂わせた。

思ってもいない意見が勝手に口から飛び出し、男の目が鋭くなる。


















「今、なんて言った?」




















え?

私・・・・何か言った・・・・かな?























・・・。



















え?

全然覚えてないんだけど・・・・あれ?

































頭にもう1人の私が居るようだった。

ぼんやりと聞き手に周る私の意識の真横で、もう1人の私が男に言う。





















「この店で働かせて下さい」





















・・・・と。



















「断る」

「ど、どうしてですか?!」

「今の従業員で定員は足りている。他に無駄な人員を取るつもりはない。それに・・・」

「そ、それに?」

「オレの店で雇うのは男だけだ。女はいらない」

「そ、その理由じゃ・・・納得できません」

「別にお前に納得されようがされまいが関係無ぇんだよ。うちでは雇えない。以上だ」

「何だってします!!皿洗いでも、ゴ、ゴミ出しでも、私にできることなら全部やります!!」

「雑用を新たに雇うほど、お前は価値があるのか?」

「な、無いで・・・・・・あ、有る・・・かもしれません!」











そもそも、この男の店が何の店なのかも知らない。

どんな仕事内容なのかも想像すら出来ない。

なんとなく分かるのは「普通の仕事」じゃない事。

もしかしたら売春よりももっともっと酷い仕事をしているかもしれない。














けれど、そんな不安な考えは全く予想できなかった。














ただ目の前にある「体を売りたくない」という一心だけで、人生を賭けた博打をしているようなものだ。

東京湾にコンクリートの塊を捨ててくるよう言われたらなんて・・・その時になってまた考えれば良い。

今は今の事だけ乗り越えなければ。







息を呑んで男の顔を真っ直ぐ見上げる。

男の凍てつく眼差しに顔を背けたくなる気持ちをグッと堪えて、掴んだ腕を血管が浮き出るほど強く握りしめた。

痛みで気を紛らわさないと、すぐにでも俯いてしまいそうだった。











「・・・」









男は何か言いたげに眉間に皺を寄せる。

数秒間の沈黙。

私は食い入るように男の顔を見つめた。





























思案が終わったのか、男が薄く唇を開く。




























私の平凡な人生は、この日で終わった。


























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