最近日課となる行動が1つ増えた。

それは大学内で監視カメラを見上げる事だ。

指輪の盗難事件を解決しようと監視カメラの映像を見続けているせいで、意識が勝手に向いてしまうらしい。

今日も学食でうどんを食べながら視線をカメラへと向けていると、友達が「何を見てるの?」と聞いて来るから普通に監視カメラだと答えた。

友達は「変な物見てるね」と言いつつも、最近どこにも監視カメラが付いてるよねと少しだけ嫌そうな顔をする。

事件防止にもなるからカメラの設置は否定しないが、自分が大あくびをしたり変顔でくしゃみしている姿が録画されている可能性もあるから気分的には良くないのだそうだ。







「大学内にも結構数が設置されてるもんね」

「学食には3台ついてるよ」

「そんなに?3台もつける意味ある?」

「台数の決まりは分からないけど、全方面を録画するためには数でカバーするしかないからじゃないかな」

「1、2、3・・・・本当に3台もついてる」

「変顔がカメラに映らないように背中を向けて食べる?」

「ん〜・・・・・もう面倒だしこのままで良いよ。どうせ事件が起きないと録画映像なんて確認しないだろうし」








友達はそう言いながらコンビニで買ってきたサンドイッチの袋を破る。

新商品のえびカツサンドイッチは絶対に美味しいので、今度私も買ってみよう。

カメラを意識したのかいつもよりも小口でサンドイッチを食べる友達は、うどんの油揚げをぱくつく私に「あれ?でも全部で4台じゃない?」と言い出した。

忍足さんが持ち出してくれた学食の監視カメラの映像は3台分だった。

だから3台だと決めつけてしまっていた私だけど、友達が見ている先にもう1台のカメラを見つけてポカンと口を開ける。

あの場所に設置されているカメラの映像は見たことがなかったのだ。

つまり、もう1台手がかりになる映像が残っているはず!!




降って湧いた希望に瞳がキラリと輝く。

早くしないと映像データは上書きされて消えてしまうらしいから、急いで忍足さんに頼んであのカメラの映像を入手して貰わなくちゃ!!

思い立ったが吉日とばかりに忍足さんの研究室へと急ぐ。

ただ、タイミングが悪かったらしく忍足さんの姿が見当たらない。






トイレかな?

朝は日課の頭撫で撫でをしたから来ているのは確かなんだけど、どこだろう?

お昼を外に買いに出た可能性もあるよね。

幸先悪いタイミングにこっそりと肩を落としながら教室へと戻る。

一応忍足さんの携帯にもう1台の監視カメラのことをメールしておいたのだけど、一向に返信される気配は無い。

それどころか必ず顔を出すように言われている授業後の時間にも忍足さんの姿は見当たらなかったのだ。







・・・・・用事だろうか・・・








緊急の用事が入ったとか、研究の件で教授と議論をしていて研究室に戻ってこれずにいる可能性はある。

しかし連絡が無いのは変じゃないだろうか?

忍足さんは嫌味っぽい人だけど、私に協力を強要している自覚もあるから、動かせる予定を先送りにして私との時間を優先してくれている経緯がある。

勿論特別な感情の意味ではなく、白石さんに仕組まれた暗示の副作用に対する対処のためだ。

私の姿を見たり頭を撫でたりしないと徐々に心身が衰弱していくというなんとも迷惑な症状がまだ忍足さんの精神に深く根付いていることは、この間椅子から落ちた私を庇った件から証明されている。

計算高く知的な忍足さんが連絡の 1つも寄 越せない緊急の用事に陥ることは考えづらいんだよな・・・・・






どうしよう。

待ってて良いのかな?






無人の研究室に勝手に入るのは少々抵抗がある。

それでも慣れ親しんだ場所なので静かにドアを開け、無人の室内へと踏み入った。

忍足さんなら勝手に待ってても嫌味は言ったりするだろうが怒りはしないはず。

誰も居ない研究室はなんとなく寂しくて、広々と使えるはずなのに定位置となりつつある無人の忍足さんの席の隣の椅子を引いた。

比較的当初から導入された私用の椅子をキコキコと揺らしながら忍足さんの戻りを待つ。

携帯をチェックしてもメールは無し。時計を見上げて時間を確認してから鞄から雑誌を取り出てペラリと広げる。新規開店のカフェ特集が組まれた紙面には美味しそうなスイーツやプレートランチが飾られていて、どれも色鮮やかで美味しそうだ。




近場のお店のチェックをして今度友達と行ってみようと雑誌の上の角を折って印をつけてからまた時計を見上げる。

10分が経ち、20分、30分と時間が流れていく。

もう一度メールを入れようとして、少し考えてから電話をかけてみる・・・・が、やはり出ない。

何かあったのだろうか?

待ち始めてから1時間近く経過すると、気持ちが落ち着かなくなってくる。

雑誌にも集中出来なくて内容が頭に入ってこない。

仕方なしに読むのを止めて鞄に仕舞う。

忍足さんがどうして居ないのか、連絡も返してくれないのか・・・・・私の想像力では適当な理由が見当たらなくて心配になってしまう。

1日、2日くらいなら耐えられるらしいし、今朝も頭を撫でられてるからすぐに状況が悪くなることもないだろうけど、連絡が取れないことが不安だ。










・・・・お店に行ってるのかな?

向日さんに連絡して聞いてみようかな・・・・・










迷いながら携帯をいじり、もう30分待って連絡が無かったら向日さんに電話をしようと心に決める。

この所色々な事があり過ぎて心配性になっちゃってるんだよね。忍足さんは大人だし、1日連絡が取れないくらいで大騒ぎする必要はないだろうが、個人的な安心感を得るために向日さんの意見が聞きたい。

携帯を取り出して研究資料が広げっ放しの机の上に置く。重ね置きされた研究ノートや壁に貼り付けられている付箋に書かれた文字は達筆過ぎて私には読めなかったりする。

こういう研究は利権とかあるから、あえて人に読めない文字で書いていたりするのだろうか?

忍足さんならそういう回りくどい工作をしていそうな気がする。





高そうな機材に触れないように注意を払いながら忍足さんの机の上を眺めていく。

同業者が発表したレポートや様々な資料。実験で得たデータが所狭しと重ねられて置かれている様は、几帳面で少々潔癖の気のある忍足さんらしくない気もするし、こういう所だけ散らかっている部分が忍足さんっぽい感じもする。

本当に優秀な人なんだな。

これであの外見で高身長で・・・・性格さえ良ければ非の打ちどころがないと思う。

様々な高スペックを全て打ち消すほど内面はアレだが、完璧じゃないからこそ人間味があるのかもしれない。




手近のノートの表紙をめくる。

私も使っている大学ノートの白い部分は細かい文字がぎっしりと書き込まれていて、読むだけでも大変そうに見える。

いつも遅くまで研究してるもんね・・・・・

氷帝がもうすぐ閉店することは決まっているため、忍足さんの生活リズムはホストよりも研究員としての軸を基本に切り替えつつある。

そのため朝も早くから夜も遅くまで研究を続け、氷帝の営業時間である18時には出勤せず、遅れて22時くらいから早朝3時くらいまでをホストとして働く時間にしているのだそうだ。

睡眠時間はちゃんととれているのだろうか。

私が心配をしても忍足さんは「オレの心労の1番の元凶は嬢ちゃんやろ」と鼻で笑いそうなので素直に心配の言葉が言えなくなってしまうんだよね。






どこまでも面倒くさい人だと改めて思いながら開いていたノートを閉じる。

ついでに椅子の背もたれに思い切り背中を預けるようにして大きく背伸びをすると、反動で動いた椅子のキャスターが何かに引っかかったようにカクッと止まった。

高級な機材が床に落ちていたことに気が付かずに怖していたら大変だ。

慌てて椅子から立ち上がって今しがた踏みつけてしまった物を探し出す。

硬く金属のような音がしたから床に落としやすい消しゴムでは絶対にないだろう。心の中で嫌な汗をかきながら床の上を探すと、椅子のキャスターの下に4センチほどの大きさの銀色の鍵を見つけた。

この形状の鍵は見たことがある。勉強机にもよくついている、鍵付きの引き出しを開けるための簡素な鍵だ。

その鍵がどうしてこんな床に落ちているんだろう?




指先で摘まんで拾い上げる。

忍足さんの研究机にも1か所鍵がかかる引き出しが付いていて、1度も開けている所を見たことが無い。

しかし今はどういう訳か引き出しが僅かに開いていて、きちんと仕舞いきれなかった書類らしきものの角が少しだけ見る事が出来た。

机の上の書類や本が乱雑に置かれていたため、今まで引き出しが開いていることなど全く気が付けなかった。

大事な研究資料を保管するために鍵のついた引き出しに入れているはずだから、私が最も推奨されるべき行動は引き出しを閉めて鍵をかけておくことだろう。

けれど忍足さんが不在のこの状況で、いつもと違う光景を目にすると、「連絡も無しに戻ってこない原因が隠されているのかもしれない」と考えてしまうことは仕方のない事だろう。

勿論抵抗はある。

人の秘密を勝手に暴くのは気分が良い事ではない。

ただ・・・・鍛え抜かれた直感が引き出しの中に警告を発したのだ。













葛藤は以外にも短かった。

誰も居ないはずの研究室を意味もなく見回してから引き出しに指をかける。

心臓がドキドキと徐々に鼓動を大きくして、ごくりと生唾を飲み込んだ。

心の中で「ごめんなさい」と謝りながら指先に力を入れて引き出しを引っ張ると、まず初めに目に飛び込んで来たのは角が見えていた書類の正体だった。

それは人物の写真。けど普通の写真じゃない。私が何時間も見続けた監視カメラの映像によく似ているけど、映っている画像の角度に見覚えが無くて、この画像が今日見つけた学食の4台目の監視カメラの映像だと悟る。

右下に日付と時間が白文字で印字された写真の1枚目は少々不鮮明だが、重ねられた下の写真は画像処理をされているのか少しだけ見やすくなっていた。




・・・・・これ・・・・・盗難の犯人だ・・・・・




信じられないことに忍足さんの隠されていた引き出しの中には、私が血眼になって探していた犯人の手がかりが隠されていたのだ。

思わず書類を取り出して机の上に広げる。

何枚も印刷された写真は犯人が私の鞄に手を伸ばし、何かを掴んで去っていく徹底的な証拠が画像の処理が施されて鮮明に写っていた。

何で忍足さんがこの写真を持ってるの?

私が探していることを知っていたはずなのに、どうして何も言ってくれなかったの?

