• [0]
  • 喧嘩スレ

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2015年 5月28日(木)19時12分42秒
 
喧嘩上等バチバチ大好きな方どうぞ!!ψ(`∇´)ψ

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  • [200]
  • 矢吹様、モウ様

  • 投稿者:一末端会員
  • 投稿日:2016年 2月14日(日)02時13分30秒
  • 編集済
  • 返信
 
矢吹様
迷惑だなんて、とんでもありません。
どうか気になさらないで下さい。
ここが「喧嘩スレ」ということを忘れて投稿したのと、更に何も考えず矢吹様の投稿に便乗投稿したのが間違いでした。
よく言う「スレ違い」ってやつですね(-_-;)
今後はメインの方で(^_^.)


モウ様
御教示ありがとうございます。
「スレ違い投稿」並びに矢吹様の投稿に「便乗投稿」したことは反省しております。
矢吹様の投稿に賛同の投稿をしただけでモウ様に質問したかった訳ではないので御了承ください。

モウ様の投稿内容(>>174 >>183)について、何が仰りたいのかは理解いたしました。
ですが、お察しのように納得も同意もしておりません。

私は、ここで論戦を張るつもりは毛頭ありませんし、現在、モウ様は愚人様との論戦の邪魔になりますので具体的には言いませんが。

ただ、矢吹様と同様に現在の御本尊を「創価学会の御本尊」ではないなどと毛頭考えておりませんので誤解がありませんように。

今後「スレ違い投稿」並びに「便乗投稿」は気をつけます。
論戦の最中、お邪魔して申し訳ありません。



  • [199]
  • 自分の責任から逃げて質問するしかないんでしょうね。

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月14日(日)00時43分10秒
  • 返信
 
愚人さんは、牧口先生の発言を切り文にして、虚構の思想を組み立てました。


神社を拝めば謗法。だけどそう言ったあとの続きを読まないのは、なぜなのか。
なぜ、一部だけで、思想の全部だとしたのか、こっちが聞いても無視するのみ。

自分で考えたとか言いながら、文証が切り文でしかないのは、なぜ!!!???(笑)
日顕宗の文章によって主張してるだけ。続きが見えないのか?

宗教団体の教義に沿うかどうかは、宗教団体のルールに基づく判断によります。
それを勝手にぐずぐず言って、謗法ではないかと言うのは、思いつきです。
拝めば謗法だなんて、葬式のときに手を合わすのを謗法だという難癖のレベルと
何も変わりません。拝するという慣習が全てすべて謗法になるのですか。
そう思う愚人さんはおかしい。


牧口先生の時代、それを謗法だという認識はない。
その後の時代、どの法主の見解でもそれは謗法だとはしていない。
日顕も途中まで謗法とはしてこなかった。

それでよいではありませんか。

ただ、日顕だけが、態度を変えて、謗法だと急に変わったわけですよね。
あなたのように切り文のオンパレードで作文してね。
その日顕の変遷について、どう思うのか、なぜ答えられないのですか。


どうしてこういう日顕宗の思想を語る人の態度は姑息な人ばかりなのでしょうね。
姑息な人にまで丁寧に話す必要はありません。人に聞かずに自分で自分の説明く
らいできるでしょう、自分で考えたのだったらね。

  • [198]
  • モウさんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)23時53分26秒
  • 返信
 
 大事な事ですので再度お聞きします。悪鬼乱入の神社を拝む事は謗法だと牧口常三郎氏は言っていますよね?。

  • [197]
  • 愚人さん

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)23時17分25秒
  • 返信
 
ふ。
何も答えられないんですね。(笑)

  • [196]
  • モウさんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)22時34分29秒
  • 返信
 
 そもそも話は【宮城遥拝】だという事を忘れないで下さい。

  • [195]
  • モウさんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)22時31分40秒
  • 返信
 
 駄文ではありません。大事な事です。

  • [194]
  • 愚人さん

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)22時28分0秒
  • 返信
 
駄文は結構です。
きちんとした回答をお願いしますね。

  • [193]
  • モウさんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)22時19分6秒
  • 返信
 
 悪鬼乱入の神社を拝む事は謗法だと、牧口常三郎氏は言っていませんか?。

  • [192]
  • Re: モウさんへ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)22時02分13秒
  • 編集済
  • 返信
 

>>191

皇居への拝礼そのものを問題だとされるのでしたね。
その愚人さんの視点が案外というか、常識外だったからですよ。

そして私の説明は、完全に無視されてしまってます。
愚人さんの投稿は、重ねて宮城遥拝の意義を述べているだけです。

言葉は言葉です。使い方で狭い意味にもなれば、広くもなります。
どのように使われていたのか、勝手な想像で決めつけるべきではありません。

当時の時代の宮城遥拝といえば、当然、国家神道に基づく特殊な意味を指す
のが普通です。だから地涌からの通信はそれを述べています。事実、当時の
日蓮正宗は、国家神道に完全に迎合しています。だから、それを事実として
述べているだけですよ。

では、学会はどうだったのか、私、下に説明しましたよね。きちんと読めと。
でも、あなたからは解答がありませんでした。なぜ?

日顕宗の切り文でないなら、本当に自分で読んででそう考えたのなら、容易
に見つかるだろうと私は言いましたよね。
答えを言いますと、なぜなら、あなたの挙げた文章の続きにきちんと説明されて
いるからですよ。その続きですよ(笑)。見落とすはずがないんです。

なぜ、そこを無視されますか?
神社などを拝むことはだめだと。だけどそうはしてきていないと。

「敬神と祈りとを区別して信仰の対象を定める事が生活上大切な事と思ひます。」

とちゃんとありますよね。そういう総合的な考えで、謗法を厳禁とされたのです。
ところが、その前の文章だけをあなたは挙げて、これが牧口先生の考え方だと、
そして、だからこれは謗法だと云々。おかしいのですよ。
次の文章をなぜ、読めないのですか。ぜひ、アップしてみてくださいよ。


愚人さんの主張が常識外すぎるのは、それだと学会は国家転覆を狙う団体になっ
てしまうということですよ。具体的にどうすればよいとお考えなのですか。
まずそれを述べてみてください。そしてそれは非常識ではありませんか。
そういった非常識な行動は、仏法の理念とは無関係です。
当時は憲法で、天皇に主権があり、神聖であり、神という国ですよ。
それを認めなければ、日本の国からは追い出されてもしかたありません。

あなたは全否定が唯一の方途だとお思いかもしれませんが、仏法者はいつも知恵
を働かせて、言葉を言い換えて、悪い意味を台無しにして乗り越えてきたのです。

牧口先生が天皇を神だとした理由は、天皇は憲法に一致し従う存在だからです。
むろん、こじつけです。拝礼も本来、別に問題視するようなことではありません。
なんでもかんでも、イヤイヤだと言うべきとか、アホの思い付きだと思います。



日蓮正宗が異なった点は、それらの思想を無考慮で受け入れ、神札まで受け取り
積極的に加担しただけ。学会は、いろいろとおかしい点を話し合い、改善を目指
して行動をおこしていたこと。その上で国家の体制にはできるだけ沿うように努
力し、ただし、本当に宗教的な部分は厳として譲らなかったこと。
その違いはあまりに明らかですね。

御書を改ざんしたり、神本仏迹を唱えた僧侶が幅をきかせたり。節操もない。
国家の神道化に対して迎合のみで、何もしてません。



学会が正しく、日蓮正宗が反省すべき存在だとは、当時からの人の認識です。
日蓮正宗も厳然と学会の正義を認めてきたわけですね。

もとより宗教上の教義に背反したかどうかは宗教団体の見解によるべきです。
何よりも、全てを知っていた日顕が、何も言わずに学会を礼賛していた事実から
目を背けてはいけません。

日顕が謗法だとは言ってこなかった点を愚人さんは、無視されるのですか。

http://


  • [191]
  • モウさんへ 書き忘れ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)18時42分58秒
  • 返信
 
 牧口常三郎氏の話によると天照大御神は天上へ上ってしまっているので、宮中三殿の賢所に居るのは悪鬼であり其処に向かって拝礼するのは牧口常三郎氏の話によると謗法となります。

  • [190]
  • モウさんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)18時00分44秒
  • 返信
 
  失礼ですが、モウさんが私の投稿をちゃんと読んでいなかっただけであり、私は人を騙すような事はしていません。私は初めから宮城(皇居)遥拝と明確に書いています。

 http://www.houonsha.co.jp/jiyu/01/034.html

 上記のアドレスは創価学会系と思われる『地涌』という読み物ですが、その中の記事に、

 宮城遥拝を行うとは単に、皇居に礼をすることではない。宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)と現人神である天皇に対する拝礼であり、その根底にはもちろんのこと神道がある。

とあります。つまり宮城遥拝とは単なる天皇への拝礼ではなくして、当時の国家神道への迎合であり、其れは天照大御神への拝礼なのではないでしょうか?。

 創価学会のホームページに次の記事があります。

 軍部政府の弾圧

第2次世界大戦中、戦争への動員強化のために国家神道を中心とする宗教・思想の統制を図った軍部政府に反対し、創価教育学会は牧口会長、戸田理事長をはじめ21人の幹部が捕らえられ、当時3000人だった組織は壊滅状態に陥りました。そして、牧口会長は1944(同19)年11月18日、最後までその信念を貫き獄中で殉教しました。

 しかしながら創価教育学会は別に軍部政府に反対したのではなく、宮城遥拝をし国民儀礼をして軍歌を歌うなどして軍部政府に迎合していたのではないでしょうか?。其れは勿論、日蓮正宗宗門も同じです。

 もしかしたら創価教育学会が壊滅したのも仏罰?。

  • [189]
  • モウ様

  • 投稿者:矢吹
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)15時06分56秒
  • 返信
 
丁寧に教えていただき、ありがとうございます。

> 私は言葉づかいを問題にしたつもりはありません。
> 学会は和合僧団です。どれほどの人の思いがあって、今そうなっているのか、
> それを軽視する思いがどこか根底にあるのではないかと危惧いたします。

私は自分で、学会を軽視するつもりなど全くなかったのですが
実は根底にあると言われ、知らず知らずのうちに学会を
軽視してしまっていたのかと、自分の中にある増上慢に気がつき反省しました。

> この時代以降に、先生が書写をされてしまうと、普通の庶民、普通の人
> という大切な立場を失ってしまいかねません。それでは学会が延々と
> 築いてきた、世間に示そうとしてきた一番大切なものを失ってしまいます。
>
> あなたの言う理想よりも、大きな理想を失ってしまいます。
>
> どうか先生の偉大さを御本尊書写の担当者に貶めないでください。


完全に納得いたしました。
私は池田先生を尊敬していますが、実はたいして理解もしていない事に気づくことが出来ました。
大事なことをモウ様に教えていただき感謝します。
やはりモウ様に聞いて良かったと改めて思いました。
どうかこれからも宜しくお願いします。


  • [188]
  • 透明さんここでもお肉芽やってましたか

  • 投稿者:清潔な身なり
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)15時01分49秒
  • 編集済
  • 返信
 
透明さん、ここでもやってたの知りませんでした。

雨乞いも透明さんの大好きな話でしょ?(^^;)

  • [187]
  • 愚人さんへ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)14時15分42秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>185

私は一つ恐ろしい勘違いをしていたことを認めます。
愚人さんが、神宮関係の遥拝のことを言っていたのかと思っていました。

ところが、ま、まさか、ここに来て、愚人さんは、天皇の居城を指して
礼をしたことを、遥拝したから謗法だとのたまわってるのだとは思いま
せんでした。いや、心底。
ええ、たしかに、宮城を遥拝だと言ってましたよね。
確かに私は、その点はあやまりますよ。でもよけい、ひどすぎる。
これは、もしかして、ひっかけですか、とか思います。

これだと誤解するところがありますか?誤解というより分かってて?
学会の会合の最初に、あっちを向いて拝したというのは、勤行の問題以下、
当時の儀礼で当然のことです。あなたは礼もしないのですか。

今でも天皇家に対しての言葉遣いは、御尊顔を拝してとか言いますし、
御書だって拝してますけど、御書に向かって祈ったりしません。


そんなことを問題にしているあなたは、どうかしているというわけです。
つまり愚人さんは、天皇家のほうを拝したのだから、その宮中にある信仰
の対象も拝したことになるだろうという、そんな難癖をつければ困るだろうと。

でも誰もそんな安直なことは思いませんでしたね。

そんなことまで牧口先生が言ってないだろうと思われたのでしょうか。
牧口先生が天皇家を尊敬すべき存在だとしているのは、あくまで宗教性
を別個に除いた存在として尊敬するのだと言われいてます。
不必要な国家神道が入ってるというのが天皇二元論ですね。

あなたが何度も出してる文章を、日顕宗の切り記事ではなく、自分で書籍
を持っていて読んだのなら、当該場所は容易に分かるはずですよ。

つまり、牧口先生が拝した「天皇家」は、宗教性は皆無だったというわけ。
しかもその論理で、当時の天皇制の理論的支柱だった筧氏側に法論をふっかけ
に行ってますからね。国家の体制から神話部分を除けと。そういう風に天皇
家を大切にされたわけです。
そしてその思想を当時の会員にも徹底させています。

なのに愚人さんの頭の中ではごっちゃ。天皇を拝したから、おがんだだろうと。

だからです、それがどうして謗法になるのですか。
何度も言いますが、その出版物は、学会がずっと何度も、何度も出版してきた
もの。容易に、誰でも本屋で手に取れた書物。当然、以前から知ってますよ。
それを秘密めいてネタにして騒げばよいというのが、日顕宗のいつもの手。

聞きたいですね。天皇とか、御書とか。
御法主上人を拝してと言えば、人間に向かって祈ったことになるのですか。
無理がありすぎます。
いかに日顕宗の主張がいいかげんなものだかわかります。

  • [186]
  • モウさんへ 書き忘れ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)13時39分11秒
  • 返信
 
 私は、一貫して宮城遥拝の事を書いています。勤行の事を話題にした事はありません。

  • [185]
  • モウさんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)13時32分8秒
  • 返信
 
  第四回総会記録
 創価教育学会第四回総会は、昭和十七年五月十七日東京市神田区一橋会館に開催された。出席者約四百名、午前十時宮城遥拝、黙禱の国民儀礼の後、左記順序によつて会議を続けた。(第三文明社刊 牧口常三郎全集 第十巻 宗教論集・書簡集225頁)

  第五回総会記録
 創価教育学会第五回総会は、昭和十七年十一月二十二日東京市神田区一ツ橋教育会館に於て開催された。出席会員は約六百名、午前十時宮城遥拝、黙禱の国民儀礼の後、稲葉理事による学会綱領の高唱があり、ついで左記順序によつて議事を進めた。(第三文明社刊 牧口常三郎全集 第十巻 宗教論集・書簡集226頁)

 牧口常三郎氏は伊勢神宮の神体と同じ天照大御神を祀る賢所のある宮城を遥拝しています。

 又、私は、日恭が亡くなったのか仏罰によるものならば、牧口常三郎氏が獄中で亡くなったのは、悪鬼が乱入した賢所を遥拝した仏罰によるものと考えると書きました。
 何故かといえば、牧口常三郎氏が悪鬼乱入した神社を拝むのは謗法だと言っていること、更に、悪鬼乱入した神社を拝むのは謗法だと知りながら其々の総会に於いて約四百名、約六百名の創価教育学会員に謗法を犯させるのは、更なる謗法だと考えたからです。

  • [184]
  • 愚人さんへ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)12時17分12秒
  • 返信
 
>>182

愚人さんは、獄中で死ぬと謗法というのが自分の考えだと主張。
この「日顕宗の受け売り」の根拠を全く示せず、無責任。
→ 適当に言って答えられず

愚人さんは、神仏を拝む謗法と、勤行で諸天を拝する区別がつかず。

→ 違いを認識できずに、同一視。

==============================

全く一貫していませんね。主張が無責任で逃げ回っているように
思えます。牧口先生が謗法だと言ってるのは、神仏を対象にした
参拝ですね。毎朝の勤行で、“拝する”のは、違う意味だと私は説明
しました。拝すと言葉を使っても、祈願したりはしませんね。

日蓮正宗でも、学会でも、そこの事項で問題にしたことは、ありま
せん。近年の日顕宗がそれを謗法だというなら、勤行のときには、
みんな謗法というおかしなことになっていまいます。

勤行で拝するのが謗法だというのなら、それを示してください。
それもできずに、難癖を言うだけの能力を見せてくれます。

件の文章も学会が長年、示してきたものです。
整合性が取れていないのは、想像で頭の中だけの話です。

  • [183]
  • Re: 反省します

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)11時53分49秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>179

納得はされていないでしょうから、さらに説明します。

私は言葉づかいを問題にしたつもりはありません。
学会は和合僧団です。どれほどの人の思いがあって、今そうなっているのか、
それを軽視する思いがどこか根底にあるのではないかと危惧いたします。

> 御本尊を書写するには、信心の最高峰の素晴らしい方が書写されるのが
> 理想と考えます。
> 過去の法主の書写した御本尊がOKならば、それ以上の信心の実証を示さ
> れた池田先生が本来、書写されるのが自然だと思ったのです。

あなたの理想は分かりました。きっとどこかで歴代会長をなめてかかって
いるのだと思います。それが理想ならば、なぜ牧口先生は、当時の僧侶が
信心もないと思ったのに、宗門の僧侶の資格をとってでも、その立場になり
ご自分で書写されなかったのでしょうか。牧口先生はこの道を選ばれたのです。

池田先生が今も書かれないのはなぜなのでしょうか?下の文章を読むと、
きっと世間から非難されるから、時代が下れば出せば良い的な感じですか。
これは池田先生をそんな勇気のない人物だと理解されているのですよ?

御本人がそうされないのですから、それが全てです。
必要であればそうされますし、公開されます。

学会は、普通の人が偉いのだと、そういう思想で成り立っています。
日蓮正宗では、本尊書写は仏の側の行いではなく、修行の一つでしたが、
ともすれば人知を超えた能力に基づくと誤解もされてきました。
大昔は、ご本尊は誰かがきちんと書写しなければならなかったのですが、
時代とともに印刷のありかたが認められるようになると、特別な人を
選ぶ必要がなくなりました。

この時代以降に、先生が書写をされてしまうと、普通の庶民、普通の人
という大切な立場を失ってしまいかねません。それでは学会が延々と
築いてきた、世間に示そうとしてきた一番大切なものを失ってしまいます。

あなたの言う理想よりも、大きな理想を失ってしまいます。

どうか先生の偉大さを御本尊書写の担当者に貶めないでください。

  • [182]
  • モウさんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)11時42分53秒
  • 返信
 
 牧口常三郎氏の言葉

 伊勢の皇太神宮に対しましても、同様の意味で天照皇太神は天へ上つて後は空虚で悪鬼が入り代つて居るから、そんな処へ参拝する必要なしと云ふのであります。
 之は本尊に帰依しながら他の神仏を拝む事は謗法になりますので、宗門では謗法を強く戒しめて居りますから、左様な理窟をつけたのであると思ひます。(第三文明社刊 牧口常三郎全集 第十巻 宗教論・書簡集206頁)

 

  • [181]
  • モウさんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)11時20分57秒
  • 返信
 
 宮城(皇居)には宮中三殿といって伊勢神宮の神体と同じ天照大御神を祀る賢所があります。其処に向かって遥拝をする即ち拝む事は、悪鬼に拝む事であり牧口常三郎氏自身が言っているように其れは謗法なのでは?と一貫して同じ事を書いているのですが?。

  • [180]
  • Re: モウさんへ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)11時12分59秒
  • 返信
 
>>178

もう誤魔化しモードですか。まずは自分の主張をきちんとしてください


伊勢神宮と言うとき、厳密に建物を指すとしようとするのはなぜですか。
当時の時代背景では、伊勢神宮は日常語でしたから、広い意味に使うでしょう。
あえて神殿を拝んでいたとするのが、わざとらしい曲解です。

謗法とされてきたことは、一度もありません。
あなたの誤解の大きなことは、遥拝云々の事実を、誰が示したものか知ってい
ないことですね。誰かが昔のことを調べて分かったこととか思ってる。
違います。

全部、創価学会のみに、記録してあるものを、公開してきたものです。
ずーーーーーと以前からですね。書籍にして何度も販売してきています。
最近になって日顕宗が、それを見て勝手に後付けて騒いでるだけですね。
そもそも創価学会が教義に反すると思えば、わざわざ自分で成書にしてまで
出さないですから。おわかりですか。ずっと以前から公開してきているものを
批判がなかったことで教義理解が歪められたものだと理解してください。

神社関係はどこまでを良しとして、どこまでを非とするのか、これは
もともと御書でも幅広い理解の仕方があるので、非か是かは当時の時代の
認識に任すところが大きいですね。

当時の共通認識でルール違反だとするなら、根拠となるものを示してください
できなければ妄想でしかありません。

そして、獄中で死ぬと謗法というのが愚人さんの考えだと主張されましたけど、
説明できないご様子。やはり日顕宗の受け売りではないですか。

なぜ謗法の末に変な死に方をした人と、正義で戦った(←その事実の末に)亡
くなった人が同一と思えるのですか。死に挑んで戦ったことに目もくれず、
の何かささいなミスはないかと探して当て外れの難癖で謗法で死んだと考える
ことが、全て変です。


  • [179]
  • 反省します

  • 投稿者:矢吹
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)10時46分2秒
  • 返信
 
モウ様のお叱り当然であります。
まず、現在の御本尊を「創価学会の御本尊」ではないとは
全く考えておりません。
誠に言葉知らずの無礼な質問を、どうかお許し下さい。

何故、そのように思ったかをお話します。
現在の日寛上人の御本尊を私は大好きです。
実際にこの御本尊に祈り、沢山の功徳をいただいてまいりました。
この御本尊に何か不満があっての話しではないのです。

御本尊を書写するには、信心の最高峰の素晴らしい方が書写されるのが理想と考えます。
過去の法主の書写した御本尊がOKならば、それ以上の信心の実証を示された池田先生が本来、書写されるのが自然だと思ったのです。

ただこのような妄想は誰に聞ける事もなく悶々としていところで、モウ様の講義を読ませていただき、この方ならば何か教えててくださるのではと、考えた次第であります。
正直に言えば何故そのような事を願うのか、自分でも良く分かっていないのです。

一末端会員様が言われていた
亡くなった母も生前に「大きな声では言えないけど、私の念願は先生が認められた御本尊様にお題目を唱えたい」と言っておりました。
との想いに近いのかも知れません。

私の変な問いかけで一末端会員様にまで、ご迷惑をかけたかも知れません。
モウ様には、重ねてお詫びいたします。
今後のご活躍をお祈りしております。




  • [178]
  • モウさんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)10時27分0秒
  • 返信
 
 ご返答有り難う御座います。
 私の理解不足かも知れませんが、法味を捧げる為ならば、天照大御神を祀る賢所や国神を祀る神殿を拝んでも構わないのでしょうか?。そもそも牧口常三郎氏は、其処は悪鬼乱入の処としていたのではないでしょうかうか?。創価教育学会当時に於いても悪鬼乱入の処を拝むのは謗法としていましたよね。
 私の認識不足・理解不足の処の指摘をお願いします。

  • [177]
  • 愚人さんへ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)10時11分53秒
  • 返信
 
>>176

お来しいただきありがとうございます。
文句の一つも言ってくれる人がいないと、私も寂しいものなので。

でもおっしゃることの一つ一つが、なにか拙速な感がしてなりません。
なにをそう決めつけて、いちずに貶めようとされるのですか?

>  宮中三殿を遥拝していたのは事実ですよね?。

三殿を遥拝していたとは?そういう言い方はしないでしょうね。
何か勘違いをされているのか、わざと穿った表現で言われているのか。

牧口先生の行動(勤行)は、当時の誰もがそうすべきだとのきちんと
教義に基づいた普通の行動です。当時のみんなの認識をよく考えましょう。
天照や八幡がよくて伊勢はダメだとか言えば、かえって混乱するし、誰
の理解も得られないでしょう。何を言ってるの?と。

諸天を本尊として拝するのではなく、こちらが行者側で諸天を拝して
法味をささげるのは、当時から現代までずっと認められていたことです。
そこをお分かりですか?あなたはお分かりでなくても、過去から日蓮正宗
でも学会でもずっーーーとそれを非難する人はいませんし。

つまり、あなたがルール違反だと勘違いしてるのは、実はルール違反では
ないということですね。①



> 日恭が亡くなったのを仏罰とするならば牧口常三郎氏が獄中で亡く
> なったのも仏罰によるものとかんがえたのです。

これがあなたが考えたのですか?そうではないでしょう。嘘つきですね。
日顕宗でさかんにこういう稚拙な宣伝をしていますよ。
獄中で亡くなったから仏罰というのが稚拙です。流罪された法華経の行者
は いくらでもいますから話がそもそも変でしょう。
家にずっといて安泰なのが、法華経の行者だなんて。
大聖人の法難もすべて仏罰ですか?
つまり、言ってることが、ことごとくおかしいのですよ。

これが、あなた自身の考え方だと言うならば、獄中で亡くなると仏罰だと
しなけれ ばならないという根拠を示してみてください。②

日恭が仏罰であったのは、これも当時からの共通認識で、日蓮正宗の当時の
機関紙にさえそう書いてありますよ。つまり時節がら仕方がなかったが、
我々(僧侶)は反省しなければならないって。
そりゃあね、正しく主張して権力者に憎まれて首でも切られたのなら、人々
に訴えるものもありますけど、突然の火事で、太りすぎで階下に降りられない
状況下、床が抜けて、釜口に頭から落ちてはまり、上半身丸子げ、下半身は
生焼けのぷよぷよ状態、こういうのを横死といいます。
それを見て普通の人に、ええと、どう思えと思われるのですか?

このみじめな死と、正義を主張して死に挑まれた人と同じに見えるというのが
日顕宗の法華講員の宗教観です。まじめに語ってるとは思えませんね。

  • [176]
  • モウさんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)09時06分41秒
  • 返信
 
 宮中三殿を遥拝していたのは事実ですよね?。因みに私は其れが謗法であっても、違っても構いません。別に日蓮の教説に違反しても仏罰など無いと思っていますので。
 ただ、日恭が亡くなったのを仏罰とするならば牧口常三郎氏が獄中で亡くなったのも仏罰によるものとかんがえたのです。


  • [175]
  • はあい

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)08時43分28秒
  • 返信
 
>>173

いらっしゃいませ。
愚人さんを読書人さんと勘違いする向きがありますが、完全に別の方です。
愚人さんは否定も肯定もされていないので私が言い添えさせていただきます。

愚人さんは信仰をされていないと言われていますが、思想的には日顕宗を
ずっとラフにして崩したようなものですが、実は内容の理解は稚拙です。
比較するのもどうかと思いますが、読書人さんとは、天と地の差かと。

件の牧口先生のことなど、まず牧口先生の御事績など何も知らずに語って
おられるので、そういう日顕宗の切り文に踊らされるのでしょう。

当時、学会員は、毎朝の勤行で、諸天供養をしていますから。
勤行の形式のなかに、法華経の信仰を土台にした“遥拝”というべき形式は
当然、ありますよ。 そんなこと、勤行してたら分かりそうなものなのに。
何も考えていないから法華講員は、思いつきばかりを口にしているだけです。

そのうえで、牧口先生は、天皇二元論を展開されており、それさえも「便宜
上」のものだと明言されていますね。当時の時代背景を何も知らずに語るのも
全く、自分にも、誰にとっても無益だと知ってください。

  • [174]
  • お二人さん、

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)08時22分8秒
  • 返信
 
>>171
>>172

>>> 創価学会の御本尊というもの

まっとうな学会員は、現在の御本尊を「創価学会の御本尊」ではないとは考えません。

一言で終わってしましますね。(笑)

まず質問の態を呈していません。前提も何も無く、なぜか結論だけをぶつけてきて
思い付きなんぞを当然のように、私に説明せよと来られる。(一体何をですか?笑)

まじめにこちらが一から論じるほどでもない。
まず、自分の思い付きくらい自己責任で発言すべきでしょう。

  • [173]
  • 移動しました

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)08時00分32秒
  • 返信
 
日恭と牧口常三郎は同業?  投稿者:愚人  投稿日:2016年 2月13日(土)03時04分52秒   通報 返信・引用 編集済
 遥拝とは「神仏を遠くから拝む事」であり、宮城(皇居)には、宮内庁ホームページによると

 皇居内(宮城)には、賢所・皇霊殿・神殿の宮中三殿があり、

賢所には、

 皇祖天照大御神がまつられ

皇霊殿には、

 歴代天皇・皇族の御霊がまつられており、

神殿には、

 国中の神々がまつられ

ています。

 つまり牧口常三郎氏(並びに創価教育学会員)は天照大御神を拝んでいたのであり、即ち伊勢神宮(神札)を拝んでいたのと同じ事であります。また合せて国神全てを拝んでいたのです。
 宮中三殿は創価学会・日蓮正宗の教説によれば悪鬼の棲みかであります。若し日恭が亡くなった事が仏罰とするならば牧口常三郎氏が獄中で衰弱して亡くなったのも仏罰によるものと私は考えてしまいます。          

  • [172]
  • 矢吹様

  • 投稿者:一末端会員
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)03時30分53秒
  • 返信
 
はじめまして!
矢吹様
横から失礼いたします。

> 創価学会の御本尊というものがあっても良いのではないかと考えています。
> 例えばですが、池田先生が書写された御本尊(あったと仮定して)などがあれば、一番良いのではないかと、妄想しております。

私も全く同感です!!!
今は、まだ時期尚早で無理かな?と思ったりしてますが・・・
でも、後世のために先生が御健在なうちに是非ともお認め頂きたいと私個人としては強く念願しております。
亡くなった母も生前に「大きな声では言えないけど、私の念願は先生が認められた御本尊様にお題目を唱えたい」と言っておりました。
当時(宗門事件当時)の学会は獄卒(宗門)に繋がれている状況で『御本尊について云々するのは一切御法度』という時代でしたから・・・
本当にいい時代になったと沁々と思う昨今です。
こんな時代を作って頂いた先生に日々ただただ感謝の思いで一杯です。
もし、それが実現したなら、誰よりも婦人部の皆さんが大喜びすると思います。
そうなれば、日本中、いや世界中、お題目の渦が巻き起こって、一気に広布が進むでしょう。
実は毎日、密かにそうなるように必死に祈ってるんですよ。



  • [171]
  • モウ様

  • 投稿者:透明
  • 投稿日:2016年 2月12日(金)16時01分53秒
  • 返信
 
>蒙古襲来の予想もそれらの情報網に支えられていたわけで、文永5年に元から脅しの国書
が送られてきたときには、大聖人はその国家機密を文面まで正確に把握しておられている。
いくら悟りがあったって、見もしない文面を丸々書くことなんてできるわけないだろう。


幕府内に安達奉盛、大学三郎など日蓮シンパがおり、事実、書状に援護してくれた事のお礼文があります。
松が谷草庵焼き討ちなども、白い猿に手を引かれ逃げた、と伝説がありますが、実際は山王社などの
法華経信奉の神社の下級神官や、神社を寝ぐらにする人々の助けでは?とも言われています。

雨乞いは空海も有名ですが、やはり山伏などのルートを情報源に使って降雨を調べていたのでしょうか?

