>>191
皇居への拝礼そのものを問題だとされるのでしたね。
その愚人さんの視点が案外というか、常識外だったからですよ。
そして私の説明は、完全に無視されてしまってます。
愚人さんの投稿は、重ねて宮城遥拝の意義を述べているだけです。
言葉は言葉です。使い方で狭い意味にもなれば、広くもなります。
どのように使われていたのか、勝手な想像で決めつけるべきではありません。
当時の時代の宮城遥拝といえば、当然、国家神道に基づく特殊な意味を指す
のが普通です。だから地涌からの通信はそれを述べています。事実、当時の
日蓮正宗は、国家神道に完全に迎合しています。だから、それを事実として
述べているだけですよ。
では、学会はどうだったのか、私、下に説明しましたよね。きちんと読めと。
でも、あなたからは解答がありませんでした。なぜ?
日顕宗の切り文でないなら、本当に自分で読んででそう考えたのなら、容易
に見つかるだろうと私は言いましたよね。
答えを言いますと、なぜなら、あなたの挙げた文章の続きにきちんと説明されて
いるからですよ。その続きですよ(笑)。見落とすはずがないんです。
なぜ、そこを無視されますか?
神社などを拝むことはだめだと。だけどそうはしてきていないと。
「敬神と祈りとを区別して信仰の対象を定める事が生活上大切な事と思ひます。」
とちゃんとありますよね。そういう総合的な考えで、謗法を厳禁とされたのです。
ところが、その前の文章だけをあなたは挙げて、これが牧口先生の考え方だと、
そして、だからこれは謗法だと云々。おかしいのですよ。
次の文章をなぜ、読めないのですか。ぜひ、アップしてみてくださいよ。
愚人さんの主張が常識外すぎるのは、それだと学会は国家転覆を狙う団体になっ
てしまうということですよ。具体的にどうすればよいとお考えなのですか。
まずそれを述べてみてください。そしてそれは非常識ではありませんか。
そういった非常識な行動は、仏法の理念とは無関係です。
当時は憲法で、天皇に主権があり、神聖であり、神という国ですよ。
それを認めなければ、日本の国からは追い出されてもしかたありません。
あなたは全否定が唯一の方途だとお思いかもしれませんが、仏法者はいつも知恵
を働かせて、言葉を言い換えて、悪い意味を台無しにして乗り越えてきたのです。
牧口先生が天皇を神だとした理由は、天皇は憲法に一致し従う存在だからです。
むろん、こじつけです。拝礼も本来、別に問題視するようなことではありません。
なんでもかんでも、イヤイヤだと言うべきとか、アホの思い付きだと思います。
日蓮正宗が異なった点は、それらの思想を無考慮で受け入れ、神札まで受け取り
積極的に加担しただけ。学会は、いろいろとおかしい点を話し合い、改善を目指
して行動をおこしていたこと。その上で国家の体制にはできるだけ沿うように努
力し、ただし、本当に宗教的な部分は厳として譲らなかったこと。
その違いはあまりに明らかですね。
御書を改ざんしたり、神本仏迹を唱えた僧侶が幅をきかせたり。節操もない。
国家の神道化に対して迎合のみで、何もしてません。
学会が正しく、日蓮正宗が反省すべき存在だとは、当時からの人の認識です。
日蓮正宗も厳然と学会の正義を認めてきたわけですね。
もとより宗教上の教義に背反したかどうかは宗教団体の見解によるべきです。
何よりも、全てを知っていた日顕が、何も言わずに学会を礼賛していた事実から
目を背けてはいけません。
日顕が謗法だとは言ってこなかった点を愚人さんは、無視されるのですか。
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