忍足さんへの不信感が沸き起こり、良くない企みを感じ取る。ドクドクと嫌な鼓動を刻みながら息を押し殺すように書類の束をめくっていくと、写真の裏に「報告書」と書かれた資料が現れた。

どこかの探偵事務所の名前が印字された書類は犯人だろう人物の身辺調査がまとめられていて、今日の日付の消印が押された封筒が一番後ろに重なっている。








えっと・・・つまり、これは・・・・

忍足さんは今朝私と会った時はこの報告書を見てなかった・・・・・ってことだよね?あの時間だと郵便局はまだ開いてないから、郵便が届くことはないはずだ。

そうなると、忍足さんがこの書類を受け取ったのは私と会った後って事で・・・・

え?でもどうして私にもう1台のカメラの画像をくれなかったの?忍足さんはこの画像の存在を知ってて黙っていたってことになるけど・・・・それはどうして?




忍足さんのことを信じて良いのか疑えば良いのか分からない。

2つの正反対の気持ちが私の中でせめぎ合う。

現状況から読み取れることは、忍足さんが犯人に繋がる情報を持っていたのにも関わらず私に隠していたことだけ。

忍足さんと私の関係は有効的じゃないけれど、それでも少しは打ち解けられてような気がしていた。

でもそれは私だけだったのかな・・・・・

今は忍足さんのことを信じられずにいる私が居る。

裏切りに近い事実を前に足が震えてしまう。




何も考えたくない衝動に駆られ、全ての資料を引き出しに押し込み乱暴に閉じると、机の上の資料の一部が雪崩れた振動で、卓上ライトに張られていた付箋がハラリと舞って床に落ちていく。

色鮮やかな花弁のような付箋が落ちるさまを視界の端で眺め、無意識に唇を噛んでいた。








どうしてこんなに悲しいんだろう?

忍足さんが嫌な人だってことは分かりきっていたはずなのに、なんで裏切られた気がしてしまうんだろう?








忍足さんが私に絆されたのではなく、私が忍足さんに懐きつつあったのかもしれない。

嫌味で面倒くさい人だけど、向日さんが言っていたとおり面倒見のよい人でもあるから、自然と頼りにしてしまっていたのだと自覚すると無性に泣きたくなった。

じわりと浮かんだ涙で視界が滲む。

私はいつから忍足さんを受け入れてしまっていたのかな?

いつから頭を撫でられるのが嫌じゃなくなってたのかな・・・・もう思い出せないよ・・・・

でも少しづつ関係が変わって来たのだと思っていたのは私だけで、忍足さんは相も変わらず私を陥れる算段を企てていたのだろう。




そうだよね。トラウマである女の私に無理矢理忠誠を誓わされているのに、友情も恩義も感じられるはずがないよね。

少し考えれば分かる事だった。

私たちの関係は私が我慢をして成り立っているわけじゃない。忍足さんが堪えていたからこそ成り立っていたのだ。




涙が流れる前に手の甲で無理矢理拭い、ズッと鼻を吸う。

これから私がどうするべきかはまだ考えられないけれど、床に落ちた付箋の鮮やかな黄色が妙に目について無意識に拾い上げる。

そこでふと気が付いた。あの計算高く利己的な忍足さんが、私に手の内を見せてしまうような失態を犯すだろうか?

私の知っている忍足さんであればそんな初歩的はミスはしない。相手がどう出てどう動くかを全て先読みして立ち回る・・・・・忍足さんはそういう人のはず。

なら何故?

冷静が売りの忍足さんが、資料を私が来ると分かりきっている研究室の中へと置き、引き出しの鍵も研究室の鍵も開けっぱなしのまま出かけているのだろうか?

この状況も忍足さんが先読みして作り出している可能性もゼロではないが、私には取り繕うことも忘れているほど慌てているようにも見えた。




そう考えたら弾かれたように体が動いた。

もう一度引き出しを引っ張り出して資料を全部抱え出す。

先ほどの写真と報告書と、最初から入っていただろう研究の機密書類。一見私の探している物は見つからず、予想は外れたかのように見えたけど、報告書が入っていただろう消印の封筒の中に重みを感じてひっくり返す。

封筒の中から手の平に零れ落ちたのはまたしても写真で、今度のメインの被写体は人物とは違う、全く別の物だったのだ。



















これ・・・・・














呆然と写真を眺めていると、机の上に置きっぱなしだった携帯が勢いよく鳴りだして飛び上がる。

今自分が見てしまった画像が本物なのか偽物なのか分からずに狼狽えながらも着信を告げる携帯を取り上げると、発信者に表示された白石さんの名前に電話に出る前から要件を悟った。

通話ボタンを押す指が少しだけ震える。

白石さんの第一声は何だろう?慌てふためいていたり、いつも通り飄々としていたり・・・・・心のどこかでそんなことを考えながら携帯を耳に当てると、白石さんは私の予想のどれとも違う疲れたような口調で『あ〜〜〜・・・と、元気?』と聞いてきたのだった。







「・・・・どうかしたんですか?」

『え〜っとな、せやな。あったような無かったような・・・・最近変わりある?忍足くんはどんな感じに仕上がった?』

「忍足さんに何かあったんですか?」

『それはやな・・・・ひじょーに言い辛い系の話題だから出来れば最後の方の話題に回したいかな〜〜〜って思ってたり思ってなかったり・・・・』

「何があったんですか!!?忍足さんは無事なんですか!?」

『無事か無事じゃないかで迫られると答えに難しいんやけど、生きてるっちゅー意味では無事』

「どういう意味で無事じゃないんですか?忍足さんは今どこにいるんですか??白石さんは何を知ってるんですか??」

『どーどー、落ち着いてちゃん。ひっひっふーやで。深呼吸』

「忍足さんが研究室に居ないんです!!それに忍足さんの私物に・・・・・白石さんから預かった指輪の写真があって・・・・・」

『盗まれたのに、見つけてしまったんやな』

「・・・・・忍足さん、これを見て・・・・出かけたんですよね?」

『流れ的にはそうなるな。何で見つかったんやろ?オレは二度と出てこんものと思いこんどったのに』







電話越しに白石さんのため息が聞こえる。

白石さんは本気で妹さんの指輪が見つからなくても良いと思っていたんだろう。

それなのに意図とは外れて指輪は無事で見つかってしまった。

手の中の写真を握る手に力がこもる。

その写真は私から見ても気分の悪い物だった。財布を盗んだ犯人は私も顔を見たことがある。それは事務局の女性職員で、彼女は前から忍足さんに好意を寄せていたことを今更ながらに思いだす。

彼女は最近被害件数が増えた盗難事件を利用して、忍足さんと仲の良い・・・・・遠縁の親族とされている私の私物を盗んだ。理由は簡単だ。忍足さん本人はガードが堅いから、緩い私から忍足さんに関わる物を入手しようとした。

ストーカーに近い好意なのだと予想が付く。

そして偶然財布の中に入れていた忍足さんのイニシャルの入った指輪を手にし、あろうことか自らの左手の薬指に嵌めていたのだ。

写真には彼女が指輪をしている姿と、この指輪が忍足さんの物だと分かる写真が2枚並べてあった。

イニシャルの写った写真は多分、彼女が自慢しようとブログか何かに自ら投稿したモノのコピーだろう。『恋人から』とタイトルが書きこまれた自分勝手な写真には嫌悪感しか感じない。




第三者の私から見ても気持ちが悪いのに、当事者の忍足さんが見たらどう思うのだろう?

もし私が大好きな人からもらった指輪を盗まれ、それを知らない人がこんなタイトルをつけて堂々と自慢していたら・・・・・・強い殺意を感じてしまうかもしれない。







「お、忍足さんは!!?変な事考えてないですか??いくらやり方が酷いからって手を出してしまったら忍足さんが悪いことになります!!忍足さんはどこですか??白石さんは居場所を知ってるんですか???」

『せやから落ち着いてちゃん』

「落ち着いてなんていられません!!居場所を知ってるなら教えてください!!」

『教えたらどうするん?』

「止めます!!私が駄目だと言えば忍足さんは手が出せないんですよね??私が行けば忍足さんが変なことを考えていても止められます!!」

『でも、それをするとちゃんは一生忍足くんに恨まれることになるで。それでも良ぇ〜の?』

「な、なんで・・・そうなるんですか・・・・」

『オレやったら死ぬほど恨むもん』

「・・・・・」







白石さんの呟きにも似た一言が胸にグサリと突き刺さる。

それは私が止めることにより、忍足さんとの今までを全て捨てることになるという意味だろう。

忍足さんはまた私を恨むはずだ。

出会った当初と同じ恨みのこもった冷たい目を思い出して一瞬躊躇をしてしまう。

もうあんな目で見られたくないけど・・・・・・これ以上忍足さんに女性に対するトラウマを重ねさせるのは無理がある。今だって拭いきれない嫌悪感と戦っているのに、まだ辛い思いもしなくちゃいけないなんてあんまりだ。




でも、誰かが止めないと・・・・・

この状況は最悪だ。忍足さんのトラウマにトドメを刺したことになっている妹さんの消したい思い出が目の前に現れてしまった。

忍足さんは冷静な人だけど、妹さんの事に対してだけは自制が効かない人でもある。このまま放置したら事務局の彼女は無事では済まないはずだ。

私が止めに入れば・・・・一生恨まれるかもしれないけど、忍足さんの手を犯罪に染めずには済む。




自然と手に力がこもる。

握り締めた写真に深い皺が寄るのも気にせずに大きく深呼吸をして、「それでも行きます」と決意を言葉に変えた。

白石さんは私の出した答えに数秒黙ると、『さすが猛獣使いは言う事が違うわ〜』と小さく笑った。







『見込み以上の度胸と根性や。芥川くんがちゃんに惚れこむのも分かる』

「そういうのはいらないです!忍足さんはどこですか??白石さんは知ってるんですよね?」

『もっちろ〜ん!実はここだけの話、忍足くんを縫合した時にこっそり発信機を仕込んでおいたんよ』

「・・・・え・・・・」

『・・・というのは冗談で、実を言うとオレの正体が忍足くんにバレてしまったんよ』

「バレ・・・何でですか?だって白石さんの正体は調べても絶対に分からないって・・・・」

『書類上ではな。せやけど産みの母に直接聞かれたらオレも妨害の仕様がない訳でありまして・・・・・・っわ!ちょ、ちょっと待って!すぐ言うから待ってって!』

「白石さん?どうしたんですか?」

ちゃん助けてー!忍足くんに殺されるー!』

「ええーーー!!!?」







































































凡愚者たちの行進



































































白石さんの悲鳴は僅かに笑いを含んでいた。

けど焦り過ぎていたせいで私には微妙なニュアンスの違いを聞き取ることが出来ず、頭が真っ白になって兎に角忍足さんの元へと走り出した。

雲隠れしていて余裕のはずの白石さんが忍足さんに捕まったのは、育ての母ではなく産みの母が人質に取られたから仕方なくだったらしい。

ちゃんとしたやり取りを書くと『侑士くんがお線香をあげに来てくれたのよ。近くに居るんでしょ?良かったら一緒にお茶でもしない?』と電話で誘われた感じだ。

白石さんの実の両親は離婚をしているけれど、親と子の仲は悪くない。

お母様は心から純粋に兄である白石さんと元婚約者の忍足さんなら話が弾むと考えたのだろう。だからきっと今頃になって忍足さんが訪ねて来た意味も、会話の中に巧妙に混ぜ込まれた「兄の存在の確認」と「白石さんを呼び出すための誘導」にも気が付いていないはずだ。




