読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

恋愛自給自足の間

恋愛における空想の重要性について。それと趣味。

二次元ではなく三次元を潰せ――国連女子差別撤廃委員会の「戦略」を問い直す

 

 ここ最近、二次元表現がフェミニズム的に批判される、という場面をしばしば目にします。ネット上では「オタクVSフェミニズム」という不毛な疑似対立まで発生している始末ですが、どうも私には無駄なケンカのように思えてなりません。

 と言いますのも、フェミニズムの理論を突き詰めていくと、二次元表現はフェミニズム運動にも積極的に取り入れられるべきものとして位置づけられるはずだからです。
 では早速議論に移っていきましょう。

 

1:「男女の性的関係」は根本的に不平等である

 この章では、三冊の書籍を紹介つつ議論を進めていきますが、最初に本章の結論をザックリ述べておきましょう。
 セックスをやるということ自体が性差別である。
 ……いきなり刺激的すぎますかね? まあ、すこしばかりお付き合い願います。

 

1-1: 「性欲」に基づく男女関係が差別を生む(金塚貞文『オナニスト宣言』)

 

「現代において女性差別が残っているか」という問いについては様々な議論があると思いますが、少なくと過去には女性差別が行われていた、という点については皆さんも同意してくださるかと思います。

その歴史的な男と女の権力関係は<性的なもの>を男と女に公平に配分しはしなかった。「性的な女《もの》」と「性的欲望を持つ男《しんたい》」に分割され、女は一方的に<性的なもの>として、男の「性的欲望」の前に配置されたのである。(金塚 1992: 48)

 では、なぜそのような女性差別の構造が生じたのでしょうか。
 これについて、金塚貞文の回答は以下ようなものです。

「男には、種の再生産のための社会的システムから相対的に自立し得る社会的文脈があった」(金塚 1992: 48)
「女は、種の再生産という大前提の中で、そのための社会システムにあくまでも繋ぎ留められていなければならず、そこから男のように自立することが抑制され、それが故に、性的欲望を個的な身体的欲望として抽象化、特権化することが困難になる。」(金塚 1992: 49)

 要するに、そもそも狭義の「性欲」という概念自体が男性身体向けにカスタマイズされた概念だ、ということです。そしてそれゆえに、「セックスの動機は性欲である」という前提が不平等を発生させる、というわけです。
 

 いわゆる「性欲」と言われてイメージする要素として、「溜まる」と「抜く」という二つが挙げられると思います。特に男性がポルノグラフィを視聴してオナニーする動機は、「溜まった」性欲を「抜きたい」から、である場合が大半だと思います。つまり「性欲の満足」というのは、かなりの部分が「性器的満足」だということです。

 これに対して、女性が性表現を享受するときの様式を考えてみましょう。具体的に取り扱うのは、女性向けの性表現である「BL(ボーイズラブ)」です。

 突然ですが、「こころのチンコ」というフレーズをご存知でしょうか。これはBL愛好家がウェブ空間でやりとりをするときに用いられる言葉で、「『チンコ』はBL愛好家女性のこころにすでに装備されているものだというニュアンス」のこもった語句だそうです(溝口 2015: 236-237)。
 この用語をもとに、溝口は以下のように考察しています。

BL物語で表象された男性キャラクターのペニスと、愛好家女性たちの「ペニス」が重なりあい、共振しつつ、振り回されるのだ。(溝口 2015: 238)

 つまり、BLの男性キャラのペニスは「現実の生身の男性に備わる身体器官としての意味よりも、女性愛好家たちのヴァーチャルな器官としての意味のほうが強い」というわけです(溝口 2015: 238)。

 これは要するに、女性にとっての性的満足とは、「性器的満足」や「性欲の満足」というよりも、「精神面での性的満足」の方が大きい、ということの表れでしょう(もちろん、性にまつわる事柄は一般化しづらいため、すべての女性に当てはまると言うつもりはありませんが)

 

