第8回 阪急電鉄(1)
●綺麗で早うてガラアキで
「新しく開通(でき)た 神戸ゆき急行電車(神戸終点に於て市電に連絡便利)綺麗で早うて。ガラアキで 眺めの素敵によい涼しい電車」
鉄道に多少なりとも興味をもつ人なら、一度は耳にしたことのあるキャッチコピーであろう。つい最近もテレビドラマで取り上げられるなど、今も注目される小林一三(いちぞう)率いる阪神急行電鉄が、十三(じゅうそう)〜神戸(後の上筒井、現在廃止)間を開業した大正9年(1920)7月に出した新聞広告である。
市街地が連なっていた阪神電気鉄道とその北側を走る省線(国鉄)の沿線と違って、さらに山手側はまだまだ田畑が目立つ郊外だった。そこを走る電車がガラアキなのは事実だったかもしれないが、業績が芳しくないと受け取られかねないイメージの広告を出すなど、並大抵の経営者にはできない判断である。
阪神急行電鉄といえば大阪と神戸を結ぶイメージだが、阪神間を開業する2年前までは箕面(みのお)有馬電気軌道と称していた。大阪では明治36年(1903)の大阪市電、同38年(1905)の阪神電気鉄道に次いで3番目に登場した電車で、同43年(1910)3月10日に梅田〜宝塚間および途中の石橋から箕面(みのお)に至る支線を開業している。
箕面といえば古くは修験者の行場であったが、江戸期以降は観瀑観楓−滝と紅葉を愛でる名所として人気を集めた。そして有馬は日本最古級の温泉として知られる「阪神の奥座敷」で、7世紀に舒明天皇がしばらく滞在したことが『日本書紀』に記され、8世紀の奈良時代には行基がここに温泉寺を建立したと伝えられる。
この両所と大阪を結ぶ電車を走らせようというのが箕面有馬電気軌道の計画であった。明治28年(1895)に京都と伏見を結ぶ京都電気鉄道に始まった日本の電車は、明治30年代から大都市内の主力交通機関としての路面電車、そして有名な神社仏閣や温泉などへの足として活躍の場を広げつつあり、通称「箕有(きゆう)電車」が登場したのはそんな時代である。
現在では阪急宝塚線の強力なライバルであるJR福知山線(宝塚線)も、実はかつて私鉄の阪鶴(はんかく)鉄道であった。その名が示すように大阪から舞鶴(現京都府舞鶴市)を結ぼうとするもので、尼ヶ崎(後の尼崎港、昭和59年廃止)から北上して池田までは明治26年(1893)に開業した摂津鉄道を買収、その後は部分開業を繰り返して同37年(1904)に福知山、綾部、舞鶴(現西舞鶴)経由で新舞鶴(現東舞鶴)までを全通させている。現在の福知山線と山陰本線の一部、それに舞鶴線に当たる区間だ。ちなみに当初の池田駅は現川西池田駅とは異なり、猪名川西岸に面した現在の呉服(くれは)橋近くにあった。これが現在地へ移転したのは宝塚方面へ延伸された時のことである。ついでながら駅名が池田から川西池田に変わったのは昭和26年(1951)。
図1 池田市街のすぐ対岸にあった頃の摂津鉄道池田停車場。その後明治30年(1897)に阪鶴鉄道に買収され、同年末の宝塚延伸に伴って現在地(川西池田駅)に移転している。1:20,000仮製地形図「池田村」明治31年修正
●阪鶴鉄道と箕面有馬の関係
しかし阪鶴鉄道が全通した2年後、全国の幹線鉄道を国有化する「鉄道国有法」が施行され、明治40年(1907)には同鉄道も全区間が国有化されている。その後阪鶴鉄道の幹部たちが、以前に取得していた大阪〜池田間の計画路線を新たな私鉄として実現すべく立ち上げたのが箕面有馬電気鉄道だ(当時は「電気軌道」ではない)。明治39年(1906)4月に軌道条例により梅田〜有馬間と宝塚〜西宮間の敷設特許の申請を行ない、同年12月22日には特許を取得した(私設鉄道条例によるものは「免許」、軌道条例によるものは「特許」と用語が異なる)。