「まさかこう来るとは思わんかった」と白石さんは苦笑いをする。

白石さんは最後まで自分の正体が忍足さんに割れないと確信をしていたのだけど、指輪の発見がその確信を揺るがした。

あの指輪は忍足さんの目の前で妹さんが捨てた・・・・・・はずだった。でも投げ捨てられたはずの指輪がこの世に存在し、しかも私から財布を盗んだ犯人が持っていたとなると、おのずと推理の糸口は掴める。

それは私か白石さんのどちらかが妹さんと繋がっているという事で、私の周辺をいくら洗っても接点は見つからないから、関係者は白石さんだと推測されるという流れだ。




事情を知らないお母様の話により、忍足さんは悲しい過去の残虐な程の愛情を知る。

そして、もう隠せないと悟った白石さんの判断により、妹さんの最後の願いを聞いたのだ。





白石さんに呼び出されたのはとある駅だった。

長い距離を走ったせいで息が苦しい。膝に手を付いて暫く呼吸を整えてからじんわりと滲んだ汗を拭いとる。

こんなに走ったのはいつぶりだろう?

小学校のマラソン大会以来のランニングに心臓が痛いくらいに苦しくて頭が酸欠でクラクラする。

激しく肩を上下させながらなんとか顔を上げて辺りを見回すと、見知った車の前で忍足さんと白石さんの姿を見つけ、最後の力を振り絞って駆け寄った。






「忍足さん!白石さん!」

「おー!ちゃん助けてー!ちゃんの王子さまはここやでー!」






トレードマークの白衣を身にまとった白石さんは駆け寄る私ににこやかに両手を広げて来る。

さすがに飛び込むことはしないけど、色んな意味で目立つ白石さんと外見が人目を惹く忍足さんの待ち人の登場に、駅を利用している人たちの好奇の視線が寄せられて少々たじろぐ。

それでも忍足さんの様子が心配で傍によると、忍足さんは息を切らす私の頭をむんずと掴むと、無言のまま車の助手席へと押し込んだのだった。






「わぎゃっっ!!!」






突然過ぎる行動に悲鳴が上がる。

無表情で私を突き飛ばした忍足さんは無言のまま扉を閉めるから恐怖を感じざる得ない。

白石さんは目の前で起こった誘拐に近い強引なやり方に「ちょお忍足くん!やりすぎちゃうか!!」と慌てて止めてくれるが、忍足さんはサクッと無視をしてそのまま運転席側へと回った。

額をサイドブレーキにぶつけた痛みに椅子の上で蹲る。

痛みに堪える中で「待って忍足くん!オレは?オレはどないしたら良ぇの?オレは送ってくれへんの??それ酷くない?」という白石さんの必死な声が聞こえて来て、涙で滲んだ薄目を開く。

遮断された外の声は聞きづらいけど聞こえないわけじゃない。

忍足さんは車内の私よりも大きな声で白石さんの声を聞いているはずなのに、一言も返事を返さないまま運転席へと座り込んだのだった。




忍足さんの重みで車が沈む。

涙目で蹲りながら忍足さんを見上げるが、忍足さんは私のことも無視して車を出発させてしまう。

勿論だが白石さんは置いてけぼりだ。

動き出した車に慌てて座り直してシートベルトを締める。

車内の空気が悪いのは汚れとか埃とかじゃなく忍足さんからにじみ出る冷たいオーラのせいだろう。

喉がカラリとするような嫌な緊張感は久しぶりだ。









こ、このままどこへ連れて行かれるのだろうか?

わ、私・・・・無事でいられるよね?










暗示が効いている間は危害を加えられる心配はないのだけど、今の忍足さんはスイッチの可能性の高い指輪の写真を見ているから不安が大きい。


本物を見なきゃ駄目とか、実はスイッチは別の物という可能性もあるけど・・・・

ど、どうしようどうしよう。誰かに助けを求めた方が良いかな・・・・で、でも白石さんが何が何でも妨害しなかったのはまだ暗示が解けてないって確信があるからかもしれないし・・・・・・見捨てられたのかもしれないし・・・・・

どっちなの?解けてるの?解けてないの??

それだけで良いから誰か教えてください!!










「あ、あの!忍足さん・・・・」

「・・・・・」

「その・・・・ですね、えっと・・・・・」

「・・・・・」

「・・・・は、話たいことが・・・・」

「・・・・・」

「・・・あるのですが・・・・」

「・・・・・」









無視しないでくださいっ!!

無言が怖いんです!!

せ、せめて音楽かラジオを流していただけませんか?さっきから一言も口を開いてくださらなくて怖いんですよぉー!!!




盗み見る忍足さんの横顔からは感情が読み取れない。

喜怒哀楽がもうすでに分からないから、自分がどの方向の対応をすれば良いかもわからなくて忙しなく視線を泳がせる。

車の窓を流れる景色は知らない場所からなんとなく見たことのある場所へと進み、いくつもの信号を通り越して先へ先へと進んでいく。

車が止まるたびに忍足さんの指がハンドルをトントンと叩く音さえ怖いってどうしてだろう・・・・・

お願いだから何か喋ってほしいけど、私が言葉を発することさえ許されない空気に何も言えなくなってしまう。

そうこうしている間に車がたどり着いたのは忍足さんのマンションだった。




乗車の時は私を車に押し込んだのに、下車は私を置いてさっさと歩き出してしまうから、慌てて忍足さんを追いかける。

実はこっそり帰りたい気持ちもあったけど、ここで帰ったら後の方が怖い気がして帰れなかったのだ。

忍足さんは無言のまま先へ先へと進むから、足の長さの違う私は速足で後を追いかける。

タイミングよくエレベーターは1階に止まっていたので待つ時間もなく乗り込むと、上層である忍足さんの部屋へとたどり着いた。







お、忍足さんは・・・何を考えているんだろう・・・・






無言は相手の感情が読み取れなくて本当に怖い。

ただでさえ忍足さんは感情の起伏が分かりづらいのに、無表情になられてしまうと壁に描かれた絵を相手にしているような錯覚に陥ってしまう。

部屋の鍵を開ける忍足さんの背中を不安な顔のまま見上げていると、ドアが開いたのと同時に腕を掴まれて部屋の中へと引きずり込まれてしまった。








「わっ!お、忍足さん待ってください!靴がっ・・・・」

「・・・・・」









まだ無言だよーーー!

お願いだから喋ってください!






問答無用で引っ張られてフローリングを数歩土足で歩いてしまう。

それでもなんとか頑張って片方づつ脱ぎ捨てると、まるでヘンゼルとグレーテルが残したパン屑の跡のように廊下に靴が散らばった。

人様の家の廊下に脱ぎ捨てられた靴を申し訳なく思いつつ、けどちゃんと脱ぐ時間をくれなかった忍足さんも悪いのではないかと言う気持ちも正直ある。

忍足さんは不安な顔を隠せない私を振り返ることなくリビングへと進んで療養していた時の定位置でもあった4人くらい掛けのソファーの前に立ち止まると、私の背中を強く押し込んだのだった。

バランスを崩すほどの力で押された私は当然ソファーの上に転がり落ちる。

またしても額を打ち付け痛みに悶えるのも束の間、額を抑える手を取られて強引に唇を奪われた。







「お、おしっ・・・待っ・・・・」







膝でソファーに乗り上げていた忍足さんは、上半身を倒して私に覆い被さり足の間に膝を割り込ませてより深いキスを仕掛けて来る。

早急に舌が絡めとられるキスは呼吸すらも奪われる。

まるで食われているかのように感じるほどの荒々しい口付けに怖くなって目の前の身体を押し返そうとすのだけど、抵抗を許さないとでも言うかのように強い力で圧し掛かられてしまった。








「っん、忍足さ・・・っ・・・・」








息苦しさに涙が滲む。

私を離すまいとしているかのように後頭部に回された手に頭をしっかりと固定され、されるがままに深いキスが繰り返される。

忍足さんが何がしたいのかが全く分からない。

白石さんとどうして2人でいたのか、研究室からいなくなってどこへ行っていたのか、どうして私の探していた証拠を持ちつつ隠していたのか・・・・・

聞きたいことは沢山ある。特に監視カメラの証拠の件はこんな事になってなければ怒っていたかもしれないくらいだ。










それなのに・・・・・











助けを求めるように掴んだ忍足さんの肩が小さく震えている。

そのことに気が付きソロリと伺うように目を開けると、乱れた前髪から覗く忍足さんの眉毛が苦しげに寄せられていたのだ。


私はこの表情を知っている。

昔・・・・まだ芥川さんが私に懐いてくれる前、芥川さんは泣くのを堪える時にこうやって眉を寄せていたんだ。












・・・・もしかして・・・・忍足さんは泣きたいのだろうか・・・・・











けど、芥川さんみたいに泣き方を忘れてしまって、どうしたら泣けるのか分からないのかもしれない。

涙は心の安定剤だ。

泣くことによって体が感じたストレスを外へと排出するなら、泣けないのはどんなに苦しいのだろう。

今まで溜まりに溜まった負の感情が一気に忍足さんの中からあふれ出し、外へ吐き出せずにまた内へと溜まってしまう。

途絶えることの出来ないメビウスの輪を壊す方法はこの世に存在するのだろうか・・・・





「助けて」という心の声が聞こえた気がする。

その声は子供みたいな声だった。

小さくて弱々しくて・・・・・でも幻聴とは違い確かに私の心に届いた。

肩を握っていた手を解いて忍足さんの頭に回し、自ら引き寄せるように忍足さんの体を抱き寄せ勇気を出してキスに応える。

感情をぶつけるようなキスを受け入れた私の行動に忍足さんは驚いたようにビクリと体を震わせ、キツク閉じていた睫毛を震わせ苦しそうな目を私に向けた。

唇を重ねたまま数秒無言で見つめ合う。

忍足さんは私が誰なのかを思い出したのかグシャリと表情を歪めると、項垂れるように体を離した。





粗い息遣いが聞こえる。

本気のキスはそれだけで苦しい。

肩を上下させながらようやく取り込めた空気を可能な限り吸い込むと、聞こえてくる忍足さんの呼吸に小さな嗚咽が混じるのを聞いた。

酸欠でクラクラしながらも涙でぼやけた視界で忍足さんを捉える。

忍足さんは顔を伏せているせいで長めの前髪が表情を隠してしまっているのだけど、噛みしめた唇は苦しそうに震えていた。

よくよく見るとソファーに置かれた手も爪が革の表面い食い込み傷になっている。










・・・・・忍足さんは・・・・泣くのをずっと我慢していたのだろうか・・・・

それともここまでしないと泣けなくなっていたのだろうか・・・・








忍足さんの人生を想像するとジクリと胸が痛む。

白石さんは忍足さんのことをある意味で純粋だと言っていた。本当に純粋に人を愛していたからこそ裏切りに嫌悪するまで相手を恨み、そして真実を知って心が壊れそうになっているのかもしれない。