「性欲」という概念そのものが、必ずしもジェンダー中立的なものとは言えない、ということがお分かりいただけたかと思います。

 

 

1-2: 「ロマンティック・ラブ」は性行為が生み出す差別を隠蔽する装置である(小谷野敦『恋愛の超克』)

 

 こちらの本の中で、フェミニズムの議論を参照しながら、性行為やロマンティック・ラブに隠蔽された性差別を論じる箇所があります。少々長くなりますが、私が言い換えるよりも分かりやすいと思いますので、まとめて引用しておきます。

私はドウォーキンの第一テーゼ――すべての男女関係は性関係である――を認めないが第二テーゼ――すべての性関係は性差別的である――は、条件付きで認めるのである。第一テーゼの否定は、要するに、エロス的でない男女関係というのは存在しうるだろう、という簡単な想定に基づく。そして第二テーゼの条件付き賛成というのは、性行為が男にとって快楽であるなら、それは性行為が性差別的であり、女の征服を意味するからだ、という意味合いにおいてである。性行為における快楽は、むろん、肉体的なものだけではない。もしそうなら、性行為に相手はいらない。性行為が欲望の対象となるのは、前近代においては、男に征服の、そして女に被征服の悦びを与えたからであり、近代においては、(……)被征服を必ずしも悦びとはしなくなった女の側には、「特別な人」とのロマンスという口実が与えられた。しかし、フェミニストが指摘するように、依然としてロマンティック・ラブの中には、男による女の所有を女の内面において正当化するという契機が含まれていたのである。(小谷野 2000: 37-38 太字引用者)

 上の議論を要約すると、下の引用のような答えになります。

「ロマンティック・ラブ」こそ(……)男が女も対等であるべきだと考えはじめた時点で、性差別的なものとしての性交を人生のなかにうまく位置づけるために考え出された装置だと想定するべきなのである。(小谷野 2000: 37)

 そもそも男性にとって性行為の快感は「征服の悦び」であり、だからこそ性行為自体が性差別的である、そして「ロマンティック・ラブ」こそ性差別的なセックスを女性に納得させ、差別を隠蔽するための装置だ、という話です。これもどの程度まで一般化できるかは分かりませんが、それなりに説得力があるのではないかと思われます。
(もっとも、先述の「こころのチンコ」などから分かるように、相手のいない性行為でも「肉体的なものだけではない」快楽を味わうことは可能なのですが、それはさておき)

 

1-3: 異性愛の強制性(小泉義之『生と病の哲学』)

 

 本章の最後に紹介するのが、小泉義之『生と病の哲学――生存のポリティカルエコノミー』収録の論文「性・生殖・次世代育成力」です。この論文は、異性愛の強制性と罪責性に関する刺激的な論考であり、できれば全文読んでほしいところなのですが、この記事では異性愛の強制性に焦点を絞って説明していきます。

「強制的異性愛(compulsory heterosexuality)」の問題を提起したのは、レズビアニズム(レズビアンフェミニズム)の詩人アドリエンヌ・リッチです。彼女が指摘する強制性は、決して政治的な強制性に留まるものではありません。つまり、性別やセクシュアリティに基づく権力関係がなくなったとしても、人々は異性愛に偏重するだろうというのです。

リッチにとって、異性愛の強制性とは、男女の性行為が情動的でエロス的であるというそのことである。そしてまた、異性愛を核として生殖と次世代育成が編成されているというそのことである。(小泉 2012: 128)

 つまり、女性の肉体にとって異性愛と生殖が内在的に強制的である、ということをリッチは問題としているのです。

 そして小泉は、この「強制的異性愛」批判の文脈にキャサリン・マッキノンを位置づけるのです。ここで小泉は、マッキノンの議論から「政治的不平等をめぐる叙述とポルノグラフィに負荷された過大な機能を外してしまう」という大胆かつ的確な分析を行います。

マッキノンにおいて注目に値するのは、男女の不平等が男女の差異に先行すると見なされていることである。(小泉 2012: 128)

