歴史に残るプッツン劇場 池田勇人「貧乏人は麦を食え」
2015.06.03
中小企業は自殺をしてもやむを得ない
1950年12月7日 参議院予算委員会
国会でトンデモ暴言→辞任
1950年12月7日 参議院予算委員会
国会でトンデモ暴言→辞任
全マスコミを敵に回した「出世魚」
F「テメェ、いっつもツマンねえ原稿書いてんじゃねェよ!! いますぐやめちまえ!!」
(ヒラ編集部員Mを怒鳴りつける鬼デスクFの声が、今日もフライデー編集部に響き渡る。涙目で自席に戻るMを見ながら、入社9年目のSがFにひと言)
S「デスク、あんなに怒鳴ったらまた『パワハラだ』って問題になって、人事部に呼ばれちゃいますよ」
F「オレはいつも愛をこめて部下を叱ってるんだ。それを今は何でもかんでもパワハラと……ああ、オレには池田勇人の気持ちがよくわかるんだよ!」
S「……?」
(ヒラ編集部員Mを怒鳴りつける鬼デスクFの声が、今日もフライデー編集部に響き渡る。涙目で自席に戻るMを見ながら、入社9年目のSがFにひと言)
S「デスク、あんなに怒鳴ったらまた『パワハラだ』って問題になって、人事部に呼ばれちゃいますよ」
F「オレはいつも愛をこめて部下を叱ってるんだ。それを今は何でもかんでもパワハラと……ああ、オレには池田勇人の気持ちがよくわかるんだよ!」
S「……?」
今ではありえない暴言が国会で飛び交っていた大雑把な時代、「元祖失言男」といえば、池田勇人をおいてほかにない。
戦後の混乱期に大蔵省事務次官から政治家に転身。初当選した’49年、いきなり蔵相に抜擢され、その後も通産相、政調会長、幹事長などの重要ポストを歴任した。’60年にはついに総理総裁まで登り詰めた「出世魚」は、大病や挫折を乗り越えてきた苦労人でもある。
蔵相・池田の初の大仕事は「ドッジライン」の実施だった。戦争でボロボロになった日本経済の立て直しを求めて、GHQは超緊縮財政のもとになった「経済安定9原則」を突きつけた。池田は持ち前の豪腕で諸政策を推進し、インフレ抑制を果たすが、その歯に衣着せぬ言動や居丈高な態度から、ほぼ全マスコミを敵に回した。
池田の秘書官だった伊藤昌哉が、『池田勇人とその時代』で述懐している。
〈(記者)クラブの中心人物が、なんとかして池田をたたこう、と言いはじめた。さんざん考えたあげく、『池田は単純だから、誘導尋問で怒らせたうえ、失言をひきずり出そう』という作戦になった〉
失言が出たら、ただちに各紙面で大々的に成敗する――そんな示し合わせがあるとも知らずに臨んだ’50年3月の大臣会見で、池田はまんまと策にハマッた。現下の経済政策で不況が深刻化し、中小企業の倒産や自殺者まで出ているが、と振られて、ポロリとこう漏らしたのだ。
「戦争に負けたときだから、大きな政策の前に多少犠牲が出るのはやむを得ぬ」
そして、その9ヵ月後には、あの歴史に残る暴言が飛び出す。
「貧乏人は麦を食え」
同年12月の参院予算委員会での発言とされるこのセリフ、消費者米価を引き上げ、麦価は抑えるという政府方針の是非を問われて答弁したものだが、実はコレ、池田自身の正確な発言ではない。
「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うという経済の原則に沿ったほうへもっていきたいというのが私の念願だ」
所得に応じた食生活をすべきだと言っただけなのだ。ところが、池田のことをよく思っていなかった新聞は言葉尻を捉え、池田が「貧乏人は麦を食え」と答弁したと報じ、猛批判したのである。
さらに’52年11月の衆院本会議。通産相として答弁に立った池田は、失業問題について問われると、改めて中小企業者について「ヤミなどの不当投機をした人間の5人や10人が倒産しても、自殺をしても、お気の毒だがやむを得ない」と言い放った。当然のごとく国会は大荒れに荒れ、野党提出の不信任案が可決されて、池田は辞任に追い込まれるのである。
「私はウソは申しません」
池田の口グセだったといわれる。「バカ正直」とも評された池田は、発言内容はともかくとして、たしかに「ウソ」は言わなかった。政治家の食言が当たり前になった今、池田の暴言が新鮮に感じられるのが情けない。
(再び編集部にて)
F「わかったか。『貧乏人は麦を食え』だって、正確な発言を見れば、正論だ。それを、アンチ池田の記者たちが"超訳"したから問題になったんだ。オレのパワハラ疑惑もそれと一緒だ。オマエらが悪く解釈するから問題になる。キミらの脳ミソが悪いんだよ!!」
S「(ああ、池田の発言が"普通"だった時代など遠い昔なのに、この人は……編集長に、デスクの不信任案を提出しよう……)」
S「(ああ、池田の発言が"普通"だった時代など遠い昔なのに、この人は……編集長に、デスクの不信任案を提出しよう……)」
PHOTO:共同通信社