投げ出していた手をギュッと握る。

少しだけ浮かして悩み、また浮かして悩み・・・・5回くらいの葛藤をして躊躇しながら忍足さんの前髪に手を伸ばす。

細い漆黒の目隠しを開くように撫でていくと、隠されていた裸眼の瞳がたっぷりの涙で濡れ、長い睫毛に滴がくっついていた。






今の忍足さんの心情はきっと、文字になど直すことが出来ないだろう。

私も知ることは出来ない。

想像よりも苦しくて、私が感じたことのないくらいの後悔に苛まれているんじゃないだろうか。

自分を恨むようにと仕組まれたのだから仕方ないのだけど、結果だけ見ると忍足さんは婚約者である妹さんを信じられずに裏切ったことにもなる。

ソファーに立てた爪がギリッと革を引っ掻く。

忍足さんは苦しそうに歯を噛み締め額を私に胸に力なく垂らすと、声を震わしながら「嬢ちゃんが・・・・」と喉から声を絞り出した。








「嬢ちゃんがオレに・・・・・関わらへんかったら・・・・・オレの前に現れんかったら・・・・・オレはずっと裏切られた被害者でいられたんや・・・・・」

「・・・・・」

「それなのに・・・・」

「・・・・忍足さん・・・・」

「今更っ!!今更事実を知ってどないしろっちゅーのや!!!もう時間は戻らへんのやで!!!友香里は死んだんや!!!もうこの世には居なくてっ・・・・・おらんくて・・・・・」

「・・・・・・」

「オレは、友香里に捨てられた時、本気で殺してやりたいって思って・・・・・アイツの最期だって知らなくて・・・・・いつか、・・・・いつかアイツが最も苦しむやり方で復讐をしてやろうって・・・・それだけを生き甲斐に生きて・・・・・」

「・・・・・・」







忍足さんのこんな苦しそうな声は聞いたことが無い。

力弱くて嗚咽も混じる懺悔はしっかりと耳を澄まさなけば聞こえないくらいに震えている。

忍足さんの口から零れ落ちる言葉の全ては後悔と懺悔。

真実を知り、今まで婚約者の彼女の愛により生き続けられたことを理解したからこそ、忍足さんは自我が保てなくなるほど動揺し、泣いているのだ。







「・・・あの指輪だって・・・・・安物はいらないって・・・・・目の前で捨てられたんやで・・・・病室の窓から投げ捨てられて・・・・・オレよりも将来有望な男を見つけたからそっちと付き合うって・・・・・」

「・・・・・」

「ずっと二股かけてたとか・・・・オレには病院長の息子の価値しかないとか・・・・・」







「なのに・・・」と忍足さんは声を詰まらせた。

二股なんてかけてない。本当は指輪を貰った時泣きたいくらい嬉しくて・・・・・・もう思い残すことはないと言えるくらい妹さんは幸せを噛み締めていた。

けど、愛する人のためにプロポーズを断り、目の前で指輪を投げ捨て裏切りを演じた。

季節は冬。雪のチラつく寒空の下で、彼女は1人で投げ捨てた指輪を探し出した。これは私の予想だけど、彼女は本当は一緒に持って逝こうとしたんじゃないかな。

だけど兄である白石さんが現れたことで彼女は考えを変えた。

いつかの未来、忍足さんに幸せを掴んで欲しいからこそ、もしものために使えるように・・・・・













「今更・・・・真実なんて・・・・・知りたくなかった・・・・・」















震える声で吐き出されたのは本音なのかもしれない。

ただ、事実を知ったからこそ吐き出せた本音だということも忘れてはいけないだろう。

苦しそうに表情を歪める忍足さんは、恐怖を感じた過去の忍足さんとは1mmたりとも被らなかった。

まるで中身は子供のまま体だけが大人になってしまったかのようでもある。




忍足さんはずっと恨みと憎しみを糧に生きてきた。

その生き方が根本的から間違っていたとうことを今更ながらに知らされて・・・・・後悔の渦に飲み込まれているのだ。




壊れてしまいそうな忍足さんの姿に胸が痛む。

この人は本当はとても弱くて、その弱さを隠すために全身を針で覆い隠して強がっている。まるで針ねずみだ。

だから外側からの攻撃には強いのに、内側の痛みには敏感に反応してしまう。




弱々しい忍足さんの姿を前に、そういえば今の現状で忍足さんが弱みを曝け出せるのは私だけなのかもしれないと考える。

両親とは縁を切り、実の姉とは確執。友人である向日さんには「知り合い」とランクを下げられているし、他のホスト仲間や大学関係者に弱みを見せることなどプライドが許さない人だから、私が見捨てたらこの人はこの場で壊れるはずだ。












「・・・・・何で気付かなかったんやろ・・・・二股なんてかけられる状況じゃなかった・・・・・そんなの体調的にも状況的にも無理で・・・・・・少し考えれば分かったんや・・・・・」

「・・・・」

「由香里の事も信じてやれんかった。言葉だけで疑って・・・・恨んで・・・・・・心の底から愛しとったはずなのに・・・・オレは由香里を・・・・」

「忍足さん・・・」

「アイツはオレの事・・・こんなオレの事を愛してくれたのに・・・・・」










大粒の涙が忍足さんの目から零れ落ちる。

いつ振りくらいの涙なんだろう?忍足さんの泣き方はひどく下手くそで、苦しそうに何度もせき込んでしまっていた。

苦しさを堪えるように強く握りしめた手は力が込められ過ぎて岩のように硬い。

内に抑え込めない大きな悲しみは、どれだけ吐き出しても枯れることなく湧き上がる。

悲しみに有効な特効薬など存在しない。

壊れ、狂いそうな激しい悲しみを癒すのは・・・・・・・支えてくれる誰かの存在と気の遠くなるほどの沢山の時間だ。




キスで乱れた髪がソファーに散らばる。

忍足さんを見ていると私まで貰い泣きをしてしまいそうで唇を噛んだ。

一体どこで歯車が狂ってしまったんだろう。もし1個だけ・・・・・1つだけでも状況が変わっていたのなら、忍足さんはここまで狂わずに済んでいたのかもしれない。

例えば・・・・・ご両親がもっと愛情をかけていたら・・・・お姉さんが忍足さんを虐待しなければ・・・・婚約者が病気じゃなく生きていたら・・・・・そして、忍足さんが友香里さんの事をもう少しだけでも信じられていたら・・・・恨みだけを糧に生きることなんてせずに済んだのかもしれない。

けど、それはただの空論だ。過去は変えることは出来ないし、死んでしまった人間は蘇らない。

これから忍足さんに出来ることは後悔を噛み締め懺悔し、今までを悔い改めて真っ当に生きる事だろう。














ただ・・・・すぐに気持ちを切り替えるなんて出来るはずが無いよね・・・・















今の忍足さんに言葉は必要がないと思った。

私がどんなに慰めの言葉を言っても忍足さんの心には届かないし、受け入れてもらえないだろう。

私は今、本当の意味で忍足さんの命運を握っている。弱り切ってネガティブな思考に陥っている忍足さんは少し責めただけで絶望のどん底へと突き落とせるのだ。

もしかしたらそうして欲しいという気持ちは少なからず忍足さんの中にあるのかもしれない。

心が壊れてしまいそうな悲しみから解放されたいと・・・・・そして同じくらい助けて欲しい気持ちも持っている。

だから私はこの場に連れてこられた。

唯一本音を吐き出せるのが私だったから、わざわざ白石さんを脅して私を呼び出したんだろう。




男の人の泣き顔は何度見ても見慣れない。

特に忍足さんが泣いている姿は実際に見ているのにどこか幻のように感じて現実味が薄く、夢の中にいるかのような錯覚に陥る。

そのせいなのか、いつもの私では考えられない行動に出てしまった。

手の平を忍足さんの濡れた頬に這わせて涙を拭い取るように撫でると、そのまま指先を首裏に差し込んで忍足さんの体を引き寄せ、近づいた唇にチュッと触れるだけのキスをする。

1秒に満たないキスの後は、キスの秒数よりも何倍も長い時間をかけて至近距離で見つめ合い、誘うように睫毛を伏せると噛みつくように唇を奪われた。








冷たくて熱い・・・

少ししょっぱい・・・・








体を預けるソファーが大きく沈む。

電気もつけられていない部屋は薄暗いけど、マンションの真下に広がるオフィスや商店のネオンが星空のように地面に広がっていてるため暗闇とは微妙に違う。

夜は人が恋しくなる時間帯だ。

どうして暗ければ暗いほど孤独を感じるのな?考古学者に尋ねたら人類が文明を築く前に獣に怯えた遺伝子の影響だと言うかもしれない。

科学的には分かりやすい見解だけど、私はこうとも思う。「人は誰かを愛したいから孤独を夜から学ぶんだ」と。

1日24時間陽の光に照らされた世界なら、この世は愛情ではなく友情が溢れていただろう。夜があり寂しい孤独があるからこそ、人間は頼りあえる大切な人を探すのだ。







「・・・・忍足さん・・・・・・」







濡れた唇から掠れた声を出す。

首に回していた腕を緩めると、縋りつく力が強くなりキスが深まる。





「・・・んっ・・・」





それでも何度も根気強く宥めながら名前を呼び続けた。

捨てられないように必死にしがみ付く捨て犬が愛情を注ぎ続ける飼い主をすこしづつ信じて心を開いていくように、忍足さんもまた優しい声色を心掛けて呼びかけ続ける私の言葉を聞き入れ始める。

傷つけないよう拒絶をしていないんだと主張するため手の平を忍足さんに触れさせたまま、もう一度彼の名前を呼んだ。









「忍足さんは真実を知りたくなかったと言いましたが、私は知って貰えて良かったと思います」

「・・・・・」

「私は女だから、忍足さんの気持ちよりも友香里さんの気持ちの方が分かり易くて・・・・・」










これは私のただの想像だ。

でも心の底からそうであって欲しいと願う。











「愛する人に恨まれたままなのは嫌です。だから・・・・・誤解が解けて良かった」

「・・・・・っ・・・」

「忍足さんは誰よりも愛されていたんですね。羨ましいくらいに・・・・・・」











私の言葉に忍足さんが強く目を瞑る。

声を震わせ、体を震わせ、子供のように泣きじゃくり、後悔と懺悔の言葉を零していく。

私にじゃない。逝ってしまった友香里さんへの心の底からの謝罪だった。





謝って許されることもあるけど・・・・・それはとても幸福なんだと思う。

謝っても許されないこともあるけど、謝れるだけまだマシだ。

顔を見て謝ることも出来ず、謝罪の言葉は永遠に届けられないのなら、残された気持ちはどこにぶつけて吐き出せば良いんだろう・・・・・

答えは誰にも分からない。私にも、忍足さんにも・・・・それでも謝らずにはいられないんだろう。





知らない間に私は忍足さんの硬い殻の内側に入り込んでしまっていたようだ。

いつ入れてくれたのかな?