池田〜宝塚間が完全に官営鉄道との並行線にもかかわらず特許が得られたのは不思議だが、「ウィキペディア」によれば阪鶴鉄道国有化への賠償的な側面もあったという。この説に根拠となる出典は明記されていないが、当時は自動車という強力なライバルが存在しないこともあり、産業の急速な発展に伴って鉄道事業のうまみは増していた。このため各私鉄や投資家たちによる鉄道国有への反対は根強いものがあったが、日清・日露の戦争を経た時期にあって、外国人投資家が鉄道事業に影響を及ぼすことが国家の安全保障に対する脅威であるとする主張も根強く、結局は第22帝国議会で賛成243・反対109の大差でこの鉄道国有法案は可決されている。
さて、会社を立ち上げたのはよかったが、ちょうど日露戦争の好況に沸いた後の反動不況にあたってしまった。株式の払い込みは不調で、結局は会社設立が頓挫してしまう。しかしここで三井銀行を退職して大阪へ来ていた小林一三が鉄道事業の将来性を見抜き、北浜銀行頭取の岩下清周(後に初代社長となる)に推されて箕面有馬の創立に打ち込むことになった。このあたりの経緯は多くの書籍等で紹介されているので省くが、箕面有馬電気軌道株式会社は明治40年(1907)10月19日に大阪商業会議所で創立総会に漕ぎ着けている。当初は社長を置かず、トップが専務取締役の小林一三であった。
明治41年(1908)8月5日、箕面有馬電気軌道は大阪(梅田)〜池田間および箕面支線、池田〜宝塚間の合わせて28.9キロメートル(阪神急行電鉄『75年のあゆみ』の数値)の敷設申請を行ない、同10月22日付で特許を得ることができた。
●微調整が行われたルート
明治39年(1906)に「電気鉄道」として特許を得た際の軌道の経過地は、沿線のいろいろな事情により少しずつ変更されている。かなり細かい項目が多いが、たとえば現在宝塚の2つ手前の駅にあたる売布(めふ)神社(停留場の開業は大正3年)付近は当初もっと北側を通るはずだったらしい。明治42年(1909)2月5日に提出された線路変更許可申請書の「変更理由書」にはこのあたりの事情が記されている。
〔前略〕有名ナル延喜式内社売布神社アリ。殿宇(でんう)頗(すこぶ)ル荘厳ヲ極メ、周囲ニ広漠タル社地境内ヲ有セル氏神タリ。然ルニ特許線ニ於テハ該境内ノ一部ヲ横断シ、加フルニ殿宇ノ正面ニアル鳥居ニ接触スルノミナラズ、其(その)前後ノ里道ハ約拾五分ノ壱〔15分の1勾配=66.7パーミル〕タル坂路ナルヲ以テ、今是(これ)ヲ軌道敷設ニ適スベキ勾配ニ修理拡築セントセバ、不得止(やむをえず)境内地域ノ地形ニ土工(どこう)ヲ施サヾルベカラズ。其結果風致損傷ノ故障ヲ生シ、屡(しばしば)神社関係総代ノ陳情ヲ耳ニスルト。
図2 中山から清荒神にかけての線路。当時は売布神社停留場はなかった。「電気鉄道」の計画ルートは線路の北側の県道で、おそらく「北米谷」の文字がかかる池の南側の道と思われる。図は開業前年の測図であるが、発行年が同44年なので箕面有馬電気軌道の線路も「開通」させたようだ。図の電気「鉄道」は誤り。1:20,000「生瀬」明治42年測図
当初計画のままだと線路が境内の一部を横切り、鳥居に接触してしまうほどであった。また線路敷設が予定された坂道は66.7パーミル、つまり旧信越本線の碓氷峠と同じ急勾配となってしまい、これを順当な勾配に改めるためにはかなりの規模の土木工事が必要となるため風致を損傷する。このため会社はルートの一部変更を決めたという。
また花卉園芸の盛んな平井村(長尾村大字平井。現宝塚市平井)からは次のような陳情もあり、会社はこの意見にも耳を傾けて路線の変更を行っている。場所は現山本駅の北東側であるが、かつて存在した平井駅は戦時中の昭和19年(1944)に山本駅に統合された。駅名標にある「山本(平井)」というカッコ書きはかつての名残である。なおこのあたり一帯での花卉園芸は宅地化が進んだ今も盛んで、「宝塚植木まつり」が山本新池公園で毎年のように行なわれている。次はこの「理由書」の近くに綴じ込まれた地元・平井の住民から箕面有馬電気軌道に宛てた陳情書である。
陳情書