 マッキノンの議論を整理すると、男女の間には根源的な不平等が存在する、という主張が浮かび上がってきます。この根源的不平等とは何なのか。それは、「男が女の肉体に対して行なっても当然であり許容可能であると見なされる行為様態を定めるコード」です(小泉 2012: 129)。
 ちょっと難しい言い回しですが、「要するに、男女間の性行為そのものが、本源的かつ一次的に不平等であると言われている」のです(小泉 2012: 129)。

 

 まず前提として、そもそも性的差異と異性愛自体に不平等や強制性が含まれています。そしてポルノグラフィは、そのような前提の下で暴力的・犯罪的な行為を派生させるのです。
 逆に考えると、ポルノグラフィがなくなったところで根源的な不平等は解決しません。さらに言えば、根源的な不平等さえなくなれば、ポルノグラフィが有害な効果を発生させることもなくなるでしょう。

 

 というわけで、以上三冊の議論を通して、フェミニズムが本来やるべきことが見えてきたかと思います。
 フェミニズムが真に主張すべきことは、「セックスやめよう」です。

 当たり前ですが、そもそも実在女性を性的対象とする文化でなければ、セクハラも痴漢も強姦も生じません。度々指摘されるホモソーシャルからの疎外」も、女性を性的存在と見なして公的領域から疎外するというものである以上、セックスをやる文化でなければ生じない問題です

 では、どうすればセックスがなくなるのでしょうか?

 

 

2: 「セックス実践文化」を徹底的に相対化しよう!

 

 セックスをなくそうと考えたとき、多くの人が「法規制すればいいのでは?」と考えるかと思います。法律でセックスを禁止しよう、というわけです。ですがこの作戦は間違いなく失敗します。理由は簡単、どうせ隠れてやるから。

 また、現在の価値観や規範意識を考えても、セックスの法規制はおよそ現実味がありません。「プライバシーの侵害」などと反論され、一笑に付されるのがオチでしょう。

 そもそも、「力技でセックスを滅ぼす」という作戦自体が極めて非効率的かつ不適切なのです。セックス実践文化の渦中で「セックスを滅ぼせ」と正面衝突したところで、絶対に勝ち目はありません。鼻であしらわれるだけです。実際、読者の皆さまも「セックスが滅ぼせるわけがない」と思っているはずですよね?

 

 多勢に無勢な状況で、正面突破は愚策でしかありません。
 まずは搦め手で、外堀を埋めていくところから始めていきましょう。

 

 では、どのような戦略を取ればよいのでしょうか?
 ここで「性文化のアリーナ(闘技場)」というものを想定してみましょう。「性文化のアリーナ」とは、「社会を、性に関する様々な文化が共存(あるいは競合)している場と見なす」言葉です。

 現代に至るまで、「性文化のアリーナ」では実在する他者とのセックスが独り勝ちしている状態でした。ところが対人セックスが覇権を握ったことによって、性行為にまつわる様々な差別や暴力が発生してきたのです。

 今なお「セックスは実在する他者とやるものだ」という堅牢な固定観念は残っています。なぜ「セックス実践」がここまで絶対的なものと見なされているのでしょうか。以前の記事でも述べましたが、理由は大きく以下の二つです。

1: 妊娠・出産のためにセックスが必要とされる
2:「セックスは愛を育むすばらしい営みだ」という価値観がある

 そして、この二つを突き崩しうるものが、「生殖医療技術」と「非対人セックス」なのです。(なお前者についての議論は、ここでは省略します。先に挙げた小泉義之『生と病の哲学』が参考になるかと思いますので、興味のある方は是非一読お願いします)

 

 幸いなことに、「セックスがすばらしいものである」という幻想は打ち破られつつあります。主な要因としては、戦後に生じた世界的な「性の解放」運動、および映像型ポルノグラフィの発達が挙げられます。性行為に対して過剰な期待を抱かせるような文化は、人々を不当なまでにセックスへと追い立てるものであり、誰の利益にもなりません。ポルノグラフィが持つ「性の幻想殺し効果」は、もうすこし評価されてもよいと思います