  • [170]
  • モウ様

  • 投稿者:矢吹
  • 投稿日:2016年 2月12日(金)06時43分19秒
  • 返信
 
初めまして、矢吹と申します。学会員です。
御書をこの様に、理路整然と解釈される素晴らしい講義、いたく感動しました。
「教学部レポートの正体」の海様といいこの掲示板には凄い論客がいるのですね。
私も勉強させていただきます。

そこでモウ様に教えていただきたい事があります。
日顕宗の戒壇本尊とは決別する。ここは納得しているのです。
かの宿坊氏も過去は戒壇本尊を偽物と否定していたと聞きました。

創価学会の御本尊というものがあっても良いのではないかと考えています。
例えばですが、池田先生が書写された御本尊(あったと仮定して)などがあれば、一番良いのではないかと、妄想しております。
この考えは謗法なのか、正しいのか判りません。
ここはモウ様のご意見を是非お聞きしたいと思いました。
もし可能であれば、御書を通して教えていただければ、ありがたいのです。
お時間のある時で結構です。どうか宜しくお願い申し上げます。


  • [169]
  • モウさんのお話しは

  • 投稿者:坊袷縣経
  • 投稿日:2016年 2月11日(木)21時30分37秒
  • 返信
 
とても面白いですね。
よく勉強されている。
とても頭の良いお方だ。

  • [168]
  • 報恩抄と祈雨のこと ③

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 9日(火)22時19分30秒
  • 編集済
  • 返信
 
.

以下、勝負の内容に踏み込んでみよう。

大聖人はどこにも、この後、雨を降らしたとは書かれてはいない。良寛が嘘つきだとさえ
分かればそれでよかったのだ。だからどちらかだと断定する意味はあまりない。

ただ記述してなくても降雨があった可能性はあるだろう。いつかは雨が降るにしても、大
聖人が祈るとすぐに雨が降ったのかもしれない。ではなぜ書かなかったのか。

大聖人は、蒙古襲来をあれほど声高に言われたのに、予言が的中した後は自賛を禁じたお
人柄の人だったのを思い出してほしい。頼基陳状にしろ下山御消息にしろ、受け取った人
は、御手紙を携えた人に、「こんなことを言うけど、大聖人の番にはどうだったのか。」
と必ず聞くだろうから。謙遜して文章にされないほうが、あるいは陳状書の効果は増すと
いうものだ。

またやがては降ったであろう雨を自分の祈りとは無関係に見られた可能性も十分にある。
17日間も降らなかったとさらりと言われているのがそれを指すのかもしれない。
何度も言うが、祈雨の勝負は、雨を降らす力くらべという趣旨ではなく、良寛が、普段か
ら、自分の祈りによってありがたい雨が降るのだと法外の能力を吹聴していたからなのだ。
大聖人が雨を降らせたいと申し出たのではなく、悪侶が仏法を行じて霊験あらたかな祈り
で雨を降らすことができるというのに対して、それは嘘なので勝負してやろうと言い出し
たものだからだ。
この大切な背景を見失わずにいると、多くの霧が晴れるのではないか。
なぜ、大聖人の番になって降らせたという記述がどの御書にも無いのか。
なぜ、人々が困窮しているのに、大聖人は「雨は降らないぞ」との立場を貫いたのか。
なぜ、手紙を読んだ人々は、その大聖人の姿勢に何の顰蹙も不審さも抱かないのか。
そもそも、それほどの些事で降雨を左右できるのなら、旱魃の最初に降らせてほしい。


つまり大聖人が雨を降らせないように支えたというのは良寛側の恨みごと、またはそれに
便乗した大聖人の皮肉であって、大聖人が降らせないというよりは、この頃には、雨が全
く降らない日が続くのだと、そう世の中の人は思っていたことが前提だったのだ。

だからこそ、祈雨を祈る良寛に、大聖人は正しい仏法ではないから降らせられないよと宣
言されたということになる。ではなぜ人びとはそう思ったのか。

世の中の人が降雨がない状態が続くのが普通だと思ったことは、祈雨に至る経緯による。
文永八年六月十八日、この年は春から初夏までずっと晴天が続いたと言われている。
およそ数か月も雨らしい日が無かったのだ。

この文永八年六月十八日を西暦に換算すると、
http://can-chan.com/koyomi/qreki-seireki.html(旧暦-西暦の相互変換)のサイトで
計算すると、1271年8月2日になる。こちらは御書のとおり「辛未」の年となる。

http://koyomi8.com/9reki/9rekicgi.htm(新暦・旧暦変換計算)のサイトで計算すると、
1271年7月26日となる。ただし、「庚戌」になるので、御書には合わない。

関東地方の平均の梅雨入りは6月8日で、梅雨明けは7月20日、その間は43日間。
つまり近代と天候が変わっていないものとして、大量の雨が期待できるはずの季節に梅雨
がまだ来ていなかったのだ。現在なら、から梅雨と呼ばれる現象だと知られている。

例年どおりに来るべき梅雨がまだ来ない。だから祈雨なのだろうけど、良寛側は遅れても
梅雨がくるのではないかと期待したのだと私は思う。人を殺害することに躊躇もしない人、
さまざまに卓腕の事業家の良寛が、何の憶測も無く祈雨をするとは私には考えにくい。

きっと、「遅れてくることはよくあるだろう。夏が来る前に一雨が来るに違いない」と。
そう期待するほうが自然だろう。「いやいや、これは来ないよ、きっともう」と思うのが
百姓たち、だいたいは分かっていた。

ではなぜ、大聖人は一宗をかけて、降らないと断言出来たのか。結局、17日間も降らな
かったにしても、大聖人は最初の約束で確かに7日間だと日を切ったのだ。

最大の理由は何か。良寛とは、決して、法を述べ合う勝負の関係ではなかった。大聖人の
門下が次々と弾圧されて殺されていったことを私たちは忘れはならないと思う。 大聖人
御自身もこの後、良寛の讒言で断首されようとするのだが、御書の表現によると、良寛ら
の策謀によって殺された門下は数百人に及んだとある。それを止めたくても相手は正面に
立たない。だから何としてでも、本当に切実な思いで根を断ちたかったのではないか。
きっと今回のことは千載一遇の機会に見えたことだろう。
だから、ことのついでとの表現だし、この前にも後にも祈雨の勝負はされていないのだ。

正確な天気予報は近代のものだから、当時の人は何も知らなかったと考えるのは傲慢だ。
大聖人は「海人が子」と、海側の生まれ育ちで、当時の大きな寺院に入れるほどの周囲に
人脈があったのだ。当時の日本は、日本海側を中心に海路が目まぐるしく発達した時代だ。
漁師が小舟で魚を取るイメージでははなく、精塩事業から、遠国までの商品の流通等、
大聖人の生家がどうであれ、大聖人は深淵な知識と合わせて、広範な情報網を持っていた
ことは、歴史を検証すれば間違いのない所なのだ。

蒙古襲来の予想もそれらの情報網に支えられていたわけで、文永5年に元から脅しの国書
が送られてきたときには、大聖人はその国家機密を文面まで正確に把握しておられている。
いくら悟りがあったって、見もしない文面を丸々書くことなんてできるわけないだろう。

当時の海からもたらされる情報を大聖人が把握していたことは想像に難くない。自分たち
の地域から高名な僧侶が出てるのに、その地域の庶民が協力しないわけがないだろうし、
それほど人望がないはずはないだろう。それとも海民が雲も知らないとか思えるのか。

余談だが、大聖人は当時の民衆を相手にせずに武家ばかりを相手にしていたという学者た
ちがいる。彼らの決定的な論拠は、熱原の百姓を愚かだと表現しているからだと言う。
近年の学者は御書もみずにネット検索で物を言うようだが、煩瑣になるので省略する。
大聖人の門下には実に大勢の人たちがいて、先の弾圧された人々もそうだが、文献に登場
する人々は、ごくわずかであるのを知ってほしい。

当時の北条氏は沖縄のすぐ近くから蝦夷までを直接の統治に組み入れて、交通量はすごか
ったと推測されているが、実はよくわかっていない。少なくても言えることは、当時の海
民の実態や、航行技術や、天候を予測する技術がどのようなものであったかは、失われて
しまって分からないのだ。だからと言って、何も知らなかったと考えるほうがおかしい。

そもそも国の知識層は、民衆の技術を見逃しがちなのだ。コペルニクスやガリレオが地球
が丸いと発見したとか、教会と争そう以前、ずっと昔から漁師の間では知られていた。
水平線の向こうに消える船を見れば下側から隠れていくのだ。しかもそれは高い所から
見るほど角度の差異が激しい。船乗りをやっていれば地球は丸いというのは実感するこ
とだが、知識人に言うと、それを頑として馬鹿にして否定して聞かなかっただけなのだ。

通常の雨と異なり、梅雨は中国側から来るのではなく、南から北にと梅雨前線が北上して
くるのだ。日本の海域を北に南に航行する人たちが、梅雨がどのように移動してくるかも
知らないと考えるほうが、よほどおかしいではないか。

九州地域の前線が関東地域に来るのがちょうど7日間だ。だから大聖人は七日と言われた
のだと私は予想する。九州から手前が降っていないのに、前線がこちらに来るものかと。
しかしまた、それに限らず、大聖人は当時の天候の知識を普通の庶民から、あるいは書物
から得られていたのだと思う。きっと決定的な予測から確信されて、勝負に臨まれたのだ。


そして御書にこうある。雨が降ることは、天台大師の言葉が頻繁に引用されている。

「天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り花の盛なるを見て池の深きことを知る」
等云云、妙楽云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、天晴れぬれば地明かな
り法華を識る者は世法を得可きか。」(P254)

(意訳:雨が盛んなことから、竜の大小を知ることができる。このように法華経を知る人
は世間の法をよく知っているものだ。)


「雨は竜の大小により」(P809)
(意訳:雨の大きさは、竜が大きいか小さいかによる。)

これらは譬えを借りて大聖人の御事績を言われているのだ。御書の譬えられる話の多くに
は、知識を授けるためだけでなく、大聖人の思い入れがあるものと私は考える。
そして次の御書には、雨を表す竜を知る蛇について、こうある。

「蛇は七日が内の大雨をしり烏は年中の吉凶をしる此れ則ち大竜の所従又久学のゆへか
日蓮は凡夫なり、此の事をしるべからずといえども汝等にほぼこれをさとさん」(P284)

(意訳:蛇は七日後までの大雨を知る。それは蛇が大竜の所従だからか、それとも蛇が
長年に勉強してきたからであろうか。)


ここだ。蛇が竜の家来だから雨を知るというのは分かる。でも蛇は勉強なんかしない。
それを長年、勉強したから七日までに雨があるかどうかを知ることができるのだと。
これは蛇と言いながら、大聖人の思いを含んでいるのではないだろうか。


このように知略の勇気の勝負で良寛に勝ったのだ。だから仏法上の法義ではないのだよ
と、ことごとくに言われているのだ。実際に大聖人が他人が祈るタイミングで雨を降ら
さないように仕向けることができないのは、この次の出来事ではっきりする。



つまり話はこれで終わらないのだ。

昔の人は馬鹿ではないように、敵側の人間も馬鹿ではない。二度目の対面の時に良寛の
祈雨の勝負で丸々、メンツをつぶされた平左衛門尉は、どう思ったのだろうか。
もとより大聖人を殺そうとしたのだから、大聖人を信じてないどいない。悔しく思い、
なぜ、大聖人が予言できたのかと、その思いが心の多くを占めたのではないだろうか。

当然、海の交通を担う北条家が、いつまでも梅雨が北上してくること、天候の動きは、
雨雲と共に来ることに気づかないはずはないだろう。大聖人のように何日も前のことま
では言えなくても、1日前くらいのことなら、海を渡ってくる前の雲の動きを追えば、
ある程度は言えるだろう。敵もさるもので、一国の長が、必ず、やられっぱなしで黙す
ということではないはずだ。

雨が降る日を予想することは出来なくても、雨が降るだろう1日前に祈雨の依頼を仕立
てることはできる。そう、祈雨を始めたら1日目に降ったから不思議なのではなくて、
1日目ぐらいだからこそ当たりを仕立てあげられたのではないか。

大聖人にとっては、弟子たちを救うために、たった一度、相手の祈雨のメンツをつぶす
ことで大成功だったわけだが、二度目の対面で恥をかかされた平左衛門尉はそれでは、
済まない。三度目の対面の後、国家のメンツを取り戻すために、今度は大聖人の聞き知
らぬところで、当時の最も有名な真言師である法印を呼び出し、祈雨を依頼する。

つまり文永十一年、四月十日、先のサイトでみると新暦では、1274年5月24日。
この日に祈雨をして、案の定、翌日に雨が降り出して、これを大宣伝したというわけ。
「大聖人は謗法だから降らないとか言ったけど、祈り始めてすぐに次の日に降ったぞ」
と。

これを、大聖人は後日に聞くわけで、いくら大聖人でも、知らない時にそんなことをさ
れても、どうしろと言うのか。勝負なら自分に話が合ってのことで、知らぬ間に負けた
ことにされたのは理不尽だが、でも鎌倉の人たちは法力だと思ってるから、大聖人は、
ああ言ったけど、ちゃんと雨が降るではないかと、どよめき立った。大聖人の門下でさ
えも「日蓮が弟子等けうさめてこれは御あら義と申せし」(P922)と、弟子たちも興冷め
して、ちょっと無理があったよねと文句を言い始めるのだ。

この時に(もちろん後から御書で冷静に書かれているのだが)、大聖人はどう言われたの
か。種種御振舞御書にこうある。

「かかる僻事を申す人の弟子阿弥陀堂の法印が日蓮にかつならば竜王は法華経のかたき
なり、梵釈四王にせめられなん子細ぞあらんずらん」(P922)

(意訳:このような不正義を話す法印が日蓮に勝つのならば、雨を司る竜王は法華経の敵
となり、梵天や釈尊に責められてしまうことだろう。何か詳しい事情や意味があるに違い
ない。)


と。これが大聖人なのだ。
法義から、つまり信仰から、こうあるべきだとは言われるが、現実がそうでなくても簡単
にあきらめたり、折れたりしない。
現実の姿をまず受け入れて、そこから格闘があるのだ。さらにどのような意味があるのか、
深く、深く、戦っていこうとされる。それは理想を掲げているというより、理想に向かっ
て戦っていく姿そのものに意義があるように思える。
そうして、現実に、理想を実現させていくのが、信仰なのではないだろうか。

大聖人が負けたことになるのなら、雨を降らせた竜が悪いのだと。
何か意味があるのに違いないと。

ところが、これに対して、大聖人の弟子は、嘲笑するのだ。
「子細ぞあらんずらんと申せば、弟子どものいはくいかなる子細のあるべきぞとをこつきし
程に、」(P922)

(何か仔細があるのだと大聖人が確信をこめて言うと、弟子たちは「何の事情があるという
んですか(笑)」と嘲笑した。)


ここも読んで違和感がないだろうか。大聖人の弟子なのだ。弟子を続けているのに、先に大
聖人が確信を込めて言うと、あざけわらったのだ。これでは大聖人が嫌いなのかと。
つまり弟子たちは、先の祈雨の勝負の事情を知っているからこそ、今回の敵側の雨にどうし
ようもない思いになって、興冷めしたあと、何か意味があるのだと考える大聖人に対して、
「何の事情があるんですか。」と、信じようとはしなかったのだ。


結局、この法印の祈雨は、雨が大風に変わって、初夏なのに台風になってしまい、家屋を
飛ばし、死者を出し、多くの人を困らせた。臨まぬ勝負だったのにも関わらず、結局は、
大聖人は勝ってしまう。だからやはり大聖人は、不思議な存在なのだろうか。付け加えて
おくと、このとき、大聖人は、鎌倉の当地の雨だけでなく、周辺の雨の降り方まで言及さ
れている。この日、どこの地域で雨が強かったのかと。なぜそこまで知ろうとされたのか。
降雨の地域情報を入手されていた一例は、御書の中にも厳然とあるのだ。

そして勝負には最後まで勝った。
だが、大聖人がそこで付け加えて言われていることは、こうだ。

「天台のごとく千観なんどのごとく一座なんどこそたうとけれ、」(P922)
(天台らのように、その場で雨をが降らすことが出来てこそ、尊いと言えるのだ。)
そうだと思う。
たまたまでも雨は降るだろうって。その場で当意即妙に降らせることが出来てこそ、初め
て不思議だと言えるだろうねと。実に堅実な見識ではないか。現代人の私が見ても全くそ
う思うことは同じだ。

  • [167]
  • 報恩抄と祈雨のこと ② (再掲)

  • 投稿者:名無しさん
  • 投稿日:2016年 2月 9日(火)22時06分6秒
  • 返信
 
/
★ 大聖人の祈雨の勝負について ★


大聖人の法門を見つめる視点は、前回に述べた。

だが世の中は、なかなかそうは思ってはくれない。だから当時の皆が思うことに沿って、
目に見えた勝負で決さないといけなかったのだ。それが大聖人の祈雨の勝負だ。

法門について書かれた報恩抄には、祈雨のことをこれほど詳しく述べているのに、この
御自身の大勝利した勝負のことは、ほんの微塵すらも出てこない。
このことからも、祈雨の勝負の真意がどのようなものか分かろうというものだ。

実は文永8年の祈雨の勝負の後のほとんどの御書には、その記載はない。そしてあらゆる
御書に、勝負の行く末、大聖人が雨を降らせたことを自ら語る御書は存在していない。
何故、書かれないのか。それは言うなれば、書く必要がないのだ。

大聖人は、よく大切なことを伝えるために、わかりやすい表現を用いられた。いつでも厳
密な法門をそのまま展開されているわけではない。例えば、死後にどのような世界に迎え
られるかを多くのお手紙に書かれて、故人を讃えて、残る人々を安心させているけれど、
仏法の常識では、死後に人が誰かに手をたずさえられて道を歩く世界は無い。

「中有(ちゅう)の人には十二因縁(じゅうにいんねん)具(つぶさ)に之無し
又天上にも具には之無く又無色界にも具には之無し。」(P407)

(意訳:死んだあとに、人がものごとを考えたり、感じたりする世界は無い。)

これをもって、大聖人を嘘つきと思うなら、およそ、ものごとを真面目に考えていない。
これまでも私は何度も述べてきたが、昔の人は馬鹿ではない。お母さんが子供に夜の空に
浮かぶ月を指さして、月の伝説を子供に語っても、月にウサギが住まないことは、子供で
も見れば分かることだが、その共通の表現を受け入れ、共通の話の土台とするのだ。

実際には分からないことを、そうでないと知りつつ、同時にそうであるかのように認識し、
例えで語り、受け取る側もそこから話者の意図をつかむ。つまり真実でないことと真実、
そのどちらの表現も大切だったのだ。



大聖人と良寛との祈雨の勝負は、これと同様の表現がなされている。
報恩抄のような内容、法門を率直に語ったものではない。が、また矛盾するわけでもない。

良寛との「祈雨の勝負」とは、良寛という律宗の僧侶が、旱魃が続くので雨ごいを行おう
としたところ、大聖人が、良寛の祈りでは絶対に降らないと持ちかけたものだ。もし七日
の間に降れば、大聖人は改宗して良寛の弟子にでもなると。一宗をかけた勝負にしようと。
結果、雨は七日たっても降らず、延長した次の七日も降らずに良寛は完璧に敗れた。
面目をつぶされた良寛は頭を下げるどころか、大聖人をなきものにしようと画策する。

良寛がどんな人だったのかは、「良観忍性との祈雨対決」(日蓮宗 妙覚寺 高橋俊隆)
に詳しい。 http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index146.htm

重要な視点は、彼は、虫も殺さないという戒律をもつ徳の高い僧侶として有名なのだけど、
他人の命は平気で奪おうと画策した人間だ。高僧などといえど、その正体は知れている。



良寛との祈雨の勝負は、「頼基陳状」(P1153)と、「下山御書」(P343)に詳しい。
これらの御書は、どちらも明らかに対外的な意図があって書かれている。どちらの御書も
仏法を誤解した主君から門下が追い出されそうな危急の時に、彼らの主君に向けて、大
聖人が自ら草案を代筆されたものだ。だからどちらの文章も信徒の視点で書かれている。

危機に瀕しており、少しの表現のゆるみも、誤解を広げて最悪の事態を招きかねない。
何しろ送り先は、大聖人を誤解しているのだから、法門の詳細な見解どころではない。
難しい視点は避け、あなたの信じる良寛は、こんな奴ですよ、と示せればよいのだ。

頼基陳状では、大聖人は、四条金吾の立ち場として、祈雨の勝負をこう語らせている。

「此体は小事なれども 此の次でに日蓮が法験を万人に知らせばやと仰せありて」(P1157)
(意訳:祈雨なんて小さなことだが、ことのついでに、日蓮の正しさを知らせようと)

仏法の本当の法門から見れば、取るに足りない小さなことなのだと。
そんなことすら出来ない良寛をやみくもにありがたがるのはやめたほうがよいのだと。
日蓮の法験を知らしむとの表現は、良寛と同じ立場を示したもので、本書の意図からすれ
ば当然のことで、ここでもし客観的な陳述になれば、読むほうは、わけがわからない。
対等な勝負なのだからこれでいいのだ。合わせて、取るに足りないこととの表現が、行き
過ぎにきちんと歯止めをかけている。仏法の本来の意義と離れ、ついでのことだとの表現
してみせることで、含みを持たせていることに留意したい。
繰り返すが、大聖人は、この勝負を「ことのついで」だと述べておられるのだ。

頼基陳状には、良寛との祈雨の勝負が詳しく書かれている。内容はここでは省略したい。
頼基陳状で祈雨を述べた趣旨は、このように結論されているのだ。

「約束のままに日蓮が弟子ともなりたらば道心の少にてもあるべきにさはなくして無尽の
讒言を構えて殺罪に申し行はむとせしは貴き僧かと日蓮聖人かたり給いき又頼基も見聞き
候き」(P1158)

(意訳:約束通りに日蓮の弟子になると言うならまだ良いが、幕府に働きかけて讒言して
日蓮を殺すように依頼している。これがはたして尊い僧なのかと大聖人が語っている。)


これがはたして尊い僧なのかと。これが、この祈雨の勝負を書いた意味なのだ。
あと、途中で下の御書のような表現もあるが、これも本抄の意図からは特別でもない。

「後生をそろしくをぼし給はば約束のままにいそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道を
しへ奉らむ七日の内に雨こそふらし給はざらめ、」(P1158)

(意訳:良寛は勝負にまけたのだから謝りに来るべきだ。雨を降らす法も、仏になる道も
教えてやろうと言ったのだ。)


雨を降らせる方法を大聖人が教えてあげると言う。ここも雨を降らせると豪語した良寛に
勝負を挑んで勝ったのだから、これぐらいの言葉の勢いがあってもよい。実際に大聖人が
降らせられるのかという問題とは無関係なのだ。なぜなら、もしそこにこだわって、これ
を単なる勝負と見るなら、後で述べるように大いなる矛盾と大変な誤解を生んでしまう。



次に。

またもう一つの御書、下山御消息にも祈雨の勝負が詳しく述べられているが、これまでの
内容と同じなので大筋は省略したい。結局は、これらの御書を与えられた人、つまり四条
金吾は危機的な立場を乗り越え、因幡房は下山氏が大聖人に起伏に至るのだから、十分に
勝負の記述は門下の危機を救い、功を呈したのだ。

下山御消息で一つだけ記すなら、なぜ祈雨の勝負をしたかの理由が記された最初の所。

「現証に付て事を切らんと思う処に、彼常に雨を心に任せて下す由披露あり、古へも又雨
を以て得失をあらはす例これ多し」(P349)

(意訳:現実の証拠で彼の悪を暴こうと考えたところ、彼が常に雨を自由に降らすことが
できると吹聴していることに目をつけた。古の時代も雨で徳を示したではないか。)


良寛が、常に「出来るんだ」と吹聴しているから、人々に得失を促すためにやったのだ。
決して大聖人の仏法そのものを掘り下げることまでが本意ではない。

ここが分からないと随分と変な話になることに自然と気がついてほしい。例えばこうか。
「やはり大聖人が悟られてるから示せる法力なのではないか。良寛に雨を降らせる道を
教えてやろうとまで言われてるんだからな。なんといっても、大聖人が雨を降らないと確
信を持って言われたのは不思議なことだろう。」とか。

たしかにそうは言われてるのだが、次の「種種御振舞御書」にも祈雨の勝負のことが少し
記されてるので、読んで、冷静になって状況を考えてほしい。
この種種御振舞御書は、本当は誰に宛てたかは確定されてないが、それは重要ではない。
平左衛門尉と対面したときに大聖人が語ったシーンを回想しているので、語った相手は、
まるでこっちを向いてない、法門なんかあさっての方を向いてる平左衛門尉なのだから。

その人に良寛が祈雨の勝負でいかに敗れたかを再確認して語ったという。

「せんずるところは六月十八日より七月四日まで良観が雨のいのりして日蓮に支へられて
ふらしかねあせをながしなんだのみ下して雨ふらざりし上逆風ひまなくてありし事」(P912)

(意訳:良寛が祈っても、日蓮が晴天を支えたので雨を降らすことができず、良寛は汗を
流して祈り、涙を呑んで悔しがったが、ついに雨は降らなかった。)

(注:涙は悔しくて流したらとしたのは、頼基陳状の「使者ありのままに申す処に良観房
は涙を流す弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる」(P1158)の表現を参考にした。)

日蓮が晴天を支えたのだとある。これは良寛房が悔しがってそう憎まれ口をたたいたのを
省略して書かれたのかもしれないが、どちらにしても大聖人も弁解もせずにこういう表現
を採用されているのだ。これまでの頼基陳状や下山御消息の文面を見ても、大聖人が雨を
降らせない側なのだ。そうすると周囲に示されたこの“日蓮の法の験”とは何なのか。

当然、日蓮の法力というからには、この後、大聖人が雨を降らさなければ、お話としては
おかしくなってしまう。だが、それは御書にもどこにも一切、記されてはいない。
また仮に降らせられたのだとしても、約束の七日が終わって、その後の次の七日も雨は降
ってはいないのだ。上の三つの御書には、次の七日目も良寛が降らせなかったとあるので、
良寛が悔しさに期間を延長したように考えがちだが、意外にも勝負は七日で終わっている
ことは、頼基陳状、下山御消息の両御書をよく読めば明記されているのだ。

「此に両火房祈雨あり去る文永八年六月十八日より二十四日なり」(P349)
(意訳:良寛が祈ったのは、6月18日から24日までの7日間。)

「すみやかに其のいのりやめ給へと第七日の申の時使者ありのままに申す処に良観房は涙
を流す弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる」(P1158)

(意訳:約束の七日目に終結宣言をした。良寛らは涙を流して悔しがった。)

この最初の七日の後に大聖人が延長を認めたなどと読める記述はない。また大聖人がそれ
を認める必要もない。良寛が祈るのをやめたはずなのに、それでも風が強くなり、次の七
日間も降らなかったではないか、良寛のせいだと惨状を追記しているに過ぎない。最初の
七日目できちんと大聖人は、こう勝負を終結宣言されているのだ。

「七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三
丈の堀を越えてんや」(P1158)

(意訳:七日で降らせなかった。これを以て、成仏などもっての他だと知りなさい。)

しかし一方では、種種御振舞御書には、良寛の祈りが17日間続いたとも書かれている。

「せんずるところは六月十八日より七月四日まで良観が雨のいのりして」(P912)
(意訳:結局は、6月18日より7月4日までの17日間も良寛が祈ったのに)

14日間ではなく、具体的に17日間とあるから18日目に雨が降ったのかしれないが、
知る由はない。要するに17日間も降らなかったのは、全部、良寛のせいだということが
言われたかったのだろう。良寛にはそんな力しかないのだと。もちろん、種種御振舞御書
の記述は、勝負の内容を省略しているので鵜呑みには出来ないが、良寛が次の七日までた
とえ一方的にでも祈りを続けた可能性も否めない。詳細な事情はさまざまに考えられるが
どちらにしても大聖人は14日間以上も、大旱魃で降らせない側に立っていたのだ。
これを勝負だと言われたら、人々の思いはどうだったのだろう。



ここまで読むと、大聖人がもし自由に雨を降らせる力があるなら、なぜ大旱魃に際して、
最初から雨の祈りをしなかったのかと人々は思わないだろうか。何もしなかったくせに、
祈りをするという人が現れると、おまえでは叶わないと言う。それはその人の持つ法が誤
りだからというならまだ分かるが、上述のように、日蓮が支えてるから天が降らせないの
だとまでなれば、周囲の人々はただの誤解では済まない。
法の正邪を決するどころではな
い話になってしまうのだ。大聖人は良寛より力の強い呪詛の人という印象になってしまう。
それでは悪の側に立っているかのごとく人びとの目には写ることだろう。

だから種種御振舞御書で、平左衛門尉に経緯を語ったときに、その部下たちが罵声を浴び
せたのは自然と想像できる。「良寛上人が一生懸命に祈雨を祈ってるというのに、貴殿は
何をされてるというのだ。雨を降らさない側に立つなんてとんでもない!」と。

だから、勝負を世間で言うような法力くらべだと理解すると、変な話になってしまう。
また、そんなことを大聖人は言われてはいないのだから。なぜやったのか。それは良寛が
自由にできると吹聴していたからだと述べた。また大聖人には謗法の者でも雨を降らすと
いう見識が最初からあったことも述べた。だのに、この勝負に挑んだのだ。

世の人々は、この矛盾をよく考えてほしい。いや、矛盾だと分かるからあまり言及されな
い人たちが多かったのか。

小さきことと言われるが、一宗派をかけた勝負ではないのか。本当は些事などではない。
謗法でも雨が降ることがあることは御存知だったのに、どうしてこの勝負を挑まれたのか。
・・・・だから不思議にも未来を知る仏さまなのか。(それは思考の逃避。)

両御書をそのまま読めば、勝負とはいえ、大聖人は大旱魃を支える側の人となってしまう。
つまり、これを単なる勝負と考えれば、たとえ勝負とはいえ、民衆に苦労を味わわせても
雨を降らさない状態を続けさせた。苦しませた後で仏法の証明をすればよかったのか。
・・・・だから、安直な人々は、この後、大聖人が雨を降らしたに違いないのだと妄想を
必然として理解をしてしまいがちなのだ。(しかし、そうではないのだ。)

人々が困るのを尻目に、雨をふらさずにいた。
はたして日蓮大聖人は、悪の側なのか・・・・?