貴社電気鉄道敷設ニ付、当村字丸山ヨリ歳振(としぶり)ニ至ル区間ハ在来ノ里道ヲ南方ノ低地ニ御付換(つけかえ)相成候趣キヲ以テ、貴社担当技師御出張屡々(しばしば)該設計協議ニ預リ候処(そうろうところ)、其都度(つど)御出張員ニ陳情致置(いたしおき)候通リ、当村ハ有名ナル盆栽花卉ノ産地ニシテ、前記区間ニ於ケル在来ノ道路ハ恰(あたか)モ当村落ノ中央ヲ貫通シ、沿道一帯ノ住民ハ孰(いず)レモ其庭園ニ盆栽花卉ノ類ヲ栽培シ、通行ノ華客(かかく)〔得意客の意〕ニ拠リ専ラ園芸ヲ業トシ、傍(かたわ)ラ飲食物ヲ鬻キ(ひさぎ)〔売って〕生計ヲ営ミ来(きた)ル者ニシテ、而(し)カモ此地付近ハ甚敷(はなはだしく)高低ヲ有スル地形ニシテ、盆栽花卉ノ培養其他諸般ノ事業ハ総テ北方ニ向ヒ漸次(ぜんじ)発展シツヽアル状態ナルカ故ニ、今此通路ヲ南方ノ低地ニ付換ヲ為ストキハ在来ノ道路ハ全然交通杜絶ニ至リ、之レカ為メ付近一帯ノ部民ハ忽(たちま)チ生活ノ途ヲ失フ而巳(のみ)ナラス、多額ノ資金ヲ投シ数拾年来培養シ来(きた)ル花卉類ハ数丁歩〔町歩〕ニ亙(わた)ル広壮ナル設備ト共ニ自然廃頽ニ皈(き)シ〔帰し〕、其結果名状(めいじょう)スヘカラサル窮状ニ遭着スヘキハ敢テ想像ニ難カラサル義ニ有之。仍(よっ)テ道路付換ノ御設計ニ対シテハ御協議ニ応シ兼(かね)候間、前陳ノ事情御諒察ノ上、現設計御変更被成下度(なしくだされたく)茲(ここ)ニ陳情書提出仕(つかまつり)候也。
明治四十二年四月二十日
兵庫県川辺郡長尾村ノ内平井村人民総代
乾 忠右衛門
乾 真太郎
尾﨑藤兵衛
乾 栄治郎
平松助右衛門
箕面有馬電気軌道株式会社々長 岩下清周殿
右之通リ相違無之(これなき)候也
明治四十二年四月二十三日
川辺郡長尾村長 坂上丈右衛門
この他にも沿線各地での細かい線路変更をいくつか経て開業すべきルートが定まっていった。明治39年(1906)に提出された「特許命令書案」第1条がこれらの変更を受けて修正され、明治42年(1909)3月23日付の命令書変更案として提出された文書が、少なくとも梅田〜宝塚間では「最終形」に近いと思われるので、参考までに掲載してみよう。
ちなみに軌道特許における「特許命令書」に掲載される区間は、道路を走る併用軌道と新設軌道が、それぞれの起点・終点で示されているので、起終点は地番まで載っている一方で経過地点の詳細は明示されておらず、特に地名が今昔で大幅に変わっている場合は把握しにくいのが難点だ。また途中の停留場の情報も驚くほど言及がない。どこに停留場を置こうが勝手にしなさい、ということだろうか。鉄道の免許なら「停車場表」が住所付きで完備しているのだが。
図3 花卉園芸が盛んな平井付近。図にはないが平井の地名表記の南側、踏切の西側に平井停留場が設けられた。その後昭和19年(1944)に山本停留場に統合されている。1:20,000「生瀬(なまぜ)」明治42年測図
●「路面電車」区間もあった宝塚線
〔現宝塚線 梅田〜現川西能勢口〕
一、大阪市北区北野角田(かくた)町三百四十八番地ノ二ヨリ大阪府西成(にしなり)郡神津(かみつ)村大字野中(のなか)字上専田百五十九番地ニ至ル新設軌道
二、同郡神津村大字野中字上専田百五十九番地先ヨリ同郡北中島村大字蒲田(かまた)字砂田九百四十五番地先ニ至ル県道
角田町はかつて旧梅田停留場のあった東海道本線の南側で、電車は梅田を出るとすぐ同線を跨いでいた。現在の阪急梅田駅はJR線の北側にあるが、南側の旧駅跡は梅田阪急ビル・阪急うめだ本店となっている。梅田を出て約1.3キロメートルで渡り始める淀川橋梁は3複線(線路6本)の堂々たる大鉄橋であるが、当初はもちろん上下線2本のみ。まだ通水したばかりの巨大な人工放水路「新淀川」の川幅は728メートルに及び、始まったばかりの電鉄会社にとっては大きな出費だった。
神津村は淀川区(当初は東淀川区)の一部で、ここに十三停留場が設置されている。梅田から一緒に走ってきた京都・宝塚・神戸の各線が三方に分かれる交通の要衝であるため、現在の乗降客数は平成26年(2014)の1日平均で73,898人と阪急全線で第5位を誇る。最後に見える蒲田という地名は三国(淀川区三国本町ほか)の旧称である。
