こんにちは、パラベル(@parabell_life)です。
人生の指針は自分で定めるもので、他人の意見は参考資料でしかない。
情報過多のこの時代、生き方や考え方の多様性も極まりつつあって、誰かのもたらすそれに依存する人も増えているように思う。生き方までも検索で探す、妙な時代だ。
このブログでも生き方や考え方の記事を書いているから、警鐘は鳴らしておきたい。
それは人生そのものを左右する力
本や人との会話、最近では検索でも得られるようになった、多様性に富んだ生き方や考え方の参考資料。それをどう使っていくのかが、この先ますます重要になっていき、特に検索という経路で爆発的に増加している多様性の影響力は、計り知れない。
それらは単なる情報とは違い、人生そのものを左右する力を秘めている。その質の良し悪しから影響力の多寡まで、誰が担保することもない。ただそこにあるものとして、可能性と一抹の危うさをはらんだままで、検索ツールの向こうで影響力を発揮し続ける。
何かを伝えようとすれば、それは誰かの人生に影響を及ぼす可能性がある力だ。伝えようという意図があって発信するなら、そうとわかっていて発信する以上は、その認識と伝えるための何かを生み出すことの意味を、無責任なりにも忘れずにいたい。
そういう意味では、カーネギーの著書も、個人のブログも、同じように作用する。
その危うさを認識すること
多様性が生まれること自体は、いいことに違いない。凝り固まった固定観念が継承されてしまう閉ざされた社会にあっては、可能性の扉が日の目を見ることすらない。
かといって、選択肢が多ければいいかといえば、それも疑問だ。誰かの受け売りの価値観を拠り所に生きることは、簡単で、気持ちよくもあって、そうすることのすべてが悪いとは限らないにしても、根を張らない生け花のような脆弱さがある。
根なしの価値観はあまりにも簡単に抜けてしまうし、容易に入れ替えられてしまう。人生の指針がその程度の重みでいいのかと、そんなことを思う俺の価値観は、既に古いものなのかもしれない。この考えも、多様性の一言で片づけることができてしまう。
加えて、多様性にあふれているはずが、影響力の大きい誰かが生み出す流れに流されやすくなっている。相手がアドラーだから、カーネギーだからと従ってしまうなら、それは間違いだし、多くのフォロワーを擁するインフルエンサーに関しても、同じことがいえる。
新しい価値観は、古い価値観を消し去るか?
価値観を破壊された、という発信をしばしば目にするようになった。それほどまでに簡単に破壊されてしまった価値観は、破壊されるその前に、どれだけその主に目を向けてもらえたんだろうか。価値観の破壊という響きには、妙な違和感を覚える。
新しく現れた価値観は、元々そこにあった価値観を完全に消し去ることはできない。自分の中の一部として、影響力を縮小したとしてもいつまでも生き続けるものだし、その新しい価値観も、いつかより新しい価値観の礎になっていく。
本に書かれていることは、本当に正しいのか?インフルエンサーの煽りは、はたして誰のためのものだろう?読み手として、書き手からの愛を感じられるだろうか?
例えば、組織の一員として仕事を続けている人がいるから、新しい働き方を模索する人たちが挑戦するための社会基盤が維持できる。拡大の限りを尽くした社会は、急には変わることができない。挑戦できていることへの感謝を、忘れてはいけない。
そんな全体論と、政治の腐敗やブラック企業の跋扈は、別の話だということも…。
自分にとって本当に大切にしていきたいものは、どこに属するものなのか。そういう感覚を大事にして、あまり無防備に受け取らないでほしいと、強く願っている。
影響力の小さい個人の、耳を澄ませばやっと聞き取れるかどうかという小さな叫びだとしても、そこに愛を感じることができれば真剣に受け止めたくなる…俺なら、そういうところを大切にしたい。
自分で定めるからこそ、本物になる
与えられたものや植え付けられたものは、真に自分のものにはならない。日々の経験を通して、日常の出来事に当てはめて取捨選択した末に、これと定めて磨くからこそ、自分にとっての指針となって、しなやかな本物の強さをもって育まれた軸になる。
それは必ず、人生の危機を生き抜く力となって支えてくれる。
この記事で書いたことの対象には、このブログ自体も例外なく含まれている。
無限に等しい参考資料のうちの一つとして、自分だけの指針を定め、そして本物を育むための一助となれるなら、それはとても嬉しいことだし、もしそうみなしてもらえることがあるとすれば、とても光栄なことだと思っている。
願わくば、そうみなしてもらえたらと思う自分に、人間臭さを感じた。
それもいいと思える。
それでは、また次の記事で!