私しか適材がいなかったのだと言われてしまえば返す言葉は見当たらないが、それだけじゃない気もする。





慰めるように背中に回した手でポンポンとあやすように撫でていく。

忍足さんは私の肩口に顔を埋め強い力で私を抱きしめると、消えそうなほど小さな声で「ありがとう」と呟いた。

一瞬私の空耳かとも思ったが、もう一度「ほんま・・・・ありがとうっ・・」と繰り返されて言葉の意味を噛みしめる。

長い長い負の呪縛から解き放たれた・・・・・・・そう捉えるべきなのかな。

真実をすぐには受け入れられないかもしれない。まだ心のどこかで疑いが残ってて、ふいに不審が生まれてしまう事もあるかもしれない。

けど今の忍足さんを見ていると、それは無用の心配な気がする。忍足さんは心の底から友香里さんを大切にして愛していたことは私にだって分かる。

強い愛が強い憎しみを生む・・・・何とも皮肉だ。

ただ、その憎しみを砕くのも人の愛なのだ。











今は泣かせてあげるのが1番だよね・・・・・











久しぶりに泣いた忍足さんは、泣く方法も忘れていたのなら、泣き止む方法も覚えていないのかもしれない。

背中に腕を回し直してギュッと抱き寄せる。

2人分の体重に沈むソファーは高級品なこともあり、伸し掛かられていても背中に痛みを感じない。

ただやっぱり重い。

マンションの上階にまで響くクラクションの音が遠くから聞こえてくる。

それ以外の音は時折唸る冷蔵庫のファンくらいで、後は何も無い。




孤独の夜は寂しいけど、人の温もりは孤独を埋められる。

少しでも安心感を与えられるように濡れた顔に頬を寄せた。

2つの温度が1つに混じっていく。

鼓動すらも重なる感覚は、赤ん坊がお母さんのお腹の中で感じる安らぎに近いのかもしれない。






静かに目を伏せる。

忍足さんにとって人生で2番目に苦しい夜は永遠には続かない。

夜明けは必ず訪れると色んな人が言うように、辛くても苦しくても歩き出さなければならない朝がやってくるのだ。







柔らかい日差しが室内へと入り込む。

体内時計が陽の光を浴びたことにより動き出し、眠りの淵に沈んでいた意識がゆっくりと動き出した。

どうやら私は知らない間に眠ってしまっていたらしい。

寝ぼけた思考のまま「ここどこだっけ?」と考えぼんやりと周囲に視線を巡らせる。

肌触りの良いシーツが気持ち良い。

今、何時だろう?時間に余裕があるのならもうちょっと寝たいな。このままもうひと眠り出来たらどれだけ幸せだろう・・・・・

小さく欠伸をして布団の中の温もりにスリリと体を擦りつける。冬の朝は温かい布団が恋しくてついつい長居をしてしまうのだけど、微睡みかけた視界にとんでもない物が入り込んで慌てて飛び上がる。

めちゃめちゃ柔らかくて温かい湯たんぽの正体が忍足さんだという事を思い出したからだ。

朝一から鼓動が爆ぜる。







わ、私・・・・いつ寝て・・・

あ、あれ?どうしてベッドに・・・・いつどうやって移動を・・・・








とりあえず服をちゃんと着ていることにホッとする。

忍足さんは私が飛び起きた振動で目を覚ましたようで、寝転がったまま眠そうな瞳で私をボーっと見上げている。

茶色のシーツで整えられたベッドに横たわる忍足さんは・・・・・な、なんて言えば良いんだろう。昨日泣いたせいなのか怠そうで・・・・・も、物凄く色っぽい・・・・

忍足さんも服をちゃんと着ているはずなのに、なぜか見てはいけない場面を目撃してしまった気持ちに駆られてしまう。

頬が勝手に赤くなり、狼狽えながら布団を引っ張って顔を隠す。

私は見ていません!何も見ていませんからっ!!そう主張するために布団に顔を押し付けて視界を塞いでいると、伸ばされた大きな手の平が私の頭を包むように触れ、優しく髪を梳かれる。














え・・・・・













日課の頭撫で撫でとは違う触れ方だ。

いつもは大型犬を相手にしているかのように遠慮なくゴシゴシとやられるのだけど、今日は・・・・・何と言うか・・・その、大事な人を触るかのようなやり方で、驚きよりも先に戸惑いを感じてしまう。

思わず顔を上げてしまってバチッと目が合うと、どうしても昨日のキスを思い出してしまい顔がカァッと赤くなっていく。

どんな顔をすれば良いんだろう??

まだ完全に覚醒していないらしい忍足さんは私の頭を撫でている内に徐々に目覚めたようで、最終的にガシッと頭頂部を掴まれ布団に顔を押し付けられたのだった。






「い、痛いです痛いです忍足さん!」

「朝から間抜けな顔をされると気が抜けるわ。もっと普通の顔をせんかい」

「いつも普通の顔をしてます!わっ!ご、ごめんなさい、私が悪いです!間抜けな顔をした私が悪いので許してください!!」

「頭が痛い。水と薬を持って来い」

「畏まりました!すぐにっ!すぐに取って来るので離してください!苦し・・・・」






結構な力で布団に顔を押し付けられたせいで息がまともにできない。

もがきながら懇願すると、忍足さんのため息とともに解放されて慌ててベッドから転がり下りる。

大泣きしたせいで朝から頭痛を訴える忍足さんは苛立ちのせいか目つきが悪いので、逆らうことなく水と薬を取りに走った。









き、昨日の一件が無かったことにされてる!!









昨日のやり取りの余韻を一ミクロンも感じさせない態度に焦る。

私としてはこれから忍足さんと対等というか、もう少しだけ仲良くなれるかな?って考えていたのに、全く態度が変わってないってどういうこと??

なんとなくは分かるよ。私に縋り泣いたことは、忍足さん的にプライドが許さないとかそういうのもあるのは分かる。でも朝一からアイアンクローはさすがに酷くないだろうか。

せめてもう一度だけでも「ありがとう」くらい言って欲しいと思うのは我儘じゃないはずだ。






でも、忍足さんに私の心の声は届かない。

いや・・・・人の感情に敏感なホストだから心の声は受信しているかもしれないが、あえて実行しない可能性もある。

もうっ!

散々人を振り回してこうとはちょっと失礼だ!!怖くて直接本人には言えないけど、私にだって不満は溜まるんですから!!!






涼し気な目元の腫れはまだ完全には引いてはいない。

昨日の忍足さんが夢でも幻でもない証拠は赤い目元と頭痛だけ。それも時間と共に消えてしまうから、証拠は何一つも残らずに消えてしまうだろう。

忍足さんにとっては都合が良いのかもしれないが、私からしたら腑に落ちない。

少しくらい感謝してくれたって罰は当たらないと思うですけど・・・・

用意した薬と水の入ったグラスを手渡して唇を尖らせる。食後が推奨のはずの錠剤を空っぽの胃に流し込んだ忍足さんは、恨みがましい目をした私に興味なさそうな顔を向けると「文句があるなら聞くで」と淡々と言う。







「文句は・・・・ありますけど・・・・」

「下らん内容だったらどうなるか分かってるんやろな」

「・・・・やっぱりありませんでした」

「水、もう1杯」

「持ってまいります!」








空のグラスを受け取りリビングへとUターンをする。

こうなったら少しくらい反抗してやりたいと、浄水器の水ではなくキッチンの蛇口の水を汲んでみた。しかし寝室からのっそりと出て来た忍足さんに現場を目撃されてしまい「洗ってただけです!!」と慌てて言い訳をする。

忍足さんは子供のような嫌がらせを企んだ私を呆れたような顔で見下ろしてから対面式のキッチンのカウンターの椅子を引いて座り、端に避け居ていたノートパソコンを起動させた。

人に雑用を押し付けておきながら何をするつもりだろうか?

