井沢元彦・著「逆説の日本史18 幕末年代史編Ⅰ」を読みました。
私が本書で一番面白いと感じたのは、およそ150年前の幕末と現在とが「何ら変わっていない」と論じていた点です。
幕末ならば、合理的な開国近代化路線派を斬り殺そうとした攘夷派。
現在ならば、合理的な平和憲法改正派を抑え込もうとする反対派。
昔も今も、日本という国では国家の大事に心理的判断が合理的判断に勝ることがある。両者の根っこの部分は何ら変わっていない。本書では、このふたつを並列表記で論じている部分が面白かったです。
幕末の開国反対派と現代の憲法改正反対派
まずは幕末の開国反対派(攘夷派)と現代の憲法9条改正反対派に関する本書を引用するところから(p.190~p.191)。カッコ内は私が付け足したもので、文章の並びは本文と多少変えてあります。
幕末の時代(約150年前)
日本が外国からの侵略を阻止するために、まず考えたのは攘夷(「攘」(じょう)=払いのける、「夷」(えびす)=外国人)すなわち「このまま“祖法”である鎖国体制を守る」ということだった。しかし、そんなやり方では真の日本の独立を守れないと考えた人々は、むしろ開国して「敵」である西洋に学べと主張した。いわゆる開国近代化路線である。しかし、攘夷派はこれを「日本の独立を守るための一案」として捉えず、「売国奴の考え」と決めつけた。だから、そんな連中は斬り殺せということになった。
今も同じではないか。
「平和憲法」という、戦後の特殊事情で定められたものを「祖法」として絶対視し、それを少しでも批判する人間は「平和の敵」「ダメなものはダメ」と排除する。憲法改正は「日本の平和を守るための一案」である。決して「平和の破壊」ではない。しかし、それ(憲法改正)を唱える人間を「平和の敵」と糾弾し、議論の対象になることすら拒否する――若い人は信じられないかもしれないが、これがほんの数年前まで現実にこの国で行われていた事だ。150年前と何ら変わっていない。
ペリー率いる「黒船」が来航し、主張が攘夷に大いに傾いたのはよく分かります。
もしも私が同時代にたとえば武士として生まれたならば、最初は同じ気持ち(攘夷)を抱いたでしょう。しかし、彼我の国力差や技術差に対して冷静な目を向けるようになった人たちは、合理的判断としては開国して近代化を図るしか日本の生き残る道はあり得ない、ということに徐々に気づいていきました。個人差はあるでしょうけど強硬な攘夷派も、頭では多少それを理解しつつ、感情ではまるで受け付けない、というのが実情だったのではないでしょうか。
では現代における憲法9条はどうでしょう。
国が国民と領土を守るために軍隊を持つというのはしごく当然のことです。
そして軍隊を持つのであるならば、それを憲法で規定するというのはもちろん当然のこと。しかし現状はというと、憲法で規定がないまま、自衛隊という軍隊らしきものを持っている、というのが実情です。中途半端というかごまかした状態ですね。(自衛隊は軍人ではなく、特別職の国家公務員になります)。そのごまかし状態が昔も今も変わりなく、相変わらずなんだなぁと思う点ですし、9条改正反対派の言う事が、けっきょく単なる感情論じゃないの?と感じる点も、昔も今も変わらないなぁと思う点です。
開国と9条改正に対するアレルギー
では次に、本書から軍隊と憲法改正に向けた部分を引用してみます。(p.244~p.245)
国というものがその独立や安全を守っていくためには軍隊というものが必要である。
これは人類不変の心理だ。
もっとも一部には、戦うぐらいなら滅びることを選ぶという考え方もないわけではない。そして、この民主主義国家の日本において、ほんとうに多くの国民がそう思うなら、まさに現憲法の規定通り軍備を一切捨てるべきべきだ。逆にもしそうでない(軍備を捨てない)なら、日本は現に「武力」を保持しているのだから、憲法違反状態を解消するために、憲法を改正するしかない。当たり前の話だが、この二者択一しかないのであり、日本以外の国家はすべてそうしている。
ところが日本にはこの「中間」がある。
かつて国会の場で政権担当者が口にした「自衛隊は軍隊ではない」とか「戦力なき軍隊」などという言葉がそれだ。これは「ゴマカシ」である。
日本では「憲法9条改正」と聞いただけで、アレルギー反応のように「戦争反対!」と極論に結びつける人がいます。この反応などまさに心理的な反応でしょう。合理的にいくならば、本書でも書かれているように憲法を改正して軍を持つか、憲法を改正せずに軍を持たないか、その二択しかありえないでしょう。
憲法9条改正反対派は、幕末において、「開国」を口にしただけでアレルギー反応のように「売国奴!」と罵った人たちと根本的な反応は同じだと思います。合理に心理が優っている状態。病名でいうならば、「アナフィラキシーショック」*1のような反応じゃないかと。150年前も現代の反応もあまり変わらないですね。まあそれでも今ではだいぶ和らいだかな。私が子供の頃などは、自衛隊や憲法改正に関して口にすること自体、タブーのような空気が世の中を支配していました。
さて今後はどうなるでしょう?
今年(2016年)は衆参同時選挙が噂され、もしも与党が衆参で2/3以上の議席を獲得した場合、いよいよ憲法改正に向けた道筋をつけようと動くのではないかとみられています。細かい手順を書くのは省きますけど、現状での日本は、憲法改正が不可能な状態にあったりします。
もしもですが。
日本が憲法9条を改正し、軍を明確に規定できたならば、それは国としてひと皮むけたといえるでしょう。まあ私はどちらかというと悲観論者ですので、個人的にそうなる確率は低い気がしていますが……
最後に
著作の中で井沢元彦氏は、日本人の特徴について「言霊」(ことだま)信仰や「怨霊信仰」、「ケガレ忌避」、ルールよりも「和」や「話し合い」が重視される、などの点を繰り返し述べられています。
これらを総じて言えば、心理的判断が合理的判断(やルール)に勝りがちな国、という事じゃないかと私は理解しています。場の空気が時にはルールよりも大事にされるというか。そしてその心理的判断というのは、日本を特徴付けているまさに「宗教」と呼べるものだと思うのですが、日本人自身がその宗教の特徴についてあまり気づいていない、というのがまた特徴のひとつだ思います。もっと詳しく知りたい方は、井沢元彦氏の著作を読んでもらうのが一番ですね。
その特徴の現れる具体例の一つが、幕末の攘夷派と現代の憲法9条改正反対派との比較じゃないかと。
本書を読んで、昔も今もあまり変わらないんだな、歴史は繰り返すものだな、と感じた点が面白かったところです。本来歴史というものは、過去から学び現代に生かすというのが役目のひとつですが、どうなんでしょうね。活かされていると言えるのかな?
まあそうやすやすとは変わらない。
だからこその民族性なんでしょうれどね。
- 作者: 井沢元彦
- 出版社/メーカー: 小学館
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- メディア: 文庫
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*1:アナフィラキシー(英: anaphylaxis)とは、急性の全身性かつ重度なアレルギー反応の一つ。この文の場合、軍隊や9条改正などのアレルゲンによって重大なアレルギー反応を起こす、ぐらいのニュアンスで使っています