  • [166]
  • 報恩抄と祈雨のこと ① (再掲)

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 9日(火)22時04分53秒
  • 返信
 
/
祈雨のことは、実は報恩抄に詳しい。その報恩抄の送状には、こう言われている。

「親疎と無く、法門と申すは、心に入れぬ人には言わぬ事にて候ぞ」(P330)
(意訳:真摯に受け止める余裕のない人には、これらの法門の内容を語るな。)

厳しくも、大聖人は、報恩抄の中で、法門について詳しく語られているのだ。
では報恩抄には、祈雨について、どのように書かれているのだろうか。やはり謗法の人間
が祈ったところで、雨は絶対に降らないと書かれているのか。いや、そうではない。

昔の中国に光宅寺の法雲という僧侶がいて、彼が中国で最初に法華経をおとしめたのだ。

「法華経はいまだ仏理をきわめざる経と書かれて候」(P298)
(意訳:法雲という僧侶が、法華経は究極の真理を説く経典ではないと布教した。)

そんな彼が人望を得たのは、大旱魃の時に雨を祈って降らせたことによるのだと。
講義中に突然に目の前で雨を降らせたという。天子も感激し、大成功だったのだ。

「此の人の御義仏意に相ひ叶ひ給いければこそ、天より花も下り雨もふり候けらめ、かか
るいみじき事にて候しかば、漢土の人人さては法華経は華厳経・涅槃経には劣にてこそあ
るなれと思いし」(P298)

(意訳:中国の人たちは、法雲の教義が正しいから、天より花も雨も降ったのだと思った。
そうして法華経は、華厳経や涅槃経より劣った経典なのだと広く理解された。)


その後に中国の地に、天台大師が登場して、法雲の邪義を法門の上から打ち破っていく。
しかし天台宗も法雲が経典を読み雨を降らせた事実は認めているのだ。大聖人も同様だ。

「光宅が忽に雨を下し須臾に花をさかせしをも、妙楽は、「感応此の如くなれども猶理に
称わず」とこそかかれて候へ。されば天台大師の法華経をよみて、「須臾に甘雨を下せ」
伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらしておはせしも、其をもつて仏意に叶うとはをほせ
られず
」(P319)

(意訳:法雲が雨を降らせた事実に、妙楽大師は、「なるほど。ちゃんと雨が降ったね。
でも彼の法門のほうは理に合わないからね。」と平然と言っている。だから、天台大師が
すぐに雨を降らせたときも、また、伝教大使がすぐに雨を降らせたときにも、それらの雨
をもって、仏意に適うなんてことは、彼らのうちの誰も言われてはいない。)


ここでもう、全ての結論が書いてしまった。
この大聖人の言葉を真摯に受け止めてみよう。
そんなことで仏意に適うかどうかなんて、ちゃんちゃらおかしいのだ。天台も伝教も雨を
降らしたからといって、自分たちの法門が正しいなんて言ってないんだよと。
法雲もそうだけど、雨を降らせたからといって、それで法門が正しいとは言えないよね。
それを根拠にして、仏意にかなっているんだなんて、そこまで言える人はおかしいんだ。
そう言ってるの。

では誰がそう言っているのか。大聖人ではなく邪宗の人たちが、そう言ってるのだ。
だから、彼らのその愚を打ち破ることが主眼なのだ。間違ってはいけない。

それなのにだ。御書も読まずに、勝手に大聖人の思想を作る人は、これまた傲慢なのだ。
それでは真実にたどり着くことはない。祈雨の勝負で勝ったことが、大聖人が仏である根
拠になりえるかのように言う人は、
大聖人とは正反対のことを言ってるのだ。



報恩抄では、この途中で、祈雨のことに次々に触れらている。まず有名な真言宗の三人の
開祖、つまり善無畏、金剛智、不空が、それぞれ祈雨を行ったことが述べらている。
先ほどの法雲と違うところは、彼らの場合、雨は降ったけど、三人ともすぐに大風が吹い
て多くの家屋を荒らして人々を苦しめたのだと。金剛智と不空の二人は、天子も最初は喜
んだけど、その大風に困って興ざめ、二人とも追放の処分となったのだそうだ。だから雨
さえふればいいのではないのだと言われている。

しかも別件だけど、この金剛智という人は、祈願する時に、幼い子供を人身御供として薪
にくべて燃やしたのだ。はたして、こんなのが仏法なのかって!?

「結句は姫宮の御死去ありしに、 いのりをなすべしとて御身の代に殿上の二女七歳にな
りしを 薪に・つみこめて焼き殺せし事こそ無慚にはおぼゆれ、 而れども・姫宮も・い
きかへり給はず」(P316)

(意訳:金剛智三蔵は、天子の王女が病死すると、それを生き返らせる祈りが出来るのだ
と言って、位の高い二人の七歳の女の子を選び、その二人を薪に積み込んで焼き殺した。
もちろん、王女も、そしてまた二人の女の子も生き返ることはなかった。)


本当に、こういうのを祈ることが仏法だなんて、はなはだしい誤解だ。そもそもこの金剛
智は、生き返らせる自信があったのか。それを突き詰めて考えると、真言宗の開祖という
のがいかに、いい加減な人物であったかが手に取るように分かると思われる。


これらの真言宗の開祖の三人は過去の人だったけど、次に大聖人の時代の真言師で、法印
という名前の人の話になる。文永十一年に祈雨を行ったところ、やはり雨が降ったけど、
その直後に、まだ初夏だというのに台風のような嵐になって死者が多くでたとのことだ。
この顛末は重要なので最後にもう一度ふれるつもりだけど、ここで注目したい点は、真言
宗の開祖の三人と同じ祈雨の結末、つまり大雨は降ったけど、大風も同時に来て国土を荒
らしたことについて、大聖人はどう言われたのか、そこを見つめよう。
「ほうら、真言宗は大風が来る傾向があるのだ」とか、悟りを得たような物知り顔で言わ
れたのか。否である。ここまで現証が一致していたら、普通ならそう言いいたい所だが。
だけど大聖人は、こういうふうに面白く、言われている。

「雨のいのりに吹きたりし逆風なり、善無畏金剛智不空の悪法をすこしもたがへず伝えた
りけるか心にくし心にくし。」(P317)

(意訳:大風まで吹いたのは、真言宗の開祖の悪法をそのまま伝えているようだ。法印の
演出は実に心憎いね。)


疑問形だ。嫌みとして述べられてるので、悟ったような発言より、こっちのほうがよほど
耳に届くけど、皮肉の表現に留めていることに注意してほしい。この表現は重要だ。


次には日本の真言宗の祖、弘法大師の話になって、この人の場合、大聖人が暴いた記録に
よると、彼の祈雨の伝説というのは、天長元年のことなのだけど、実は祈雨を命じられて、
全然、降らなかった日が三週間も続いたのだ。その後、三週間が過ぎてようやく降り出し
た雨を、真言宗は、四百年間も、弘法大師が祈ると雨が降ったのだと伝えてきたのだ。
その他、弘法大師の虚偽に数多く触れられているが、雨に関してだけ言えば、種々御振舞
御書にある大聖人の言葉にそのまま言い表されている。

「弘法は三七日すぎて雨をふらしたり、此等は雨ふらさぬがごとし、三七二十一日にふら
ぬ雨やあるべき設いふりたりともなんの不思議かあるべき」(P922)

(意訳:三週間が過ぎて雨が降ったって、三週間もたてば雨が降らないなんてことはない
し、こんなので降っても何の不思議があるというのか。)


大聖人の見解は、現実を見据えている。降ったところで「なんの不思議かあるべき」だ。
真言宗の修法などどうでもよい。ただ都合よくは降っていなかっただろという視点だ。
それを誤魔化してすごいことのように吹聴していた真言宗が虚偽だったというわけ。
世の中の人は、空海を偉い人だと思う人も多いけど、この報恩抄の虚飾を知るべきだね。


そして、この後も、雨を思い通りに降らすことの不思議さは、どんどん格下げされる。

「いうにかいなき婬女破戒の法師等が歌をよみて雨す雨を三七日まで下さざりし人はかか
る徳あるべしや是」(P319)

(意訳:普通の女性が歌を詠んで雨を呼んだという故事があるではないか。それを三週間
も呼べない人に、どうして特別な法力なんかがあるなどと言うのか。)


これも御書では何度もみる表現だ。もう仏法でも何でもない、そこいらの人でも出来るこ
となので、それが法が正しいことと直結すると考えるなら、大いな誤りなのだと。

このニュアンスが分かるだろうか。仏法は勝負を先とはする。法を正しく行じた現証が大
切なのは言うまでもない。だが意味が異なる。法を修行して、積み上げた現証は自分が人
生で関わってきたこと、現実に変えてきたこと、選択し、決断し、見守り、耐え、考え、
勇気を出し、人と関わり、人知を尽くし、それらの結果にもたらされた現証は、まちがい
なく自分の人生の一部だと言える。

法が正しいかどうかを現実の結果でみるとはそういうことだ。
例えば勉強を決意し、結果、有名大学に合格すれば、最初の決意は正しかったと言える。
しかし大学に合格した姿だけを見て、決意の有無を想像することは難しい。ただの気まぐ
れで受けて合格したのかもしれない。その法門が人をどのように決意させて、途中の修行
がどんなだったの現実の過程を抜かしては、結果だけを以て法門の正邪を判別できない。

だから報恩抄では、こう述べられてるだ。単なる現象がすごいかどうかが正しさの判断基
準だったら、それだったらインドの外道は超常現象をいっぱい起こせたではないかと。
彼らは大水を自分の耳の穴にとどめたり、空を飛んだりとか。

「古の人人も不可思議の徳ありしかども仏法の邪正は其にはよらず、外道が或は恒河を耳
に十二年留め或は大海をすひほし或は日月を手ににぎり或は釈子を牛羊となしなんどせし
かどもいよいよ大慢ををこして生死の業とこそなりしか」(P319)

(意訳:外典の人の能力がすごくても、仏法の正邪は人を超えた現象で判断はしてはなら
ない。彼らは、河川の水を自分の耳の穴に収めたりとか、空を飛んで日月を掴んだりとか
も出来たとはいえ、慢心が強くて、苦しんだ人生を送ったではないか。)


でも彼らは、生死に苦しむ業から逃れることは出来なかったのだ。彼らは仏法を馬鹿にし
たけど、彼らのうち、誰も自分の生き方を満足のいくものに変えることはできなかった。
超能力があっても、でもそんなこと、全然、大したことじゃないだろって、結局、そうい
うことなのだ。

つまり、雨を降らすことが仏の格なのではなく、そんなちっぽけなことすらも出来ないく
せに、自分たちは自由に雨を呼べるから、自分たちの方が正しいと吹聴してるインチキ僧
侶たちを馬鹿にするという、ごくまっとうなニュアンスなのだ。

これが法門の正邪を厳しく見つめる大聖人の視点だ。

  • [165]
  • 万感

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 9日(火)22時03分9秒
  • 返信
 

クジラさん、おめでとうございます!!!
:*.;".*・;・^;・:\(*^▽^*)/:・;^・;・*.";.*: ワーイ♪

素晴らしい。何を聞くより、お聞きして本当に嬉しいです。

ネットでもどんな魔が横行しても、そのお話で全ての魔が一蹴されてしまいます。
クジラさんのことは大勢の人が知っていますから、これほどの雄弁はありません。

また新しい人が・・・。(涙)



あと。自分でややこしいことを自負されている方々へ。

そう、お一人、お一人、名前を言わなくてもわかっているでしょう?
こっちにきて、好きに語ろうではありませんか。

みんなで話せば、きっと何とかなる。(何が?笑)




私の投稿、「報恩抄と祈雨のこと」は、途中だったので、残りを投稿します。
今更、続きとか何のことやらでしょうから、①と②も再掲させてください。

再掲するとか、私には珍しいことですけど、たまにはいいですよね?
この後にも続編を予定してるんですけど、きっと喜んでもらえると思います。

というか、私に投稿する機会を与えていただいて、感謝しております。

  • [164]
  • 透明さんへ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 9日(火)00時45分11秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>162

レスありがとうございます。

私は回りくどいことは苦手なので、直球で忌憚なく述べさせていただきます。


【御肉芽】
 私の感性から言いますと、戸田先生が見たことがあるかどうかも知らない人が、
 人を軽々にした言葉で、想像力を働かしているのをみると、何か浅薄な感じが
 いたします。どの世界もそうですが誠実でなければ、何もつかめはしません。

 歴史に対して尊敬の思いを抱かないのであれば、私は遠慮させてください。
 よって私が事実を述べることを避ける理由は、どうかお察しください。



【鳩摩羅什】
 羅什の訳典は、面白いことに特色があるのだという風に聞き取れます。
 字句に沿った翻訳ではないから正確性に欠ける・・・それが面白かったのだろ
 うという発想になるのでしょうか。私には千年以上前の感性は想像できません
 が、そのご意見は疑問に思います。
 天台大師が、羅什訳を用いた理由は、親しみやすいからなのでしょうか。
 違いますよね。羅什訳でないと、一念三千も説明できなかったでしょう。



【伝教の法論と伝承】
 高雄寺での法論は、高僧らは伝教に負けたという文章を各々提出しています。
 ですから大聖人は、きちんと勝敗があったとされているのですよ。

 また当時は「仏教文化の世界」だから奇跡が容易に信じられたとするのも、ま
 じめに考えれば、そんなに簡単ではないことに気づきます。
 なぜなら負けた高僧の宗派にだって、不思議話はいっぱいあるはずですから。

 たとえば法相宗ならば、無著菩薩は、毎夜、兜率天で弥勒に教えを受けて昼間
 は布教を続けたという伝説がありますし、そんな人が伝えた内容に誤りがある
 とは思えません。舌が焼けないのと、弥勒の直接の説法と、どちらが上ですか。
 また玄奘三蔵ならば、仏が老僧の姿をとって、般若心経を教えてくれたと伝え
 られています。仏が直接に渡してくれた経典なのに、権経だなんて。
 各派それぞれで、そう簡単に折れるはずがありません。

 当然ながらそれぞれの話が競合してぶつかりますから、昔の人だから、すべて
 真実だと思えと言ったって思えません。全て信じていただろうというのは、現
 代人の勝手な想像で、誤解に過ぎません。
 たとえば、娑婆世界の四方八方がどんな世界になっているか、経典によって違
 うのですから、これも喩えだという概念でしか解決しないわけです。事実、大
 聖人(からみたずっと昔の人でさえ)、それらが事実の世界観ではないと結論
 づけており、それが法華経を掘り下げた見方であって、他土の仏は実は虚構で
 いないのだと言われていますでしょう。その上で、他土の多宝仏や十方の諸仏
 の意義を大切にされているのですから、何でもかんでもいっしょみたいに思う
 のは大いに間違いです。

 ましてや、宗派の中で偉くなってしまった老人が、伝説に負けて、自宗の教義
 展開に不備を認めて頭を下げるというのは、素で想像しにくいものがあります。

 徳一の法論がこじれた理由は不思議でも何でもありません。むしろそれが普通
 でしょう。自分の側にも歴史がありますから、こだわり、譲りたくない。
 言い訳なんかいくらでもできます。経典にちゃんと書いてあるではないか、釈
 尊が嘘を言うわけがないという思いが(きっといつまでも)錯綜する。
 伝教のほうも、法雲など昔の有名な高僧までは悪く言えない。先師に対する配
 慮からか彼らが間違ってるという言い方はさけて婉曲的な言い方しかできない。
 そこまで言えるほどの勉強をされたのは大聖人だからこそなのだと思います。


  • [163]
  • モウ様

  • 投稿者:透明
  • 投稿日:2016年 2月 8日(月)15時42分29秒
  • 返信
 
>御肉芽が大きくなったことは、日蓮正宗が宣伝していたことです。
 物を変えて見せていたという内幕は、正信会の久保川氏の著作にあります。
 ただ、文章を出せと言われても困りますけど。記憶です。

お肉牙の現象がもし本当に真実なら、日蓮正宗は久保川氏に「嘘書くな!お肉牙の現象は
真実ではないか!何なら学者交えて公開鑑定するなり、お肉牙の嘘を書かれたと法的に対応を
考えますぞ!」と憤懣して厳重抗議してもおかしく有りません。しかし、別に久保川氏に厳重抗議されたわけでも無いですよね?
もしも、中山所蔵の日蓮真筆の安国論、観心本尊抄などを、「あれは偽物、偽作」とでも誰かが公に言い出せば
「ふざけんな!どこが偽物だ!」と中山側が記者会見するなり、法的問題にしても白黒付けようじゃないか!と
憤懣するのが普通でしょうし、当然、学術鑑定は望むところでしょう。

  • [162]
  • モウ様

  • 投稿者:透明
  • 投稿日:2016年 2月 8日(月)15時24分30秒
  • 返信
 
モウさん、此方こそお返事有難うございます。

>御肉芽が大きくなったことは、日蓮正宗が宣伝していたことです。
物を変えて見せていたという内幕は、正信会の久保川氏の著作にあります。
ただ、文章を出せと言われても困りますけど。記憶です。

それが本当なら、戸田氏は古老などの伝聞だけでなく、実際に「物を変えて見せていた」物体?を見せられていた?拝見されていたわけですね?
だから、歯肉?が成長?した様に?戸田氏や他の拝見者が証言するわけですね?
勿論、戸田氏が信者に信仰や伝承を講演で面白おかしく「話芸」として喋ったのでしょうが、実際に「作り物?」を見せられていた?拝見記なわけでも有るわけですね?
それがもし本当なら、お肉牙伝承は、古寺の伝〇〇大師作の仏像などよりも、作為的な罪深い行為ですね。 何故なら、伝〇〇大師作の仏像は歴史の彼方の話ですが、お肉牙の伝承は、本当ならば、現在進行形?の作為の話ですから。 他にもその様な話が有りそう?ですね?

>大聖人だけでな伝教大師もこの伝承を使われおり、有名な高雄寺での法論
では、南都の諸師を降したことが伝えられていますが、その勝敗がこの故事を
用いた所で決したとされています。
南都の他派の高僧がそんな不思議話の一つや二つで負けを認めたりするものか
なと思います。具体的に人を唸らせる内容があったからこそ、彼らも訳者の誓
願の違いに、襟を正さずにはいられなかったのでしょう。


羅什は経典の訳が正確よりも「名訳」、訳し方に個性が有ったからと言われています。後世に、他の訳者の経典、パーリ語などから直接日本語に訳された経典と比べると、正確さよりも寧ろ訳し方の名人の方が強い様です。
現在で言えば、学者の難しい般若心経専門書よりも、エイトマンの作者の「漫画 般若心経」の方が細かい正確さよりも、見やすく、親しみやすく、面白いと言う事じゃないでしょうか?
法論かは知りませんが、最澄も徳一との論争に決着が本当に付いたかは疑問です。

羅什舌焼けずは、当時の仏教文化の世界では、信じられたのでしょう。
京や吉野や熊野などに怨霊、天狗、鬼などの魔物の住処が存在すると心から思って恐れていました時代でしたから。
将門の首が関東まで飛んだや、羅生門の鬼が切られた腕を取り返しに来た、と同じ
恐れや畏敬からの伝承でしょう。

羅什舌焼けずは、もしかしたら、弟子?が作り物?を羅什の荼毘の後に置いて「羅什様の舌は予言通りに焼けませんでしたぞ!」と恭しく?宣言したかも知れませんね。推測ですが。

  • [161]
  • Re: モウ様

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 7日(日)10時50分14秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>160

透明さん、はじめまして。レスありがとうございます。

●「本当ですか」とは何を指して疑問に思われたのでしょうか?

 御肉芽が大きくなったことは、日蓮正宗が宣伝していたことです。
 物を変えて見せていたという内幕は、正信会の久保川氏の著作にあります。
 ただ、文章を出せと言われても困りますけど。記憶です。



●羅什の舌が焼けなかったことが、伝承だとするのは常識的な見解ですね。

 実は、私にはそれらの説明だけではしっくり来ません。
 この伝承について、誰か本当に検証したのかとの不満を持っています。
 私が何かをしたわけではないので、偉そうなことは何も言えませんけど。
 私は、いつの時代も、人の心を動かすのは、人の振る舞いだと思います。 

 御書を読んでいますと・・・。

 大聖人は、妙法蓮華経が正しいことを示すのに、よく羅什の舌を挙げています。
 この伝承が当時の人には、当時の常識として納得できるからでしょう。
 だからといって、大聖人が奇跡を根拠にして正しいと判断されたのだと考える
 のは、いうなれば誤解、行き過ぎというものです。

 撰時抄では、この話を紹介されるときに、理由のうちの少し話すだけだとして、
 この話を紹介されていますので、これを理由の全体だと考えるのは誤りです。
 大聖人は、羅什の訳出のみが正しいと判断した、その理由を、第一の秘事だと
 述べていますから、まだ奥に背景があることになります。そしてそれに関連し
 て、ヒントのように少しだけ述べようと、羅什の舌の故事を挙げられました。

 故事は、奇跡が起きる前の、羅什の行動の動機から述べられています。
 羅什がそれを誓願した。そして結果は世の人を多く納得させたのだと。

 この羅什の伝承はひとます置きます。
 大聖人がこの直前で、第一の秘事だとした内容は何でしょうか。この後の羅什
 の伝承とも、どう内容的に関連しているのかの明文はありません。

 だから普通は分からないから、ここをスルーです。想像で断定するわけには
 いかないらです。何かの重要な秘密があったのだろうなと、それしか言えない
 わけです。でも何も言わなければ、誤解だけが大きな顔してしまいがちです。

 秘密なのだと聞くと、何か安易に人には言えない悟りとか、そういうものだと
 考えがちです。だから秘密なのだろうと考えれば普通はしっくりします。

 よって、ここの大聖人が本当に根拠とした理由とは、きっと御自身が法華経を
 体験されたことから、そう判断されたのだろうと考えるのが、多くの信仰者の
 一般的な見かたではないかと、私はそう勝手に思います。

 いわゆる見仏体験ですね。これ抜きでは仏教史が成り立たないと言われます。
 他の御書を見ても、やはりそうだろうと。それでいいではないかと。
 なにしろ秘密だと言われているのですから、それで辻褄があうのではないかと。
 そして羅什も同様なのだという意味に受け取れば、撰時抄のほうも文章的には、
 しっくりきます。大聖人も悟って、羅什も悟ったから、正しいと言えるのだと。
 実体験だからそんな誓願を出来たのだと。そういう考え方です。


 しかしこんな婉曲な表現をされるだろうかと、違和感を持つのです。
 大聖人がこんな言い方をするかなと。またこんな伝承が宗派間の論争で実際に
 大きな威力を持つものだろうかと。奇跡話は自宗の中の宣伝にしか威力をもち
 えません。この伝承で南都六宗の学者は敗北を認めています。

 私は、早々に結論を出すのは、まだ早すぎるのではないかと思っています。
 第一の秘事だとされているから、悟りだとするのは話に整合性がないと。


 ① 直接に会えば教えてくれると言われています。ならば、全ての重書に秘密に
  しておくものでしょうか。本尊抄等では事実を後世に伝えなければ、 後世の
  人を迷わすとお考えでしたから、伝えられないはずがありません。

 ② 本当に秘密にしたいのなら、撰時抄にも最初から触れないはずです。
   なぜこのような紹介の仕方をしたのか。前後の文章がつながらないのも
   素朴におかしく感じます。(つながっているはずです。)

 ③ 悟り云々はともかく、大聖人は、御書で多くの奇跡を、実に冷静に客観
   視されています。この伝承に限っては、すんなりと信じたのでしょうか。
   ここも私は素朴に疑問に思います。

 そこから類推すると、全ての文章が整然とするためには、第一の秘事とされな
 がらも、後世に広く伝えていかなくてもよいとお考えだったのだということに
 なります。これが直接的に御自身のことだとそういう無責任なわけにはいきま
 せん。もし文章で明言できないのであれば、それがあることを根拠として述べ
 ること自体がおかしいからです。

 だから普通に考えると、ごくシンプルに読んでみるだけで話は通ります。
 ここの文章は、妙法蓮華経が正しいのは羅什の故事を基に根拠とされており、
 だからこそ、その話を少しだけ話そうとされたのだとも思えます。その羅什に
 まつわる話が、大聖人にとっての第一の秘事だと。

 でもそれだと隠す必要がありません。なぜ述べなかったのか、それは世間で通
 常知られている内容よりも、ずっと深く御存知だったからだと思われます。

 多くの人が指摘しているように、当時には中国から伝わってきた多くの文献が
 あったけど、そのほとんどが残されずに現代までに伝わってきてはいません。
 大聖人が誰よりも深く勉強されたのは歴然とした事実ですから、羅什のことも
 当時の豊富な文献の中で深く学ばれたに違いないと想像します。

 撰時抄で述べられる故事は、単に羅什の舌が焼けなかったから正しいという
 後付けのようなものではなく、生前から羅什が燃えないのだと確信を込めて
 言い触れ回っていたことが述べられています。これがどのような文献に基づく
 のか、現代人の私には分かりませんけど。大聖人の記述によると、当時の多く
 の人が、羅什よりも少しでも 長く生きてどうなるかを見たいと願ったと具体
 的に記述されていますから、人々を心から納得させる劇場的な結末が必要にな
 ってきます。

 人の思考はすぐに奇跡で片づけようとしますが、それこそ伝承で脚色される部
 分ですから、どうとでもなります。
 ここで問題は、なぜ羅什がそうだと言えたのかと言う点に尽きます。
 たとえ羅什が悟りを得たとしたって、自分の死後に舌が焼けないとは発想しな
 いでしょう。そんな予言をなぜしようと思ったのか。なぜしたのか。

 日寛上人が羅什になぞらえて、亡くなる直前に蕎麦を食すとユーモアをまぜて
 (詳伝には発言を「たわむれ」と)明言されたと伝えられてますが、日寛上人
 は論理を重んじた人で、悟りから語ったりしません。冗談を好まれたお人柄で
 すから、予言も不思議ではありませんが、日寛上人が蕎麦を用意していなかっ
 たと考える人はいないでしょう。同じです。

 焼けないプレゼンの方法は幾らでもあります。でも問題はそこではありません。
 文字通りに死後に身体を焼いて、舌が焼けなかったかどうかはどうでもよいこ
 とで、死後に身体を焼いても、これだと舌は焼けないなと、皆をうなづかせる、
 そこまで何らかの形で仏法に尽くしている姿を示せたのだと(小説か何かで書
 けばわかりやすいですが)、そういうことなのではないかと思います。
 自分の舌だけを切り落としてしまえば、焼くことはできません。その姿を人々
 の前で見せつけて、それでも焼こうとする人がいるでしょうか。なるほど、焼
 けなかったと。多くの論師の中でそこまでする赤誠の人を、人々は見たことが
 なかったのではないかとか。想像ならばいくらでもできます。

 ただ、他の人はなんだかんだと言って誤りが多いのは、滅私ではなく、傲慢な
 部分が多かったからで、大聖人が羅什一人だったと明言できるのは、そこに仏
 の振る舞いの姿を、大聖人御自身が同じく認められたからではないでしょうか。

 大聖人だけでなく、伝教大師もこの伝承を使われおり、有名な高雄寺での法論
 では、南都の諸師を降したことが伝えられていますが、その勝敗がこの故事を
 用いた所で決したとされています。
 南都の他派の高僧がそんな不思議話の一つや二つで負けを認めたりするものか
 なと思います。具体的に人を唸らせる内容があったからこそ、彼らも訳者の誓
 願の違いに、襟を正さずにはいられなかったのでしょう。

 などです。(長文になりそうなのでやめます。失礼しました。)

  • [160]
  • モウ様

  • 投稿者:透明
  • 投稿日:2016年 2月 6日(土)16時33分27秒
  • 返信
 
>大昔にお肉牙がどうのと伝説を伝えたのなんか、誰も目くじらを立てないでしょう。
 もちろんそれをねつ造した日蓮正宗の法主級の人物はひどいものですが、過去の
 誰だかわかりませんからね。問題は、現代でそれを教義として踏襲していること。
 つまりみんなに信じろと言ってることですね。でもそこはまだいい。近年において
 大きさを変えていることが“詐欺”だと私は言ってるんですよ。


>近年において
 大きさを変えていることが“詐欺”だと私は言ってるんですよ。

それって本当ですか? 歯肉?が紫色だった、など話もあるようですが?
つまり、作為、作り物?でしょうか?


羅汁の舌が焼けずは、聖徳太子が子供時代に「南無仏」と唱えたら手の中に仏舎利が有ったと同じ、伝承でしょうね。
もっとも、聖徳太子自体が、実は粛清された蘇我入鹿だったや、架空人物など各説有る謎の人物ですが。


  • [159]
  • ecoさんへ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 6日(土)07時14分13秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>158

ecoさんは、私の主張だと、妄想から出発し、虚偽の展開を行う人です。
私の発言ではないと分かっていても、「その上で」と、妄想の断定を続けています。

そのような人物が、しらっと私に質問をしてきて、答えて貰えるものでしょうか。

世の中には常識というものがあります。
虚偽の内容で批判、思い込みで主張を騙ったことを、きちんと謝りましょう。



====================================

こんにちわ。

上記、何も反論できませんでしたね。
そう、ecoさんは困ると目を閉ざして逃げるのが常道です。
ecoさん風に言えば、反論なきをもって何も知らない人だということに。(笑)


> あ・・ そっか 五時八教は釈尊が説いていた時期でしたね 忘れていました
> 習ったの 随分前の話だし 専門用語だものね~
> それは 大変 申し訳ないです(棒読み)
>
> ・・・とは言え、そんな誤謬を論って いい加減なやつだとか判断されても困るから
> 訂正した上で改めて質問をいたしますが
> 同じく任用で習った「正像末の三時」は どんな内容でしたか?
> 任用を存じていらっしゃるなら これも解説が出来るでしょ


私を信用きないのに私に聞くのはなぜですか、と、そう何度も私は聞いていますよ。
 非常識ですものね。でもecoさんはそれにも答えられない。
 自分が虚言で弄じた相手に質問を繰り返す、いつもの手ですね。



> また 日蓮大聖人は その正像末の三時を どの時期を起点にして
> (厳密には状況を確認した上での作業だったみたいですが)説いていたのでしょうか?
> 結局は中国仏教が儒教に対する優位性を確保するために
> 色を盛った法螺話・・揶揄されている 周書異記を参考にしたんじゃないでしょうか?
>
> 【参考資料】
> 仏教を説いた釈尊は、一体いつ生まれ、いつ入滅?
> http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483542794
> 創価学会員の方に公開質問です。
> http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1253574147
> 仏滅
> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%BB%85


またですね。いつも、ecoさんは妄想が出発点なのですよ。
 結論ではなく、妄想がいつも先に来る。「色を盛った法螺話」なのに違いないと。
 何、それ(笑)、って感じです。焦って勉強しても底が浅いですね。年月日で
 検索しても、年月日があってるかどうかぐらいしか見つからないでしょうね。
 ecoさんのネット検索なんてそんなものでしょう。
 それにしても「厳密には状況を確認して・・」ですって。ぷぷ。変えた。
 初めて知ったんですね。取り繕いが痛々しい(笑)。なぜ厳密だとか(笑)。



> そしてモウさん あなたは>>157に於いても
> モウの主張が、法華講員と同じ、大聖人を仏とする根拠が
> 光ものと祈雨だという妄想を言い続けていない
・・と同じ主張を言いつづけるのなら
> >>131>>136は 何を目的・・として強調したかった講義だったのか?


私は何度も文章を作って答えていますね。だけどそれに対してはecoさんは無視。
 なぜなら自分の妄想から離れたくないから。(笑)
 私の投稿を読んで、祈雨などの奇跡が本仏の証拠だという意見と同じだと
 思えたのだから、そうですね、私はその馬鹿さ加減を再指摘するだけでこと足ります。



> また「ついで」とは言え 日蓮大聖人様は 他の文証を引き合いに出して
> 「祈祷対決の話」を信者に向けて説き 自己申告を行っていたのか?
> 日蓮大聖人が言わんとする 最 終 目 的 を 答えてください。


おおー!質問?私の投稿文を読まないのに!?
 しかも勝手に中身を断定してねつ造、そして人の話も聞かないのに!?
 わ、私に聞いてくるんですか!?
 いや、どれだけ甘えん坊さんで、無責任なのかを目に焼き付かせてくれます。
 そこまで演出しなくてもよいんですけどね。
 普通は(^^:)、自分で論証するものでしょう。



> ついでに その雨乞い対決が実際に行われた記録が残されている証拠を
> 経文の絵合わせだけで自己申告した日蓮以外の文献で 顕されているものを
>明示して裏付けてください。
> (もっとも 周書異記にも同じことが言えるんですけれどね)


なぜ?まさになぜ?ですね。私が説明してきたのは無視。あくまで自分の
 妄想に沿って説明せよと言ってるに等しいですね。
 私に言うぐらいですから、ecoさんは、当然、他の歴史文献をすべて完全に
 証明してください。あなたは思い付きを投げてくるだけで、正面から行くと
 逃げてばかりなのですよ。だからいつまでも何も分からない。
 すべての歴史を疑いだすと、何が残るんでしょうね。デカルトみたいに
 自分の意思しか認められなくなってしまうという人もいますね。



> >>157でも 揚げ足をとりを利用して 燻製ニシンの虚偽にも等しい 誹謗・中傷
> を繰り返した長文の割には


どうして虚偽ですか?すぐ上でも下でも、まだ私の主張が法華講員のそれと
 同じだと虚勢を張り続けているだけ。言い逃れしたくてもがいてる。(笑)




> (中には ヒロイン気取りの演技までしていた文章やら 的外れな頓珍漢な例題を出して
>  イメージダウン図ろうとしていた文章もあったなぁ・・・
>  あの例題 AとBの立場が逆だろ Aが ecoで Bが モウお前なんだけれど・・・汗)



私が普通の見識を述べると、ヒロインに聞こえるのですか?(私は男ですけど)
 よほど他人に対して羨望が強いのか。そりゃそんな態度では自分は面白くないでしょう。
 もすこし真面目にやったほうがいいですよ。(きっぱり)
 Aは普通の人ですよ。Bの人が飛躍してますね。無関係のことを根拠としてそうしたのだと
 言い張る人。つまりecoさんです。年月日が正しいから採用されたのだ、それを「根拠」
 に記述したのだからすべて水泡に帰さねばならないのだ等。ばかばかしいから、西暦で
 キリストの計算を信じないと歴史の事象はすべてウソになるんですかと返すと、見事に
 完全にスルー。(笑)
 何も答えられないんですね。
 ecoさんは自分の思い付きで批判してるだけだから、底があさいとかいうレベルじゃなく、
 本当は何も考えていないし、真実を気にもしていないから、そんなありさまなのですよ。




> 肝心かなめの
 >>156の質問には 全部答えていない
> いな >>157①~③のことを考えれば 実は答えられない (完全に「逃げる為」の言い
> 訳に終始しているのが見え見え)



私が答えない理由は昨日の①~③で明確です。それが常識的な態度ですけど。
 ecoさんは虚言を騙る人間に、懇切丁寧に説明するのですか?
 そして答えなければ、「逃げる為」という幼稚な発想。あなたの常識でしたね。
 上でecoさんは全然答えないから、全部、逃げる為ということになりますね。

 それでも親切くんなので結論を教えてあげます。あなたのネット検索では無理。
 答えは見つからないでしょう。そして2ちゃんねるで相手にされなければ、
 誰も知らないのだという、その幼稚さをまず見つめるべきです。
 人は物を教えるのは相手を見て判断するというのが常識ですよ。




> さらに>>155の本題(「もう一度 伺いますが~」から先)に対する反論のほとんどを
> 「正像末の三時」と「五時八教」をちょっと勘違いしたのを除いて
>  根拠なく 抽象的に妄想で片づけているけれど
> 単に あなた自身が知らなかった 或いは「把握していなかった」だけの話じゃないのか?