 そして現代では、「セックス実践なきポルノグラフィ」が可能となっています。そう、二次元です。
 対人セックスが「性文化のアリーナ」において覇権を握っている現在、最大野党と呼ぶべき性文化が二次元なのです。

 

 このような現状において二次元を批判するということは、どのような事態を呼び起こすのでしょうか。検閲の効果について、フェミニズム理論家ジュディス・バトラーは次のように分析しています。

検閲のメカニズムは、主体の生産に積極的に関わるのみならず、発話可能な言説の社会的範囲、すなわち公的言説において何が認可され、何が認可されないかの範囲を画定するものでもある。(バトラー 2015: 205)

 つまり、「何が望ましくないものか」を規定するということは、同時に「何が望ましいものか」をも規定する、ということです。そのため、特定の性文化を攻撃することは、必ず他の性文化を「望ましいもの」として規定する効果を持つことになります。

 ということは、今の社会で二次元の性文化を攻撃すると、間接的に対人セックスを「望ましい性のあり方」として称揚する効果を及ぼしてしまうのです。先述したように差別や暴力など様々な問題を含むにもかかわらず、対人セックスがある種の「正義」と見なされてしまうのです。

 

 適切な比喩かは微妙ですが、「自民党政権民主党を強引に解党しようとする」ぐらいの危うさがあります(もちろん民主党の存在価値については議論が分かれるところですが、「一時的な権力者にすぎない与党が野党を滅ぼすということは、民主主義の根幹である選挙制度を揺るがすことである」というのはご理解いただけるかと思います。特定の性文化の横暴は、それぐらいの危険性を伴うと言っても過言ではないのです)。

 

 であれば、本気で女性差別を根絶しようとするなら、現在の性文化における最大野党である二次元を活用し、対人セックスへの対抗馬に仕立て上げるべきなのです。

 

 ここで先の議論を思い出してみましょう。

 まず前提として、そもそも性的差異と異性愛自体に不平等や強制性が含まれています。そしてポルノグラフィは、そのような前提の下で暴力的・犯罪的な行為を派生させるのです。
 逆に考えると、ポルノグラフィがなくなったところで根源的な不平等は解決しません。さらに言えば、根源的な不平等さえなくなれば、ポルノグラフィが有害な効果を発生させることもなくなるでしょう。

 対人セックスという「根源的な不平等」がなくなれば、ポルノグラフィが有害な効果を発生させることはありません。そして現在では、二次元という「対人セックスを伴わないポルノグラフィ」が存在するのです。

 

 であれば、フェミニズムが取るべき戦略はこうなるはずです。

・積極的に二次元表現(を含む様々な非対人型性愛文化)を社会全体に溢れさせる
・同時進行で対人セックスへの批判を力強く行い、「実在する他者とのセックスこそ迷惑」という社会的合意を形成するよう働きかける

 

 ところで、二次元に対して危機感を抱くフェミニスト、「二次元に描かれた存在が果たす役割が、実在する女性にも反射される」という事態を危惧しています。ですが、この発想自体、「セックス実践文化」の前提に基づいて二次元を解釈した結果なのです。

 つまり、二次元を問題視する人々は「男は実在する女性を性的対象とする生き物だ」という価値観を所与の前提として受け入れているのです。そのため「二次元表象を性的対象とする」ことと「実在女性を性的対象とする」こととが連結し、結果「二次元表象を性的対象とすることは、間接的に実在女性を性的対象としている。よって二次元表象の拡大は女性を性的存在として固定化してしまうのではないか」という結論に導かれるわけです。
 これはつまり、「実在する他者を性的対象とすることこそ迷惑だ」という社会的合意がないために導かれる「誤答」なのです。

 

 もう一点指摘しておきます。二次元表現が女性蔑視になるという発想は、二次元表現を一種の中傷発話と見なすということです。中傷発話については、ジュディス・バトラーが以下のような指摘をしています。

