『じゅん散歩』収録中の高田純次に密着

写真拡大

「どうもぉ!」──集合時間の朝8時、高田純次(69)は東京・世田谷区の九品仏駅(東急大井町線)にやってきた。この日は『じゅん散歩』(テレビ朝日、月〜金曜・9時55分〜)のロケである。

 テレビでは「ハイテンションの適当男」を貫く高田だが、カメラの回っていないところでは「意外な素顔」が見られるのではないか。そう考えて取材を始めたわれわれの期待は大きく裏切られた。姿を現わした瞬間からすでに「いつもの高田純次」なのだ。

 まだ収録は始まっていないというのに、高田は道行く人々に声をかけ始めた。

「あら、お嬢ちゃん、ちょっと奇麗過ぎない? 高校生? そこで撮影を始めるんだけど、10分後に通ってくれない? キミが通ってくれると、番組が華やかになるんだけどなあ。え? 学校に行かなくちゃ? そうだよねぇ。そうだよ。じゃあね」

 この日のロケは、高田の自宅からほど近い自由が丘、尾山台などのエリアが中心だった。

「家が近いから、知り合いも多いんだよね。会ったら恥ずかしいな」

 とおどけつつも、高田は道行く人にすぐに話しかける。お世辞にも若いとはいえない60代くらいの女性2人組に「どこの女子大?」と声をかける。年齢を教えてくれない妙齢の女性には、「オレ、わかったから当てちゃうよ。20代から80代の中に入ってるでしょ?」とボケをかます。

 人妻に会えば「子作りするときは呼んでください」と笑いを誘い、「……って呼ぶわけないよな」とひとり突っ込み。2階のオフィスから手を振るOLたちにもきっちり気づいて手を振り返し、「キレイな子、多かったんじゃない?」と持ち上げることを忘れない。テレビ朝日の稲葉真希子プロデューサーがいう。

「高田さんは本当に気さくに、いろんな人に声をかけられるんですが、その数は私たちの想像以上でした。おかげでスタッフは一般の方々にテレビ出演の許諾を取るため、必死に走り回っています(笑い)」

 地井武男の『ちい散歩』、加山雄三の『若大将のゆうゆう散歩』に続き、4月で丸10年となる散歩シリーズを昨年9月に受け継いだ高田純次。

「散歩番組はたくさんあるが、笑えるものはそれほどない。そこを高田さんに期待して」(同総合ビジネス局・河野勝プロデューサー)のオファーだったが、その目論見はズバリ当たったようだ。

「朝番組だからね。どう色を出そうかと思って、番組プロデューサーに『オレからエロさを取ったら、知性しか残らないよ』と冗談をかましたら、『その知性を出してください』だって。それがなかなか出ないんだよねぇ」

 と高田は笑うが、番組にかける意気込みは強い。

「もう20年先まで、この番組のためにスケジュール押さえてあるから。20年経ったら89歳? まあオレが生きてるかどうかわからないけど、この際、20年といわず30年。白寿までいっちゃう?」

 高田をじっと観察していると、単なるその場の思いつきに見える彼の軽口が、実は周囲への気遣いにあふれていることがわかる。

 例えば、大好きなハムカツを見つけると、「食べたい人、手を挙げて!」と必ずスタッフの分まで注文する。今回の取材では、書店の前を通るたびに、わざわざ本誌・『週刊ポスト』を手にし、「読むならコレだね」とアピールしてみせた。

 人気商売であるテレビタレントの社交辞令やヨイショには、時に露骨さや計算高さがつきまとうものだ。

 ところが高田純次には、そういうイヤラシサがない。誰にでも分け隔てなく、無理なく気を遣うのだ。実際、カメラが回っていようがいまいが、高田純次の行動はほとんど変わらない。ロケ先で高田に話しかけられた人たちは一様に、「テレビで見たとおりの面白いおじさんだった」と感想をもらした。彼は「地の自分」を『じゅん散歩』で見せているのだ。

◆たかだ・じゅんじ/1947年1月21日、東京都生まれ。東京デザイナー学院卒業。1971年、劇団「自由劇場」の研究生となり、1年後イッセー尾形らと劇団を結成するも解散。4年間の宝石デザイナーを経て、1977年に「劇団東京乾電池」に入る。1985年『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)に出演し、人気は全国区となる。

取材・文■角山祥道 撮影■樂滿直城

※週刊ポスト2016年2月26日号