そっか。私は知らなかったと思ってるんですか?
 いろいろと態度が一貫してませんよね。迷弄しすぎてます。(笑)



> ―おまけ
> 今、気づいたけれど モウさんは >>110にて日蓮大聖人のお肉芽に対して
> インチキ宗教が行う「嘘っぱち」だと思っているようですね
> 別に嘘っぱちでもいいのですが
> しかし そうなってくると
> 下記リンク先の話にも色がついている・・と言う疑いがかかってしまいますね


困り切って、話題をお肉芽にしたいんですね。いやいや、それはいや(笑)!
 祈雨の勝負と年代でいいではないですか。私はそっちが楽しいのです!



> 羅什の舌焼けず
> http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-entry-31.html
>
> しかも日蓮大聖人さまは撰時抄にて
>
> 「上一人より下万民にいたるまで願じて云く
>  願くは羅什三蔵より後に死せんと、終に死し給う後焼きたてまつりしかば
>  不浄の身は皆灰となりぬ御舌計り火中に青蓮華生て其の上にあり
>  五色の光明を放ちて夜は昼のごとく昼は日輪の御光をうばい給いき
>  さてこそ一切の訳人の経経は軽くなりて
>  羅什三蔵の訳し給える経経・殊に法華経は漢土にやすやすとひろまり給いしか。」
>
> ・・と書いてあるように、日蓮正宗のお肉芽と同様
> 舌が焼けなかった 怪しげな話を信じていて そのソースを引き合いに出し
> 自分の教義が正しい裏付けを行っていたんだけれど


どこを読めばそういう安直な読解になるんでしょうね。あいかわらず自分の
 インチキ視点でしか見てないからそうなりますか。一人の誓願が歴史を作った
 というお話でしょうね。人々はそれを信じたと。



> お肉芽が嘘確定になってしまうと トリックが見抜けなかった戸田先生と同様
> 日蓮大聖人さまも 羅什の舌に関して・・・


大昔にお肉牙がどうのと伝説を伝えたのなんか、誰も目くじらを立てないでしょう。
 もちろんそれをねつ造した日蓮正宗の法主級の人物はひどいものですが、過去の
 誰だかわかりませんからね。問題は、現代でそれを教義として踏襲していること。
 つまりみんなに信じろと言ってることですね。でもそこはまだいい。近年において
 大きさを変えていることが“詐欺”だと私は言ってるんですよ。
 ああ、私、答えすぎ?私を喜ばそうという作戦ですかね、いけませんね。
 これはつい引っ張られますね。ま、面白い話題だと歓迎ですけど。

 いや、話題がよくても、ecoさんの姑息さがやっぱり気に入りませんね。
 こうして話題をそらして、すぐ逃げようとする。ダメダメ。



> お! さすが モウさん!!
>
> 「日蓮のお肉芽は嘘」だと信じても
> 「羅什の舌が焼けなかったこと」に対しては疑いもなく信じてしまう
> 権威論証だけで 物事を解釈する 都合のよい思考回路ぷり


羅什の舌がどういう事実だったのかは私には検証しきれていませんね。
 ecoさんと違う点は、知らないことは知らないということ。そして私は歴史の
 記述には何かの故事や事績を語っているのではないかと思っています。
 なので、舌が焼けなかったという故事が何かの事実を言い表したものだと。
 でなければ歴史の中でその話が威力を持たないでしょう。だから大聖人も
 そこでは詳しく述べておられない。そして付け加えれば今となっては
 どうでもいいことでもありますね。法華経が残っているからですよ。

 そして、これはここの話題とは関係ないことですね。
 先の問題を解決してから後の問題をふって解決すべし!です。



> 「木を見て森を見ずの精神」が ここでも輝いております。


どうして「木<<森」の関係になるのか。全てが思い付きの言葉づかい。
 どちらも法華経の正しさを述べようとしたものでしょう。
 そしてどちらも、現代人の視点からみればどうでもよいとも言えますね。
 大聖人がそうだったように、内容を継承しているからですね。
 文献が何よりも大切なら、大聖人もインドの原典(真言)を用いています。

 まあ、よく考えたら、ecoさんと話しても内容が分からないだろうし、
 意味ないことかもですね。ecoさんに言うべきは、人との向き合いかたで
 いいでしょう。

  • [158]
  • モウさん 改めて伺いますよ

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 2月 5日(金)23時37分51秒
  • 編集済
  • 返信
 
あ・・ そっか 五時八教は釈尊が説いていた時期でしたね 忘れていました
習ったの 随分前の話だし 専門用語だものね~
それは 大変 申し訳ないです(棒読み)

・・・とは言え、そんな誤謬を論って いい加減なやつだとか判断されても困るから
訂正した上で改めて質問をいたしますが
同じく任用で習った「正像末の三時」は どんな内容でしたか?
任用を存じていらっしゃるなら これも解説が出来るでしょ

また 日蓮大聖人は その正像末の三時を どの時期を起点にして
(厳密には状況を確認した上での作業だったみたいですが)説いていたのでしょうか?
結局は中国仏教が儒教に対する優位性を確保するために
色を盛った法螺話・・揶揄されている 周書異記を参考にしたんじゃないでしょうか?

【参考資料】
仏教を説いた釈尊は、一体いつ生まれ、いつ入滅?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483542794
創価学会員の方に公開質問です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1253574147
仏滅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%BB%85



そしてモウさん あなたは>>157に於いても
モウの主張が、法華講員と同じ、大聖人を仏とする根拠が
光ものと祈雨だという妄想を言い続けていない
・・と同じ主張を言いつづけるのなら
>>131>>136は 何を目的・・として強調したかった講義だったのか?
また「ついで」とは言え 日蓮大聖人様は 他の文証を引き合いに出して
「祈祷対決の話」を信者に向けて説き 自己申告を行っていたのか?
日蓮大聖人が言わんとする 最 終 目 的 を 答えてください。

ついでに その雨乞い対決が実際に行われた記録が残されている証拠を
経文の絵合わせだけで自己申告した日蓮以外の文献で 顕されているものを明示して裏付けてください。
(もっとも 周書異記にも同じことが言えるんですけれどね)



>>157でも 揚げ足をとりを利用して 燻製ニシンの虚偽にも等しい 誹謗・中傷を繰り返した長文の割には

(中には ヒロイン気取りの演技までしていた文章やら 的外れな頓珍漢な例題を出して
 イメージダウン図ろうとしていた文章もあったなぁ・・・
 あの例題 AとBの立場が逆だろ Aが ecoで Bが モウお前なんだけれど・・・汗)


肝心かなめの
 >>156の質問には 全部答えていない
いな >>157①~③のことを考えれば 実は答えられない (完全に「逃げる為」の言い訳に終始しているのが見え見え)

さらに>>155の本題(「もう一度 伺いますが~」から先)に対する反論のほとんどを
「正像末の三時」と「五時八教」をちょっと勘違いしたのを除いて
 根拠なく 抽象的に妄想で片づけているけれど
単に あなた自身が知らなかった 或いは「把握していなかった」だけの話じゃないのか?





―おまけ
今、気づいたけれど モウさんは >>110にて日蓮大聖人のお肉芽に対して
インチキ宗教が行う「嘘っぱち」だと思っているようですね
別に嘘っぱちでもいいのですが
しかし そうなってくると
下記リンク先の話にも色がついている・・と言う疑いがかかってしまいますね

  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

羅什の舌焼けず
http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-entry-31.html

しかも日蓮大聖人さまは撰時抄にて

「上一人より下万民にいたるまで願じて云く
 願くは羅什三蔵より後に死せんと、終に死し給う後焼きたてまつりしかば
 不浄の身は皆灰となりぬ御舌計り火中に青蓮華生て其の上にあり
 五色の光明を放ちて夜は昼のごとく昼は日輪の御光をうばい給いき
 さてこそ一切の訳人の経経は軽くなりて
 羅什三蔵の訳し給える経経・殊に法華経は漢土にやすやすとひろまり給いしか。」

・・と書いてあるように、日蓮正宗のお肉芽と同様
舌が焼けなかった 怪しげな話を信じていて そのソースを引き合いに出し
自分の教義が正しい裏付けを行っていたんだけれど

お肉芽が嘘確定になってしまうと トリックが見抜けなかった戸田先生と同様
日蓮大聖人さまも 羅什の舌に関して・・・

お! さすが モウさん!!

「日蓮のお肉芽は嘘」だと信じても
「羅什の舌が焼けなかったこと」に対しては疑いもなく信じてしまう
権威論証だけで 物事を解釈する 都合のよい思考回路ぷり

「木を見て森を見ずの精神」が ここでも輝いております。

http://


  • [157]
  • ecoさんへ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 5日(金)22時35分13秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>155

ecoさんは、私の主張だと、妄想から出発し、虚偽の展開を行う人です。
私の発言ではないと分かっていても、「その上で」と、妄想の断定を続けています。

そのような人物が、しらっと私に質問をしてきて、答えて貰えるものでしょうか。

世の中には常識というものがあります。
虚偽の内容で批判、思い込みで主張を騙ったことを、きちんと謝りましょう。



====================================

こんにちわ。

年月日ですね。ecoさんは誰でも知ってるようなことなのに、相手が
教えてくれなかったら、その相手が知らずに黙したんだと思って、
すごく得意になっていたんですよね。

どうぞ、そのまま、年月日が違うのだと言い続ける、歩く痛い見本
になってください(笑)。私はそこは止めません。(笑)
そのほうが世の中の人も、ecoさんの態度を理解しやすいと思います。

相手に問うた時、答えなければ相手が知らないと思うのは短絡的な思考。
相手が貴方に常識的な何かを見いださなければ、教えはしないでしょう。
それだけのことです。



> >>138(モウ)
> ここも自分の出発で勝手に誤解されて終わっています。
> どこに年月日のみで決めたと言われていますか?
> ・
> ・
> ・(繰り返してるだけなので省略します)
> ・
> ・
> >>153 (モウ)


何度も答えていますからね。
それでもここで何も答えなけば、さらに勘違いしそうですから一言。

A(←普通の人間):「私の主人は、公務員です。」
B(←エコさん風):「えっ、公務員だから結婚したんですか?」
A(←普通の人間):「はあ???」

そう、ecoさんのはこんな感じ。勘違いがはなはだしいですね。(笑)
この線に沿って以下をみてみましょう。




> もう一度 伺いますが 任用で習った五時八教が どんな内容だったのか?
> 解説していただけませんか?  知っているのなら きちんと解説が出来ますよね

①どうして私が(笑)、こんなおいしい話題から離れると思うのですか?
 話題は、「祈雨」と、「年月日」でいいではないですか。
 どちらもecoさんの勘違いがすごくて、それで楽しいのに。
 これが一番、分かりやすく笑いを取れると思うんですけど。

②私のことを信用できないと言ったはずなのでは。それなのに私に聞くのですか?
 信用できない人物と言いながら平気で物を乞う。よっぽどの甘えん坊さんです。

③私の発言をねつ造して語る人物に、どうして私がお望みのままに届けものを
 してくれると思うのですか。当然、一方的にその人物は馬鹿にされるだけです




> あと>>147のあたりから 論点を微妙にずらそうと画策しているね
> 釈尊の入滅時期は 諸説あるが たとえズレてても
> 正法・像法・末法の年代に あなたが拘っていない なんて
> また「後出しジャンケン」のような詭弁が始まっているじゃないかよ

また妄想ですね。私は詭弁なんて使いません。
ecoさんは、私を疑うよりも、いい加減な自分を疑ったほうがいいですよ。(笑)

私はどんな人を相手にしても知らないことは知らないと語り、誤れば謝罪して
訂正したこともありました。その必要が無いと思える相手でも、嘘つきでも
私だけはそうしてきました。そして何年たっても答えを見いだしてきた。
あなたのだらしない態度とは、見てる方向が全然違うわけですよ。




> >>147にて 年代に拘っていない・・というのなら
> 何故? 大聖人様は 曼荼羅の脇書きに
> 「滅後二千二十余年」もしくは「滅後二千三十余年の大曼荼羅也」と
> 書かれていたのか
> この点に関する説明責任を果たしてもらいましょうか?

マジキチ質問ですか。破れかぶれになってませんか。暦ですよ。
ecoさんは、西暦を使うのにキリスト教の計算を信じて使ってるんだ?
少し考えれば分かることなのに、言葉遊びで人を批判しようとするから
すぐにドツボにはまる。どれくらい繰り返せば気がつきますかね。




> さらに>>147にて 年代は関係がない・・というのなら
> 大聖人様が 拠り所としていた 周書異記による説は
>  あてにならない・・ということにもなるわけですから

はい。ここも妄想。西暦を使った現代社会はすべて崩れるかのよう。(笑)
ecoさんの考えかたって、単純すぎて、たわいないです~。




> それは 真蹟だろうが 偽書だろうが
> 日連が中国人に騙された・・と言う形になってしまうわけですから

はい、ここも妄想。(根拠と結果がまるで結びつかない。)



> 御本仏の事も含めて 全部 嘘ということにもなってしまい
> ただの勘違い野郎の「妄想坊主」になってしまいます
>
> 日蓮大聖人を貶めているのか?

ふうん、そうなんですか(笑)。妄想ですね。



> あと 年代に拘っていない・・としつこく書くのなら
> その論拠も明示していただけませんか?
> >>147の回答だけでは 論拠も示されていないので
> あなたの我見を並べているだけにしか映りません。

あれ、また私に聞いてるんですか。ecoさんはそのままでいいですよ。
上の①~③をよく見て私の言わんとすることを考えてくださいね。




> しかも>>146にて取り上げた 撰時抄の講義でも「但し書き」として
> 日蓮大聖人様は その周書異記に書かれていた計算に基づき
> 正法 像法 末法の立て分けをしていると 序講で説明しているのですが
> あなたが>>147にて 今までの創価等から出された資料に基づいて
> 正法 像法 末法の年代区別は関係がない・・と言うのなら
> 創価学会は 初っ端から間違った講義を行っていた
> 或いは 曖昧な気持ちで講義を行っていた・・という事にもなりますよ

創価学会では、学会員にそんな短絡的な説明はしてませんよ。
昨年、任用試験に通った人が聞いても笑えることを言われてます。




> なんだか あなたの場合
> 自分の研究と 創価の公式見解をごちゃごちゃにして語ってねぇーか?

最後まで妄想でしたね。つまり私が新説かなにかを述べていると?
自分が知らないということをここまで自慢し、むきに語る人物がいたとは。

そういえば釈尊の悟りを説明しろと繰り返し言ってた御仁もいましたね。
すぐ目の前で開目抄を講義しているというのに(笑)。傲慢な人は真摯に
何も見ようとはしないものです。




>> 156

> どう読んでも あなたが>>130にて 馬鹿にしていた輩と 目的が同じで
> ・・・(中略)・・・にしか聞こえないのは 私だけなんでしょうか?

結局、私の主張が、法華講員と同じ、大聖人を仏とする根拠が、光ものと
祈雨だという妄想を言い続けてるではありませんか。ごまかしきれないと
開き直ってやりすごそうとする。
不自由な人です。(笑)

もっと頑張って盛り上げてくださいね。


  • [156]
  • ・・・で モウさん

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 2月 5日(金)18時58分13秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>131>>136は 何を目的・・として強調したかった講義だったんでしょうか?
また「ついで」とは言え 日蓮大聖人様は 他の文証を引き合いに出して
「祈祷対決の話」を信者に向けて説き 自己申告を行っていたのでしょうか?

日蓮大聖人が言わんとする 最 終 目 的 を 答えてください。



http://


  • [155]
  • 本当に痛い奴だなぁ・・・(ため息)

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 2月 5日(金)16時10分40秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>137(eco)
しかも 実態は 正法・像法・末法の計算が違います。


>>138(モウ)
ここも自分の出発で勝手に誤解されて終わっています。
どこに年月日のみで決めたと言われていますか?



>>139(eco)
日蓮大聖人様は末法の御本仏でしょ? 像法の御本仏じゃないんですよ
しかも その末法の年代だって 中国で発行された 周書異記に基づいた計算で決めたものであって
それを 日 蓮 系 は 拠 り 所 と し て 支 持 し て い る わけですが
ところが 釈尊が存在していた時期については 昔から諸説あって
(中略)
ちなみに 500年も後だと 日蓮大聖人が存在していた時期は像法となるわけですが
周書異記の記述が正確だという証明も含め整合性が合わせられないんですか?


>>140(モウ)
ほら。妄想を根拠に整合性を取らねばならないと思われてる。
ecoさんの発想は、昭和初期の人以下の知識で思い込みの程度なのですよ。
私、しゃべりすぎ?



>>146 (eco)
末法の時期による年月のズレは 昔から言われていた事で
あの 故 中村元さんも 周書異記の記述を支持していません。
また 撰時抄の講義でも 昭和40年代の講義では 序講で その旨もしっかりと書かれている上 ・・・


>>147 (モウ)
私が勝手に知らないことにされてますけど。
周書異記がどうのなんて、何十年も前からみんなが言ってることだと、 私は言ったでしょう。
講義書だけでなく、おそらく任用試験の題材にも書いてありますよ。
ecさんがこだわってるのは、そんなレベルのお話です。
それと末法をいつからだとしたのとは厳密には無関係というわけ。
そういうまともな話をecさんは全然知らない。



>>149(eco)
周書異記がどうのなんて、何十年も前からみんなが言ってること』を どこで述べたんだよ
しかも その『みんな』って どのパブリックを指して述べているんでしょうか?
ひっかけ問題のようなロジックしかけるなよな


>>151(モウ)
私まで嘘つきだと思ってるんですか?
「ひっかけ問題」、「ロジック」ですって。(笑)
そう、ecさんの主眼は所詮、言葉遊びの程度なのですよ。
末法の年月日のこと、まだこだわってる。
そのこだわり方が真実はどうかかを気にしてるのでは全然ない所が、ほんと笑えてしまします。(笑)
根拠のない言いがかりだということを指摘しておきましたけど?(笑)
ecoさんが気にしてるのは、相手がどう言ったか

自分の知っていたことを知っていたかどうか。
そんなちっちゃいところで必死に見栄を疑ってる。
はっきり言って、愚かです。

私は言いましたよ。
そこいらの教材に書いてるとか。何度、言ったことか。
任用試験の教材にも説明があるでしょうと。
そんな程度の話だと。ecoさんはそんなことも知らない。


>>152 (eco)
ここで問題を出しましょうか? 任用に出てきた五時八教って  どんな内容だったっけ?
たしか 任用試験で 教えていた 五時八教は 周書異記に基づいた年月月日で計算していたはずで
みなさまは そのような覚え方をしていた筈なのですが
そんな基礎中の基礎を あなたは知らなかったんですか?
本当 あなたは 信心歴 何年なんだよ(苦笑)

さらに 御書の巻末に年表が書いてあった筈だけれど
そこには 周書異記に書かれていた年代に基づいた計算で暦が書かれていて
釈尊滅後からのカウントが書かれていた筈なのですが あなたは そこも読んでいないようですね

第一、曼荼羅の脇に書かれている 「滅後二千二十余年」
もしくは「滅後二千三十余年の大曼荼羅也」は
その周書異記に基づいた計算結果で顕された内容じゃないかよ


>>153 (モウ)
知らなかったと思うんですか?困ると駄々っ子のような振る舞いをしだして
誤魔化そうとする。それがecoさんの処世術というわけです。
結局、指摘されたことはスルー。事実を見つめない。目を閉ざすのみ。
それと、それだけで決定されたという安直な妄想とは別ですね。

---------------------------------------------------------------------------


もう一度 伺いますが 任用で習った五時八教が どんな内容だったのか?
解説していただけませんか?  知っているのなら きちんと解説が出来ますよね


あと>>147のあたりから 論点を微妙にずらそうと画策しているね
釈尊の入滅時期は 諸説あるが たとえズレてても
正法・像法・末法の年代に あなたが拘っていない なんて
また「後出しジャンケン」のような詭弁が始まっているじゃないかよ

>>147にて 年代に拘っていない・・というのなら
何故? 大聖人様は 曼荼羅の脇書きに
「滅後二千二十余年」もしくは「滅後二千三十余年の大曼荼羅也」と書かれていたのか
この点に関する説明責任を果たしてもらいましょうか?

さらに>>147にて 年代は関係がない・・というのなら
大聖人様が 拠り所としていた 周書異記による説は
あてにならない・・ということにもなるわけですから
それは 真蹟だろうが 偽書だろうが 真偽未決だろうが
日連が中国人に騙された・・と言う形になってしまう事には変わりがなく
御本仏の事も含めて 全部 嘘ということにもなってしまい
ただの勘違い野郎の「妄想坊主」になってしまいますね~

あなたこそ 日蓮大聖人を貶めているんじゃないでしょうか?

あと 年代に拘っていない・・としつこく書くのなら
その論拠も明示していただけませんか?
>>147の回答だけでは 論拠も示されていないので
あなたの我見を並べているだけにしか映りません。


しかも>>146にて取り上げた 撰時抄の講義でも「但し書き」として
日蓮大聖人様は その周書異記に書かれていた計算に基づき
正法 像法 末法の立て分けをしていると 序講で説明しているのですが
あなたが>>147にて 今までの創価等から出された資料に基づいて
正法 像法 末法の年代区別は関係がない・・と言うのなら
創価学会は 初っ端から間違った講義を行っていた
或いは 曖昧な気持ちで講義を行っていた・・という事にもなりますよ



なんだか あなたの場合
自分の研究と 創価の公式見解をごちゃごちゃにして語ってねぇーか?

http://


  • [154]
  • Re: モウさん 頭の中を整理しましょう

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 5日(金)04時52分30秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>153
こんにちは。

ecoさんは、私の主張だと、妄想から出発し、虚偽の展開をし続ける人です。
私の発言ではないと言っても、「その上で」と、妄想の断定を続けました。

そのような人物が、しらっと私に質問をしてきて、答えて貰えるのでしょうか。
世の中には常識というものがあります。
虚偽の内容で批判、思い込みで人の主張を騙ったなら、きちんと謝りましょう。



====================================

> >>151
> >私まで嘘つきだと思ってるんですか?
>
> 少なくともあなたを信用することは出来ませんね
> ・・・というか 言っていることが支離滅裂すぎて対応不能です。

モ:私の言説は信用で成り立っています。
  私が虚偽を述べたり、気が付いても訂正しなかったことがありましたか。
  あなたとは、見つめているものがどうも違いますね。




> >>151
> >末法の年月日のこと、まだこだわってる。
> >そのこだわり方が真実はどうかかを気にしてるのでは全然ない所が
> >ほんと笑えてしまします。

> >根拠のない言いがかりだということを指摘しておきましたけど?
>
> 根拠のない言い掛かり?
> ここで問題を出しましょうか? 任用に出てきた五時八教って  どんな内容だったっけ?
>
> たしか 任用試験で 教えていた 五時八教は
> 周書異記に基づいた年月月日で計算していたはずで
> みなさまは そのような覚え方をしていた筈なのですが
> そんな基礎中の基礎を あなたは知らなかったんですか?

モ:知らなかったと思うんですか?困ると駄々っ子のような振る舞いをしだして
  誤魔化そうとする。それがecoさんの処世術というわけです。
  結局、指摘されたことはスルー。事実を見つめない。目を閉ざすのみ。




> 本当 あなたは 信心歴 何年なんだよ(苦笑)
>
> さらに 御書の巻末に年表が書いてあった筈だけれど
> そこには 周書異記に書かれていた年代に基づいた計算で暦が書かれていて
> 釈尊滅後からのカウントが書かれていた筈なのですが
> あなたは そこも読んでいないようですね
>
> 第一、曼荼羅の脇に書かれている 「滅後二千二十余年」
> もしくは「滅後二千三十余年の大曼荼羅也」は
> その周書異記に基づいた計算結果で顕された内容じゃないかよ

モ:それと、それだけで決定されたという安直な妄想とは別ですね。



> >相手が黙したから「返答ができなくて」黙ったのだと思る安直さ、です。
> >本当に大人ですか?
> >大いなる勘違い人なのですよ。、相手にされなかっただけでしょう。

>
> あなた自身が 宿坊板で まともに相手にされなくなっていった癖に
> 人のことが言えないんじゃないの?

モ:私の悪口を言いたいみたいで可愛いですゾ。私はどこでも楽しい思い
  出を作ってきています。拒否されることもあるでしょうけど、それは
  世の常。どこの掲示板でも相手のかたの都合もあります。
  真摯に相手にしていただいたからこそ、よい思いでになるのでしょう。
  あなたの自慢は、相手が黙ったことの自己満足。だから「承認要求」
  だけの存在だと頭によぎるのですよ。残念。




> >なぜなら、あなたがそのようないい加減な対話の態度だからですよ。
> そのような・・・て
> どのような事を指して いい加減な態度だと判断しているのか
> 抽象的で不明瞭なので わかりません。

モ:また誤魔かした。私の発言ではない、目的、内容、結論を妄想し、
  固執し続けていること。何度も事実を述べてきました。
  そして、対話の本質を誤魔化そうとすることもね。




> あなたと まともに話すと こっちまでもがおかしくなりそうだから
> みなさまも いい加減な態度で接する事になるんでないかい?

モ:おかしくなりそうなんですか?それは心配です。よく頭を整理され
  たほうがよいですよ。よほどリアルで人と対話をされてこなかった
  のか、正面から指摘してくれる人がいなかったのですね、たぶん。




> >だから損をしてますよって何度も言ってるのに。それが聞こえない。
>
> それ以前に あなたの日本語が通じていないから
> 解読するのに 時間がかかるし 面倒になってくる

モ:難しい日本語は何も使っていません。がんばれ。



> >>152
>
> >大聖人があなたのいう「祈祷対決」をどう考えていたのか。
> >それを大聖人の書かれた文章から、明示してきているのですよ。
> >まだ私の考察の部分にはあまり触れていません。
>

> おいおい 一体 >>131>>136は 何の講義だったんだよ
> 「私の考察の部分にはあまり触れていない」・・なんて  結局は 祈祷対決の事実を否定したかったのか?
> その割には 誰がどう見たって 祈祷対決を肯定した話に終始していたじゃん
> 何 「私の考察には触れていない」などと後付けをして  ごまかしているんだか・・・

モ:また何の講義かと質問。すぐ下の投稿にに示してありますでしょ。
  私が誤魔化そうとしているのではなく、話の筋が見えてないだけですよ。
  それは自分が妄想を基本としていているからです。
  私が話をすぐに誤魔化さねばならない投稿をわざわざ好き好んですると
  思うのだから、あなたの妄想はすさまじいのですよ。




> >大聖人は、祈祷対決で奇跡を起こして
> >それが仏であることの証明につながるんだと。
> >どうしてもその妄想から離れられない。

>
> >>131>>136で 原理性から説きはじめて 大聖人だからできると 書いていたのは お前じゃねぇーかよ
> しかも 御本尊だからこそできる・・とまで言っていたのは誰だっけ
> 勘違いしているのは お前の方じゃないのか?

モ:はい、また妄想。「原理性を説く」・・・根拠を挙げてから私の意見を
  大弁してください。それはあなたの妄想です。
  大聖人だから出来ると歴史上思われてきたのは事実と述べただけですね。
  ecoさんは何もかもが安直すぎるだけです。
  いいですか。
  大聖人も古代の人の奇跡は否定されませんでした。でも別に肯定もされて
  いません。法門の判別には使うなとされました、と何度も言ってます。




> >その大聖人の思想からみて、「祈雨勝負」を仏の根拠とするなんて
> >大聖人も、誰も昔から言ってきてない邪義ですよと。
>
> >そろそお、おわかりですか?
> >御自分の大きな勘違いが。

>
> そっか あなたは オイラが「光り物があったから 大聖人=御本仏だ」
> 或いは 「祈祷対決で勝ったから 大聖人=御本仏」だと ずっと勘違いしていたんだな
> 大きな勘違いをしていたのは お前だよ(笑)

モ:また話をすり替えて誤魔化す。ecoさんは、私がそういう考え方だと
  混乱して妄想を抱いていたことを指します。
  もちろん分かってるのでしょうけど、引っ込みがつかなくなったのか。(笑)
  あまりに小さい。(笑)




> >>139で こう書いたんだけれど よまなかったのか
>
> 「たしかに報恩抄にも御本仏を自覚するような示唆する話が書かれているけれど
>  それは あなたが>>136で述べていた箇所ではなく 最後の行であって
>  しかも ちらっとしか触れておらず
>  また 本格的に論じるなら 開目抄のP.232から先の話や
>  当体義抄や三大秘法抄や御義口伝なのに  そこにはちっとも触れていないし
・・・  ピンボケもいいところ」・・・と
>
> つまり こちらが 御本仏としている根拠は 祈祷対決や光り物でもなく
> お前さんが述べていた>>131>>136でもないし
> 今まで、そのような形で語ったこともありません

モ:同じ指摘をしますが、冒頭の「たしかに」とか、私はそんなことを言って
  きていません。つまり出発点からecoさんのは妄想。そして私がそういう
  ことが書かれてあったと、上でこんなにはっきりと断定してます。
  「たしかに」~「御本物を自覚する」~「あなたが」「箇所ではなく」と、
  私がそ御本仏を自覚云々を述べたことになっていますよ。
  ecoさんは、他人の意見を作って、自分の考えから話をしています。




> むしろ あなたの>>131>>136の講義を聞いて あなたの意図とは裏腹に
> 「祈祷対決で勝ったから 大聖人=御本仏」だと勘違いする人が出てくるんじ
>ゃなかろうかね

モ:私の文章を読めば、あなたがどれだけ妄想からアホを言ってるにすぎないこ
  とか、わかりますよ。
  大聖人は、祈雨を「ついで」のことだと明言されています。仏法とは関係な
  い人でもできるレベルのことだと言われてます。
  だのに奇跡だから本仏の根拠にするのだという、決めつけから離れられない。
  今や、ecoさんは、必死で誤魔化すのみ。

  そんな態度では、真実にはたどりつけませんと何度も言ってますよ。
  あなたは私と話をしているから、安心しているのかもしれませんけど、私は
  ecoさんに必要だと思うことをまじめに指摘しているにすぎません。
  貴方が思っているような相手にはされていないことを後で知れば、その時、
  どのように思われるのでしょうか。私が嫌みで述べているのではなかった
  ことがわかるでしょうか。よい薬のようにも思いますし、そんな処世術では
  まるで世の人から相手にされていないのだと知ってほしいと思います。

  人間は真摯な対話から、自身も相手も得るところがあるのですよ。
  あなたにはそれがない。わずかに何かが思い通りに得られればよいと思って
  るようですが、大きな損をしているだけ。それは自分のせいなのですよ。


?

