表現の自由を守るために
山田創平
社会学者
今回(2016年1月30日)、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA(アクア)において派遣型ファッションヘルスの就業者をギャラリーに呼ぶという趣旨の企画が立案され、ワークショップの中でその実現に向けたやり取りがなされたとの情報に接しました。実際に就業者は呼ばれなかったとのことですが、元就業者であることを表明しており、かつアーティストでもあるげいまきまきさんが、急遽呼ばれたとのことです。これがもし事実であれば、大学・研究機関において起こった出来事として見過ごすことはできません。
見過ごすことができない理由は主に二つあります。一つは「デリヘルのサービスをギャラリーに呼ぶ」という今回の企画それ自体が問題であるということ。もう一つは今回のようなことが繰り返されると「大学」や「表現の現場」に権力の介入を招きかねないという強い危惧です。
大学では基本的に、そして原則的に何を研究しても良いとされています。十三世紀にボローニャ大学、パリ大学、オックスフォード大学など初期の大学がつくられましたが、例えばオックスフォード大学では大学運営は教皇や国王、司教により承認、監督されることになっていました。しかし実際に現場で監督を行っていたのは教師の間から選挙で選ばれたチャンセラー(総長)でした。これにより大学はゆるぎない「自治」と「自律」を得ることになります (i)。この自治と自律は今日に至るまで、大学という場の根幹であり、基盤的理念であり、存在意義であると考えられてきました。権力の介入を受けずに自由な学問や研究ができること、そしてその研究成果を広く社会に表明し表現できることは、大学やそれを取り巻く市民社会にとって極めて重要です。それは社会が共有する表現の自由という理念の、ひとつの重要なあらわれでもあります。かつてのように思想警察が学問を検閲するような事態を、滝川事件(1933)のような学問に対する弾圧事件を繰り返してはなりません。
しかし一方で、いわゆる九大事件(九州大学生体解剖事件、1945)や新潟大学事件(リケッチア人体実験事件、1955)など、大学における研究が学問の自由を大きく逸脱し、「人体実験」という、越えてはいけない一線を越えた事例も数多く存在します。
大学における研究の「自治」と「自律」はなんとしても守りながら、越えてはいけない一線を越えないようにするにはどうすればいいのか。第二次世界大戦後、戦時体制下にあって世界中で行われた「人体実験」に対する深い反省の中から生まれたのが、「研究倫理」という考え方でした。
現在、大学をはじめとした研究機関には多くの場合、研究倫理規定が存在しています。これらは国際基準に準拠し、それぞれの研究機関が独自に明文化しています。たとえ現段階で学内に明文化された研究倫理規定が存在しないとしても、「守るべき」として国際的に共有されている「研究倫理」があり、大学を始めとした研究機関は、国際機関の一員としてその縛りを受けます。ここで言う研究機関には美術館も含まれ、本来研究職である学芸員、キュレーターにもこの規定の遵守が求められます。本件についてはすでに多方面から批判や擁護があるようですし、そのような美学的、芸術論的な議論は重要と思います。しかし、研究倫理はそういった議論以前の問題です。私は今回の出来事について、研究倫理の観点から検証することの必要性を感じています。
現在、多くの大学が研究倫理規定を定めていますが、その原型となったのがヘルシンキ宣言(1964)です。ヘルシンキ宣言の淵源にはニュルンベルク綱領(1947)があります。かつてナチスドイツはユダヤ人、障がい者、少数民族、同性愛者などをターゲットに膨大な人体実験を行いました。ニュルンベルク綱領はその反省の上に作られました。ニュルンベルク綱領をふまえたヘルシンキ宣言は、かつて研究者や研究機関が暴走し、多くの人命が失われた事実をふまえて、これからの研究者が守るべきルールを定めています。
現在、国内の多くの大学は文理を問わず、本来医学研究の規定であり、人体実験を禁じるニュルンベルク綱領やヘルシンキ宣言をふまえながら、さらに独自の文言を加えて研究倫理を定めています。その中でも中心的な倫理規定が「人を対象とする調査・研究をするにあたっての規定」です。「人を対象とする調査・研究」には、薬の治験や、対象者を長期間追跡調査するコホート研究、インタビュー調査、参与観察、一般的なアンケート調査まで様々なものがあります。ヘルシンキ宣言(国際医師会によるまとめの日本医師会による訳)や、現在各大学が定めている研究倫理規定を通覧して概要をまとめると、おおよそ以下のような内容が盛り込まれています。
