じゃあいつかこの浮ついた興奮状態が冷めたら、明日になったら、来年になったら、10年たったら、それでもスターウォーズ
フォースの覚醒は「良くできた映画」を超えて、傑作だったと言えるだろうか?
つまり、私たちがようやくこれを「われらのスターウォーズ」ではなく、あるひとつの作品として見つめられる準備が整った時に。
その問いに私はYESだ、と答えると同時に、だけど質問が間違っている、と思う。
フォースの覚醒は、旧三部作の「よく出来たモノマネ」か?
ファンが多い作品は大抵そうだが、スターウォーズには”やっかいな”ファンが沢山いる。
きっと私もその一人に違いないが、皆それぞれのスターウォーズ観を持っていて、新作には「新しい君を見せてくれ、だけど君のままでいてくれ」という矛盾した希望を抱いていた人も少なくない。
スターウォーズはオタクにとってのマイ・ファニー・ヴァレンタインだ。だけど2016年に公開される映画が単なる過去の焼き直しでいいはずがない。
そんな困難な仕事を引き受けたいやつなんているはずがない。引き受けるやつがいるがいたとしたら、そいつはきっとイカれているに違いない…。
イカれた男というのは本来、ジョージ・ルーカスのようなやつを指す。
誰もが認めるところだが、ルーカスは0から1を創作する、クリエイトするということに関しては非常に長けている人であった。が、おそらくはイノベイションという事は不得意だった。
イノベイションこそはJJの分野だ。つまり、既存のものについて刷新する、新たな光をあて、価値観を押し広げる。
フォースの覚醒はJJのイノベーションの腕の見せ所として最高の舞台に違いない。
EP6から少しだけ時代が進んだ世界であるという性質上、デザインや世界観は前作と地続きでありながら、少しだけ未来的になっているトルーパーのフォルムなど、これこそ「正解」という感じがする。
つまりJJはEP7というキャンバスに、スターウォーズオタクの欲望そのものを描き出したのだった。
それがあまりに見事な仕事だったので、私は最初、心の中で「これはスターウォーズだ!!」と叫んだほどだった。
しかし、フォースの覚醒は、オタクの意見におもねっただけの、うるさいオタクを黙らせるためだけの、良くできた旧三部作のモノマネではなかったはずだ。
主人公、レイ
日本の一部マスコミはうんざりするような想像力のなさを発揮して「スターウォーズ女子」「今、女子にもスターウォーズが人気?なぜ?」などと煽っていたが、インタビューにて「女性を主人公にした理由は?」という質問に対してJJは「その質問にはいつも戸惑いを覚えるよ。だって、「なぜ男性が主人公なんだ?」と不思議に思ったりはしないはずだからね。」と答えている。*1
レイは、どんな女の子だろう。
いや、その質問はまちがっている。レイは、「〜な女の子」という時の慣習的な形容詞のどれにも当てはまらないのだ。
可憐な、か弱い、感じやすい、不思議な、でもなければ、反対に、男勝りな、じゃじゃ馬な、生意気な、でもない。
かわいいとか、美しいとか、ぶすとかでもない。
2016年の人類から見れば彼女は確かに美人の部類なのだが、劇中では誰も彼女に「かわいい」とか言わないし、それとは関係ない部分からフィンらと深い信頼で結ばれる。
ちなみに、過去旧三部作ではレイアはルークから「綺麗な人だ」と評されるシーンがあり(ハンソロは言わないのがミソだが)、新三部作ではパドメは何度も「美しい」とアナキンから評される。
彼女の持ち物はただ生きる為に身につけた強さと、機知と、意志の強さだけだ。
彼女は「〜な女の子」ではない、多分まだ何者でもない、まっさらな「可能性」として存在するなにかだ。
だから新時代の幕開けの主人公として、これ以上ぴったりなキャラクターはいない。
悪の才能がない悪役