  • [153]
  • モウさん 頭の中を整理しましょう

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 2月 5日(金)03時06分39秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>151
>私まで嘘つきだと思ってるんですか?

少なくともあなたを信用することは出来ませんね
・・・というか 言っていることが支離滅裂すぎて対応不能です。

>>151
>末法の年月日のこと、まだこだわってる。
>そのこだわり方が真実はどうかかを気にしてるのでは全然ない所が
>ほんと笑えてしまします。

>根拠のない言いがかりだということを指摘しておきましたけど?


根拠のない言い掛かり?
ここで問題を出しましょうか? 任用に出てきた五時八教って  どんな内容だったっけ?

たしか 任用試験で 教えていた 五時八教は
周書異記に基づいた年月月日で計算していたはずで
みなさまは そのような覚え方をしていた筈なのですが
そんな基礎中の基礎を あなたは知らなかったんですか?

本当 あなたは 信心歴 何年なんだよ(苦笑)

さらに 御書の巻末に年表が書いてあった筈だけれど
そこには 周書異記に書かれていた年代に基づいた計算で暦が書かれていて
釈尊滅後からのカウントが書かれていた筈なのですが
あなたは そこも読んでいないようですね

第一、曼荼羅の脇に書かれている 「滅後二千二十余年」
もしくは「滅後二千三十余年の大曼荼羅也」は
その周書異記に基づいた計算結果で顕された内容じゃないかよ


>相手が黙したから「返答ができなくて」黙ったのだと思る安直さ、です。
>本当に大人ですか?
>大いなる勘違い人なのですよ。、相手にされなかっただけでしょう。


あなた自身が 宿坊板で まともに相手にされなくなっていった癖に
人のことが言えないんじゃないの?


>なぜなら、あなたがそのようないい加減な対話の態度だからですよ。
そのような・・・て
どのような事を指して いい加減な態度だと判断しているのか
抽象的で不明瞭なので わかりません。

あなたと まともに話すと こっちまでもがおかしくなりそうだから
みなさまも いい加減な態度で接する事になるんでないかい?

>だから損をしてますよって何度も言ってるのに。それが聞こえない。

それ以前に あなたの日本語が通じていないから
解読するのに 時間がかかるし 面倒になってくる


>>152

>大聖人があなたのいう「祈祷対決」をどう考えていたのか。
>それを大聖人の書かれた文章から、明示してきているのですよ。
>まだ私の考察の部分にはあまり触れていません。

おいおい 一体 >>131>>136は 何の講義だったんだよ
「私の考察の部分にはあまり触れていない」・・なんて  結局は 祈祷対決の事実を否定したかったのか?
その割には 誰がどう見たって 祈祷対決を肯定した話に終始していたじゃん
何 「私の考察には触れていない」などと後付けをして  ごまかしているんだか・・・


>大聖人は、祈祷対決で奇跡を起こして
>それが仏であることの証明につながるんだと。
>どうしてもその妄想から離れられない。


>>131>>136で 原理性から説きはじめて 大聖人だからできると 書いていたのは お前じゃねぇーかよ
しかも 御本尊だからこそできる・・とまで言っていたのは誰だっけ
勘違いしているのは お前の方じゃないのか?


>その大聖人の思想からみて、「祈雨勝負」を仏の根拠とするなんて
>大聖人も、誰も昔から言ってきてない邪義ですよと。


>そろそお、おわかりですか?
>御自分の大きな勘違いが。


そっか あなたは オイラが「光り物があったから 大聖人=御本仏だ」
或いは 「祈祷対決で勝ったから 大聖人=御本仏」だと ずっと勘違いしていたんだな
大きな勘違いをしていたのは お前だよ(笑)


>>139で こう書いたんだけれど よまなかったのか

たしかに報恩抄にも御本仏を自覚するような示唆する話が書かれているけれど
 それは あなたが>>136で述べていた箇所ではなく 最後の行であって
 しかも ちらっとしか触れておらず
 また 本格的に論じるなら 開目抄のP.232から先の話や
 当体義抄や三大秘法抄や御義口伝なのに  そこにはちっとも触れていないし
・・・  ピンボケもいいところ」
・・・と

つまり こちらが 御本仏としている根拠は 祈祷対決や光り物でもなく
お前さんが述べていた>>131>>136でもないし
今まで、そのような形で語ったこともありません

むしろ あなたの>>131>>136の講義を聞いて あなたの意図とは裏腹に
「祈祷対決で勝ったから 大聖人=御本仏」だと勘違いする人が出てくるんじゃなかろうかね

http://


  • [152]
  • 追加

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 5日(金)00時21分17秒
  • 返信
 
>>151

ちょっと可哀そうすぎて。

もう一言だけ。
なぜ私がecoさんの言う「祈祷対決の話を宣伝していたの?」か。

何度も答えを言ってます。しかも登場した最初の時から。(笑)

大聖人があなたのいう「祈祷対決」をどう考えていたのか。
それを大聖人の書かれた文章から、明示してきているのですよ。
まだ私の考察の部分にはあまり触れていません。

ところが、そこであなたは妄想が発動する。
大聖人は、祈祷対決で奇跡を起こして、それが仏であることの
証明につながるんだと。(笑)

どうしてもその妄想から離れられない。(笑)

だからそういう見解が、大聖人は否定されてるということを私は
御書から述べてきています。学会も正宗も、ずっと昔からそうです。

大聖人は、過去の奇跡を見てなんと言ったんでしたか?
否定もしないけど、そんなことで法門を判断するなと繰り返し
言われてるでしょう?
「利根と通力」にはよるなと。聞いたことぐらいあるでしょうに。

その大聖人の思想からみて、「祈雨勝負」を仏の根拠とするなんて
大聖人も、誰も昔から言ってきてない邪義ですよと。

そろそお、おわかりですか?
御自分の大きな勘違いが。


  • [151]
  • ecoさんへ、

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 5日(金)00時05分45秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>150

私まで嘘つきだと思ってるんですか?

「ひっかけ問題」、「ロジック」ですって。(笑)
そう、ecさんの主眼は所詮、言葉遊びの程度なのですよ。


末法の年月日のこと、まだこだわってる。そのこだわり方が真実はどうか
かを気にしてるのでは全然ない所が、ほんと笑えてしまします。(笑)
根拠のない言いがかりだということを指摘しておきましたけど?(笑)

ecoさんが気にしてるのは、相手がどう言ったか、自分の知っていたことを
知っていたかどうか。そんなちっちゃいところで必死に見栄を疑ってる。
はっきり言って、愚かです。


私は言いましたよ。
そこいらの教材に書いてるとか。何度、言ったことか。
任用試験の教材にも説明があるでしょうと。そんな程度の話だと。

ecoさんはそんなことも知らない。それで2ちゃんねるという所で、相手の
人がそれを説明してくれなかったのを自慢に思っているというわけ。
任用試験レベルのことを、なぜ相手が語らなかったのかを考える余力がない。

相手が黙したから「返答ができなくて」黙ったのだと思る安直さ、です。
本当に大人ですか?
大いなる勘違い人なのですよ。、相手にされなかっただけでしょう。

なぜなら、あなたがそのようないい加減な対話の態度だからですよ。
だから損をしてますよって何度も言ってるのに。それが聞こえない。


と、こういうことを何度、私が述べても、私が親切で述べてるとは
思わずに、言い訳でもしてるんだぐらいに傲慢をかますんでしょうね。

私はここで本心から本当のことを言ってきてますよ。
そのうち、人から“相手にされていないこと”を認識するでしょう。

誤解は無いように。私は今、相手にして話てあげてますよ。それは最初から
そういう趣旨でのことです。
難しい話を放棄した、そんなレベルの対話は妄想まじりの貴方には無理。
私も妄想を冗長させることを手伝えません。そこは私も他の人と同じです。
だから馬鹿にされるばかりで可哀そうですけど。

なにしろ私の発言をねつ造云々の人ですから。トンデモナイことですよ。
だからそれは仕方ないでしょう。世の中には常識と言うものがありますよ。

  • [150]
  •  モウさん 支離滅裂になっていますよ

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 2月 4日(木)22時11分6秒
  • 返信
 
>>147
ec:光り物の資料が 江ノ島の龍ノ口寺にしかないのは
  こちらが調べた事で それを2ちゃんにて 創価の人に質問をぶつけたら
  (特に光り物のときは もっと掘り下げましたが・・・)
  先方の創価さんらは 返答ができなくなってしまった結果で
  従って 2ちゃんだけが ソースではありません

モ:そんな話が私に何の関係があるのですか。
  だから、2ちゃんねるのレベルだというんですけどね。


ec:ちなみに 金沢文庫へ行って 鎌倉文献や 吾妻鏡を読んでも
  祈祷対決と光り物の記録が残されていないのと

モ:今頃、そんな当たり前のことを何言っとるんですか?


-------------------------------------------------------------------------------

ec:ちなみに 金沢文庫へ行って 鎌倉文献や 吾妻鏡を読んでも
  祈祷対決と光り物の記録が残されていないのと

モ:今頃、そんな当たり前のことを何言っとるんですか?
ec:ちなみに 金沢文庫へ行って 鎌倉文献や 吾妻鏡を読んでも
  祈祷対決と光り物の記録が残されていないのと

モ:今頃、そんな当たり前のことを何言っとるんですか?
ec:ちなみに 金沢文庫へ行って 鎌倉文献や 吾妻鏡を読んでも
  祈祷対決と光り物の記録が残されていないのと

モ:今頃、そんな当たり前のことを何言っとるんですか?



>>139で既にのべていたんだけれど 読んでねぇーな
おまえさんが その話に対し 2ちゃんレベルと一蹴していたから
>>146であらためて書いたのに その回答はねぇーだろ

もう一回書くぞ あなたは 何のために>>131>>136で あったかどうかも判らない
祈祷対決の話を宣伝していたの?

それと お前さん >>147にて
『周書異記がどうのなんて、何十年も前からみんなが言ってること』をどこで述べたんだよ
しかも その『みんな』って どのパブリックを指して述べているんでしょうか?

ひっかけ問題のようなロジックしかけるなよな

  • [149]
  • ecoさん、

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 4日(木)20時52分51秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>149

何度、おなじことを言わせるつもりですか。

ずいぶんと態度がいい加減すぎます。


あとecoさんは、困ったことがあると、思考が逃避するのか。
それとも単に私と議論して言葉遊びでもしているつもりなのか。
私が後から文章を都合よく変えるとか思ってるみたい。

基本、私は編集するけど、わかりやすい表現に変えてるだけです。
あと誤字の訂正とかですね。

なぜならば、変える必要が全く無いから。
ecoさんとの対話に頭を使う余地は全く無いと言ったはずですよ。
困るぐらいだったら最初から投稿せんでしょ。そこも分かってないです。(笑)

  • [148]
  • では モウさん

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 2月 4日(木)15時48分21秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>147

>>131>>136では 何の話をしていたの?
「何を目的」・・として その話を>>131>>136では 自己陶酔のように 講義をしていたのでしょう

単なる 「俺は お前等と違って こんなに御書を読んでいるんだぞ」・・という
Hierarchie混じりの自慢話??


※ 尚 編集で文脈や文言等を変えられないように  最初のアンカー部分は魚拓をとったものに差し替えております。

http://


  • [147]
  • ecoさんへ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 4日(木)06時07分2秒
  • 編集済
  • 返信
 
こんにちわ。

ecoさんは、このように私が発言もしていない、思ってもいないことを
私の投稿の、目的、内容、しかも結論までを想像で断定しています。

私の文章を読まずに論評をして、思い込みのみの勘違いの人。
私の下の投稿を見て、

ec:要は 日蓮大聖人様は 文証をたよりに
 「御自身を御本仏だ」と 承認要求をしただけの話じゃないですか?


と内容を認識し、

ec:あなたが 長々と書いていた文章を“簡潔”にして
 「光り物があったから 御本仏」だとか
 「祈祷対決で勝ったから 日蓮の言うことは正しい」だのと
  権威論証に走るんじゃないでしょうか


という結論だと思える人だから、アホなのですよ。


=================================

あのですね、私に聞くのなら、私の文章くらい読んだら?
今日も当あてずっぽうと思い込みだけだから、何も内容もなく簡単。

1.
ec:自身が ねじれた事を 平然と言っていることに気づいてねぇーんだな

モ:相手と自分の妄想がごっちゃになってるだけです。


2.
ec:その上で こちらから質問致しますが、日蓮系のソース以外で
  祈祷対決が行われた記録が どこにあるのか この裏付けをしてください

モ:何度も言ってるのに、妄想から離れようとしないのがecoさん。

  ecoさんの妄想・・・モウが御書を頼りに奇跡を立証しようとしている。
            それを大聖人が本仏だという話につなげるんだ。

  私の指摘・・・大聖人が法門をどのように理解されていたのか。
         大聖人の御書(真蹟御書)には整然と書かれていること。
         その思想(考え方)を掘り下げているところ。

  これは、いいわけでも何でもない。私は自分の論証を厳密にしたいので、
  根拠がない話はこっちがお断りなのですよ。
  ところがecoさんは、奇跡話が事実かどうかだけが頭から離れない。
  私からみたら噴飯もののですね。


3.
ec:ちなみに 金沢文庫へ行って 鎌倉文献や 吾妻鏡を読んでも
  祈祷対決と光り物の記録が残されていないのと

モ:今頃、そんな当たり前のことを何言っとるんですか?
  だから私の文章の構成は、それらの奇跡の事実を踏まえて成り立って
  いないでしょう。
  大聖人も同じ。過去の人の奇跡には、あってもいいんじゃない的ぐらい。
  ただそれを法門の論拠にはしない姿勢は一貫されています。


4.
ec:さらに 光り物の資料が 江ノ島の龍ノ口寺にしかないのは
  こちらが調べた事で それを2ちゃんにて 創価の人に質問をぶつけたら
  (特に光り物のときは もっと掘り下げましたが・・・)
  先方の創価さんらは 返答ができなくなってしまった結果で
  従って 2ちゃんだけが ソースではありません

モ:そんな話が私に何の関係があるのですか。
  だから、2ちゃんねるのレベルだというんですけどね。


5.
ec:嘘だと思われるのなら 横浜の神奈川県立 金沢文庫へ行って
  鎌倉文献と吾妻鏡を読んでみてください 話はそこからですよ

モ:あのですね。(^^;)
  書き物してる側からすれば、幼稚すぎることですけどね。
  鎌倉時代の文献は意外と少ないですからね。あったらめっけもの
  ですよ。普通は誰だって探すものではないですか。そもそも
  祈雨の勝負が他文献にあれば、講義書が使わないはずはないでしょう。(笑)
  だから、最初の時点で想像できそうなものですけど。
  そんなことすら「最初に」思いも至らず、今更、そうなんだゾと
  自慢してる、相当な痛い人なのですよ。


6.
ec:あと末法の時期による年月のズレは 昔から言われていた事で
  あの 故 中村元さんも 周書異記の記述を支持していません。
  また 撰時抄の講義でも 昭和40年代の講義では 序講で
  その旨もしっかりと書かれている上

モ:私が勝手に知らないことにされてますけど。周書異記がどうのなんて、
  何十年も前からみんなが言ってることだと、私は言ったでしょう。
  講義書だけでなく、おそらく任用試験の題材にも書いてありますよ。
  ecさんがこだわってるのは、そんなレベルのお話です。
  同書の記述が、西暦にして釈迦の生誕にそぐわないというお話ね。
  それと末法をいつからだとしたのとは厳密には無関係というわけ。
  そういうまともな話をecさんは全然知らない。
  周書異記を出すまでもなく、末法を大集経の五百年説だとしたことが
  そもそも年代区分から言えば気にならないのかと(笑)。
  まあ、ecさんの思い付きは、実は、閻浮提は亀や蛇が支えてないんだ、
  と空騒ぎしてる痛い人と変わらないということ。



7.
ec:謝罪を要求するあたりなんか

モ:妄想で人の意見を作った放埓ぶりを指摘しています。
  私のでない発言を私のだとされた嘘を訂正を要求することが、
  ecoさんにとっては「自己承認」の言葉に当てはまるかに
  映るんですね。そこに大人の責任はまるでないですね。


8.
ec:「自己承認」丸出しの顕れになっているし・・・・(呆)

モ:これまで大聖人も私も、「承認要求」しただけと言い捨てにしたけど、
  「だけ」とは何のことなのか。その点も言いっぱなしですね。

  何も考えずに、つまらない「言葉」に当てはめようとこだわるのは、
  なぜか。合点がいくのは、結局のところ、ecoさんは、自分が「承認要求」
  だけの人なのだと自分を考えているから。誰でもって言ってましたしね。
  ずいぶん小さい人物観だと思います。

  • [146]
  • モウさんへ

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 2月 4日(木)01時29分23秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>145

>>136で述べていた内容は 祈 祷 対 決 が 行 わ れ た・・という前提に基づき
雨が降った原理やプロセスを 単に経文を通して こじつけ(単に着飾って それらしく)
「ナンミョー」を唱えたら 雨がふった・・としか結論を述べてなく
要は 祈祷師の証明を宣伝していただけにしか過ぎず
>>130で あなたが

    「雨を降らせたから大聖人なのか!?とんでもないです!
     大聖人の思いとは、遠く離れた邪宗教の発想ですから。」

・・・等と言い放って嘲笑っていた おとぎ話をする人たちと 内容が変わりません

自身が ねじれた事を 平然と言っていることに気づいてねぇーんだな

(しかも ソースが あなた自身が まったく信用していない 日蓮正宗の59代法主が編纂した御書だけとは・・
悲しいね~ 邪宗教の資料を頼りに根拠にしているの?? ここでも しっかりねじれ現象が出ているでしょ)



その上で こちらから質問致しますが、日蓮系のソース以外で
祈祷対決が行われた記録が どこにあるのか この裏付けをしてください

ちなみに 金沢文庫へ行って 鎌倉文献や 吾妻鏡を読んでも
祈祷対決と光り物の記録が残されていないのと
さらに 光り物の資料が 江ノ島の龍ノ口寺にしかないのは こちらが調べた事で
それを2ちゃんにて 創価の人に質問をぶつけたら
(特に光り物のときは もっと掘り下げましたが・・・)
先方の創価さんらは 返答ができなくなってしまった結果で
従って 2ちゃんだけが ソースではありません

嘘だと思われるのなら 横浜の神奈川県立 金沢文庫へ行って
鎌倉文献と吾妻鏡を読んでみてください 話はそこからですよ


あと末法の時期による年月のズレは 昔から言われていた事で
あの 故 中村元さんも 周書異記の記述を支持していません。
また 撰時抄の講義でも 昭和40年代の講義では 序講で
その旨もしっかりと書かれている上
東日本大の松岡教授や創価大学の宮田教授や菅野教授でも
その事は知っている事なのに 奴らを支持するモウさんが その事を知らなかったとは



モウさんは だんだん構ってちゃんにも なってきているよなぁ・・
しかも 謝罪を要求するあたりなんか
「もっと単純に今の自分に満足しているか、という基準で自分自身を判断する」
・・と言う「自己承認」丸出しの顕れになっているし・・・・(呆)

http://


  • [145]
  • ecoさんへ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 3日(水)06時11分25秒
  • 編集済
  • 返信
 
おはようー。

【人物評】
ecoさんは、このように私が発言もしていない、思ってもいないことを
私の投稿の、目的、内容、しかも結論までを想像で断定している人。

そのくせに、論証を避け、私には聞いてくる。今更、何なのかと。
でも私の文章は全然、読みもしていない。

投稿も途中だけど、続きにも興味も持たない人。
そして、私の投稿を読まずに、自分の誤解(妄想)で当てはめようと
だけはする。何度も指摘してるけど、今度は誤魔化すのみ。

当然、話の骨子はコロコロと変わり、発言に責任がない。
私が言わないのに、私の主張だとした、その証拠は何一つだせず。

何一つもでしたね。
事実を踏まえずに、2ちゃんねる情報の片鱗で騒ぐだけで満足なのか。
自身を律して、きちんと私の主張だと思う根拠を出すべきですね。


================================

1.
ec:もう一度伺いますが

モ:私に聞く前に、断定したことの、論証は無いのはなぜですか。
  言いっぱなしなのですか?


2.
ec:あなたは「何のため?」に>>136で・・・

モ:ecさんは、私が何のためにかを何度も断定していますよね。
  訂正も謝罪もせずに、私に聞くのは恥知らずに思えます。
  私は何のためかは、私は誠実に答えていますよ。


3.
ec:事象そのものが自己申告だけしか証文がなく 実態が不明瞭の要素
が強く ・・・
モ:それはecさんの妄想。私が明確な論拠を持たないと思うなら、きちんと
  示してください。ecさんはそういう過程をせずに妄想から出発です。


4.
ec:あなた自身までもが おとぎ話のように捉えているのにも関わらず
  >>136にて「祈祷対決」を引き合いに出して 証明に奔走している滑稽
  さは なんなんでしょうか

モ:証明に奔走・・・。私はしていません。ecさんの勘違い。


5.
ec:さらに >>136の講義にしても あなたが訴えていた内容は
  目的を考えたら

モ:私の「目的」を上で聞いてますよ、あなた。(笑)
  ecoさんの思う目的は何度も言いますが、ecoさんの妄想。
  私に関係ありません。あると思うのなら根拠を示すこと。
  論証も、言葉も出せないのなら、妄想だとしるべき。


6.
ec:それは 日蓮=御本仏を証明する為の利用した「他者承認」という

モ:違うといいましたよね。そしてそれを示唆する文章があれば出せとも。



7.
ec:文証を利用した「他者承認」という 承認要求のひとつにしか過ぎませんかね?

モ:大聖人が承認を必要としたと?それに「過ぎない」とする根拠を出してください。
  ecoさんは、言葉の一つ一つが、自分本位で不正確なのですよ。


8.
ec:もちろん あなたも 同じです

モ:ほら、またごまかした。ecoさんは気分で主張してたから、大聖人と
  私を混同してましたね。どちらでも自分の思い付きさえ言えれば、
  別によかっただけです。
  話に骨子が無いから、取り繕うために、今度は私も同じだとした。


9.
ec:だから>>137では その意味も込めて >>136の解説に対し

モ:ころころ変わっただけ。なぜなら(←こういうのが必要です)、
  その変化を示す文章がないから。経緯は下に示しましたよね。


10.
ec:承認要求は誰でもある ・・とまで掘り下げて解説したんだけれど

モ:違いますね。ecさんは、それだけだと言い捨てた。ここも取り繕い。


11.
ec:それでも理解ができず すり替えだとか コロコロ変わるだとか

モ:最初から徹頭徹尾、ごまかしてばかりですね。


12.
ec:人を見下したり 挙句の果てには 偉そうにお説教したり・・・


モ:挙句の果てでもないのでは。最初からお説教ですよ。(笑)


13.
ec:「御本仏だから出来た」・・てなんですか?
  つまり ご本仏だから 意図的に「地震が起こすことが出来たり
  光り物を飛ばしたり 雨を降らすことができる・・という事にもなりますよ


モ:歴史上、そう考えられてきたのは事実でしょうね。
  しかし、それらの奇跡を根拠として、仏とすることは無かった。
  その違いが、まだ、全然、ちっとも、分かりませんか?


14.
ec:あれ?? 日蓮大聖人様は「末法の御本仏」じゃなかったっけ?


モ:まずecさんは2ちゃんねる脳なので、本仏の理解が皆無。
  自分で思いついたものがすべてだと思っています。


15.
ec:祈雨の勝負で勝った奇跡を以て、大聖人は御本仏だと妄想している人たち
  の主張と 大して かわらず バカにする筋合いは ないんじゃない?

モ:私の文章を読みもしないで、それはないでしょう。(笑)
  その辺も、おっちょこちょい。悪く言えば、どうでもよいと本心では思って
  るから、理解したいとも思っていない人。


16.
ec:本当 無責任なのは どっちだよ!

モ:たいそうな捨て台詞なんかいいですから。言いつくろいではなく、
  話の中身に力を尽くしてください。まず、読むことですね。人さまの論評
  をするならです。あ、今頃、こんな当たり前のことを言わせるだなんて。

※ ecoさんとお話しするのって、全然、考えたりする所がないんですよね。


  • [144]
  • モウさん

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 2月 3日(水)01時56分3秒
  • 編集済
  • 返信
 
>ecoさんはコロコロ変わりますね。
>私の投稿文にそのような趣旨は無い。


もう一度伺いますが あなたは「何のため?」に>>136
事象そのものが自己申告だけしか 証文がなく 実態が不明瞭の要素が強く
しかも あなた自身までもが>>130にて

  「雨を降らせたから大聖人なのか!?とんでもないです!
   大聖人の思いとは、遠く離れた邪宗教の発想ですから。」

・・・などと あなた自身までもが おとぎ話のように捉えているのにも関わらず
>>136にて「祈祷対決」を引き合いに出して 証明に奔走している滑稽さは なんなんでしょうか


さらに >>136の講義にしても あなたが訴えていた内容は
目的を考えたら それは 日蓮=御本仏を証明する為の
文証を利用した「他者承認」という 承認要求のひとつにしか過ぎませんかね?
もちろん あなたも 同じです

だから>>137では その意味も込めて >>136の解説に対し

日蓮大聖人様は 文証をたよりに
「御自身を御本仏だ」と 承認要求をしただけの話じゃないですか?
・・と書いたん上 あなたも その邪宗さんたちと変わらないんだよ・・と訴えても
あなたが 承認要求の意味や ガスライティングの意味が飲み込めていない様子だから
しかたがないから >>142では(人間の心理として)
承認要求は誰でもある ・・とまで掘り下げて解説したんだけれど
それでも理解ができず すり替えだとか コロコロ変わるだとか 変な言いがかりをつけて
デマを飛ばしたり 人を見下したり 挙句の果てには 偉そうにお説教したり・・・


そんな態度じゃ
宿坊板でも鼻つまみにされてしまうのも解るなぁ・・・・



>>144
>>御本仏だから出来たのだという考えはありますけど、逆はないですね

「御本仏だから出来た」・・てなんですか?
つまり ご本仏だから 意図的に「地震が起こすことが出来たり
光り物を飛ばしたり 雨を降らすことができる・・という事にもなりますよ

あれ??
日蓮大聖人様は「末法の御本仏」じゃなかったっけ?

従って その主張は あなたが>>130にて その人たちを 嘲笑って見下していた
祈雨の勝負で勝った奇跡を以て、大聖人は御本仏だと妄想している人たちの主張と
大して かわらず バカにする筋合いは ないんじゃない?


本当 無責任なのは どっちだよ!







http://


  • [143]
  • ecoさんへ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 2月 2日(火)20時03分47秒
  • 編集済
  • 返信
 
こんにちは。


①【承認要求】について

  ecoさんはコロコロ変わりますね。


  2016年1月30日:
  ec:何の事はない
    要は 日蓮大聖人様は 文証をたよりに「御自身を御本仏だ」と
    承認要求をしただけの話じゃないですか?
  → 私の投稿文にそのような趣旨は無い。


  2016年1月31日
  モ:最初の一文で、「文証をたよりに承認要求をされだけ」とは誰のことでしょうね。
  ec:モウさん あなたです
  → すでにここで無責任に話をスリ変えていますね。


  2016年2月2日
  ec:モウさん あなたが 閲覧者に向けて 文証を頼りにして 「他者承認」を
  要求をしただけにしかすぎず
  → 今度は内容を離れ、私が承認を欲したという別の話にスルリと。(笑)


こういういい加減な手法で人と対話しようとするから、相手に伝わらないのですよ。
それだから、そこまで対話する義理もないので放置されてしまう。
普通の人だと、それを損だと考えますけど、ecoさんは意に介さない。



②すぐ下の投稿内容について。


苦労してまとめられ労に報いて、次の私の投稿の手を止めて、しばし会話を。

一つ一つをカチ割って説明しても、難しい話が苦手みたいなので分かりやすく。
だからですね、何度も言いますが、全部、あなたの勘違いです。(分かりやすっ)

まとめられた文章を読んでも、ecoさんの中で勝手にストーリが出来上がってて
知りもしないのに、私の考えだと思い込んでしゃべっているだけ。

私はそんなことを言ってませんよと言っても一向に耳に届かない。
単に言わないとか、言葉の問題ではなくてですね、心から思ってませんから。
一昨日も、ほぼ正反対だとまで述べているのにね。

それは私のこれまでの投稿文を読めば、想像がつくはずだけど。
つまり、ecoさんはまったく読まれていない。

末法が年月日で決まったという安易な2チャンネルの情報に踊らされてても
まだ目が覚めない。

自分にはどうしようもない“矛盾”に見えて答えがないと思っていても、世の中には
ちゃんと真実があるものなのでご心配なく。安直すぎるのも考えものですね。



③思いっきり勘違いされていることについて

なんだか勘違いの思い込みのスタートは。
法華講員が法華講員らしいことを言ったのに対して、私が噛みついたと思った様子。
そこが違いますね。

法華講員が例によってですが、昔からの教学を無視して、「自分不勉強で傲慢な妄想
」で、「光ものが本仏の証拠となる」と述べたことが、「どの宗派の立場(現日顕
宗除く)から見てもおかしいものですよと、私は述べたのですよ。

それがecoさんには分からず、学会(旧日蓮正宗)も昔はそうだったと勘違いした。
昔から、光ものを根拠として、御本仏だなんて祈祷師まがいの珍説なんてありません。
御本仏だから出来たのだという考えはありますけど、逆はないですね。

んで、私の文章が少し長いのは、では大聖人が実際のどうお考えで、珍説のほうが
どれだけ噴飯ものの考え方であるのかと、実際にはどういうことだったのか。

大聖人は奇跡なんか語ってませんよ、という私の考察なのですが、ecoさんは、
読んでないから知りませんよね。
まじめに関連の御書を読んでください。その上での説明だと気づいてください。

あなたには何も分かっていないのだということは、私には分かってはいるのですけど。
ちょっと、おっちょこちょいすぎます。全てにおいて。


④一昨日に私が投稿した内容について。

ecoさんの態度の無責任さを挙げて並べておきましたよね。
私が言わないことを言ったとした謝罪は今回もありませんでしたね。

あなたの身勝手な妄想で説明はいりません。私の意見だとするならそれを挙証すべき
ではありませんか。それがどうして
無いのに、平気な顔をして対話してるのでしょう。

そういう一つ一つの態度がいい加減すぎるのですよ。
だからいろいろ無理があるんですよ、あなたの場合は。


  • [142]
  • モウさん 錯乱しているの?(3)

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 2月 2日(火)11時47分29秒
  • 編集済
  • 返信
 
私が思ってもいないことを、勘違いして私の意見だと思っている。
私の意見だというなら、該当箇所を挙げてください。
(>>140でモウさんの発言)



なんだか 「しむらぁーー! 後ろ 後ろ」を思い出しちゃった。

------------------------------------------------------------------------
― 今までの流れ


>>130(モウ)
ずっっっっっと前の話題になるのでしょうけど、
法華講員の人が、大聖人は断首されそうになったときに 光ものが現れたことや、祈雨の勝負で勝った奇跡を以て、
大聖人は御本仏だと妄想されていたことについて笑ったことがありました。
   (中略)
雨を降らせたから大聖人なのか!?とんでもないです!
それは大聖人の思いとは、遠く離れた邪宗教の発想ですから。
そんな迷妄を晴らすために・・・・。


>>132(eco69)
あなたは 今でも創価学会の人間であり 御書も読んで精通しているわけですよね
・・・にも関わらず 今更ながら 何 寝ぼけた事を述べているんですか?
元々 それ等の部分(光り物や 祈祷対決の事)を強調して
比喩を盛んに宣伝していたのは 創価学会ですよ
また その事(光り物や 祈祷対決の事)を強調したのも創価学会です
あなたは 現場の指導とか聞いたことがないんですか?