図4 梅田から新淀川橋梁の先までの路線変更に関する藍焼の図面。当初計画では十三橋の西側にぴったり並行していたが、橋梁構造や近接する道路との関係からこれを東側(図では下側)に変更した。左端が梅田停留場。鉄道省文書「阪神急行電鉄(元箕面有馬)巻一」明治41〜42年
三、同郡北中島村大字蒲田字砂田九百四十五番地先ヨリ同府豊能(とよの)郡豊中(とよなか)村大字新免(しんめん)字出口二百十八番地ノ一ニ至ル新設軌道
四、同郡豊中村大字新免字出口二百十八番地ノ一地先ヨリ同郡麻田(あさだ)村大字麻田字御神山二十七番地先ニ至ル県道
五、同郡麻田村大字麻田字御神山二十七番地ヨリ同郡同村大字同字狐塚千二百八十一番地ニ至ル新設軌道
図5 能勢街道上を走る併用軌道と新設軌道が混在していた豊中(新免付近)〜石橋付近。現在ではもちろんすべて専用軌道に改められている。1:25,000「伊丹」大正12年測図
三〜五は三国駅から螢池駅にかけての経路である。「三」の新免は豊中駅の北側で、現在の本町あたりに集落があった。三国から庄内、服部天神(大正元年頃までに停留場名を服部と改称)、曾根、岡町を経て現在の豊中駅(大正2年開業)付近までは新設軌道(専用軌道)として建設された。命令書「四」の新免から麻田までは県道上を走る区間で、大正期の地形図にもここは併用軌道として表記されている。
螢池駅の手前、伊丹空港からの大阪モノレールが合流する付近からは再び「五」の新設軌道。もちろん空港となる用地は明治43年(1910)当時は見渡す限りの田んぼの中に小阪田(おさかでん)の集落がぽつりと存在していたのみである。伊丹空港の前身である大阪第二飛行場は昭和14年(1939)の開港であるが、同16年に拡張が行われた際にこの小阪田の集落は「解村」している。
六、同郡麻田村大字麻田字狐塚千二百八十一番地先ヨリ同郡北豊島(きたてしま)村大字石橋字野辺二十九番地先ニ至ル県道
七、同郡北豊島村大字石橋字野辺二十九番地ヨリ兵庫県川辺(かわべ)郡川西村ノ内小花(おばな)村字大畑三十番地ニ至ル新設軌道
螢池の先からは「六」で再び県道上の併用軌道を走るが、地形図にある「能勢街道」は梅田から池田までこの宝塚線のルートとほぼ並行した経路で、池田から先は猪名川(いながわ)沿いに遡っていく。併用軌道が終わる石橋はこの能勢街道と西国(さいごく)街道との交差地点で、溝に架けられた街道の石橋が地名の由来とされる。箕面線はこの石橋で北東方向に分岐して箕面を目指すが、線路の分岐点が石橋駅の手前であるのが珍しい。箕面線の0キロポストも駅手前の分岐点に設置されている。最後の小花は猪名川を渡った西側、現在の川西能勢口駅付近である。開業当初ここに停留場は設置されず、池田の次は花屋敷であった。能勢口停留場が設置されたのは、ここから北上する能勢電気軌道が開業する5日前にあたる大正2年(1913)4月8日である。
〔現箕面線 石橋〜箕面〕
八、大阪府豊能郡北豊島村大字東市場(ひがしいちば)字東代百七十四番地ヨリ分岐シ、同郡箕面村大字半町(はんじょ)字北東ノ口四百三十七番地ニ至ル新設軌道
九、同郡箕面村大字半町字北東ノ口四百三十七番地先ヨリ同郡同村大字牧落(まきおち)字里山六百四十五番地先ニ至ル国道
十、同郡箕面村大字牧落字里山六百四十五番地ヨリ同郡同村大字平尾字柏ノ木四百九十三番地ニ至ル新設軌道
「九」の国道とあるのは西国(さいごく)街道である。この道は現在おおむね国道171号となっているが、旧道のルートはだいぶ異なり、今では住宅地の中を昔の佇まいを残す静かな道として続いている。線内の併用軌道は現在の桜井駅から駅前の道を50メートル北上した通りが西端で、そこから道が急に広くなっているのでそれとわかる。ここから東へ進み、踏切の手前までの430メートルほどがかつての併用軌道だ。旧桜井停留場の位置は、大正期の地形図から判断するとワタナベクリーニングと池田タクシー桜井営業所あたりらしい。
