<アーカイブ大震災>より早くより高く 一貫
海岸からわずか200メートルの低地にある岩手県大船渡市三陸町の越喜来小は、東日本大震災の津波で校舎が全壊しながらも、児童73人と職員13人が全員、無事に避難した。命を救ったのは、校舎2階と市道を結んで新設された避難階段と高い防災意識だった。
◎逃げる その時(5)意識(大船渡・越喜来小)
「早く逃げろ」。遠藤耕生副校長(50)は各教室に声を掛けて回り、避難階段の鍵を開けた。
2011年3月11日午後2時46分。1年生は下校間際、2〜6年生は6時間目が始まったばかりだ。校内放送で、机の下に隠れるよう呼び掛けようとしたが、停電でスイッチが入らない。津波と校舎倒壊の不安がよぎった。
子どもたちは学年ごとに避難階段を通り、約100メートル西にある1次避難所の三陸鉄道三陸駅の駅前広場に駆けた。
3年生担任の平阿貴子教諭(49)は「着いた途端に、『大津波警報発令』と繰り返す防災無線が聞こえた」と振り返る。
市によると、警報発令を最初に伝えたのは午後2時52分だった。
避難階段によって短縮できる避難時間は3分程度にすぎないが、遠藤副校長は「すぐに波が入ってくる可能性があった。一刻を争う状況で、避難階段があって助かった」と胸をなで下ろす。
階段は昨年12月、市議平田武さん(65)の後押しがあって設置された。
「海の近くで川のそばにある越喜来小は、津波で一番危ない。命の尊さを言っているんだ」
3年前の市議会3月定例会。平田さんは予算審査特別委で、母校への避難階段設置を再三訴え、実現させた。
学校百年史によると、1877年開校の越喜来小(当時は浦浜小)は、明治三陸津波(1896年)で全壊。昭和三陸津波(1933年)でも、校舎が浸水する被害を受けていた。
駅前広場で点呼を終えた後、教職員は子どもたちを誘導して、約300メートル西の高台にある公民館に移動。間もなく誰か叫んだ。
「津波が学校に来た」
全員でさらに約300メートル西の山中まで逃げた。眼下では校舎が3階まで浸水し、家や車が流されていた。
「家族は大丈夫かな」
「津波なんか嫌いだ」
恐怖と不安で泣く子もいたが、皆、無事だった。平田さんの孫涼介君(9)=3年=も、その中にいた。涼介君は「揺れや津波にびっくりしたけれど、先生がいつも言うように落ち着いて行動できた」と振り返る。
「大きな津波は絶対に来る」と、とにかく早く逃げることの大切さを説き続けた平田さんは、震災の9日前に病死した。
「避難はより早く、より高く」。越喜来小は年2回の津波避難訓練を欠かさず、児童、教職員の防災意識を高めていた。
震災2日前の3月9日にも、三陸沖を震源とする震度5弱の地震で津波が発生し、実際に避難した。避難先を3カ所も変えながら、子どもたちが素早く避難できた大きな要因だった。
反省点もあった。駅前で一部の児童を、迎えに来た祖父母らに引き渡したことだ。大船渡市内では今回の震災で、児童を親元に帰したために犠牲になったケースもある。
遠藤副校長は「今思えば、危なかったなと思う」と言う。学校は新しい避難マニュアルに「家族が迎えに来ても状況によっては帰さない」との一項目を加えた。(坂井直人)
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2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。
2016年02月15日月曜日