私がパダワンだったなら、絶対にジェダイのおっさんらに一度は不信感を抱いたと思う。
夜中のファミレスで「まじヨーダとかさあ、こっちは身内が死んじゃうかも><とかで取り乱してる時に「死は生と共にある」とか言ってくんじゃん、そういう事言われたくて相談してんじゃねーよ、せめて「わかるよぉたしかにさあ、辛いよねえ好きな人が死ぬのはさ、ワシも若い頃はめっちゃ泣いたよぉ、でもね…」ぐらい前置き入れてくれたっていいだろ」って深夜までくだをまいたと思う。
『フォースの潜在能力を100%引き出すために少しだけダークサイドの力を有効活用していくライフハック』スレの常連になっていたと思う。
ジェダイのおっさんらが言うことはどこかはっきりしない。それは森羅万象に2音節で説明できることが少ないからに他ならないが、辛抱強くないパダワンである私はダークサイドの大胆な分かりやすさと大義に惹かれるかもしれない。ちょうど過激派組織にいきなり入る大学生のように。
そこまでは新三部作の世界である。フォースの覚醒は、さらにもう一歩悪の道の奥へと進む。
輝かしい血統のカイロレンは鳴り物入りで悪の道に転向したはずだ。
彼はそこで悪のプリンス、ナイト、スーパースターになることを約束されていた。
しかし、脚本家は手厳しいことをする。なんと彼には悪の才能がなかったのだ。
なんとなく今までは、普通の人間でも一度悪に染まったら、あとは何の努力をしなくても悪で 居続けることが出来るように思っていた。
しかし、悪の世界でもトップに立つには悪のプロであり続けるという才能がいるのだ。
たいして善人でない人が定期的に「悪の誘惑」を感じるように、たいして悪人でないカイロ・レンは定期的に「善の誘惑」を感じる。
彼は5歳で野良猫を殺して9歳で家に火をつけるタイプの人間ではない。
同時に、彼はうろこ雲の写真をインスタに上げて「今日という日に感謝!」とコメントするような人間でもない。
そして出会う…悪っぽいなにかと善っぽいなにか
スターウォーズとは神話の寄せ集めで、あらゆる古典的な物語の再構築であるはずだ。
そこにいるはずの勇者、悪党、ヒロイン、、の代わりに、なんとなくどの役にもなりきれなかったふたり、前世紀の燃えカスのような戦争に無理矢理巻き込まれてしまった名もなきふたりは、殺し合うのか、共闘するのか…はっきりいって、まだ読めない。
最初の問いかけに戻ると、スターウォーズ フォースの覚醒は傑作だ。それはこれが予感の作品だから。
それはこれが無限の道に開かれているからだ。
しかし、それは「あるひとつの作品」としての評価ではない。
ディズニーの会長によれば、「スターウォーズは終わらないシリーズ」になるのだという。
わたしたちは、生きている内にスターウォーズの物語の本当のラストを見ることはないのだ。
だとしたら、もはやこれは「ある作品」というより、人生の中のイベントや、その時々に寄り添った音楽や、匂いのようなものかもしれない。
考えてみれば、私にとっては、スターウォーズとは元々そういうものだった。
スターウォーズは、その”いびつさ”によって生き物に近づいた。
新しい製作陣はもちろんその事を良くわかっていて、まるでわたしたちがその映画を作ったようにそれを作るだろう。
もしかしたら、ファンダムと映画の関係は10年後にはもっと密接なものになっているかもしれない。
わたしたちはただの受け手ではいられなくなるのかもしれない。
だから新シリーズはもちろん、ひとりの天才(…もしくは変態…)が作り上げたびっくりするような何か、ではない。
これは100億人のオタクが作り上げた夢想の具現化だ。
そしてそれが正しいか間違いかは、100年たっても分からないのだ。それが生き続ける限り。
あなたはこれに乗るか、降りるか、それだけなのだ。