- 調査・研究対象者が受け取るメリットよりも、調査対象者が被るリスクのほうが大きい場合、その調査は実施してはならない
- 社会的弱者のグループ及び個人を研究対象とする場合、そのグループ、個人が研究成果から恩恵を受けなければならない
- 被験者のプライバシーおよび個人情報の秘密保持を厳守するため、あらゆる予防策を講じなければならない
- 調査・研究対象者に研究への参加を求める場合、その参加決断は自発的で主体的なものでなければならず、かつ研究参加への同意(インフォームド・コンセント)が必須である
- 研究結果や成果は、調査・研究対象者への個別のフィードバックはもちろんのこと、広く社会に開示され、有益に活用されなければならない
今回の出来事に即して言えば、「デリヘル嬢を呼んで話を聞く」というのはインタビュー調査、面接調査、参与観察に該当します。今回、展覧会やワークショップの主催者はほとんど意識していなかった可能性もありますが、セックスワーカーを呼んで話を聞くという計画や実践は、大学や美術館がそれをやる以上「人を対象とする調査・研究」に該当するのです。
また上記1の「メリット」という言葉には、調査対象者に実費に加えて謝礼を渡すなどの金銭的なメリットはもちろんのこと、その研究結果がその当事者たちの社会的な地位向上につながらなければならないという意味も含みます。
上記に鑑みた時、今回の件は研究機関が企画し、実施した事業として研究倫理の観点から問題はなかったでしょうか。現状、セックスワーカーは社会的に脆弱な立場にあり、倫理的配慮はとりわけ重要であったはずです。デリヘル嬢を呼ぶにあたり、被調査者の受けるメリットと被るデメリットが事前に科学的、論理的に査定されていたでしょうか。支払うべき謝金は実費に上乗せする形で用意されていたでしょうか。呼ばれる被調査者に対して事前にインフォームド・コンセントを取る用意はあったでしょうか。今回の試み全体のデザインは、被調査者(今回はデリヘル嬢)の社会的地位向上や、社会的不利益の改善に資するような結果をもたらすものとなっていたでしょうか。むしろ被調査者のリスクを一方的に高め、不測の事態によって人命や個人の尊厳を傷つけかねない、危うい計画ではなかったでしょうか。
研究倫理は人命を守るために存在します。「人命」は表現の自由、アートがいかに社会規範を撹乱するかといった諸々の議論とは次元が異なる上位概念です。端的に言って、殺されてしまった人にとっては表現の自由やアートなど、もはや無関係だしどうでもよいのです。なぜなら彼らはもうこの世にはいないからです。「生存」があってこその、「人命」が守られてこその表現の自由、アートなのであり、その順番を間違えてはいけません(今回は触れませんが、これはヘイトスピーチと表現の自由の議論とも関係します)。その、「学問や芸術に先立つ前提」である「生存」を保障するために、大学などの研究機関が取り決める最低限のルールが研究倫理です。研究倫理は近代社会がおびただしい犠牲の末に獲得した学術世界における最低限の決まり事であり良心なのです。
大学の「自治」と「自律」は極めて重要です。大学での研究や実践は自由なものであるべきです。だからこそ、大学での研究や実践には、人命や人間の尊厳を損なわないための最低限の慎重さが求められるのです。大学がその慎重さを失うとき、社会は大学に「研究内容の審査や査定」を行うための「新たな制度やシステム」を求めるかもしれません。大学での研究に問題がないかどうか、芸術系の大学であれば、その表現は問題ないかどうか、検討するための新たな組織や制度がつくられるかもしれません。もしそのような流れが生まれたら、その時大学の「自治」と「自律」は守られるでしょうか。もしそのような流れが生まれたら、権力は自らに都合の良いようにその「組織」や「制度」を使いはしないでしょうか。もしそうなったら、大学の「自治」や「自律」はもちろんのこと、表現の自由も危機に瀕することになるでしょう。気が付いたら日本の芸術大学では政治的な言動はもとより、「政権批判」や「反戦」「エネルギー政策批判」といった表現も禁止されていた、などということになればそれは悪夢です。
今回、「デリヘルのサービスをギャラリーに呼ぶ」という企画を実践したアーティストは「表現の自由」を追い求めていたのかもしれません。しかし結果的にその実践は、「表現の自由を損ないかねない危うい実践」とはなっていなかったでしょうか。表現の自由を守るために、今何をすべきなのか、しっかりと考えてゆきたいと思います。
(i) クリストフ・シャルル他(岡山茂他訳)『大学の歴史』白水社、2009(原著は1994)、19頁
Notes
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