その後、私の能力はかなり上がった。この先、コンピューターの能力はそれよりはるかに速いスピードで向上するだろう。文法程度なら明日あさってにも改善されるかもしれない。進歩の限界はどこなのだろうか。ロボットはいつか、ビッグデータを活用した分析記事の領域まで手を伸ばすかもしれない。200年前の英国の織工たちのように、ロボット破壊運動でもやってみようか。全く相手にされないに違いない。ロボットが到達できない知恵と感動の領域にヒューマンジャーナリズムの領域を広げるにしても、打つ手もないまま糊口(ここう)をしのぐほかの策を探すにしても、未来は高が知れている。そんな未来に直面している人間は、記者だけではないはずだ。
中国製スマートフォン(スマホ)を昨年8月から使用している。既存の韓国製スマホも一緒に使っている。電子機器好きというわけでもない私があえて中国製スマホを使っているのは、ロボット記事を探して読む心理と似ている。見慣れないものが自分の領域に入ってくると、何かしらあらを探したいという気持ちだ。だが、通話品質、音楽の音質など、機能は韓国製に劣らない。価格は3分の1ほどだ。私が韓国人でなかったら、果たして何を買うだろうか。
しばらく前、韓国スマホメーカーの人と会い、こんな話を聞いた。「韓国製スマホひとつに韓国電子産業の生態系が詰め込まれている。中国勢に押されるのはこの生態系が淘汰(とうた)されつつあることを意味する」。他人が自分たちよりも安く部品を作るなら、自分たちも安く作らねばならない。それができなければ、他人のものを使ってこそ、自分たちの生態系を維持できるという簡潔な論理だった。