>>134(モウ)
昔の教義を無視して変えてるんじゃないよということでしょうか。
そればかりか、昔からの教義を述べる人を馬鹿にするのはどうなのと。

それは誤解ですね。

私が昨夜に述べたことは、ずーっと昔からの教学ですよ。
古い御書講義を検索して見ていただければ分かります。

昔から学会は、というか、日蓮正宗はこういう見解でした。
祈雨は、法の正義そのものを表すものではなく、「ついで」です。
だから御書も読まない人だと、私は批判したのですよ。

混乱していませんか?
でも大聖人も、学会もその上でそれを使って述べて来ていますよ。
おかしくはないでしょう。


― この間 >>131>>136にて モウが法華講や創価との認識の違いを 対比して長々と御書講義をするが・・―


>>137(eco)
(>>131と136にて)文並べて モウさんが訴えたかった事は結局・・・

何の事はない
要は 日蓮大聖人様は 文証をたよりに
「御自身を御本仏だ」と 承認要求をしただけの話じゃないですか?
だから 創価からとらば~ゆした 法華講の人も含め 創価のほとんどの方は
あなたが 長々と書いていた文章を“簡潔”にして
  「光り物があったから 御本仏」だとか
  「祈祷対決で勝ったから 日蓮の言うことは正しい」だのと
権威論証に走るんじゃないでしょうか

[※尚 承認要求に対する説明につきましては>>141で書いております。]


>>138(モウ)
最初の一文で、「文証をたよりに承認要求をされだけ」とは誰のことでしょうね。
私ではなく、ecoさんがそう思われているだけです。



>>139(eco)
今度はガスライティングですか?


>>140(モウ)
私が思ってもいないことを、勘違いして私の意見だと思っている。
私の意見だというなら、該当箇所を挙げてください。


---------------------------------------------------------------------


【ガスライティング】
被害者が自身の記憶、知覚、正気を疑うよう仕向ける手法
例としては、嫌がらせの事実を加害者側が否定してみせるという単純なもの

wiki ガスライティングより抜粋


つまり あなたが>>138にて(>>140でも強調しておりますが)
「ecoさんがそう思われているだけです。」等と  あなたの主観で 断定的に人を決めつけている点が
被害者(この場合は閲覧者に訴えかけいるので ネガティブキャンペーンとも)
自身の記憶、知覚、正気を疑うように仕向ける手法で誘導する
ガスライティングに該当するのですが
ここでは あなたの意見ではなく 閲覧者みなさまの意見を伺いましょうか?

http://


  • [141]
  • モウさん 錯乱しているの?(2)

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 2月 2日(火)11時38分22秒
  • 編集済
  • 返信
 
モ:最初の一文で、「文証をたよりに承認要求をされだけ」とは誰のことでしょうね。
ec:モウさん あなたです。
モ:私はそんなことは言っていませんよ。


【承認要求】
承認欲求(しょうにんよっきゅう)とは、他人から認められたいとする感情の総称である。
承認欲求は承認されたい対象によって、おおむね2つのタイプに大別される。
ひとつは他人から認められたいという欲求であり  (中略) 前者を他者承認と呼び・・・  (wiki 承認要求)より抜粋


だから>>131>>136で講義した目的を考えれば
モウさん あなたが 閲覧者に向けて 文証を頼りにして 「他者承認」を要求をしただけにしかすぎず
その心理性を掘り下げれば 法華講や 創価の人間とレベルが変わらないし
しかも 彼らの方が あなたとは違い まとめる力もあって簡潔に片付けていて
こんな事は 基礎中の基礎で 誰が言わなくとも解る事なのですが
どうやら この方は特殊な様子で  しかも承認要求というのは「誰でもある事」を 自覚していないようですね

http://


  • [140]
  • ecoさんへ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 1月31日(日)17時26分57秒
  • 編集済
  • 返信
 
レスありがとうございます。うれしいです。分かってはいると思いますが、
なるべく端的に答えています。ここはこういう場所ですからお気になさらずに。


モ:最初の一文で、「文証をたよりに承認要求をされだけ」とは誰のことでしょうね。
ec:⇒ モウさん あなたです。
モ:私はそんなことは言っていませんよ。



モ:私ではなく、ecoさんがそう思われているだけです。
ec:⇒ 今度はガスライティングですか?
モ:私が思ってもいないことを、勘違いして私の意見だと思っている。
  私の意見だというなら、該当箇所を挙げてください。



モ:2チャンネルの話題ぐらいで、自分は知っているのだと思われてしまって
  簡単に矛盾点に落ちて出てこれなくなってしまっているだけです。
ec:⇒ あれ?推測ですか? あまりにも抽象的ですね
モ:上記の私の文章が「推測」に見えるのですか。また抽象的でもありませんね。



ec:結局は『それ等の矛盾には答えられない』・・と言っているようなもので
  反論にもなっていません。
モ:「結局は」とされる前提の内容が全くありません。矛盾を感じていると
  指摘したのは、ecoさんのことです。



モ:私が相手にしなければ、私が上に述べたような意見は耳には届かず
  勝手なご満悦を繰り返すことになるのでしょう。
ec:⇒「私が相手にしなければ」・・・お前 何様なんだよ(苦笑)
モ:何様であれ、的確な指摘だったと自負しています。



ec:こんな発言を平然とするから
 「文証をたよりに承認要求をされだけ」とは誰のことでしょうね。』
  ・・という問いに対し
モ:この文章はecoさんの根拠のない断定でした。



ec:典型的な自己顕示欲の顕れじゃん
モ:揶揄は結構ですね。でも具体的に言っていただかないと響きません。



ec:もっとも あなたの場合 2ちゃんの論客と比べても 耳を傾けるだけ
  の価値はない・と思われますが・・・
モ:では、耳を傾けるほどの価値ある内容をお願いします。



モ:私の意見を要約されたかに見えますが、私の意見とは全く異なります。
 どうしてこんな嘘を言ったのですか?
ec:⇒思ったことを 素直に書いただけなのに「嘘をつくんですか?』 などと
 変な言いがかりをつけてくるのか さっぱり・・・(呆)
モ:先ほど、『モウさん あなたでしょ?』と私の意見だと断定してましたよ。
  自分の意見を、相手の意見であるかのごとく話すのは誤りです。



ec:しかも「私の意見とは全く異なります。」などと 書いてしまった時点で
  意図からして不明にして文脈を暈しているじゃん(苦笑)
モ:私の意見とは違うと私が指摘しても、訂正もできないのですね。



ec:もう一度 モウさんに質問をしますね
モ:あなたは私の主張を曲げたことを、質問で誤魔化したいだけです。。



ec:あなたは「何のために?」祈祷対決の話や光り物の話を持ち出したのでしょうか?
  その目的を含め 説明していただけませんか?
モ:最初の私の投稿すら読まれていない。つまり徹頭徹尾、妄想だけでしたか。



ec:たしかに報恩抄にも御本仏を自覚するような示唆する話が書かれているけれど
モ:「たしかに」とは何でしょう?私がそのようなことを言いましたか。



ec:それは あなたが>>136で述べていた箇所ではなく 最後の行であって
モ:私が言ったことになっているから、勘違いが激しすぎるのです。(笑)



ec:しかも ちらっとしか触れておらず
  また 本格的に論じるなら 開目抄のP.232から先の話や当体義抄や
  三大秘法抄や御義口伝なのに そこにはちっとも触れていないし ・・・
  ピンボケもいいところ
モ:すみません、笑ってしまいました。思いっきりピンボケされています。
  それで私が上記のようなことを言ったことがありませんでしょ。
  すべてecoさんの意見、あなたが私に仮託した妄想です。



ec:― 本当、話が噛み合ってないないなぁ・・・
モ:お気になさらず。慣れていますから。時間が許す限りは大丈夫ですよ。



モ:日蓮大聖人が承認要求をされたという根拠は何ですか。
ec:⇒(5)に戻る 同じことを 二度も言わせるなよ
モ:いいえ、今度は私の質問、いえ詰問です。



モ:歴然とした事実を教えることが  私たちに承認してもらうことと同じだ
  と考えるのなら視点が歪んでいます。
ec:⇒「視点が歪んでいる?? 」ああ そっか・・・
  そういう見方もあるなぁ・・・(お茶)
モ:大聖人が承認を要求されたという事実があれば提示してください。
  なければ、あなたは只の嘘つきです。



ec:何せ 元から あなた自身の視点がズレているから こちらからみたら
  「ピンボケだなぁ・・・」と思ってもあなたからみれば歪んでいるように
  見えないのですから
モ:ボケボケの会話だと楽しいですね。



ec:ああ (・∀・) そういえば なんか そんな御文あったね
  どっちが「炭とみていたのか?」「灰と見ていたのか?」 その辺は
  御本尊しか存じていないようだけれど
  一つの物体に対し 二人を対象にして 片一方が「炭と見る」とか「灰と見る」とか
モ:いい加減な記憶を根拠にして主張しているのだと言うことはよくわかります。



ec:― ちょいと休憩・・・で、もって再開(2016.1/31 12:10)
モ:考えてるほどの内容ではないですよ。休憩ってなにですか。



モ:「じゃないですか」と。飛躍した見解で無理に結論付けておきながら、
  最後は文章をぼかす人。
ec:⇒飛躍??あなたが 最終的な結論として導く回答は
 「日蓮大聖人が御本仏とする信用性」じゃないでしょうか?
モ:少なくても私は下にそんなことを論じた憶えはありません。ecoさん、
  いかに相手の意見を気にも留めず、2ちゃんねるで泳いでるような程度の内容が
  すべてであるかのように勘違いされているかが分かります。

21.
ec:その上で、あなたは 光り物や祈祷対決を引き合いに >>131>>136で講義
  開いたんじゃないでしょうか?
モ:なぜ「引き合い」だと?他人の意見を妄想で語る前に、真摯に読むことです。


22.
ec:そういった意味では あなたも そこらへんの創価の人や 法華講の人と同じ趣旨を
  述べているようにしか 聞こえないし
  無理な結論でも飛躍でも飛脚でもなんでもないのですか・・・ 理解不能
モ:そうですね。ecoさんはそう思いこまれて、勝手に違う話まで全部持ってきて、
  文句を言ってるだけですね。それで通用すると思っている。でも違います。


23.
モ:あと 「じゃないですか」の言葉だけで 平然と「飛躍」と判断できる
ec:あなた自身の分析は理解できませんし なんか言いがかりというか
  難癖というか・・・
  単なる ラベリングの詭弁にしか聞こえないんですけれど
モ:いえ。上記を見ても、ecoさんは問題に真摯に向き合わずに、泳いでいるだけです。
  自分の意見に自分が信じるにたるほどの根拠を持たずに、決めつけようとされる。。


24.
ec:― 段々 返答するのが面倒くさくなってきたなぁ・・・
モ:それはウソでしょう?ecoさんが面倒だなんてことないはずです。


25.
モ:「言い訳とは?」私が何を弁解しましたか?
  知ったかぶりの人だと、事実で指摘をした私の目的が、 言い訳をかます行為と
  同一になるというのは虚報です。
ec:⇒今度は質問返しの詭弁というか 屁理屈というか 小学生かよ
  質問を返しているのではなく、質問がおかしいと言っています。私は弁解する
  ような言い訳を述べてはいません。

26.
ec:あなたは >>130>>134にて 他の法華講の人の話がお笑いだと 自慢したり
  「あいつらは御書を読んでいない」などと ラブユー貧乏 よろしく 「御書を読み
  切ったんだぞ」と言わんばかりに 大見栄きってさ
  その割には 法華講さんたちが主張しているような内容と大して変わらない
  長々とした駄文を>>131>>136で披露しているから なんだか言い訳がましいなぁ・・と
モ:私の主張が、法華講員でも知っている内容なら、それを知らずに誤りを知ったかぶり
  して語る法華講員は、やはり恥ずかしい人ではありませんか。
  まあ、ecoさんが、私の文章をまるで読んでないのは察してきましたけどね。


27.
ec:― ちょいと一服
モ:だから、要らないでしょう、この一服。


28.
モ:「要は」が指す内容は、全てecoさんの想像ですね。
  他人の動向を想像して、要はと言ってしまえるほど 発言がいい加減なもの言いを
  されているとの印象を受けます。
  また本日の投稿が「伝わり切れていない」と断言できる事実はまだありません。
  そういう想像を既成事実のように言うのだから、虚勢の人です。

ec: 何回も 言いますが お前さんの説明と 法華講さん等の説明 どこが違うんでしょうか?
  あなたの講義を聞いて あなたの意図通りに解釈した人が 何人いるんでしょうか?
  そういう意味で>>137では「伝わりきれていない」と書いたんだけれど
  なんか読解力がない・・・というか
  要は あなたの内面が伝わりきれていない  そういう意味なんですけれど
  まぁ・・・ 黒ヤギさんに 説明しても無駄なのかなぁ・・・

モ:少なくても私の投稿に対して、「伝わりきれていない」という事実はまだ無いのですよ。
  それをecoさんの想像から思い込んで断定しているだけ。
  伝わるかどうか、また他の人とどう違うのか、まず、ecoさんが読んで吟味されてみては。


29.
ec:― まだあんの?
モ:当然です。このようにecoさんの発言は、いい加減な言葉のオンパレードなのですよ。
  誰も面倒だから指摘されてこなかったけど、私、ちょっと親切ですからね。


30.
モ:矛盾を突いてるようでも、何もわかっていないから、そんな大雑把なことが言えるのです。
ec:⇒いつから宣教師になったんだよ
 「結局 何を主張したかったのか?」 わからないから  答えも大雑把になりますね
モ:結局、分からなかったんですか(笑)。大雑把な理解で断定されてはいけませんね。


31.
モ:信憑性とは、光り物が飛んだことに対してですか。
ec:⇒そうですよ あなたは 龍ノ口寺の文献でしか残されていない
  その光り物を信じていないのでしょうかね~ 今でも 創価の公式見解なのに?
モ:私の意見の中に、その光りもの信憑性について云々している所がありましたか?


32.
モ:それは私の意見ですか?
  私のは、祈雨の勝負を大聖人がどのように考えていたのかを
  大聖人の文章からつまびらかにすることが主眼なので何の問題もありません。
ec:⇒それ以前に
モ:なにが「それ以前」なのですか。勝手な妄想で被害を被った私に、また違う
  話でお茶を濁すのはやめましょう。私の意見もないのに、作出したんですよね?


33.
ec:祈祷対決が本当に行われたのか? この裏付けができていないんですけれど・・・
モ:下で私が簡単に述べていますね。


34.
ec:しかも あなたが書いた>>137の主張は  単に「経文のコーティングをしたか
  しなかったか? 」だけの違いだけで
モ:そんなことを私は言っていませんよ。何度も言ってるのに。


35.
ec:結論は やっぱり「ナンミョーを唱えたら雨が降った」・・・と言う
  非科学的な結論なわけで
モ:だから(笑)。私の下の投稿でそんな結論はありませんでしょう。
  思い込みですよと。はっきりいえば誤ってますよと。


36.
ec:それは目的を考えれば 承認要求していることに変わりがなく
  その点では 駄文というか 創価から 正宗へ行った 法華講の人と
  大して変わらないレベルだと思いますが
モ:だから前提がおかしい。そして「承認要求」も事実無根で真ん中もおかしい。
  そして駄文云々と言われるが、まるで読まれていない。


37.
ec:皆様は どのように感じられたのでしょうか?
モ:もし私の文章を読まれて、ecoさんの投稿を読むと、私の内容とはほど正反対
  のことを言われていることに気づきますよ。(笑)
  私はそれを親切に指摘しているのに。
  ecoさんがいかに事実を見ずに、妄想と思いこみで話されているのか。
  そんな方には法門を教えるべきではないのかもしれませんね。


38.
モ:北条家の家臣に、幕府が依頼した祈雨のことを
  日付入りで降雨が無かった経緯を説明するのに、全部嘘だったら 陳状書足りえません。
  共通の話題になるからこそ  結局は相手の人から信頼されたのですよ。
ec:⇒・・・ですから その金沢文庫に所蔵されている 鎌倉文献には
モ:ここも勘違い。私は「御書」のことを言っていますよ。


39.
ec:「光り物」も含め「祈祷対決」の記録が残されていないんですよ
  その点について 過去に言及したら 答えがちっとも返ってこないから
モ:私のあずかり知らぬところですが、取違いやすいから面倒だったんでしょうね。


40.
ec:所詮、身内のプロパガンダにしか 受け止められなくなっている
  今日この頃で共感も信頼も糞もないのが 世間なんですよ
  大丈夫かよ
モ:大聖人の御真蹟が残っていて、相手が受け取っています。
  相手が大聖人への誤解を解いたのですから、共感があったとするべきでしょう。


41.
ec:それでなくたって 創価学会自身 大御本尊を本物じゃない・・と疑ってしまうほど
モ:ん?歴史上の根拠が崩れただけのこと。本物という意味では飛躍ですね。
  学会が飛躍してるのではなく、ecoさんのとらえ方が端折りすぎなのですよ。


42.
ec:日蓮大聖人が残された文献は 真偽未決のものが多い状態なのに
  それで 証明が出来た・・て (呆)
モ:そこも変な考え方ですね。文章に私は御本仏だと書いてあればOKなのですか?


43.
モ:文章の意味が曖昧で、正確に判別するに足りません。
ec:⇒あれ? 天変地異が発生するのは 念仏や誤った宗教が蔓延っているから
  気象がおかしくなったり 大地震が発生すると
   立正安国論講義では断言していましたけれど 記憶違いなのかなぁ・・・
モ:経文にそう書いてありますからね。でもecoさんのは単純化しすぎなのです。
  こうあるべきだ。・・・でも現実はそうではない。でもその現実も認める。
  そして何か事情があるのではないか、どう行動すべきか、そこを掘り下げて
  いくところに人生の深さがあるのではないですか。御書はどこでもそのような
  とらえ方を説かれていますよ。


44.
ec:つか あなたは 1140P近くにも及ぶ 「立正安国論講義」を読んだことがあるの?
モ:ecoさんが読まれたことはお疲れ様です。立正安国論講義は各種あります。


45.
モ:ここも自分の出発で勝手に誤解されて終わっています。
  どこに年月日のみで決めたと言われていますか?
ec:⇒日蓮大聖人様は末法の御本仏でしょ? 像法の御本仏じゃないんですよ
  しかも その末法の年代だって 中国で発行された 周書異記に基づいた
  計算で決めたものであってそれを日蓮系は拠り所として 支持しているわけですが
  ところが 釈尊が存在していた時期については 昔から諸説あって
  西洋の学説でも その周書異記に記述されてから 500年もの後と
  戦前あたりから言われているし、また 日本の仏教界のほとんど
  周書異記の記述を支持せず後者を支持していたりもするのですが
  そのことを 把握していない様子ですね
モ:と、アホな学者が知ったかぶりで言ってることを受け売りですね。
  答えを言うと、諸説あることなんか大~~~昔から分かっているんですよ。
  だいたい経文でさえも諸説あるというのに。昔の人だって迷うでしょう。(笑)
  大聖人が云う末法とは、中国の人たちが大集経の記述のみを受けて
  きめたわけではないことまで言及されています。
  戸田先生の時代ですら、質問会でそれを問う人に明確に答えられています。
  古代インドの一年は、作物の取り入れに従うので、一年を二年で数えることも。
  そんな大昔のネタに、私、どう答えるべきかわからないくらい。
  ecoさんの情報は、古い、いい加減な視点で山積みになってるんですよっ。


46.
ec:ちなみに 500年も後だと 日蓮大聖人が存在していた時期は
  像法となるわけですが 周書異記の記述が正確だという証明も含め
  整合性が合わせられないんですか?
モ:ほら。妄想を根拠に整合性を取らねばならないと思われてる。
  ecoさんの発想は、昭和初期の人以下の知識で思い込みの程度なのですよ。
  私、しゃべりすぎ?


47.
モ:昔の人でもそうは思っていないのに、ecoさんが言ってるだけです。
  エンケ彗星と同じですね。
ec:⇒ zzzzz(- -)  あああ( ゚д゚ ) ごめん ちょっと寝てた
  ・・・で なんだって?
  「(17)昔の人でもそうは思っていないのに、ecoさんが言ってるだけです。
  エンケ彗星と同じですね。」
  ↑ ↑ ↑ ↑ ↑
  この回答自体 理解不能です
モ:記述した人も推測だと言ってるのに、ecoさんの頭の中では確定に変わって
  いるところが似ているということです。


48.
ec:何を 思って「昔の人は そう思っていない?」・・と断定したのか
  よくわからないし
モ:うん、よく分かっていないと思います。分からないのに、断定されるのだから
  他の人は相手にしたくなくなるのだと思います。まずそこを直されては?


49.
モ:どうですか?
ec:⇒ 公明党の松あきら元参議院議員を思い出しちゃった
  また「どうですか」などと ドヤ顔されてもね~
  しかも うちも含めた閲覧者に強弁かつ 承認要求を求めてる あたりから
  単に「自己陶酔」に酔いしれているような・・・
モ:自己陶酔、承認要求とか、言葉づかいだけで、内容なんて、てんで無いよう。
  まず普通に人と向き合って会話されんことを望みます。
  そのためには自分の意見をきちんとただし、相手の意見をよく理解すること。
  貴方の投稿だと、【面倒だから】相手にされないだけです。
  ecoさんはおそらくそれで楽しんでよいと思っている。
  でもそれでは真実の知識には至らないということです。

  • [139]
  • モウさん 錯乱しているの?

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 1月31日(日)10時27分52秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>138

(1)最初の一文で、「文証をたよりに承認要求をされだけ」とは誰のことでしょうね。
⇒ モウさん あなたです。



(2)私ではなく、ecoさんがそう思われているだけです。
⇒ 今度はガスライティングですか?



(3)2チャンネルの話題ぐらいで、自分は知っているのだと思われてしまって
簡単に矛盾点に落ちて出てこれなくなってしまっているだけです。

⇒ あれ?推測ですか? あまりにも抽象的ですね
結局は『それ等の矛盾には答えられない』・・と言っているようなもので 反論にもなっていません。



(4)私が相手にしなければ、私が上に述べたような意見は耳には届かず
勝手なご満悦を繰り返すことになるのでしょう。


「私が相手にしなければ」
 「私が相手にしなければ」
 「私が相手にしなければ」


お前 何様なんだよ(苦笑)
こんな発言を平然とするから
    「文証をたよりに承認要求をされだけ」とは誰のことでしょうね。』 ・・という問いに対し
    『モウさん あなたでしょ?』・・と答えられるんですけれど

典型的な自己顕示欲の顕れじゃん

もっとも あなたの場合 2ちゃんの論客と比べても 耳を傾けるだけの価値はない・と思われますが・・・



(5)私の意見を要約されたかに見えますが、私の意見とは全く異なります。
どうしてこんな嘘を言ったのですか?


⇒思ったことを 素直に書いただけなのに「嘘をつくんですか?』 などと
変な言いがかりをつけてくるのか さっぱり・・・(呆)

しかも「私の意見とは全く異なります。」などと 書いてしまった時点で
意図も含めて文脈を暈しているじゃん(苦笑)

もう一度 モウさんに質問をしますね
あなたは「何のために?」祈祷対決の話や光り物の話を持ち出したのでしょうか?
その目的を含め 説明していただけませんか?

あと・・・
たしかに報恩抄にも御本仏を自覚するような示唆する話が書かれているけれど
それは あなたが>>136で述べていた箇所ではなく 最後の行であって しかも ちらっとしか触れておらず
また 本格的に論じるなら 開目抄のP.232から先の話や当体義抄や三大秘法抄や御義口伝なのに
そこにはちっとも触れていないし ・・・  ピンボケもいいところ



― 本当、話が噛み合ってないないなぁ・・・



(6)日蓮大聖人が承認要求をされたという根拠は何ですか。
(5)に戻る 同じことを 二度も言わせるなよ



(7)歴然とした事実を教えることが  私たちに承認してもらうことと同じだと考えるのなら視点が歪んでいます。

⇒「視点が歪んでいる?? 」
ああ そっか・・・   そういう見方もあるなぁ・・・(お茶)
何せ 元から あなた自身の視点がズレているから こちらからみたら「ピンボケだなぁ・・・」と思っても
あなたからみれば歪んでいるように見えないのですから

ああ (・∀・) そういえば なんか そんな御文あったね
どっちが「炭とみていたのか?」「灰と見ていたのか?」 その辺は 御本尊しか存じていないようだけれど
一つの物体に対し 二人を対象にして 片一方が「炭と見る」とか「灰と見る」とか



― ちょいと休憩
    ・・・で、もって再開(2016.1/31 12:10)



(8)じゃないですか」と。飛躍した見解で
  無理に結論付けておきながら、最後は文章をぼかす人。

⇒飛躍??
あなたが 最終的な結論として導く回答は
「日蓮大聖人が御本仏とする信用性」じゃないでしょうか?

その上で、あなたは 光り物や祈祷対決を引き合いに >>131>>136で講義開いたんじゃないでしょうか?

そういった意味では あなたも そこらへんの創価の人や 法華講の人と同じ趣旨を述べているようにしか 聞こえないし
無理な結論でも飛躍でも飛脚でもなんでもないのですか・・・ 理解不能

あと 「じゃないですか」の言葉だけで 平然と「飛躍」と判断できる
あなた自身の分析は理解できませんし なんか言いがかりというか 難癖というか・・・
単なる ラベリングの詭弁にしか聞こえないんですけれど



― 段々 返答するのが面倒くさくなってきたなぁ・・・



(9)「言い訳とは?」私が何を弁解しましたか?
知ったかぶりの人だと、事実で指摘をした私の目的が、 言い訳をかます行為と同一になるというのは虚報です。


⇒今度は質問返しの詭弁というか 屁理屈を並べているよ
あなたは >>130>>134にて 他の法華講の人の話がお笑いだと 自慢したり
「あいつらは御書を読んでいない」などと ラブユー貧乏 よろしく 「御書を読み切ったんだぞ」と言わんばかりに 大見栄きってさ
その割には 法華講さんたちが主張しているような内容と大して変わらない 長々とした駄文を
>>131>>136で披露しているから なんだか言い訳がましいなぁ・・と



― ちょいと一服



(10)「要は」が指す内容は、全てecoさんの想像ですね。
他人の動向を想像して、要はと言ってしまえるほど 発言がいい加減なもの言いをされているとの印象を受けます。
また本日の投稿が「伝わり切れていない」と断言できる事実はまだありません。
そういう想像を既成事実のように言うのだから、虚勢の人です。


何回も 言いますが お前さんの説明と 法華講さん等の説明 どこが違うんでしょうか?
あなたの講義を聞いて あなたの意図通りに解釈した人が 何人いるんでしょうか?
そういう意味で>>137では「伝わりきれていない」と書いたんだけれど  なんか読解力がない・・・というか
要は あなたの内面が伝わりきれていない  そういう意味なんですけれど
まぁ・・・ 黒ヤギさんに 説明しても無駄なのかなぁ・・・



― まだあんの?



(11)矛盾を突いてるようでも、何もわかっていないから、そんな大雑把なことが言えるのです。

⇒いつから宣教師になったんだよ
 「結局 何を主張したかったのか?」 わからないから  答えも大雑把になりますね



(12) 信憑性とは、光り物が飛んだことに対してですか。

⇒そうですよ あなたは 龍ノ口寺の文献でしか残されていない
 その光り物を信じていないのでしょうかね~ 今でも 創価の公式見解なのに?



(13)それは私の意見ですか?
私のは、祈雨の勝負を大聖人がどのように考えていたのかを
大聖人の文章からつまびらかにすることが主眼なので何の問題もありません。


⇒それ以前に 祈祷対決が本当に行われたのか? この裏付けが できていないんですけれど・・・
しかも あなたが書いた>>137の主張は  単に「経文のコーティングをしたか しなかったか? 」だけの違いだけで
結論は やっぱり「ナンミョーを唱えたら雨が降った」・・・と言う  非科学的な結論なわけで
それは目的を考えれば 承認要求をしていることには 変わりがなく
その点では 駄文というか 創価から 正宗へ行った 法華講の人と 大して変わらないレベルだと思いますが
皆様は どのように感じられたのでしょうか?



(14)北条家の家臣に、幕府が依頼した祈雨のことを
日付入りで降雨が無かった経緯を説明するのに、全部嘘だったら 陳状書足りえません。
共通の話題になるからこそ  結局は相手の人から信頼されたのですよ。


⇒・・・ですから その金沢文庫に所蔵されている 鎌倉文献には 「光り物」も含め「祈祷対決」の記録が残されていないんですよ
その点について 過去に言及したら 明快な答えが ちっとも返ってこないから
所詮、身内のプロパガンダにしか 受け止められなくなっている 今日この頃で
共感も信頼も糞もないのが 世間なんですけえrどね  大丈夫か?
それでなくたって 創価学会自身 大御本尊を本物じゃない・・と疑ってしまうほど
日蓮大聖人が残された文献は 真偽未決のものが多い状態なのに  それで 証明が出来た・・て (呆)



(15)文章の意味が曖昧で、正確に判別するに足りません。

⇒あれ? 天変地異が発生するのは 念仏や誤った宗教が蔓延っているから
気象がおかしくなったり 大地震が発生すると  立正安国論講義では断言していましたけれど 記憶違いなのかなぁ・・・
つか あなたは 1140P近くにも及ぶ 「立正安国論講義」を読んだことがあるの?



(16)ここも自分の出発で勝手に誤解されて終わっています。
どこに年月日のみで決めたと言われていますか?


⇒日蓮大聖人様は末法の御本仏でしょ? 像法の御本仏じゃないんですよ

しかも その末法の年代だって 中国で発行された 周書異記に基づいた計算で決めたものであって
それを日蓮系は拠り所として 支持しているわけですが  ところが 釈尊が存在していた時期については 昔から諸説あって
西洋の学説でも その周書異記に記述されてから 500年もの後と 戦前あたりから言われている事だし
また 日本の仏教界のほとんど  周書異記の記述を支持せず後者を支持していたりもするのですが
そのことを 把握していない様子ですね

ちなみに 500年も後だと 日蓮大聖人が存在していた時期は 像法となるわけですが
それでは 御本仏という証明にはならないわけで そのためにも
周書異記の記述が正確だという証明も含め 整合性が合わせないといけないんでないの?



(17)昔の人でもそうは思っていないのに、ecoさんが言ってるだけです。
エンケ彗星と同じですね。


⇒ zzzzz(- -)  あああ( ゚д゚ ) ごめん ちょっと寝てた
・・・で なんだって?

(17)昔の人でもそうは思っていないのに、ecoさんが言ってるだけです。
エンケ彗星と同じですね。

  ↑ ↑ ↑ ↑ ↑
この回答自体 理解不能です

何を 思って「昔の人は そう思っていない?」・・と断定したのか よくわからないし
(16)のことだったら 既に回答したし しかも  なんで そこで「エンケ彗星」の話が出てくるのか その脈略がわからない



(18)どうですか?