図6 箕面線の桜井停留場付近にあった西国街道上を走る併用軌道区間。今は道路より50メートルほど南側の専用軌道を走っている。1:25,000「伊丹」大正12年測図
●ループ線を採用した箕面終点
なお、箕面の終点は大正3年(1914)部分修正の地形図によれば「ループ状」になっていたことがわかる。ループといえば山の中で標高差のある地形を克服するための線形が一般的に知られているが、終点に用いられるいわゆるラケット形ループは、終点におけるスムーズな電車の折り返しに力を発揮する。運転士は終点に着いてもそのまま停留場構内で前進すればぐるりと向きを変えられるため、時間も手間も節約できるメリットがあるためだ。
ヨーロッパの路面電車では今も多くの都市に見られるが、これなら片側運転台の電車でも、乗客の多い時間帯や季節にはトレーラー(モーターのない客車)を牽引することが簡単にできる。今の日本では新交通システムを除いて普及していないが、かつては京浜電気鉄道(現京浜急行電鉄)の大師線や穴守線(現空港線)などに活用されていた。両運転台の場合は今なら逆方向に運転士が移動すればいいだけの話だが、当時は集電装置であるポールを逆向きに付け替える手間もあり、このループは今考えるより利用価値が大きかった。箕面終点については、前出の「変更理由書」に次のようにループにすることが記されている。
〔箕面〕終点ニ於テハ将来運輸ノ利便ノ敏活ヲ期シ、別紙図面ノ如ク軌道ヲ循環セシメンガ為メ、本線路ノ変更ヲ為サントス。
図7 箕面終点にあったラケット形ループ線が描かれた地形図。桜井付近はなぜか専用軌道のように描かれているが、当時は併用軌道だったはず。1:50,000「大阪西北部」大正3年部分修正
箕面有馬電気軌道では、開業前年にあたる明治42年(1909)に開業予告の広告を出した。阪急電鉄『75年のあゆみ(写真編)』にはその現物写真が掲載されているが、箕面までわが電車が開業したらどのくらい利便性が向上するかをアピールしている(句読点を調整)。
△いよ/\来春開業!!
汽車賃と人力車賃だけでも一円二三十銭つかつて箕面公園に集る紅葉見の都人士(とじんし)が毎日一万人以上あります。此盛況を御覧になる諸君よ!! 電車が開通して五分毎に発車し僅(わずか)に十五銭以内の賃銭で二十五分間に一寸(ちょっと)遊びにこられることゝなりましたならば、どれほど沢山遊びに来る人が殖えませうか?
箕面公園の特色は紅葉ばかりでなく梅桜、若葉、螢狩、茸狩、秋草、虫の音、月の夜、雪の朝なぞ中々に捨て難し 殊に緑蔭深き夏の涼(すずし)さは一番賑ふことゝ思ひます。
試に来年の天長節を晴天と仮定して箕面に来る此日の乗客数を予想し、ハガキを以て御通知下さるならば、会社は実際の数に近き前後の壱百人に対し、いさゝか御礼をいたしませう(何? 無賃で全線を乗り廻せる切符一葉宛です)
△おもしろい懸賞
箕面有馬電気軌道株式会社
大阪市北区梅田角田町
電話長東三一二九・東一〇九四
乗客数を当てるイベントは今でもありそうだが、まず第一に広告文そのものが全体にユーモアを湛えていて明るい印象で、開業以降に縦横無尽の活躍をする小林一三と阪急の将来性を暗示するかのようでもある。ちなみにここで言う天長節(天皇誕生日)は、明治天皇の時代なので11月3日(現在はこれが「文化の日」となっている)。四季折々に美しさを味わえる箕面も、まさに紅葉シーズン開幕のこの時期が最も多くの観光客で賑わったようだ。
能勢口から先、それに有馬までの区間は次回取り上げる。
*引用した公文書は読みやすさを考慮して漢字を新字に改め、適宜句読点を補い、必要と思われる箇所で改行を行った。それ以外は国立公文書館収蔵の原本の通りである。 *現在の阪急では、同社の3つの幹線の正式名称を神戸本線、宝塚本線、京都本線としているが、本稿では一般の呼称に従って神戸線、宝塚線、京都線と表記する。