ちゃんと浄水器から汲んだお水をカウンターに置いて画面をのぞき込む。

忍足さんはお行儀が悪く頬杖をしながら指先でネットの検索画面を開くと、窃盗についての処罰を調べ始めたのだった。







「・・・・・あの・・・」

「指輪は絶対に取り返す。止めても無駄やで」

「止めはしませんけど・・・・・・・」

「止めんけど?何?」

「その・・・・なるべく、結末は知りたくないです」

「相変わらず甘ちゃんやな」

「なんとでも言ってください」







置いたグラスに忍足さんの手が伸びる。

ゴクリと喉を上下させながら大きな一口を飲み込んだ忍足さんは、よほど喉が渇いていたのか一気に3分の2近くまで飲み干してしまった。

泣いた後って体がカラカラになるから水分を求めるのは自然な事だろう。

もう1杯持ってきましょうか?と尋ねると、短くいらないと断られる。

忍足さんがどんな手段を使い事務局の女性職員と対峙したのかは、私の希望通り経過から結末まで一切耳に入れられることはなかった。

私が知っていることは事務局に新しい人員募集の求人が出たことと、忍足さんの手元に指輪が戻ったこと。そして、ようやく完成した新調した眼鏡が忍足さんの顔に復活したことぐらいだ。




私と忍足さんの関係が変わることも無い。

指輪がスイッチになっているんじゃないかと推理していたのに、実はそうじゃなかったと知ったのも最近だ。

おかげで日課の頭撫で撫では続いていて、早く暗示が解けてくれないと本気で頭頂部が薄くなってしまう恐怖概念がある。

宍戸さんの教えに習い「気合で直すのはどうでしょう?」と真剣にした提案は、ハッと鼻で笑われて流さてしまう。







「少しは真面目に考えてください!このまま暗示が解けないと困るのは忍足さんじゃないですか」

「真面目に考えたら気合なんてアホな事言い出さんやろ」

「アホな事じゃないです。私は真剣です!」

「せやったら余計に頭が心配や。大学に通う前に病院に行くべきとちやう」

「そうやってすぐ私を苛めるの禁止です!」

「それは命令なん?」

「め、命令とは違いますけど・・・・・心意気の問題です!」

「命令とちゃうんやったら聞くはずないやろ。いい加減学習しろ」







心の中で「悪い人じゃない」と繰り返す。

1を言えば10を言い返されることは分かっているのに言わずにはいられないのは、忍足さんがそう仕向けているからなのかもしれない。

まんまと口車に乗る私も駄目なんだけどさ・・・・忍足さんとはこうやって憎まれ口をたたき合っている方が楽に話せたりもするんだよね。







そんなある日のことだ。

週末に無理矢理に近い形で約束を押し付けられ、気の乗らないまま待ち合わせ場所へと向かう。

どうして忍足さんは私の都合を考えないんだろう。

本当は友達と雑誌で見つけたカフェで限定パンケーキを食べる予定だったのに、忍足さんは一度断りを入れた私を連れ出すために、言葉巧みに友達に話をつけてしまったのだ。

忍足さんは絶対詐欺師だっ!!

あんまり機嫌の宜しくないことを態度で表すが、忍足さんは動じない。

少しくらい申し訳ないと思ってくれないと怒れるんですけど!と苦言を言うと、「オレを優先するのは世の常識やろ」と平然と返されて余計に頬を膨らませる結果につながった。






「どこの常識ですか、どこの!」

「世界」

「世界のどこですか!」

「この世」

「適当に返さないでください!私は怒ってるんです!パンケーキを食べたかったんです!!」

「んなもんフライパンがあればいくらでも食えるやろ。たかがホットケーキに何時間も並んで数千円を出せる気がしれん」

「お店で食べるのと自分で作るのとでは全然違います。忍足さんはお店で食べたことがないからそう言えるんですよ」

「女の考えてることはオレには分からん」

「私も忍足さんの考えてる事はこれっぽっちも分かりせん!!」







くだらない言いあいをしながらも車に乗り込む。

目的地がパンケーキ以下の場所だったら完全に怒って良いですか?

食べ物の恨みは恐ろしいとはよく言ったもので、いつも以上に忍足さんに突っかかっていく私に忍足さんは面白そうな顔をして眼鏡を指先で上げる。

実際には言いませんけど、その眼鏡もダサいですから!!

整った顔を隠すためのアイテムだからダサい物を敢えて選んでいるのかもしれないが、それを考えると余計にムカついてしまうので「忍足さんの眼鏡はダサい」と自分の中で結論付けをする。

忍足さんは朝からずっと不機嫌な私に赤信号のタイミングで視線を向けると、運転席側のドアポケットから小さな紙袋を取り出して私の前にぶら下げた。







「・・・・・何ですか?」

「見てみ」

「買収はされません」

「んな面倒な事するわけないやろ」

「企みを感じるので嫌です」

「オレは運転中やで。企みを企てるなら車を止めてからするわ」








信号が青になって動き出す。

3車線ある道路の中央を走っているので、何かを企んでいたとしても急に車を止められないのは確かだ。

仕方なしにため息を吐きながら目の前にぶら下がったままの紙袋を受け取る。

高そうな素材の紙袋は手触りも分厚く、持ち手の紐も袋の大きさに対して太く丈夫に作られているようだ。

見たことのないロゴが印字された袋の中身はこれまた高そうなケースだ。

毛羽だった紺色の四角いケースは丸みが付けられていて、可愛いとも格好良いとも言えるし、シンプルなのにエレガントでもある。




見たことのある箱に目を瞬かせる。

私の記憶が正しければ、これはアクセサリーのケースだ。

これは・・・・どういうことだろう。

忍足さんが私にプレゼント・・・は無いよね。

伺うように忍足さんを仰ぎ見るが、忍足さんは答える気が無いらしい。

私を見ようともせず顔を前だけに向けている。

仕方なしに袋から箱を取り出して思い切って開けてみた。

外の紺地とは違いエンジ色の布が貼られた内部の中央に鎮座しているのは、私の想像通りアクセサリーで、キラキラと輝く指輪だった。








・・・・これ・・・







シンプルな造りの指輪には見覚えがある。けどこんなに輝いてはいなかった。

箱を顔に近づけてよく観察すればするほど記憶にある指輪が頭に浮かんでくる。






「・・・・・忍足さんが友香里さんに送った指輪・・・ですよね?」

「店舗に持ち込んで磨きなおした。一度他人が嵌めた事実は変えることが出来へんけど、新しく買い直すのも違うと思った」

「新品みたいです。あれ?でも・・・刻印が違いますよね?これも入れ直されたんですか?」

「叶わん願いを刻んでいても意味はないやろ」

「そうですけど・・・・良いんですか?」

「構わんからそうしたんや」






思い出の指輪はデザインだけはそのままに見た目も内面も大きく変わってしまっていた。

なんとなく直接触るのは憚られて、箱を傾けて彫られた英単語を左から右へと読み上げる。

えっと・・・なんて意味だっけ?

習ったことのある覚えがあるのに思い出せない。







「・・・・なんて意味でしたっけ?」

「それ、マジもんの質問なん?」

「忘れちゃったんだから仕方ないじゃないですか!ここまで出かかってるんですけど、これ以上が出てこないんです!それだけなんです!!」

「・・・・」

「だ、だからそうやって憐みの目で見ないでください!いーですよ。自分で調べますから」

「カンニングは禁止や」

「わっ!」







携帯を取り出して英単語を調べようと思ったのに、妨害するように箱を取り上げられてしまう。

ムッと眉根を寄せて忍足さんを睨むけど、隠されたって平気ですから!ちゃんと英単語覚えてますから!指輪が無くたって調べられるんです!!

「鳥頭なのに覚えてられるん?」との挑発に乗る。

私だって日々勉強をしている身だ。現役の大学生を記憶力を舐めないでください。

ついさっき見たばかりの単語くらい暗記していると豪語して携帯に文字を打ち込むと、直訳で「君と出会えて本当に良かった」と変換されて思わず黙り込む。

私が思い出せなかったのは感謝とか喜びを表現する意味の単語だったのだ。









「・・・・・」









携帯に表示された文字を何度も見返し、盗み見るように忍足さんに視線を向ける。

忍足さんは私の視線に振り返ることなく赤信号で止まっていた車を走らせると、眼鏡の奥の瞳を細めた。







「・・・・忍足さん、あの・・・・」

「柄じゃないとか思ってるんやろ」

「思ってないです。忍足さんはどうしてそう嫌味っぽい受け取り方をするんですか」

「性格」

「その言い方が良くないと思います」

「人の性格がそう簡単に変わるわけないっちゅーの。さっさと諦めて慣れろ」

「またそうやって口喧嘩に持ってこうとするんですね」

「故意はないで。嬢ちゃんが勝手に突っかかってきて勝手に苛々してるだけとちゃう」

「・・・・・どこへ行くんですか?」

「パンケーキの店じゃないことだけは確かや」

「もうっ!だからそういう嫌味を言わないでください!!」







ムッとして拗ねたように顔を背ける。

助手席側の窓の外に流れる景色は街中から徐々に郊外へと向かっているようで、人の姿が少なくなり、代わりに大きな道路を沢山の車が走っていた。



どこへ行くんだろう?

どうせ聞いても素直に答えてくれないことは分かりきっていたので敢えて聞かないが、ずっと無言だと飽きてしまうから適当な話題を探す。

オーディオから流れて来るラジオはドライブにお勧めの曲を特集していて、眠気を誘うバラードよりも元気の出るテンポの速い曲ばかりがリクエストされていた。







「そういえば、忍足さんに聞きたいことがあるのを思い出しました」

「今まで忘れてたのなら大した内容とちゃうやろ」

「大した内容です!忙しかったのとバタバタしてたのとで言い出せずにいただけです!」

「忙しいもバタバタも同じ意味やで。どれだけ語録が少ないん?」

「・・・・・・もういいです」

「おい」

「もういーです!気になってたけど忍足さんには一生聞きません!!思い返せば大したことじゃなかったのでどうでも良くなりした!!!」

「短気やな、自分。せっかくの遠出なんやからもっと楽しそうな顔をするべきやろ」

「誰のせいですかっ!誰の!!」

「オレは楽しいで」

「私を苛めて楽しまないでくださいっ!!!」






せっかく忍足さんが監視カメラの映像を1か所だけ隠していこうか聞こうとしたのに・・・・

完全に拗ねた私を横目で見た忍足さんの口元が微妙に笑っている。

この人はサイコパスではなくサディスティックの間違いじゃないだろうか。大学やホストで演じている余所行きの顔を少しだけでも良いから私にも向けて欲しい。

爽やかに微笑まれるのは気持ち悪いからお断りだが、優しさのかけらくらい見せてくれたって良いじゃないか。






口を開けば嫌味を言われる。

頭を提供すれば毛根を痛めつける力で撫でられる。

小間使いのように雑用を押し付けられたと思ったら、予定があるのに問答無用で連れ出され・・・・・

あれ?私・・・忍足さんに切れても許されるんじゃないかな?

