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ポジ熊の人生記

ブログ継続の秘訣や記事作り・人生哲学・健康情報などを雑多に書くブログです。北海道民の知識を活かした地方情報も発信しております。

無神経な人間だなって思ってたよ、言葉遣いが悪く批判的な人はさ

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無神経な天使が傷つける

記事タイトルのようなことを口にすれば、それに対しては「お前が言うな」って言われてしまう人が多いよね。というか、ほとんどの人が他人を傷つけない言葉遣いを日常的にこなすことができていないと思うんだわ。かくいう僕もその一人。知らずのうちに放った言葉が、時に人を傷つける。これは不本意なことで、できる限り避けたい。人を傷つけようなどと本気で思う人間は、異常者じゃない限り存在しないと思ってる。

自分もそう、なんて考えていたら何も語れないから、居直りに近いけど書くよ。これが自己表現だ。

口の悪い人に思っていたこと、やってきたこと

「無神経」だな、と。お前の精神はどれだけ図太いのかな?って毎回思ってた。僕が繊細なだけなのかもしれないけど、グサグサ刺してきてさ。聖人君主でもない一介の人間如きになぜここまで棘のある言葉を言われねばならんのだと、毎回むかっ腹が立ってた。「逆にお前のことを刺しても良いんだよな。じゃあ容赦しねえぞ?」なんて憎悪のオーラをまとって、持ち前の回転力で皮肉りまくって相手を追い詰めたことも何度もある。復讐だね。「俺はやられた。こうなりゃ徹底的に打ちのめすぜ」どうも皮肉を言わせると天下一品らしく、凶悪になるらしい。追い詰められたレジスタンスの如く、相手がとことん疲弊するまで、僕は攻撃の手を緩めることは無かった。

プライドが高いことも災いしていたのだと思う。とにかく20代の半ばまではずーっとこのスタンス。そりゃ「顔つきが変わったね」って言われるわけだ。若いころの証明写真は、蜂のような顔をしてやがる。なんという負けん気の強さ(笑)

 

今考える「口の悪い人」への印象

ぶっちゃけると、未だに傷ついてる。これ、ガチだよ。「無神経だな」これも毎度、反射的に思うこと。人間、歳はとっても根は変わらないんだわ。でも、そんな人たちには大抵、悪意がないんだなってことが理解できた。

 

「この人たち、天然なんだ。悪意がないけど、いつの間にか人を傷つけてる。刃物を持った天使じゃん、凄い」

 

で、それに対して反撃だの復讐だのを行うのは無意味だということを知る。そんなことをしても次の憎悪に繋がるだけ。つまりメリットがほとんどない。だから考えを改めて、これに移行しないようにひたすら自分を律している。無駄なプライドを捨てる作業も少なからずあったように思える。

どうやって思考を変えたか。具体的には無神経(あえてこう表現を続けよう)な人たちの言動を「それもありのままの個性であり、その人を構成する一部である。それを容認できない限りは良好な人間関係を作り上げることなど到底不可能。もし受け入れられぬほどに強烈ならば自ら距離を置くしかない」このように見る。ニヒルだけど、根本的に解決するにはこれしかない。これでずいぶんと楽になる。

アドラー心理学を学ぶようになってから、余計にこう考えるようになった。課題を分離したのである。相手が棘のある言葉を使っても、相手そのものを変えることはできない。変えられるとすれば、それを受け取った自分がどう考えるか、ここなのである。人生で無駄に消耗するポイント、それは変えられぬもに注力すること。それは無駄中の無駄である。すっぱりと切るべきである。

ここで注意したいのは、相手に対して何のアクションをかけても無駄かどうか?という部分だ。これについては一概にそうとも言えぬ。というのも、もしそのように辛辣に感じた言葉を浴びたとして、相手に「僕は今のこういう言葉で傷ついた。やめてもらえないだろうか」という打診は可能であり、あまりにも腑に落ちないのであればそのようなアクションをかけても良いと思う。これは相手に賭けたのだ。まさに賭けである。はき違えたくないのは、この時点でその賭けはあなたの手を離れたということ。その結果で右往左往する必要はまったくない。例えば相手がその打診を受け入れず、以降も辛辣な言葉遣いを続けたとして、それはあなたにはどうしようもなかったということになる。逆にそれで相手が少し丸くなり、コミュニケーションが円滑になったとすれば、それはそれで幸運なのである。それはあなたの賭けが実ったことに他ならない。ここは素直に喜びたい。これも相手が起こした反応の結果で、あなたがコントロールすべき課題ではないのだ。

 

相変わらず反射的には嫌な思いをしているので、目に余るなら「君に賭ける」ことがあるかもしれない

あいも変わらず言葉で人を突き刺す諸氏へ。

それも人格の一部として認めたいという気持ちは大前提にあるが、僕のガラスの心にはその言葉は余りにも切れ味があり過ぎる。時に圧倒され、時に深く傷つくこともある。そういう時はね、その場から離れて自分のテリトリーに逃げ、そこで傷を癒してんのだよ。知ってた?

大抵のことは流せるようになったけど、それでも聞くに堪えない刃物を投げつけてくる人が時折現れる。どうでもいい相手なら「やべえなコイツ」でやり過ごすけど、まさか身近で懇意な人から意外な隠しナイフでグッサリやられることもあって。そんな時はもしかしたら君にこう言っちゃうかも。

 

「その表現はないんじゃないかな?」

 

できる限り感情的にならずにお伝えしたい。でもこれ、僕にとって次の君とのコミュニケーションが円滑になるための担保、確約にはなり得ないんだよなぁ。それを受け取って行動に変化をもたらすか、それとも否定するかはあなた次第なんだもの。つまりこれは僕の賭けなのだ。その結果がどうあっても、もはや僕の手は離れたことになる。だから結果は諦めなきゃ本来は不健全なんだよね。だけどさぁ、諦めきれない部分があるよ。だって、仲が良いと(少なくとも僕は)考えているのだから。

 

願わくば・・・願わくばさ。その剣のような言葉の端が優しい丸みで包まれることを望むよ。君を信じたい。分不相応で、コントロールできぬ課題ではあるけども、僕はそこにあえて無理な望みを託したい。まだ、本当の意味で諦めたくはないのさ。

 

世界がもっと優しくあればいいのにって、大人になって強く感じるようになったなぁ...

 

終わり