⇒「どうですか」などと ドヤ顔されてもね~
うちも含めた閲覧者に強弁かつ 承認要求を求めてる あたりから
単に「自己陶酔」に酔いしれているだけ

http://


  • [138]
  • こんにちわ、ecoさん

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 1月31日(日)02時33分50秒
  • 編集済
  • 返信
 
またまた誤解をされているんだと思います。

私の意見ではなく、ご自身の中で私の意見を想像して、
それについて疑問なのだとされています。

最初の一文で、「文証をたよりに承認要求をされだけ」
とは誰のことでしょうね。私ではなく、ecoさんがそう
思われているだけです。

以下もそう。2チャンネルの話題ぐらいで、自分は知っ
ているのだと思われてしまって、簡単に矛盾点に落ちて
出てこれなくなってしまっているだけです。

ご自身の疑問を、視点と根拠をはっきりとさせて聞いて
こられるなら、私も受けますが、これでは受けかねます。

でも、
しかし、ecoさんも私と関わるのはそこそこ長い。
このままでは、少し冷たいかもしれませんね。

きっと。
私が相手にしなければ、私が上に述べたような意見は
耳には届かず、勝手なご満悦を繰り返すことになるの
でしょう。

一度、きちんと返事をしておきますね。


> 何の事はない 要は

→私の意見を要約されたかに見えますが、私の意見とは
→全く異なります。どうしてこんな嘘を言ったのですか?



> 日蓮大聖人様は 文証をたよりに「御自身を御本仏だ」
> と 承認要求をしただけ

→日蓮大聖人が承認要求をされたという根拠は何ですか。
→歴然とした事実を教えることが、私たちに承認してもら
→うことと同じだと考えるのなら、視点が歪んでいます。


> をしただけの話じゃないですか?

→いつもこれ。「じゃないですか」と。飛躍した見解で
→無理に結論付けておきながら、最後は文章をぼかす人。


> あなたが「あいつらは御書を読んでいない人」だとか
> 言い訳をかましてもです。

→「言い訳とは?」私が何を弁解しましたか?
→ 知ったかぶりの人だと、事実で指摘をした私の目的が、
→ 言い訳をかます行為と同一になるというのは虚報です。


> 要は伝わりきれていないわけですね

→「要は」が指す内容は、全てecoさんの想像ですね。
→ 他人の動向を想像して、要はと言ってしまえるほど
→ 発言がいい加減なもの言いをされているとの印象を
→ 受けます。また本日の投稿が「伝わり切れていない」
→ と断言できる事実はまだありません。そういう想像を
→ 既成事実のように言うのだから、虚勢の人です。


> ちなみに、光り物にしても その祈祷対決にしても
> 鎌倉文献には載っておらず 信ぴょう性に関しても
> かなりの宿題が残されている事象で

→ 矛盾を突いてるようでも、何もわかっていないから、
→ そんな大雑把なことが言えるのです。信憑性とは、
→ 光り物が飛んだことに対してですか。それは私の
→ 意見ですか?私のは、祈雨の勝負を大聖人がどのよう
→ に考えていたのかを、大聖人の文章からつまびらかに
→ することが主眼なので何の問題もありません。

→ 北条家の家臣に、幕府が依頼した祈雨のことを日付入り
→ で降雨が無かった経緯を説明するのに、全部嘘だったら
→ 陳状書足りえません。共通の話題になるからこそ、結局
→ は相手の人から信頼されたのですよ。


> 第一、気象と人間の心の因果関係に関する証明が

→ 文章の意味が曖昧で、正確に判別するに足りません。


> なんだかんだ 理屈をならべても

→ 私は、身のお覚えのない証明に理屈を並べていません。


> コミット性ばかり集めた利根【りこん】だけというのは

→ 文章が変です。「コミット性」や「利根だけ」というよ
→ うな内容を話題にしたことはありません。
→ ecoさんの想像ですから、正確に何を意味するのか他の
→ 人にはわかりませんし、分からないように書くことが、
→ 自身のなさと、責任のなさを表しているようです。


> 問題じゃないでしょうか?

→ ほら。勝手に自分で妄想を他人に仮託しておきながら、
→ 問題だとされる。しかも疑問形で聞いてくるのですから。
→ こういう姑息な手法が問題だとは思いますよ。


> しかも 実態は 正法・像法・末法の計算が違う

ここも自分の出発で勝手に誤解されて終わっています。
どこに年月日のみで決めたと言われていますか?
昔の人でもそうは思っていないのに、ecoさんが言ってる
だけです。エンケ彗星と同じですね。



どうですか?
このようにecoさんの文章は、言葉は勇ましいが、内実を
全く伴っていない所が多いのですよ。



そうは言ってもレスをいただいて本当は喜んでいます。
懲りずにレスをいただくことを私は希望しています。


  • [137]
  • 長文並べて モウさんが訴えたかった事は結局・・・

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 1月30日(土)22時33分11秒
  • 編集済
  • 返信
 
何の事はない
要は 日蓮大聖人様は 文証をたよりに「御自身を御本仏だ」と 承認要求をしただけの話じゃないですか?


だから 創価からとらば~ゆした 法華講の人も含め 創価のほとんどの方は
あなたが 長々と書いていた文章を簡潔にして
「光り物があったから 御本仏」だとか
「祈祷対決で勝ったから 日蓮の言うことは正しい」だのと
権威論証に走るんじゃないでしょうか あなたみたいに 長々と書いても
あなたが満足するだけで 周りは あくびするだけだ

それは いくら あなたが「あいつらは御書を読んでいない人」だとか
言い訳をかましてもです。

要は伝わりきれていないわけですね

ちなみに、光り物にしても その祈祷対決にしても 鎌倉文献には載っておらず
信ぴょう性に関しても かなりの宿題が残されている事象で
すなわち 身内だけの伝説話にしか 受け止められていません。

2ちゃん創価板に 今でもシリーズとして残っている「日蓮ってver」に目を通すと
立正安国論も含め いろいろ 疑惑がいっぱい出てきますよ


第一、気象と人間の心の因果関係に関する証明が
なんだかんだ 理屈をならべても コミット性ばかり集めた
利根【りこん】だけというのは問題じゃないでしょうか?

しかも 実態は 正法・像法・末法の計算が違う
末法に突入する前の平安時代でも 大地震や富士山の噴火の記録が残されている
さらに 今も異常気象だが それは今に始まったわけではなく
今みたいな異常気象が鎌倉時代にもあって
(立正安国論の講義で 池田先生が述べていますよ)
日蓮の視点に立てば 地球の温暖化が原因とは言い切れない一面があるのに
そこの部分を見落として 原因が二酸化炭素による温暖化だと思い込んでしまった
公明党をはじめとした 創価等の安逸さ

※京都議定書の環境会議が開催された当時 ブッシュ政権のアメリカが
 かなり非難されていたせいもあってか
 Newsweekが温暖化に疑問を呈した特集を組んでいたりもしたわけですが
 創価の人たちは 目の前の日蓮の意見を無視して
 実は 原発推進派だった 環境団体さん等の意見を鵜呑みにしたわけやね


鎌倉時代は 二酸化炭素を排出するほどの文明が栄えていましたっけ?
産業革命は かなり後ですよ



本当、裏付けしていかなければならない 課題がいっぱいありますね
その前に 宮田や松岡さんあたりなんざ 簡単に放棄しちゃったけれどさ

http://


  • [136]
  • 報恩抄と祈雨のこと ②

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 1月29日(金)21時52分56秒
  • 編集済
  • 返信
 
/
★ 大聖人の祈雨の勝負について ★


大聖人の法門を見つめる視点は、前回に述べた。

だが世の中は、なかなかそうは思ってはくれない。だから当時の皆が思うことに沿って、
目に見えた勝負で決さないといけなかったのだ。それが大聖人の祈雨の勝負だ。

法門について書かれた報恩抄には、祈雨のことをこれほど詳しく述べているのに、この
御自身の大勝利した勝負のことは、ほんの微塵すらも出てこない。
このことからも、祈雨の勝負の真意がどのようなものか分かろうというものだ。

実は文永8年の祈雨の勝負の後のほとんどの御書には、その記載はない。そしてあらゆる
御書に、勝負の行く末、大聖人が雨を降らせたことを自ら語る御書は存在していない。
何故、書かれないのか。それは言うなれば、書く必要がないのだ。

大聖人は、よく大切なことを伝えるために、わかりやすい表現を用いられた。いつでも厳
密な法門をそのまま展開されているわけではない。例えば、死後にどのような世界に迎え
られるかを多くのお手紙に書かれて、故人を讃えて、残る人々を安心させているけれど、
仏法の常識では、死後に人が誰かに手をたずさえられて道を歩く世界は無い。

「中有(ちゅう)の人には十二因縁(じゅうにいんねん)具(つぶさ)に之無し
又天上にも具には之無く又無色界にも具には之無し。」(P407)

(意訳:死んだあとに、人がものごとを考えたり、感じたりする世界は無い。)

これをもって、大聖人を嘘つきと思うなら、およそ、ものごとを真面目に考えていない。
これまでも私は何度も述べてきたが、昔の人は馬鹿ではない。お母さんが子供に夜の空に
浮かぶ月を指さして、月の伝説を子供に語っても、月にウサギが住まないことは、子供で
も見れば分かることだが、その共通の表現を受け入れ、共通の話の土台とするのだ。

実際には分からないことを、そうでないと知りつつ、同時にそうであるかのように認識し、
例えで語り、受け取る側もそこから話者の意図をつかむ。つまり真実でないことと真実、
そのどちらの表現も大切だったのだ。



大聖人と良寛との祈雨の勝負は、これと同様の表現がなされている。
報恩抄のような内容、法門を率直に語ったものではない。が、また矛盾するわけでもない。

良寛との「祈雨の勝負」とは、良寛という律宗の僧侶が、旱魃が続くので雨ごいを行おう
としたところ、大聖人が、良寛の祈りでは絶対に降らないと持ちかけたものだ。もし七日
の間に降れば、大聖人は改宗して良寛の弟子にでもなると。一宗をかけた勝負にしようと。
結果、雨は七日たっても降らず、延長した次の七日も降らずに良寛は完璧に敗れた。
面目をつぶされた良寛は頭を下げるどころか、大聖人をなきものにしようと画策する。

良寛がどんな人だったのかは、「良観忍性との祈雨対決」(日蓮宗 妙覚寺 高橋俊隆)
に詳しい。 http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index146.htm

重要な視点は、彼は、虫も殺さないという戒律をもつ徳の高い僧侶として有名なのだけど、
他人の命は平気で奪おうと画策した人間だ。高僧などといえど、その正体は知れている。



良寛との祈雨の勝負は、「頼基陳状」(P1153)と、「下山御書」(P343)に詳しい。
これらの御書は、どちらも明らかに対外的な意図があって書かれている。どちらの御書も
仏法を誤解した主君から門下が追い出されそうな危急の時に、彼らの主君に向けて、大
聖人が自ら草案を代筆されたものだ。だからどちらの文章も信徒の視点で書かれている。

危機に瀕しており、少しの表現のゆるみも、誤解を広げて最悪の事態を招きかねない。
何しろ送り先は、大聖人を誤解しているのだから、法門の詳細な見解どころではない。
難しい視点は避け、あなたの信じる良寛は、こんな奴ですよ、と示せればよいのだ。

頼基陳状では、大聖人は、四条金吾の立ち場として、祈雨の勝負をこう語らせている。

「此体は小事なれども 此の次でに日蓮が法験を万人に知らせばやと仰せありて」(P1157)
(意訳:祈雨なんて小さなことだが、ことのついでに、日蓮の正しさを知らせようと)

仏法の本当の法門から見れば、取るに足りない小さなことなのだと。
そんなことすら出来ない良寛をやみくもにありがたがるのはやめたほうがよいのだと。
日蓮の法験を知らしむとの表現は、良寛と同じ立場を示したもので、本書の意図からすれ
ば当然のことで、ここでもし客観的な陳述になれば、読むほうは、わけがわからない。
対等な勝負なのだからこれでいいのだ。合わせて、取るに足りないこととの表現が、行き
過ぎにきちんと歯止めをかけている。仏法の本来の意義と離れ、ついでのことだとの表現
してみせることで、含みを持たせていることに留意したい。
繰り返すが、大聖人は、この勝負を「ことのついで」だと述べておられるのだ。

頼基陳状には、良寛との祈雨の勝負が詳しく書かれている。内容はここでは省略したい。
頼基陳状で祈雨を述べた趣旨は、このように結論されているのだ。

「約束のままに日蓮が弟子ともなりたらば道心の少にてもあるべきにさはなくして無尽の
讒言を構えて殺罪に申し行はむとせしは貴き僧かと日蓮聖人かたり給いき又頼基も見聞き
候き」(P1158)

(意訳:約束通りに日蓮の弟子になると言うならまだ良いが、幕府に働きかけて讒言して
日蓮を殺すように依頼している。これがはたして尊い僧なのかと大聖人が語っている。)


これがはたして尊い僧なのかと。これが、この祈雨の勝負を書いた意味なのだ。
あと、途中で下の御書のような表現もあるが、これも本抄の意図からは特別でもない。

「後生をそろしくをぼし給はば約束のままにいそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道を
しへ奉らむ七日の内に雨こそふらし給はざらめ、」(P1158)

(意訳:良寛は勝負にまけたのだから謝りに来るべきだ。雨を降らす法も、仏になる道も
教えてやろうと言ったのだ。)


雨を降らせる方法を大聖人が教えてあげると言う。ここも雨を降らせると豪語した良寛に
勝負を挑んで勝ったのだから、これぐらいの言葉の勢いがあってもよい。実際に大聖人が
降らせられるのかという問題とは無関係なのだ。なぜなら、もしそこにこだわって、これ
を単なる勝負と見るなら、後で述べるように大いなる矛盾と大変な誤解を生んでしまう。



次に。

またもう一つの御書、下山御消息にも祈雨の勝負が詳しく述べられているが、これまでの
内容と同じなので大筋は省略したい。結局は、これらの御書を与えられた人、つまり四条
金吾は危機的な立場を乗り越え、因幡房は下山氏が大聖人に起伏に至るのだから、十分に
勝負の記述は門下の危機を救い、功を呈したのだ。

下山御消息で一つだけ記すなら、なぜ祈雨の勝負をしたかの理由が記された最初の所。

「現証に付て事を切らんと思う処に、彼常に雨を心に任せて下す由披露あり、古へも又雨
を以て得失をあらはす例これ多し」(P349)

(意訳:現実の証拠で彼の悪を暴こうと考えたところ、彼が常に雨を自由に降らすことが
できると吹聴していることに目をつけた。古の時代も雨で徳を示したではないか。)


良寛が、常に「出来るんだ」と吹聴しているから、人々に得失を促すためにやったのだ。
決して大聖人の仏法そのものを掘り下げることまでが本意ではない。

ここが分からないと随分と変な話になることに自然と気がついてほしい。例えばこうか。
「やはり大聖人が悟られてるから示せる法力なのではないか。良寛に雨を降らせる道を
教えてやろうとまで言われてるんだからな。なんといっても、大聖人が雨を降らないと確
信を持って言われたのは不思議なことだろう。」とか。

たしかにそうは言われてるのだが、次の「種種御振舞御書」にも祈雨の勝負のことが少し
記されてるので、読んで、冷静になって状況を考えてほしい。
この種種御振舞御書は、本当は誰に宛てたかは確定されてないが、それは重要ではない。
平左衛門尉と対面したときに大聖人が語ったシーンを回想しているので、語った相手は、
まるでこっちを向いてない、法門なんかあさっての方を向いてる平左衛門尉なのだから。

その人に良寛が祈雨の勝負でいかに敗れたかを再確認して語ったという。

「せんずるところは六月十八日より七月四日まで良観が雨のいのりして日蓮に支へられて
ふらしかねあせをながしなんだのみ下して雨ふらざりし上逆風ひまなくてありし事」(P912)

(意訳:良寛が祈っても、日蓮が晴天を支えたので雨を降らすことができず、良寛は汗を
流して祈り、涙を呑んで悔しがったが、ついに雨は降らなかった。)

(注:涙は悔しくて流したらとしたのは、頼基陳状の「使者ありのままに申す処に良観房
は涙を流す弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる」(P1158)の表現を参考にした。)

日蓮が晴天を支えたのだとある。これは良寛房が悔しがってそう憎まれ口をたたいたのを
省略して書かれたのかもしれないが、どちらにしても大聖人も弁解もせずにこういう表現
を採用されているのだ。これまでの頼基陳状や下山御消息の文面を見ても、大聖人が雨を
降らせない側なのだ。そうすると周囲に示されたこの“日蓮の法の験”とは何なのか。

当然、日蓮の法力というからには、この後、大聖人が雨を降らさなければ、お話としては
おかしくなってしまう。だが、それは御書にもどこにも一切、記されてはいない。
また仮に降らせられたのだとしても、約束の七日が終わって、その後の次の七日も雨は降
ってはいないのだ。上の三つの御書には、次の七日目も良寛が降らせなかったとあるので、
良寛が悔しさに期間を延長したように考えがちだが、意外にも勝負は七日で終わっている
ことは、頼基陳状、下山御消息の両御書をよく読めば明記されているのだ。

「此に両火房祈雨あり去る文永八年六月十八日より二十四日なり」(P349)
(意訳:良寛が祈ったのは、6月18日から24日までの7日間。)

「すみやかに其のいのりやめ給へと第七日の申の時使者ありのままに申す処に良観房は涙
を流す弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる」(P1158)

(意訳:約束の七日目に終結宣言をした。良寛らは涙を流して悔しがった。)

この最初の七日の後に大聖人が延長を認めたなどと読める記述はない。また大聖人がそれ
を認める必要もない。良寛が祈るのをやめたはずなのに、それでも風が強くなり、次の七
日間も降らなかったではないか、良寛のせいだと惨状を追記しているに過ぎない。最初の
七日目できちんと大聖人は、こう勝負を終結宣言されているのだ。

「七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三
丈の堀を越えてんや」(P1158)

(意訳:七日で降らせなかった。これを以て、成仏などもっての他だと知りなさい。)

しかし一方では、種種御振舞御書には、良寛の祈りが17日間続いたとも書かれている。

「せんずるところは六月十八日より七月四日まで良観が雨のいのりして」(P912)
(意訳:結局は、6月18日より7月4日までの17日間も良寛が祈ったのに)

14日間ではなく、具体的に17日間とあるから18日目に雨が降ったのかしれないが、
知る由はない。要するに17日間も降らなかったのは、全部、良寛のせいだということが
言われたかったのだろう。良寛にはそんな力しかないのだと。もちろん、種種御振舞御書
の記述は、勝負の内容を省略しているので鵜呑みには出来ないが、良寛が次の七日までた
とえ一方的にでも祈りを続けた可能性も否めない。詳細な事情はさまざまに考えられるが
どちらにしても大聖人は14日間以上も、大旱魃で降らせない側に立っていたのだ。
これを勝負だと言われたら、人々の思いはどうだったのだろう。



ここまで読むと、大聖人がもし自由に雨を降らせる力があるなら、なぜ大旱魃に際して、
最初から雨の祈りをしなかったのかと人々は思わないだろうか。何もしなかったくせに、
祈りをするという人が現れると、おまえでは叶わないと言う。それはその人の持つ法が誤
りだからというならまだ分かるが、上述のように、日蓮が支えてるから天が降らせないの
だとまでなれば、周囲の人々はただの誤解では済まない。
法の正邪を決するどころではな
い話になってしまうのだ。大聖人は良寛より力の強い呪詛の人という印象になってしまう。
それでは悪の側に立っているかのごとく人びとの目には写ることだろう。

だから種種御振舞御書で、平左衛門尉に経緯を語ったときに、その部下たちが罵声を浴び
せたのは自然と想像できる。「良寛上人が一生懸命に祈雨を祈ってるというのに、貴殿は
何をされてるというのだ。雨を降らさない側に立つなんてとんでもない!」と。

だから、勝負を世間で言うような法力くらべだと理解すると、変な話になってしまう。
また、そんなことを大聖人は言われてはいないのだから。なぜやったのか。それは良寛が
自由にできると吹聴していたからだと述べた。また大聖人には謗法の者でも雨を降らすと
いう見識が最初からあったことも述べた。だのに、この勝負に挑んだのだ。

世の人々は、この矛盾をよく考えてほしい。いや、矛盾だと分かるからあまり言及されな
い人たちが多かったのか。

小さきことと言われるが、一宗派をかけた勝負ではないのか。本当は些事などではない。
謗法でも雨が降ることがあることは御存知だったのに、どうしてこの勝負を挑まれたのか。
・・・・だから不思議にも未来を知る仏さまなのか。(それは思考の逃避。)

両御書をそのまま読めば、勝負とはいえ、大聖人は大旱魃を支える側の人となってしまう。
つまり、これを単なる勝負と考えれば、たとえ勝負とはいえ、民衆に苦労を味わわせても
雨を降らさない状態を続けさせた。苦しませた後で仏法の証明をすればよかったのか。
・・・・だから、安直な人々は、この後、大聖人が雨を降らしたに違いないのだと妄想を
必然として理解をしてしまいがちなのだ。(しかし、そうではないのだ。)

人々が困るのを尻目に、雨をふらさずにいた。
はたして日蓮大聖人は、悪の側なのか・・・・?


(つづく)

  • [135]
  • 諸天の使者さんは、

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 1月29日(金)20時31分39秒
  • 返信
 
書き逃げどころか、書く前から逃げてて、何が言いたいのか、
さっぱりわかりませんよ。

  • [134]
  • ecoさん、こんちゃっ

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 1月29日(金)20時30分8秒
  • 返信
 
ecoさん、レスありがとうございます。

ecoさんの意見をまとめると、

昔の教義を無視して変えてるんじゃないよということでしょうか。
そればかりか、昔からの教義を述べる人を馬鹿にするのはどうなのと。

それは誤解ですね。

私が昨夜に述べたことは、ずーっと昔からの教学ですよ。
古い御書講義を検索して見ていただければ分かります。

昔から学会は、というか、日蓮正宗はこういう見解でした。
祈雨は、法の正義そのものを表すものではなく、「ついで」です。
だから御書も読まない人だと、私は批判したのですよ。

混乱していませんか?
でも大聖人も、学会もその上でそれを使って述べて来ていますよ。
おかしくはないでしょう。
その間のニュアンスの違いが分かっていただければよいのですけど。

例えば、エンケ彗星等は、推測として述べられてきたもの。
推測を確定して述べたりしないでしょう。ごっちゃにしてはいけません。

かっての日蓮正宗の教義理解の通りでなく、変わるところはありますよ。
事実は事実ですからね。観心釈ということでよいものと思います。
先生の見解や、学会の見解が掘り下げられて、理解が変わるということ
はありますが、何を言われんとされたのか、そこを大切にしたいですね。。

で、それと、昨夜の私の普通の話をまぜこぜではいけません。

だって、私の考察は、これから・・・なのですよ。

  • [133]
  • 阿部日ケ~ン(院政)

  • 投稿者:諸天の使者今日から法華講
  • 投稿日:2016年 1月29日(金)11時45分8秒
  • 返信
 
書き逃げしなさんな



  • [132]
  • モウさん 御書についての感想を述べるのは勝手ですが

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 1月29日(金)09時14分54秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>法華講員の人が、大聖人は断首されそうになったときに
>>光ものが現れたことや、祈雨の勝負で勝った奇跡を以て、
>>大聖人は御本仏だと妄想されていたことについて、笑ったことがありました。


あなたは 今でも創価学会の人間であり 御書も読んで精通しているわけですよね
・・・にも関わらず 今更ながら 何 寝ぼけた事を述べているんですか?


元々 それ等の部分を強調して 比喩を盛んに宣伝していたのは 創価学会ですよ
また その事を強調したのも創価学会です
あなたは 現場の指導とか聞いたことがないんですか

しかも「仏法と宇宙を語る」等で
「エンケ彗星が顕れたから 光り物は本物で ご本仏の証左」などと
教学部の人間が池田本人と木村教授の前で堂々と述べて 無理やり 裏付けようとしていたり
漫画「四条金吾」でも 雨乞い祈祷も光り物も そのような方向へ誘導するような描写があったり
さらに新人間革命でも 未だに「龍ノ口の法難」が真実のように書いていますが・・・

ソレラを述べていた教学部の人たちは全て 池田先生も含めて
大聖人の心が解っていなかった・・と


しかも 法華講とは言え 元をたどれば  殆どの人が創価学会出身という点を忘れていませんか?
(これは寺院の僧侶にも当てはまりますね)

もし、あなたが(それでも)押し切って あなたの我見に基づいた論を述べ
御書が読めていないなどと結んで 否定したり 見下す態度であるのなら
それは残念ですが 創価学会を破折をしているようなもので
「今まで述べていたのは間違いでした」・・と言わない限り  整合性も含めてめちゃくちゃになりますね



http://


  • [131]
  • 報恩抄と祈雨のこと ①

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 1月29日(金)02時50分22秒
  • 返信
 
/
祈雨のことは、実は報恩抄に詳しい。その報恩抄の送状には、こう言われている。

「親疎と無く、法門と申すは、心に入れぬ人には言わぬ事にて候ぞ」(P330)
(意訳:真摯に受け止める余裕のない人には、これらの法門の内容を語るな。)

厳しくも、大聖人は、報恩抄の中で、法門について詳しく語られているのだ。
では報恩抄には、祈雨について、どのように書かれているのだろうか。やはり謗法の人間
が祈ったところで、雨は絶対に降らないと書かれているのか。いや、そうではない。

昔の中国に光宅寺の法雲という僧侶がいて、彼が中国で最初に法華経をおとしめたのだ。

「法華経はいまだ仏理をきわめざる経と書かれて候」(P298)
(意訳:法雲という僧侶が、法華経は究極の真理を説く経典ではないと布教した。)

そんな彼が人望を得たのは、大旱魃の時に雨を祈って降らせたことによるのだと。
講義中に突然に目の前で雨を降らせたという。天子も感激し、大成功だったのだ。

「此の人の御義仏意に相ひ叶ひ給いければこそ、天より花も下り雨もふり候けらめ、かか
るいみじき事にて候しかば、漢土の人人さては法華経は華厳経・涅槃経には劣にてこそあ
るなれと思いし」(P298)

(意訳:中国の人たちは、法雲の教義が正しいから、天より花も雨も降ったのだと思った。
そうして法華経は、華厳経や涅槃経より劣った経典なのだと広く理解された。)


その後に中国の地に、天台大師が登場して、法雲の邪義を法門の上から打ち破っていく。
しかし天台宗も法雲が経典を読み雨を降らせた事実は認めているのだ。大聖人も同様だ。

「光宅が忽に雨を下し須臾に花をさかせしをも、妙楽は、「感応此の如くなれども猶理に
称わず」とこそかかれて候へ。されば天台大師の法華経をよみて、「須臾に甘雨を下せ」
伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらしておはせしも、其をもつて仏意に叶うとはをほせ
られず
」(P319)

(意訳:法雲が雨を降らせた事実に、妙楽大師は、「なるほど。ちゃんと雨が降ったね。
でも彼の法門のほうは理に合わないからね。」と平然と言っている。だから、天台大師が
すぐに雨を降らせたときも、また、伝教大使がすぐに雨を降らせたときにも、それらの雨
をもって、仏意に適うなんてことは、彼らのうちの誰も言われてはいない。)


ここでもう、全ての結論が書いてしまった。
この大聖人の言葉を真摯に受け止めてみよう。
そんなことで仏意に適うかどうかなんて、ちゃんちゃらおかしいのだ。天台も伝教も雨を
降らしたからといって、自分たちの法門が正しいなんて言ってないんだよと。
法雲もそうだけど、雨を降らせたからといって、それで法門が正しいとは言えないよね。
それを根拠にして、仏意にかなっているんだなんて、そこまで言える人はおかしいんだ。
そう言ってるの。

では誰がそう言っているのか。大聖人ではなく邪宗の人たちが、そう言ってるのだ。
だから、彼らのその愚を打ち破ることが主眼なのだ。間違ってはいけない。

それなのにだ。御書も読まずに、勝手に大聖人の思想を作る人は、これまた傲慢なのだ。
それでは真実にたどり着くことはない。祈雨の勝負で勝ったことが、大聖人が仏である根
拠になりえるかのように言う人は、
大聖人とは正反対のことを言ってるのだ。



報恩抄では、この途中で、祈雨のことに次々に触れらている。まず有名な真言宗の三人の
開祖、つまり善無畏、金剛智、不空が、それぞれ祈雨を行ったことが述べらている。
先ほどの法雲と違うところは、彼らの場合、雨は降ったけど、三人ともすぐに大風が吹い
て多くの家屋を荒らして人々を苦しめたのだと。金剛智と不空の二人は、天子も最初は喜
んだけど、その大風に困って興ざめ、二人とも追放の処分となったのだそうだ。だから雨
さえふればいいのではないのだと言われている。

しかも別件だけど、この金剛智という人は、祈願する時に、幼い子供を人身御供として薪
にくべて燃やしたのだ。はたして、こんなのが仏法なのかって!?