これだけのことをされて何で嫌々言う事を聞いてるんだろう・・・・自分でも自分の行動が謎だ。

考えられる理由としては詐欺師みたいに口が上手いから丸め込まれてしまう事が多いのと、陰湿な報復が怖い。

直接手を出されることは無いけど、周りを使ってネチネチと責められるだろうことは予想が付くから、なるべく逆らいたくないのが本音だ。






どうせ監視カメラの映像を持っていたのも私に対する交渉材料にしようとしていたか何かだろう。

忍足さんは小狡い人だから、自分が優位に立てるように色々と画策を企てて行動していてもおかしくない。

自分の中で結論付けして会話を終わらせる。

でもやっぱりムカついたので、窓枠の出っ張りに肘をついて頬杖をしながら完全に顔を背けておいた。




全くこれっぽっちも楽しくないドライブは出発から30分ほどで目的地へとたどり着く。

手前の左折からなんとなく場所は察して、イラついていた気持ちが解かれてゆく。

国道から外れて少し走った静かな景色が広がるその場所は、手入れがされて整えられた墓地だったのだ。

比較的新しい場所のようで、まだ墓石が置かれていない場所がいくつも残されている。私はまだ身近の人の死を体験していないから、お墓に来るときは先祖のお盆参り程度だ。

でもこの墓地のお墓には所々鮮やかなままの生花が供えられて、お参りが小まめにされていることを物語っていた。






「行くで」

「あ、は、はい!あの、お花とか持ってこなくて良かったんですか?」

「友香里は花が大っ嫌いやったから、持って行ったら「嫌がらせか!」って祟られる」

「えっと・・・・なんで嫌いなんでしょうか?」

「さぁ?聞いたことはなかったけど、アイツのことやらか活けるのも処理するのも面倒だからとか言いそうや」

「私が付いて行っても大丈夫ですか?私は友香里さんとは面識も無いですし・・・・・場違いと思うのですが・・・・」

「オレ1人だと墓石を動かすが大変やろ」

「何をする気なんですかっ!!!墓荒らしは犯罪だってニュースでやってるの見ました!!!」

「エジプトの墓を暴くのと似たようなものやろ」

「全然違います!!忍足さんのしようとしていることは人としてやっちゃいけない事です!!!強行するなら命令してでも止めますから!!!」






「ちょっとジュースを買ってくる」と同じくらいのテンションで「ちょっと墓を暴いて来る」と言う忍足さんに血の気が引いていく。

おかしいですよ!真実を知って友香里さんへの恨みから解放されたんじゃないんですか??少なからず私はそう思ってました!!

コートの端っこをむんずと掴んで妨害する私を忍足さんが見下ろす。

そして小さくため息を零すと、「これを渡すだけや」と指輪が入っている紙袋を私の前へとぶら下げたのだった。






「わ・・・渡す?のに、墓石を動かす・・・・のですか?えっと・・・・」

「供えただけだと盗まれる可能性が高いやろ。屋外は雨風に晒されるのもあるし、誰かに見られるのも他人の手元に渡るのもまっぴらや」

「つ、つまり・・・」

「墓には納骨穴っちゅ〜骨壺を入れる場所がある。そこに入れる」

「・・・・・えと・・・その穴どこにあるんですか?」

「墓の種類によるけど、最悪墓石の下」

「それって良いんですか!!?きょ、許可とか取ってないんですよね??それに・・・・は、墓石って絶対に重たい・・・・」

「せやからお前さんを連れて来たんやろ。オレが指輪を入れてる間、しっかり持ち上げとるんやで」

「無理に決まってるじゃないですか!!何キロあるか知ってるんですか??見た目だけでも10キロ以上あるのに、持ち上げるとか無理です!!!」

「総重量はトンを超えるらしいから、得意の気合を入れて頑張るんやな」

「物理的に不可能です!!」







慌てる私を置いて忍足さんが先に歩き出す。

全く言い分を聞いてくれないことに焦りながら追いかけると、忍足さんはコートのポケットからお墓の場所が記されたメモを取り出し、場所を確認しながら1歩1歩進んでいく。

指輪の件はお寺の許可は取ってないが、由香里さんのお母さんには許可をちゃんと取っているらしい。

そういう大事なことを先に教えてください!!

忍足さんの大事な人が眠る墓石は、シスコンの白石さんの財力が惜しみなく注ぎ込まれ、周りから少し浮くくらいに豪華な造りになっていた。







口を開けば私への憎まれ口しか叩かない忍足さんも、今回ばかりは強めに唇を横に引き結んで憂いの含んだ瞳を刻まれた名前に向ける。

強張った・・・・とは違うかな。背筋が伸びるような張り詰めた空気を感じ取り、私も自然と口を閉じた。

吹き抜ける風が忍足さんの髪を揺らす。

3歩後ろに控える私の存在を、この時の忍足さんは忘れていたかもしれない。

それだけ真剣に切ない表情で愛する人の名が印された墓石と向き合い、静かに頭を下げたのだった。






長い長いお辞儀だ。

忍足さんの心の声は私には聞こえてこない。

一体どんなことを考えて友香里さんに話しかけているんだろうか。興味があるから聞いてみたい気持ちも無くはないが、安易に踏み込んではいけない領域だ分かっているから自重して言葉を飲み込む。

頭を上げた忍足さんは憂いた顔で目を細めると、小さく肩を落として私の名前を呼んだのだった。








「これ持っとって。落とすなよ」

「え?あれ?私が墓石を持つ役じゃないんですか?」

「嬢ちゃんに持てるわけないやろ。ちょっとは頭を使って考えろ」








「先に私に墓石を持てって言ったのは忍足さんです!!」と言いたいところをグッと我慢して紙袋を受け取る。

お墓の前で喧嘩は駄目だもんね。

私が大人にならなくちゃ。私が大人にならなくちゃ。私が大人にならなくちゃ・・・・・

言われた通りに渡された紙袋を持っていると、周りを見回して誰も居ないことを確認した忍足さんが手前の水を注ぐ部分を外して脇に置き、その裏の大きめの石を傾ける。

どうやら友香里さんのお墓の納骨穴は墓石の下ではなく横から入れられるように作られていたらしい。

それでも穴を塞ぐ石はそれなりの重量がある。

墓を荒らしているわけではないけれど、いけないことをしているのは確かなので見ているだけでも落ち着かない。

誰かに目撃されていないかとハラハラしながら周りに注意を払っていると、紙袋から箱を取り出すように指示されて焦りながらも従った。

作業時間は5分にも満たなかったと思う。

最後にきちんとお墓を元に戻して手を合わせる。






「友香里さんはどんな人だったんですか?」

「嬢ちゃんとは正反対の美人」

「・・・・・一言余計だと思います」

「気の強さと猪突猛進なところは嬢ちゃんに似てるかもしれへんな」

「全然褒められてる気がしません」

「褒めとるで。オレは友香里のそういう所に惚れたんやから」






いつもとは違う優しい眼差しが墓石に向けられた。

懐かしそうに細められた目は憑き物が落ちたかのように穏やかで、口元にも柔らかい笑みが浮かんでいる。

忍足さんってこんな顔も出来るんだな・・・・・





忍足さんの隣に並んで同じようにしゃがみ両手を合わせる。

私は友香里さんに面識は無いし、由香里さんの愛した忍足さんのことをボロクソに蔑みたいこともあったけど・・・・・こうしてこの場にいられることを感謝したい。

複雑に絡み合った同線が解け、ようやく誤解が解けた。

忍足さんもだけど・・・・これでずっと忍足さんを見守っていた友香里さんも安心が出来るんじゃないかな。

そう思いながら忍足さんの言葉を思い出す。

友香里さんがキレイな人なのは白石さんのシスコンぶりからも想像が出来る。忍足さん自身もかなり顔が整っているから、2人が並んだら物凄く美しい絵になりそうだ。

でもキレイなだけじゃなくてしっかりと自分を持ってて、愛情に溢れていて・・・・・・猪突猛進なんだよね。





墓地の上に広がる空は青々としていて爽快だ。

まだ少し風が寒いけど、そろそろ春の息吹を感じ始める季節でもある。

斜面を登る風が地面に落ちた落ち葉を舞い上げながら、もう1人の登場人物の足音を運んできた。

「奇遇やな」とかけられた声に忍足さんはあからさまに嫌そうな顔をしたのが少し面白い。

振り返った視線の先には相変わらずの白衣を羽織った白石さんが立っていて、お参りに来たはずなのに手には花ではなくタコ焼きの袋が握られていた。

友香里さんは本当に花が嫌いのようだ。花の代わりにタコ焼きを供える白石さんに、「何が奇遇や」と忍足さんが嫌味っぽく話しかける。







「オレがお袋さんに墓の場所を聞いたことを盗み聞きしとったんやろ」

「自意識過剰とちゃう?オレがそんなキモイ事するわけないやん」

「キモイのはお前やろ」

「友香里、今の聞いとった?忍足くんはオレに対していつもこうなんやで。最悪やろ?せやから早いとこ見限ってもっと良い男を探すんやで」

「人様のことを同じようにキモイ言うたくせに自分だけ被害者ぶるなや」

「せや!ちゃん喉渇かん?ジュース持ってるで飲んで」

「あ、ありがとうございます」

「ちなみに忍足くんの分は無いで。忍足くんに恵むくらいなら溝に捨てた方がマシ」

「オレだってお前に恵まれるくらいやったら干からびた方がマシや」







この2人は顔を合わせるたびにこんな感じに因縁をつけ合うのだろうか。

でも嫌いじゃないんだ。

子供の喧嘩並みのやり取りは慣れてしまうと微笑ましくもある。

手を出したり足が出たりせず言葉のみの応酬だけだと分かりきっているから安心感もあるのかもしれない。

言っている内容と言葉はアレだけど、これはこれで一種の意思疎通になっていそうだ。










仲は良くないけど、悪くもなさそうなんだよな・・・・・











時折2人の言い合いに挟み込まれて苦笑いを零す。

そして白石さんが今日この場所に来た理由も流れで知ることになる。

白石さんは歓楽街を離れどこか別の場所へと出て行ってしまうんだそうだ。友香里さんとの約束を果たせたから、歓楽街に残る意味は無い。

今度は自分のやりたいことを見つけるんだと楽しそうに語りながらも、少し寂しそうに笑った。






「居なくなってくれたら清々するわ」

「忍足さん!そういう言い方は駄目だと思います」

「構へん構へんちゃん。どうせ忍足ワンコに人様の言葉は通じんのやから、一々目くじら立てたら疲れるだけや。軽く流しとき」

「白石さんもそうやって焚きつけるのは良くないです!2人は一度ちゃんと話し合うべきじゃないですか?もうシコリも無い訳ですし、似た者同士だから仲良くなれると思います」

「勘弁してよちゃん。同族嫌悪って言葉知らん?」

「白石と仲良ぅなんて考えただけで吐き気がする」

「虫唾が走って体中が痒くなる」

「同じ空気もすいたくない」

「存在そのものが気に入らん。忍足くんの体を構成している分子にすら拒否反応が出るわ」






本当の本当に嫌らしい。

仲良くしている自分たちの姿を想像してしまったのか白石さんは蒼ざめ、忍足さんは眉間に深い皺を寄せて真顔で「絶対無理や」と零す。

でも白石さんは友香里さんの実の兄なわけですし、愛した人と血が繋がっているわけだから嫌悪感は克服できるんじゃないでしょうか?と尋ねたら、無言で頭を掴まれて握り締められる。






