今、田中角栄が再評価されている。
あの「反田中」の代名詞とさえ言われた石原慎太郎が、先月、「天才」という題での角栄本を出した。
田中角栄、彼の功績は真に日本を独立国たらしめようとしたことだと思う。
だからアメリカに先駆けて、日中国交回復をしたし、アメリカに言うべきことを言ってきた。ただ、それがアメリカの癪にさわり、「ロッキード」という爆弾を投げつけられ、結果失脚した。
挙句に部下(竹下等)に造反され、酒浸りになり脳卒中、言葉を失い、失意のうちに他界したが、可哀想な晩年だった。
もちろん田中角栄というと、「金権政治」等のネガティブな形容詞もつく。しかし、角栄は意義のある金の使い方もした。
その詳細はウィキペディアの「田中角栄」の項目に譲るが、田中は、例えば料亭でなら、女将さんよりもむしろ、下働きの女中等に対する配慮を忘れなかった。
利害を超えて、常に弱い者に対する手当を忘れなかった。そういうところがヒトを惹きつけたんだろう。
もちろん、現在、田中のようなお金の使い方をしたら、法的には「アウト」だ。因って、田中は、旧き昭和の時代においてのみ、力を発揮できた政治家だったと言えるのかもしれない。
しかし、「できることはできる。できないことはやらない。しかし、全ての責任はワシがとる」、そう言って、あらゆる分野で覚悟を持って、破壊と創造を行った。議員立法も彼だけで20数件行った(個人的には評価できない内容の法律もあるけど、仕事はした)。
こんな政治家はもう現れないだろう。
だから、混迷を深めている現在の日本、不確実性が支配するこの社会、どんよりとした「群青色」のこの時代、そんな今だからこそ、田中のような強烈な個性と指導力を持った人間に、恋い焦がれるのだろう(もっとも、アドルフ・ヒトラーみたいな人間では困るが…)。
甘利さんが嵌められた。あれだけ国益の為に尽力してくれてたヒトが、事実上の政治生命の「停止」を余儀なくされて久しい。
自身への責任追及により、国会が空転することをよしとしなかった甘利さん故の矜持、潔い引き際だ。彼らしい美学だと思っている。
然るに、秘書や甘利さんの意思を継ぐ者、民主党、あまりにもお粗末で醜悪だ。
前回の続きを書く。
佐藤さんは言った。
「今月いっぱいで俺、ここ辞めるんだわ」
俺はビックリして、
「えっ!そうなんですか!でも、佐藤さんは社長の親戚なのに、大丈夫なんですか?」
と訊いた。
「それは問題ないよ。何ていうか、息継ぎみたいなものなんだ」と佐藤さん。
「息継ぎ?」いぶかしげに訊く俺。
「うん。この会社は、やりたいことをする間の息継ぎなのさ。それで本題はここから」
「はい?」
「1月は明日で終わりだから、明日で俺はこの会社を辞めるけど、その前にゆうに言っておきたいことがあってさ」
「俺に?言っておきたいことですか?」
俺は、頭の中が軽く混乱した。
…「息継ぎ、やりたいこと、退職、明日」…
色々な単語が頭の中に溢れ出して、整理がつかなかったが、構わず、佐藤さんは話を続けた。
「そう。ゆう、オマエ、歳をごまかしているだろう」
思わず俺は「(;゚Д゚)…」絶句した。
「やっぱりそうか。普段のオマエのふるまいから、うすうす判ってたよ。スレてないから。明らかに他のヤツとは違う空気を持ってるから」
かろうじて俺は「そうですか」と応答した。
「歳をごまかそうが大した話じゃない。俺が言いたいのは…」
佐藤さんは大きく息を吸い込んで
「オマエはここにいるべき人間じゃないと俺は思っている」
と俺に言った。
事情の判らない俺は、
「それってクビってことですか?」
と訊くと佐藤さんは大きく笑い、
「そうじゃない。第一、俺はそんなに偉くない。オマエをクビにする権限なんて俺には無いよ。ただ、オマエはまだ若いんだ。やり直しが利くっていうことだよ。こんな場末の飯場で、うらぶれていても仕方ないだろう。ちゃんとした学校に入り直すとかして、ちゃんとした仕事をするべきだ。オマエと仕事をする都度、そう思うようになった」
そのように一気にまくし立てた後、軽く一言、付け加えた。
「オマエが決めることだけどな。オマエの人生なんだからさ」
頭をカナヅチで殴られたような気持だった。
俺がどうなろうが、佐藤さんには関係ない。ましてや佐藤さんは辞めていく身なんだからなおさらだろう。
思わず俺は、
「どうしてそんなに優しくしてくれるんですか?」
と訊くと、佐藤さんは、
「さあな」
と一言だけ言い、寂しそうに笑った。
俺は、
「判りました。すぐには結論は出せないけど、自分なりに一生懸命考えます。ありがとうございました」
と頭を下げた。
それから、翌日もいつもと同じような調子で仕事をしてから、佐藤さんは颯爽といなくなった。
彼によると「東南アジアに行く」ということだった。東南アジアに行って何をするのかは訊けなかった。
しかし佐藤さんが優しく諭してくれたものの、ダメ人間なんだろうな…俺は。
踏ん切りがつかずに、飯場を辞められないでいた。そしてそのことが、後になって大きな後悔として俺に降りかかってくることになる。
佐藤さんが風のように消えた1月末からあっという間に時は流れ、3月になろうとしていた。
「確かに佐藤さんの言う通り、このままではいけないのかも」
そういう気持ちが時間の経過とともに大きくなっていった。