「結句は姫宮の御死去ありしに、 いのりをなすべしとて御身の代に殿上の二女七歳にな
りしを 薪に・つみこめて焼き殺せし事こそ無慚にはおぼゆれ、 而れども・姫宮も・い
きかへり給はず」(P316)

(意訳:金剛智三蔵は、天子の王女が病死すると、それを生き返らせる祈りが出来るのだ
と言って、位の高い二人の七歳の女の子を選び、その二人を薪に積み込んで焼き殺した。
もちろん、王女も、そしてまた二人の女の子も生き返ることはなかった。)


本当に、こういうのを祈ることが仏法だなんて、はなはだしい誤解だ。そもそもこの金剛
智は、生き返らせる自信があったのか。それを突き詰めて考えると、真言宗の開祖という
のがいかに、いい加減な人物であったかが手に取るように分かると思われる。


これらの真言宗の開祖の三人は過去の人だったけど、次に大聖人の時代の真言師で、法印
という名前の人の話になる。文永十一年に祈雨を行ったところ、やはり雨が降ったけど、
その直後に、まだ初夏だというのに台風のような嵐になって死者が多くでたとのことだ。
この顛末は重要なので最後にもう一度ふれるつもりだけど、ここで注目したい点は、真言
宗の開祖の三人と同じ祈雨の結末、つまり大雨は降ったけど、大風も同時に来て国土を荒
らしたことについて、大聖人はどう言われたのか、そこを見つめよう。
「ほうら、真言宗は大風が来る傾向があるのだ」とか、悟りを得たような物知り顔で言わ
れたのか。否である。ここまで現証が一致していたら、普通ならそう言いいたい所だが。
だけど大聖人は、こういうふうに面白く、言われている。

「雨のいのりに吹きたりし逆風なり、善無畏金剛智不空の悪法をすこしもたがへず伝えた
りけるか心にくし心にくし。」(P317)

(意訳:大風まで吹いたのは、真言宗の開祖の悪法をそのまま伝えているようだ。法印の
演出は実に心憎いね。)


疑問形だ。嫌みとして述べられてるので、悟ったような発言より、こっちのほうがよほど
耳に届くけど、皮肉の表現に留めていることに注意してほしい。この表現は重要だ。


次には日本の真言宗の祖、弘法大師の話になって、この人の場合、大聖人が暴いた記録に
よると、彼の祈雨の伝説というのは、天長元年のことなのだけど、実は祈雨を命じられて、
全然、降らなかった日が三週間も続いたのだ。その後、三週間が過ぎてようやく降り出し
た雨を、真言宗は、四百年間も、弘法大師が祈ると雨が降ったのだと伝えてきたのだ。
その他、弘法大師の虚偽に数多く触れられているが、雨に関してだけ言えば、種々御振舞
御書にある大聖人の言葉にそのまま言い表されている。

「弘法は三七日すぎて雨をふらしたり、此等は雨ふらさぬがごとし、三七二十一日にふら
ぬ雨やあるべき設いふりたりともなんの不思議かあるべき」(P922)

(意訳:三週間が過ぎて雨が降ったって、三週間もたてば雨が降らないなんてことはない
し、こんなので降っても何の不思議があるというのか。)


大聖人の見解は、現実を見据えている。降ったところで「なんの不思議かあるべき」だ。
真言宗の修法などどうでもよい。ただ都合よくは降っていなかっただろという視点だ。
それを誤魔化してすごいことのように吹聴していた真言宗が虚偽だったというわけ。
世の中の人は、空海を偉い人だと思う人も多いけど、この報恩抄の虚飾を知るべきだね。


そして、この後も、雨を思い通りに降らすことの不思議さは、どんどん格下げされる。

「いうにかいなき婬女破戒の法師等が歌をよみて雨す雨を三七日まで下さざりし人はかか
る徳あるべしや是」(P319)

(意訳:普通の女性が歌を詠んで雨を呼んだという故事があるではないか。それを三週間
も呼べない人に、どうして特別な法力なんかがあるなどと言うのか。)


これも御書では何度もみる表現だ。もう仏法でも何でもない、そこいらの人でも出来るこ
となので、それが法が正しいことと直結すると考えるなら、大いな誤りなのだと。

このニュアンスが分かるだろうか。仏法は勝負を先とはする。法を正しく行じた現証が大
切なのは言うまでもない。だが意味が異なる。法を修行して、積み上げた現証は自分が人
生で関わってきたこと、現実に変えてきたこと、選択し、決断し、見守り、耐え、考え、
勇気を出し、人と関わり、人知を尽くし、それらの結果にもたらされた現証は、まちがい
なく自分の人生の一部だと言える。

法が正しいかどうかを現実の結果でみるとはそういうことだ。
例えば勉強を決意し、結果、有名大学に合格すれば、最初の決意は正しかったと言える。
しかし大学に合格した姿だけを見て、決意の有無を想像することは難しい。ただの気まぐ
れで受けて合格したのかもしれない。その法門が人をどのように決意させて、途中の修行
がどんなだったの現実の過程を抜かしては、結果だけを以て法門の正邪を判別できない。

だから報恩抄では、こう述べられてるだ。単なる現象がすごいかどうかが正しさの判断基
準だったら、それだったらインドの外道は超常現象をいっぱい起こせたではないかと。
彼らは大水を自分の耳の穴にとどめたり、空を飛んだりとか。

「古の人人も不可思議の徳ありしかども仏法の邪正は其にはよらず、外道が或は恒河を耳
に十二年留め或は大海をすひほし或は日月を手ににぎり或は釈子を牛羊となしなんどせし
かどもいよいよ大慢ををこして生死の業とこそなりしか」(P319)

(意訳:外典の人の能力がすごくても、仏法の正邪は人を超えた現象で判断はしてはなら
ない。彼らは、河川の水を自分の耳の穴に収めたりとか、空を飛んで日月を掴んだりとか
も出来たとはいえ、慢心が強くて、苦しんだ人生を送ったではないか。)


でも彼らは、生死に苦しむ業から逃れることは出来なかったのだ。彼らは仏法を馬鹿にし
たけど、彼らのうち、誰も自分の生き方を満足のいくものに変えることはできなかった。
超能力があっても、でもそんなこと、全然、大したことじゃないだろって、結局、そうい
うことなのだ。

つまり、雨を降らすことが仏の格なのではなく、そんなちっぽけなことすらも出来ないく
せに、自分たちは自由に雨を呼べるから、自分たちの方が正しいと吹聴してるインチキ僧
侶たちを馬鹿にするという、ごくまっとうなニュアンスなのだ。

これが法門の正邪を厳しく見つめる大聖人の視点だ。

  • [130]
  • 虹色のさん

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 1月29日(金)02時38分41秒
  • 返信
 
私、大変に失礼なことを言ってしまったのかもしれません。
どうか、お気になさらないでください。

かく言う私は、ずっっっっっと前の話題になるのでしょうけど、
法華講員の人が、大聖人は断首されそうになったときに光ものが
現れたことや、祈雨の勝負で勝った奇跡を以て、大聖人は御本仏
だと妄想されていたことについて、笑ったことがありました。

馬鹿にしただけで、口を閉ざすのも非礼かと思い、光もののほう
は他のかたが言及されていますので、私は祈雨のほうを述べます。

雨を降らせたから大聖人なのか!?とんでもないです!
それは大聖人の思いとは、遠く離れた邪宗教の発想ですから。
そんな迷妄を晴らすために・・・・。


  • [129]
  • モウさま お久しぶりです

  • 投稿者:虹色の
  • 投稿日:2016年 1月28日(木)01時33分23秒
  • 返信
 
宿坊板が正常だった頃の過去ログ読んでたら、
あべひさんの投稿の画像が気になったので、
質問したら、こうなっちゃいました。
すみません。

  • [128]
  • よく分からないので

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 1月27日(水)19時42分20秒
  • 編集済
  • 返信
 
皆さま、こんにちわ。

下のは、他板の投稿の続きなのでしょうか、何のことか私にはよくわかりません。
何というか、もう少し、分かりやすいように配慮をしてもらえるといいのにね。

あ、また文句ばかり言う奴だと思われるために来たわけではありません。
私も自分の好きなことをアップさせていただこうと思って、今、書いてるところです。
あと、2、3日かかるかもですが、待っててくださいね。

  • [127]
  • 阿部日ケ~ン(院政) さま

  • 投稿者:虹色の
  • 投稿日:2016年 1月27日(水)17時23分44秒
  • 返信
 
なりゆきでややこしくなってしまいましたが、

>>107の件
http://megalodon.jp/2016-0109-0235-13/6027.teacup.com/situation/bbs/3284
よろしくお願いします。




  • [126]
  • 阿部日ケ~ン(院政)の 見苦しい 悪あがき

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 1月26日(火)17時20分2秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>125
やっぱり >>107の件に関して(この記事の事⇒http://megalodon.jp/2016-0109-0235-13/6027.teacup.com/situation/bbs/3284
「答えたくない本音」が滲み出ていますね

そりゃそうだ あれ 誰が どうみたって 違法行為で写したものか
著作権を無視して 2次3次の配布物を転載したか その いずれか だもの


(しかも 実は「飛び曼荼羅」が どんなものか? 実態が解らないまま
 飛びマンダラを根拠に 佐渡流罪以前から
 紙曼荼羅を拝していたなどと主張していたことが判明したり)




本来なら>>107の件に関しては >>122で説明責任を果たすのが筋でしょ
だけど あなたは >>107の件を差し置いて >>121を酒の肴にし
法華講に対する 誹謗・中傷だけ書いて 話を締めくくり 話題を変えようとして
論点をズラそうとしたわけだよな 話をすり替えるなよな

だから >>124では あらためて >>107の件に関する質問と
>>122の書き込みで感じたことを同時に書いたわけで
それは 論点ズラシでも なんでもありません


しかも >>124を書いてから 一週間も反応を示せず 返ってきた答えがソレだけ とは・・・(呆)

http://


  • [125]
  • 典型的な

  • 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)
  • 投稿日:2016年 1月26日(火)16時35分32秒
  • 返信
 
ecoちゃんが大好きな論点ズラシのやりかたですね。

もうこないでね。



  • [124]
  • その前に 

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 1月19日(火)23時49分56秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>122

まだ あなたが 宿坊板でハバを効かせていた頃に掲載した
「複数の御本尊が奉っている例の写真」

アレは 誰が撮影した写真なのでしょう?
また どこで撮影したものなのでしょう?
さらに「撮影した場所」に対する 裏付けも説明していただけませんか?

しかも ああいった写真は 教義上では
      「本来 写してはいけないもの」じゃなかったっけ?

信心の姿勢も問われますが たとえ
「邪宗の御本尊だから撮影してもいいんだ」・・と思い上がって撮っていたとしても
それでも あなたが主張するところの「根檀家?」さんの許可が必要で
それがなければ ただの「盗み撮り」で 肖像権も含め 撮影者自身の信心姿勢も問われますね

(ただし 外国人を筆頭とした外部の方は 除外です。  ・・・というのも「故意ではない」と言うか
 撮影することが どういう結果になるのか?  何故?撮影してはいけないのか?
 そういった基礎的なことや 細かい点等が把握しきれていないから 違和感なく撮影ができるわけで
 それは創価や法華講を信仰している人たちとの認識が明らかに違います。)





>>ネット法華講員の間で裁判沙汰になっている事件はご存じですか?

別に そんな事件があろうが なかろうが 知っても 知らなくてもどうでもいいこと

そうやって 他人事のように 揚げ足的かつ 自分の立場と対比したネガキャン張って
創価は素晴らしいとでも結論づけて 承認要求を試みているんでしょうけれど
ところが この掲示板が設立した目的や経緯 宿坊板との対立
あなたがブログ村の創価さんに対しておこなっている モラハラ 或いは その逆
さらに 沖浦さんや小野さんとの抗争など考慮すれば
おまえさんのいる 創価の間も似たり寄ったりの状態じゃないでしょうかね

あ!「裁判沙汰になった」「ならない」とかいう法囲的な詭弁を並べないようにね

ああ ごめん それでも 今、三船美佳さんと高橋ジョージさんとの間で
民事裁判沙汰になっていて そのことで 幹部が裏で 無理やり和解の方向へ誘導して
自ら犯した汚点を隠したい様子でしたっけ


・・・で、こんなことを書くと
「人の不幸を あざ笑うのか?」・・て突っ込まれてしまうのですが この場合は違うでしょ

あなたが 法華講員同士の争いを 嘲笑って 上げ連ねて「足を洗え」等と結論づけているから
「比較が出来るレベルなのか?」・・という意味であげた上
それこそ「お前こそ 創価の足を洗えよ」・・と逆に突っ込みたくもなりますが




>>見るも哀れな状況になっていますね。

自分たちは さも「安全圏です。」「聖域です。」と言わんばかりに
またもや対比的な詭弁を並べて 法華講員の哀れさを あなたは強調しているけれど
ところが 現役の学会員?でもある沖浦さんも  あなたや小野さんに対して こんな事をよく言っていたじゃないですか

  「必死に法華講を叩いていたのに なんでこのようになったのか。
   見るも哀れな状況になっていますね。」・・て

他人の事を あげつらう前に、自分たちの荘厳懺悔を行ったら如何ですか?


つか その説法を聞いていると・・・ あなたの嫌いな沖浦さんを思い出すから
人間としての価値としては 大して変わらないのかなぁ・・と

http://


  • [123]
  • 投稿者:諸天の使者今日から法華講
  • 投稿日:2016年 1月19日(火)19時55分52秒
  • 返信
 
 ↓ 私の事であれば、逃げはしないが全く違う(笑)

ズバリHNを言ってみたらどうでしょ


  • [122]
  • おや?

  • 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)
  • 投稿日:2016年 1月19日(火)16時31分9秒
  • 返信
 
HNを変えただけの法華講員さんがやってきているようですね。

ネット法華講員の間で裁判沙汰になっている事件はご存じですか?

http://6210.teacup.com/kekeke/bbs

かつては、妙輪寺の黒川和雄氏、札幌の松木氏と組んで、ネット学会バッシングに
興じていた苫小牧のたかぼんさん。

見るも哀れな状況になっていますね。

必死に学会を叩いていたのになんでこのようになったのか。

考え直してみればいかがですか?

日顕宗から足を洗うことをお勧めします。


  • [121]
  • (無題)

  • 投稿者:諸天の使者今日から法華講
  • 投稿日:2016年 1月18日(月)20時45分35秒
  • 返信
 
なんだかんだ、あーだこーだ。(笑)


何で破門になったのかでけを考えればよろし。

  • [120]
  • 透明さま

  • 投稿者:虹色の
  • 投稿日:2016年 1月16日(土)18時11分15秒
  • 返信
 
申し訳ありませんが、犀角独歩氏のその件については存じませんので、コメントを控えさせていただきます。



  • [119]
  • 虹色の様

  • 投稿者:透明
  • 投稿日:2016年 1月14日(木)16時00分16秒
  • 返信
 
虹色の様

そう言えば、犀角独歩氏は戒壇本尊以外に、六壷安置の日興模写板本尊(大石寺持仏堂本尊)も
パッチワーク本尊だと画像を上げられていますね?



  • [118]
  • 「虹色の」さんと 福島の壮年さんへ

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 1月14日(木)02時08分21秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>115
人間革命5巻の「布石の章」を読んでみてください

尚 >>114は 若干 訂正があります 寺の所有権を巡って対立していたのは
身延ではなく京都の要法寺で そこに身延と言うか 国柱会などが絡んで 昭和18年まで揉め
裁判の末 ようやく日蓮正宗の寺院になったわけですが
ところが 戦後も戦後で「飛び曼荼羅」が伊達家の手で売られそうになったので
多分、戸田先生等が協力したのかぁ・・・ 最終的に「飛び曼荼羅」は寺院に残る事となり
そんな事などから 戸田の目頭を熱くした・・と言う描写が 人間革命5巻の「布石の章」では書かれています。

【参考】仙台仏眼寺
http://www7b.biglobe.ne.jp/~takabon8160/nitirenshoushuujiinitiran-touhoku-butugenji.html
【参考】仙台法難
http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/nichiren_rekishi3.htm
【参考】戦前の創価学会
http://www.ac.auone-net.jp/~davinci1/nenpu1-5.html



>>116

(日興上人に)残れる正筆とは・・・
     [天]:飛び曼荼羅
     [地]:安国論写
     [人]:三筆の聖教     ・・である。

[天]の曼荼羅は“ 三 枚 つ づ き ”全面興師壮年時代の筆法
年代が文永5年10月13日とあるに相応するが、書式は、まったく弘安年度のでありて
「日蓮の名」は「興師御筆」で“「花押」だけ”が、蓮祖(日蓮大聖人の事)のであり
荒町より青葉城内に飛んで火難を避けたというよりも、大いに不可思議な御本尊ではあるが
ここには早くより「座側」に在りては「代筆をも勧められたこと」の証左にならぬでもない。

(堀日亨著 日興上人詳伝 聖教文庫-昭和49年発行 第7刷 P.40)



  • [117]
  • パンツ大好きヘンタイさん

  • 投稿者:虹色の
  • 投稿日:2016年 1月12日(火)19時21分30秒
  • 編集済
  • 返信
 
また「パンツ住人」がパンツパンツとヘンタイ投稿www
http://megalodon.jp/2016-0112-1905-56/6027.teacup.com/situation/bbs/36638
http://megalodon.jp/2016-0113-2051-07/6027.teacup.com/situation/bbs/36695

  • [116]
  • 飛び曼荼羅、仏眼寺

  • 投稿者:虹色の
  • 投稿日:2016年 1月12日(火)11時46分59秒
  • 編集済
  • 返信
 
仏眼寺の飛び曼荼羅、名前だけは以前から知ってました。
一枚の御本尊様なのに複数の曼荼羅とか、イメージがわき辛いですが、切手の連刷みたいな感じなのでしょうか?
http://homepage2.nifty.com/~h-naga/yushu/rensatsu/tatejima.html

仏眼寺自体は、受験で仙台行った時に立ち寄ったことがあります。
福運の塊みたいな丸々とした大きな老猫(ペルシャ?かわいかった)がいたの覚えてます、、、笑

  • [115]
  • ecoさんへ

  • 投稿者:福島の壮年
  • 投稿日:2016年 1月12日(火)08時50分23秒
  • 返信
 
>(ういえば創価学会自身 飛び曼荼羅の事を如何思っているんだろうか?)

どうでもいいと思っているんではないでしょうか?
飛び曼荼羅にかかわる「そういう事実」があったというだけで、
教学的にその詳細を知る必要もないし、
学術的にもおそらくこれ以上、資料として大きな意味を持つ
新しい事実が出てくることは考えにくいし・・・。

創価学会に纏わる史実のとして、知っておいてもいいだろうと
(知っておく「べき」というほどのものではない)
そういうことでしょううね。

  • [114]
  • それ以前に「飛び曼荼羅」というのは・・・

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 1月11日(月)00時56分42秒
  • 編集済
  • 返信
 
一枚では収まりきらず 群で構成されている曼荼羅で
従って 御本尊一面に 複数の曼荼羅が書かれている 非常に珍しいもので
それは 人間革命でも 詳伝でも 仏眼寺の経緯も含めて解説してあった筈ですよ
ちなみに 人間革命によると 仏眼寺が
正式に日蓮正宗側へつけて元に戻ったのは戦後で
それまでは日蓮宗(身延側)の住職が 不法占拠状態で寺と曼荼羅を管理していたらしく
それで 管理をする権利を巡って「裁判沙汰になっていた」ことが書かれていた記憶があり
そんな事を鑑みると 宿坊板のログを見る限り おそらく阿部日ケ~ン(院政)さんは
「仏眼寺の歴史」とか「東北創価の貢献」とか「飛び曼荼羅が どんなものか?」
それ等が ブリッジも組めず まったく解っていなかったんじゃないのか?



  • [113]
  • 飛び曼荼羅?

  • 投稿者:虹色の
  • 投稿日:2016年 1月11日(月)00時47分18秒
  • 返信
 
この画像ですか
比較して、どうなのでしょうか?

それもですが阿部日さまの宿坊板の画像のオリジナルは、、、

  • [112]
  • おお・・おい! その写っている曼荼羅・・・・ 汗

  • 投稿者:eco◆Smw69
  • 投稿日:2016年 1月10日(日)17時11分49秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>107
> http://megalodon.jp/2016-0109-0235-13/6027.teacup.com/situation/bbs/3284


もしかして あべひちゃんが言うところの「発迹顕本を起こす前」
つまり「佐渡流罪前に日蓮が顕されていた」と騒ぐ「拠り所」としていた
          時 代 考 証 が ま っ た く 合 っ て い な い
1991年まで 東北地方の創価学会も拝していた
仙台仏眼寺に所蔵されている 日興上人合作の「飛び曼荼羅」じゃないのか?

【参考】http://fujikyougaku.fc2web.com/ronbun/tobimandara.htm

こんな 子供だましのような トリックに 誰も気付かなかったのかよ!!



しかも そんな 由緒ある代物を「日蓮正宗の根檀家の曼荼羅群。」などと判断している以上
あべひちゃん お前、本当に「人間革命」も「日興上人詳伝」も読んでねぇーな!

さらに 始末が悪いことに、奴は その宿坊板にて
阿部日ケ~ン(院政)が指した 例の「根檀家の曼荼羅群」を<引き合いにだして
2年前の今頃 ・・・

  「佐渡流罪以前から御本尊を顕していた」
  或いは「開祖当初から御本尊があった」等と

富士宮ボーイから ポチョドンの掲示板に至るまで騒いだ挙句
大論争にまで発展したんじゃないかよ !!

※「飛び曼荼羅」に関する こちらの見解⇒http://6001.teacup.com/qwertyui/bbs/15211


本当「デタラメな事」ばかりペラペラと・・・(呆れ)
ちゃんと調べてから モノを言えよ!

http://


  • [111]
  • 学会員が大御本尊にこだわる理由・・・無し(笑)

  • 投稿者:名無しさん
  • 投稿日:2016年 1月10日(日)09時46分39秒
  • 編集済
  • 返信
 
まあ、戸田先生をなめすぎだわね。信徒だからって下手に出てれば、すっかり勘違いして。
戸田先生は地涌の菩薩の棟梁の自覚から、広宣流布を目指された。大聖人の仏法はすべて地涌の菩薩に譲られたの。
戸田先生の獄中から出たあとの、獅子吼を知らないのかな。当時の僧侶の誰を、地涌の菩薩なんどと認めてたというのか。
牧口先生は、宗門には誰一人としていないと断言されてる。

御本尊のことは、本質的には、すべて地涌の菩薩に権限があるの。勘違いしてはいけない。
戸田先生は、世法の上から慣習を重んじて、僧侶でなければならないと、地涌の菩薩の権限から、彼らに与えてきてあげたの。喧嘩する必要ないし。世法でそうだし。でも仏法上、与えたのは戸田先生だから。
実は偉大なる御法主上人から、与えてもらったのではなく、本来の権限をもつ学会が、それでいいよと法主に貸し与えてきただけのこと。それが本義だよ。法主の証明だという二箇相承書にも、地涌の菩薩が出るまで、とそう書いてあるというのにね。

清潔なみなりさん、この人もまた自分の「我見」が最優先。何も考えずに自分の結論だけを振り回している人。
だから、「何故、そうなのか」が全くない。云わく、池田先生が大切にされたからだと。それなら、その池田先生が認めてられるのだからよいのではないか。また、戸田先生もそう言われたからだと。そこまで言うならば戸田先生がどのような思想なのかをなぜ学ぼうとされないのか。

およそ法華講員でないのなら、大きな勘違いをしすぎてるか、他に特殊な原因があってわざと曲解を旨としている人なのだろう。

たとえ法華講員だとしても、こういう勘違い人が生まれる背景には、今の年配の学会員で教学を学んだのは、その多くが、昭和50年代以降の年代において、書籍ではなく、巷間の人の話だけで信仰の教義の全体だと勘違いする機会が多かったためだろう。その当時は、教学を人づてで聞いただけの人は、その時代の歴史の表層しか知らないの。つまり、近年、なんとか宗門と和合を目指そうとした時代なので、宗門を悪くは言ってない時代があっただけ。誤解を解こうとするのに悪口を差し控えるのは当然のこと。

真摯であれば、戸田先生の厳しさを学ばれたほうがよいのでは。
戸田先生は日蓮正宗は潰れてもよいと考えておられたのだから。

  • [110]
  • 宗門が見せてきた御肉芽

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 1月10日(日)09時31分1秒
  • 編集済
  • 返信
 
御肉芽を信じるかどうかは“分からない”んだって。ふふ。
日顕宗だと、いい加減な教義に責任をもてないよね。

御肉芽は、大聖人の歯が生きてて、大石寺にあって、今も生き続け、成長しているという
もの。以前には、毎年の大石寺の法会で、薄ぐらがりの中で遠巻きながら多くの信徒た
ちに公開してたからね。そして近代になって急に大きくなった。そう見せてきたわけ。

大聖人の生きた、しかも歯肉が付いてる歯って、それだけでも笑わせるんだけど。
大聖人は、肉ごと歯を抜かれたのかって。その肉が大きくなり石のように覆ってるのは
見れば不思議としかいいようがない。もちろん御書からいえば、アフォかだけど。

日本のどこの寺でもそんな伝説を作ったりしてるから、あるのはめずらしくはない。
そんな伝説はよくあること。所詮、大石寺もそういう因習めいた迷信をありがたく重宝と
するぐらいの寺で、近年の人は、ただまじめに伝えてきたということか。なんて(笑)。

だが。
話はそれで終わらない(笑)。
宗門の重鎮で、教義上の改革を目指した正信会運動の中心者の一人、蓮華寺の久保川
法章氏がその当時の内実を語ってる。
御肉芽は、少し大きめの小石を拾ってきて、定期的に大きくなるように変えて信徒に見せ
てるのだと。唖然とさせられる事実。

伝説を信じて大切にしたのではなく。大石寺の僧侶は端っから信じてるのでもなく、小石
を拾ってきて、すり替えているのだと。もう信仰とかではなく、単なる詐欺。そんなこと
が「まあいいか」と許されるほど、大石寺は無責任な田舎寺だったわけ。

大聖人を馬鹿にしすぎ。

見せられた戸田先生は、まさか信頼を置く僧侶が自分に嘘をついてるとも思わないから、
すんなりとだまされてしまったというわけ。
戸田先生が、いくら法華経の行者であろうとも、いや仮に釈尊のような仏であっても、世
法で信頼をした人間が裏切れば騙されてしまうのは当然のこと。

でも戸田先生は、驚かれた一方で、その後、宗門に対して、きちんと御肉芽について、客
観的な計測、記録をするように文章で依頼されてるの。だって、それが事実だったら、広
宣流布の奇跡なんだから、多くの人が信じる大いなる助縁になるのだから、そう依頼する
のは当然のことだけども、これまた当然、宗門は無しのつぶて。おかしい(笑)。
ここも戸田先生、お一人が詐欺に関わってはおらず、真実を追求する姿勢がみられる所。
対して、宗門は、記録も分析もとらないから。なぜなんだと(笑)。それが本当だったら、
世界中の人が大きく信仰を大切に考えるだろうにね。

それでも日顕宗の御僧侶がそんな詐欺までするわけないと思う人は、どうやったら石ころ
が大きくなっていくのか
、多くの信徒にそれを見せられるのかを、よおく考えてみよう。
それでもかばうというなら、「科学を超えて、歯の肉が大きくなるんです」と声高に言う
べきだろうね。堂々と。アフォかと思われながらも。

一部の教義だけを正しいと主張するのなら、無責任な信仰だわ。

考えてみれば、日顕宗の詐欺体質は歴然としたものなのだから。

  • [109]
  • 寸評

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 1月 9日(土)23時30分47秒
  • 編集済
  • 返信
 
私も対話するなら相手を馬鹿にしてまで投稿したくはない・・・・。と思うが、
やはり微妙だ。

知らなくても真摯な人、間違っていても信じてる人には、私も敬意を払いたい
だけども。
思い付き程度のことを言い張っている人や、取って付けた教義を並べて考えよう
としない人と、楽しくは会話できないだろう。結局、あなたたちは何がしたいの
って聞きなおしたいくらい。

真面目でないと言えば、本スレのほうの無名さん。彼氏は自分で御書を読んで
ないから。単に日顕宗のプロパガンダの立場でしゃべっているだけ。御書も読
まないのなら、それはそれでいいけど、知らないくせに、ちょろまかして他の
人を馬鹿にしてるのはいただけない。学ぼうともしない人物故、彼氏との対話
に何らの意義があるとは思えないことは、私は諸氏に忠告しておきたい。

法華講員さんはすべてそう。真摯に学ぼうと思わないからこそ日顕宗はやって
られるということ。諸氏にもその真実を知ってほしい。

あるいは出李経さんの主張は、身勝手な風に聞こえる。あるいは何か思いが、
明確ではないのが寂しいところ。
とりあえず自分の責任で言い張っているのだから、好きにすれば的な思いがす
るし、多くの人と話すことはいいことだろうし、いちいち私が悪くいうのも
おかしいような。ただ、自分の思いを片鱗でもぶつけてることは好感か。

こんな感じ。
● 「この御書、カバーをしてあるけど、きっと表を上向きに置いてあるのだろうな。」
▲ 「いや、カバーを開いてみたらわかるけど、最初の頁を下向きにしてあるのだ。」
● 「いやいや、御書によるとだな・・・」
▲ 「そうは言ってもだな・・・・」

・・・・・どうでもいいから、御書を開いて、まず、読んでみようと思わないのかな。

でも二人はまだよい。まじめそうに語っても福島の壮年氏は、教学に思いなんて
さらさらない人物。自分が好き勝手にネットに投稿した人身事故の内容について、
特定されて富士宮ボーイで書かれたことを逆恨みにして訴訟をちらつかせて恫喝。
管理人に対して頭を下げて削除の依頼をしたのではなく、攻撃的な恫喝だった。

結果、そのために多くの学会の後輩が貴重な知見を得ることができなくなってし
まった。なんて身勝手な人物もいたものかと見下げ果てた思いがする。
自分の身勝手な都合のみで、みなが大切にしてきた正義を踏みつぶしてもよいと
考える人物。そんな思いで何を語れるというのか。

■ 「御書は素晴らしい。でも腹の中は、(オレ様のミスを払拭することのほうが、
  御書を伝えることよりも優先だ)と真っ黒。」

  • [108]
  • 法華講員に真面目な人はいないのかな。

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2016年 1月 9日(土)23時15分22秒
  • 編集済
  • 返信
 
諸天さんが出した写真は、一見すると、ただ画像が粗いのかなと思うけど、
実はそうではなく、ひどく加工処理を施したものと見て取れる。
まず、ネクタイの模様は詳細に写っているのだから画像が粗いのではない。

つまり人物部分の陰影のコンストラストを極端に上げて、細部を消すことで、
一部の陰だけをシミのよう残す処理。その不自然でしかも荒い処理のため
に彩度が極端に上がっているので、首下や指先が赤味も増していることも、
特徴的で、見るほどに不自然な写真であることがよくわかる。

このような色彩の加工処理は、まだ、「姑息な人」との印象を強くしてしまう
けれども、もちろん、それはそれでだめなんだけど、ああ、これはもうね、決
定的にダメダメだと分かるのは、見慣れた人なら不自然な印象を抱くのは当然
で、言われるとすぐわかることは、縦と横の比率まで変えていること。

横の比率だけを数%引き伸ばしてること。だめだわ、これは。姑息すぎる。
ああ、こんなことまでする人って(笑)。

こういう写真を掲載して平然としてる人。ってことだね。

  • [107]
  • これは何処なのでしょう?

  • 投稿者:虹色の
  • 投稿日:2016年 1月 9日(土)02時37分21秒
  • 返信
 
http://megalodon.jp/2016-0109-0235-13/6027.teacup.com/situation/bbs/3284

  • [106]
  • 近影

  • 投稿者:諸天の使者今日から法華講
  • 投稿日:2016年 1月 8日(金)10時56分2秒
  • 返信
 
http://9311.teacup.com/1342/bbs/494

  • [105]
  • 悲しくなる

  • 投稿者:虹色の
  • 投稿日:2016年 1月 8日(金)02時17分56秒
  • 返信
 
http://megalodon.jp/2016-0108-0055-35/6027.teacup.com/situation/bbs/2041

  • [104]
  • (無題)

  • 投稿者:諸天の使者今日から法華講
  • 投稿日:2016年 1月 7日(木)11時04分26秒
  • 返信
 
>「パイン本」が売れて困るのは、日顕宗だけ!

これ、いつできた宗派なの?

  • [103]
  • ちなみに

  • 投稿者:虹色の
  • 投稿日:2016年 1月 6日(水)18時18分10秒
  • 返信
 
フェイク 第1095号
「一方の松岡氏は先日、新著『法華経の社会哲学』(論創社)を出版(写真)、
注目されている。各大学等での講演を収めて、「活の法門」と呼ばれる法華経
の精髄が「自由自在」「すべてを生かす力」にあると述べている。
法華経の現代的意義を論じ、創価学会の池田名誉会長の哲学もわかりやすく解説した良書である。
この本と大日蓮出版のカルト書を読み比べてみれば、どちらが仏教の真実を
語っているか、一目瞭然である。」
http://megalodon.jp/2016-0106-1145-52/6027.teacup.com/situation/bbs/962
http://megalodon.jp/2016-0106-1145-26/6027.teacup.com/situation/bbs/963 

「パイン本」が売れて困るのは、日顕宗だけ!


  • [102]
  • 「宿坊板」が泣いている

  • 投稿者:虹色の
  • 投稿日:2016年 1月 6日(水)17時16分32秒
  • 編集済
  • 返信
 
http://megalodon.jp/2016-0106-1053-38/6027.teacup.com/situation/bbs/36332

外部の人間はともかくとして、
改革僧侶の松岡師が、
正義の人(池田先生)を
「正義漢ぶりやがって大嫌いだ、と思ってる」?
「馬鹿にしてる」?
証拠を出してみなさい!


http://megalodon.jp/2016-0107-1232-42/6027.teacup.com/situation/bbs/1562

  • [101]
  • 「パイン」叩きは日顕宗も大喜び?

  • 投稿者:虹色の
  • 投稿日:2016年 1月 6日(水)11時01分29秒
  • 編集済
  • 返信
 
「佐藤松岡もそういう輩だ。
自分を悪党だなんて、まあ、思ってない。
ただ、正義の人のことは、正義漢ぶりやがって大嫌いだ、と思ってる。
そうやって正義の人を馬鹿にしてるが、本当の大馬鹿者は自分たちなのだ。」
http://megalodon.jp/2016-0106-1053-38/6027.teacup.com/situation/bbs/36332

 松岡幹夫(まつおか・みきお)
1962年、長崎県生まれ。東日本国際大学教授、同東洋思想研究所所長。創価大学教育学部卒。東京大学大学院総合文化研究科・博士課程修了。博士(学術・東京大学)。
86年、静岡県の日蓮正宗大石寺で得度し僧侶となり、雄茂(ゆうも)と号した。92年、大石寺を離れ青年僧侶改革同盟を結成。その後、日蓮研究者としても活躍。
著書に『平和をつくる宗教』(第三文明社)、『日蓮仏教の社会思想的展開』(東京大学出版会)、『超訳日蓮の言葉』(柏書房)、『宮沢賢治と法華経』(昌平黌出版会)など多数》