「いいいい痛いです忍足さん!痛い!」

「今のは真実でも言っちゃあかん言葉やで」

「ごごごごごめんなさい!二度と言いません!二度と!!!」

「次に同じことを言ったら置いて帰るからな」

「気を付けますから連れて帰ってください!」






交通の便が悪いこの場所に置いて行かれてしまったら帰るに帰れなくなる。

携帯を持っているからタクシーを呼ぶ手もあるが、金銭的にかなり不安だ。だから渋々忍足さんに頭を下げながらも、無理やり連れて来ておきながら置いて帰るとはどういうことだと頭の中で反論しておいた。




白石さんはお墓の前にしゃがみながら私と忍足さんのやり取りを静かに眺め、こっそりと笑みを零す。

僅かに伏せられた睫毛の下には優しい眼差しを称え、もう一度友香里さんのお墓に手を合わせたのだった。





「さぁ〜〜て、やる事もやったし、歓楽街に未練もあらへんし、オレはそろそろ行くわ」

「二度と戻って来るな」

「忍足くんもオレの前に姿を見せんでね。次に顔を合わせたら問答無用でスタンガンの刑や」

「返り討ちにしてやる」

「お〜怖い怖い。ちゃん気を付けるんやで。この男、いつかDVをする・・・・・ちゅーか、さっき実際目の前でされとったな。オレのスタンガン渡しとこうか?」

「使った後が怖いので止めておきます」

「せやな。ちゃんはまだ大学で3年間過ごさなあかんのやったな。忍足くんと同じスクールライフとか同情しか出来んわ」

「さっさと消えろ」

「はいはい分かりましたよ〜〜ほな、元気でなちゃん」






笑顔で手を振り上げた白石さんとの別れに寂しさを感じながらも頭を下げる。

白石さんは出会った当初からずっと強烈な存在のままだけど、決して嫌な人ではない。ただちょっと一般と感覚と常識がずれてるだけ。

笑顔で今日が迎えられたのは白石さんが居てくれたからだ。

やり過ぎな行為で疑いの目を持ってしまったことはあったけど、それも昔のこと。




白衣のポケットに手を入れた白石さんはいつもの飄々とした空気を纏い歩き出す。

その背中をどこまでも見送ろうとした私だったが、白石さんがやり残してる重要な仕事を思い出してハッとした。

慌てて呼び止めて立ち止まった白石さんに向かい忍足さんの背中を押す。

嫌そうな顔で「何すんのや」と眉を顰める忍足さんの声をさらっと無視して、「お願いします白石さん、行く前に忍足さんの暗示を解いてください!」と声を上げた。

私の発言に忍足さんがピクリと反応し、白石さんがキョトンと瞳を丸める。










「・・・・・」

「・・・・・」










忍足さんと白石さんの視線がぶつかった。

お互いが何も言わないまま数秒見つめ合い、私はその様子に意味が分からず首を傾げる。

だって忍足さんの暗示はまだ解けていないのは日課の頭撫で撫でが証明しているから解いて貰わないと困るんです!!私の毛根が死滅します!!




私の必死のお願いを聞いた白石さんの顔がニタリと笑った。

忍足さんはぶ然とした顔をして額に手を当てると、私の首根っこを掴んでお墓の入り口に設置されている小屋を指差し、「向こうに水桶があるから水を汲んで来い」と有無を言わさない迫力で命令をしてくる。

普段より2オクターブ低い声にビビって意味も分からず走り出す。

素直に小屋に向かい走る私の背中を睨んでいた忍足さんは「暗示ねぇ〜〜」と面白そうに呟いた白石さんに振り返って眼光を更にキツクした。









「そんなのとっくの昔に解けてるんとちゃうの?」

「・・・・・」

「思いっきり手を出されとったのに、何でちゃんは気が付かんのや・・・・・あ。まさか言いくるめてるん?ちゃんを独占したいから敢えてかかった振りをしてるん?」

「・・・・・」

「いやー!ちゃん逃げてー!むっつりスケベがおる!!ここに悪どいむっつりがおるー!!!」

「・・・・うっさいわボケ」

「煩いボケやけどむっつりよりはマシやも〜〜〜ん」








忍足さんにかけられた暗示は私に危害を加えられないはずだ。

それなのに痛みを与えるほどのアイアンクローが出来るのは、暗示の効果が切れているに他ならないのだけど、忍足さんの巧みな詐欺師のニュアンスによりその事に気が付けずに居る。

白石さんは面白いおもちゃを見つけたようにニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべ忍足さんに近づいてく。

さすがの忍足さんも今は分が悪いと思ったようで、言葉数少なく不機嫌に眉根を寄せただけだった。







「オレは忍足くんのことが大っ嫌いやから、ちゃんに面白おかしく忍足くんの嘘をバラしてやりたい気持ちは山々なんやけど・・・・・」

「・・・・・」

「今回だけは見逃すわ」

「・・・・お前が手を抜くのは気持ちが悪くて不気味や」

「抜いてるのとちゃうで。ただ・・・・・・せやな。同じ携帯のパスワードを使っとった好っちゅーのはどうや?」

「は?」

「前の忍足くんの携帯のパスワード。あれ?もしかして気が付いてないん?あのパスワード裏から読むと、由香里の誕生日になるんやで」

「・・・・・」

「・・・・無意識って怖いな。でも、もう妹のことは忘れて良いんやで」

「・・・・・」

「オレは絶対忘れんけどな!!オレの妹は生涯ただ1人。友香里だけや!」








隠すことのない堂々としたシスコン宣言に流石の忍足さんも呆れたように肩を落とす。

そしてまた嫌味の応酬を返そうと開いた口を一度閉じ、迷いながら「オレも忘れようとは思わんわ」と返したのだった。

この答えには白石さんも笑うしかない。

刺々しかったはずの空気は一気に雪解け、僅かな間だけ忍足さんと白石さんの間に友情に似た感情が流れたのだった。

ただ、その空気はすぐに終わってしまう。元々相容れない2人だからこそ、一瞬でも和解したことの方が奇跡に近いのだ。




忍足さんの視線が友香里さんのお墓に向けられる。

その視線につられたように白石さんも同じ場所を眺め、大きく深呼吸をした。

2人のその姿をどこかから見ている友香里さんも、きっと幸せそうに笑っているはずだ。








「そろそろ行くわ」

「・・・・迷惑やから野垂れ死ぬなよ」

「気を付ける。あ〜あ、オレもちゃんみたいに可愛い可愛い恋人を見つけたいわ〜〜〜んで、オレの事しか考えられんように洗脳して監禁したい」

「まるでオレがそうしてるみたいに言うなや」

「気のせいやって。・・・・・それにしても、ちゃん遅ない?水汲むだけでこんなに時間がかかるものなん?」

「嬢ちゃんならあり得る」

「心配なくせに。憎まれ口叩いてばっかだと好かれるものも好かれんで」

「大きなお世話や」







この会話を最後に白石さんと忍足さんは別れた。

お墓の前で立ち止まったまましばらく白石さんの背中を眺めていた忍足さんは、腕時計の針を見下ろし、未だに戻ってこない私に不審な表情を浮かべる。

走ったら1分もかからない場所に設置された小屋は、どれだけゆっくり歩いて水を汲んでも片道5分以上はかからない。

「何をやっとるんや」と呆れたように呟き、私のトラブル体質を思い出したのか嫌そうに顔を歪めると小屋へと急ぐ。

到着した小屋の中で忍足さんが見たのはモタモタと水を汲む私ではなく、コンクリートの床に転がる空の桶と零れた大量の水だった。

そしてその水は一目で男物と分かる大きなサイズの複数の靴後に踏み荒らされていて、抵抗するように引きずられた小さな靴跡が引かれていた。




すぐさま状況を把握した忍足さんは靴が引きずられている方角の入り口に向かって走り出す。

大衆が使いやすいように小さな小屋にいくつも扉が設置されているせいで、反対側から連れ出されたら墓場からは死角になってしまうのだ。

閉まりきっていない扉を破る勢いで開けた忍足さんの目に飛び込んで来たのは、ブラックカラーのクラウン。今まさに走り出そうとする車にチッと舌打ちして駆け寄るが、車の速度に人が追いつけるはずもなくあっさりと巻かれてしまう。

日頃の運動不足で息を切らした忍足さんは膝に手を付いて息を整えると、ズボンのポケットに入れっぱなしの携帯を取り出してパスワードを解き、素早く電話帳からとある人物の名前を呼び出した。




コール音が重なる数だけ忍足さんの表情が歪む。

電話が繋がるまでに時間がかかったのは、現在時刻が夜の世界で働く人間にとっての睡眠真っただ中の時間だったからだ。

長めのコール音を聞きようやく繋がった電話に忍足さんが声を荒げる。

「どういうつもりや」と凄む声に、電話の相手は寝起きに掠れた声で『・・・・何の事ですか?』と困惑した声色の返事を返したのだった。







「オレの記憶力を舐めるなや。黒のクラウンの車のナンバープレートの数字、アレはお前んとこの組の所有車やろ」

『ですから、説明をしていただけないと状況の把握が出来ません』

「しらばっくれるつもりなん?」

『違います。寝起きに訳の分からないことをいわれて理解に苦しんでいるだけです』







突然の怒りを電話を受けたのは日吉さんだった。

忍足さんの怒号を前にしても怯えたり狼狽えたりすることは無く、淡々と『何かあったんですか?』と続ける。

声色に滲む不機嫌さに忍足さんは本当に日吉さんが寝起きなんだと気が付いたのだろう、手の平をグッと握り締めて自分を落ち着かせると「嬢ちゃんがお前さんの組の人間に攫われた」と自己分析と状況証拠から導き出した推理を告げた。

日吉さんは『は?』と訳が分からないという声を上げたが、忍足さんが告げたナンバープレートの数字に信ぴょう性を感じ取ったのか『詳しく話してください』と態度を改める。

電話越しに聞こえる物音は寝床から起き上がった音だろう。

床に残された大量の足跡と引きずられた痕。それから走り去る車の特徴。ひとつひとつを順番に説明した忍足さんに、日吉さんは『オレは何も聞いていません』と答えつつも『すぐに調べます』と返事を重ねた。









「オレもすぐにそっちに向かう」

『車は裏に回してください。状況がつかめ次第連絡を入れます』

「ほんまにお前の指示とちゃうんやな」

『もしそうだとしたら忍足さんからの電話に出ていません』

「・・・・分かった」

『一端切ります。情報が掴めても掴めなくても30分後に一度連絡を入れるので、下手に動かないでください』









電話を早々に切った忍足さんはすぐさま踵を返して駐車場へと戻ると、自分の車に急いで乗り込みエンジンを噴かせ、忌々しそうに「あのトラブルメーカーが」と愚痴を零したのだった。




































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