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シーボルトの直筆の書簡見つかる
2月17日 4時11分

シーボルトの直筆の書簡見つかる
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江戸時代、日本に西洋医学を伝えたドイツ人の医師のシーボルトは、医療のかたわらで日本の植物の研究にも取り組んでいました。その研究のさなかに交わされた直筆の書簡が見つかり、研究者は日本の植物学の原点を記した貴重な資料だと話しています。
ドイツ人の医師、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、江戸時代、長崎の出島を拠点に日本に西洋医学を伝えましたが、その目的は鎖国中の日本を調査することにありました。
今回見つかった書簡は、千葉市美浜区にある神田外語大学が保管していたシーボルトの資料の間に挟まれていて、別の文書の筆跡との比較などからシーボルトの直筆と確認されました。
書かれたのは文政11年、西暦1828年で、植物研究の協力者だった日本人の教え子、賀来佐之にオランダ語で「日本の植物の目録をどうか努めて完成させてほしい」と強く呼びかけています。
当時、シーボルトは滞在期間の終わりが迫っていて、書簡の文末では「私の仕事を終える前に出発しないように」と弟子に長崎にとどまるよう求め、帰国までに研究をやりとげようとした強い執念がうかがえます。
その後、シーボルトは1600種類もの植物の分類を終え、その一部を「日本植物誌」という書物にまとめるなど、日本の植物学の発展に大きな影響を与えました。
書簡の鑑定にあたった京都大学の松田清名誉教授は「植物研究に関わる核心的なシーボルトの書簡は見つかっていなかった。弟子が研究を支えていた様子が読み取れ、これが日本の植物学の出発点になった」と話しています。
今回見つかったシーボルトの書簡は、18日から今月26日まで千葉市美浜区の神田外語大学の図書館で展示されるということです。

シーボルトと日本

ドイツ人の医師、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、植物学や動物学にも通じていて、西暦1823年、文政6年、日本の調査のために来日しました。
鎖国政策のため、外国人は長崎の出島から出ることは許されていませんでしたが、シーボルトは医師として例外的に出島を出ることが許されていました。
当時、ヨーロッパの学術は「蘭学」と呼ばれ、出島には新しい知識を求める人々が全国から集まっていて、シーボルトは私塾の「鳴滝塾」を開き、西洋医学を伝えていきます。
そして、教え子に手伝ってもらいながら日本の調査・研究を進め、その成果は本格的な研究書「日本」のほか「日本植物誌」や「日本動物誌」にまとめられました。
ところが1828年、文政11年に「シーボルト事件」が起きます。
シーボルトが集めた品物の中から日本の地図など持ち出しが禁じられていたものが見つかり、国外追放処分となったのです。
その後もシーボルトは国外追放が解かれた30年後に再び来日するなど生涯にわたって日本を愛し続け、ちょうど150年前の1866年に故郷のドイツで70歳で亡くなりました。

植物学発展の陰にシーボルト

日本の植物学に詳しい獨協大学の加藤僖重名誉教授によりますと、植物を体系的に分類する学問は「植物分類学」と呼ばれ、現在ではDNAの分析も導入されるなど植物学の基礎となっていますが、江戸時代の日本ではこうした発想はありませんでした。
シーボルトの研究によって日本の植物の一つ一つにラテン語の学名がつけられただけでなく、「おしべ」や「めしべ」といった植物の器官の名前もこの時に教え子の日本人が決めたとされています。
こうした作業を経て1600種類にもおよぶ植物が体系的に分類され、日本の植物学は大きく発展していくことになります。

発見者「人物像見える資料」

書簡を発見した神田外語大学の町田明広専任講師は「弟子との会話が如実に書かれた初めての資料で、目で見るようにシーボルトの人となりが見えてきた。ことしは没後150年であり、今回の発見が研究の進展に役立つと期待している」と話しています。
また、長崎市シーボルト記念館の織田毅館長は「シーボルトを巡る資料は、『シーボルト事件』の影響で関係者が処分した可能性があり、ほとんど残っていないので非常に珍しい。シーボルトは表向きは医者だが、日本研究でいちばんウエイトが高いのは植物学で、植物に特化した手紙は貴重だ」と話しています。

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