行為と中傷の繋がりを緩めることによってのみ、その繋がりを強めることであらかじめ封じられていた対抗発話――すなわち発話を返すこと――が可能になる道が開けていく。(バトラー 2015: p.24)

 つまり、フェミニストがやるべきことは「二次元と実在女性の結びつきを強め、二次元を攻撃する」ことではないはずです。そうではなく、フェミニストは「二次元と実在女性の結びつきを解きほぐし、二次元を性の身代わりとして設置することで、実在女性を性的存在としての地位から解放する」べきなのです。

 

 当たり前の話ですが、表現それ自体には、善悪の判断は一切含まれません。
 ある表現が「善」であるか「悪」であるかは、その表現がどのような社会・文化に置かれるかで決まります。
 二次元表現が「悪」となりうるのは「セックス実践文化」内部においてです。
 「セックス非実践文化」において、二次元表現は「悪」にはなりません。
 フェミニズムによる短絡的な二次元表現批判は、「セックス実践文化」の責任転嫁以外の何物でもないのです。

「オタク男子が本気でフェミニズムの論理を突き詰めてみた ~ラディカル・オタク・フェミニズム試論~」より)

 

 確かに、男性オタクが二次元を性的対象とするときの様式は、あくまでも対象を所有・支配しようとするものである場合もあり、「男権的でないことにはならない」かもしれません(上野 1998: 75)。ですが当然ながら、所有・支配の対象が実在女性でなければ、その欲望の形式が「男権的」であっても何ら問題にはなりません

たとえ二次元平面のエロゲー美少女アニメが、誘惑者としての女がすすんで男の欲望に従うあいもかわらぬ男につごうのよい男権主義的な性幻想を再生産している、としても。想像力は取り締まれない。かれらがそれを行為に移すことさえなければ。(上野 2010: 86)

 もっと言えば、俗に「男性的」と言われる所有・支配的欲望も、二次元ならば女性だって容易に満たせます。逆に「女性的」と見なされがちな「精神面での性的満足」も、男性だって満たせるのです。これこそ、まさにバトラーの言う「行為と中傷の繋がりを緩めることによって可能になる対抗発話」ではないでしょうか。

 

 間違えないようにしましょう。
 批判すべきは二次元ではありません。
 三次元の在り方をこそ、問い直すべきなのです。

 

●結論

 

・対人セックスは性差別である。
・対人セックスを正面突破で「滅ぼす」のは無理。
・搦め手として、「対人セックスを徹底的に相対化し、あわよくば自然消滅へ誘導する」という(ある意味穏当な)戦略を取るべき。
・その際に活用できるのが、性文化のアリーナにおける最大野党「二次元」である。

 

 私自身、対人セックスは子どもを作る時だけやむなくヤる、ぐらいでいいと思います。快感が欲しいなら、自慰の方がいい。愛情を交わしたいなら、セックス以外にいくらでも方法はある。わざわざ暴力まがいの行為にこだわる意味はどこにありますか? 

 

 要するにフェミニズムが二次元を攻撃するのは完全に誤りであり、むしろ実在女性への差別を増長させかねない、という話です。
 最近は「リベラル・フェミニズム」がネット上で支持を集めていますが、べつにラディカルでも二次元表現を問題なく組み込むことは可能です。なのでフェミニストの皆さまは、もっと戦略的に動くべきだと思います。

 

 最後に、金塚貞文の引用で記事を締めましょう。

自己の快楽を他者に依存することを止めれば、男と女のあたかも自然強制的な関係も解体され、見直されざるを得なくなるはずである。家族が解体し、男女の依存関係が解体し、そこで初めて、男女が、いや、すべての人が自立した個として関係を作り出してゆくことができるようになるという戦略である。そこでは、人間が互いに関係し合うことに、性的欲望だの、性本能などもはや必要とはしないであろう。(金塚貞文『オナニスト宣言』p.154)

 長い記事にお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

・余談

 有言実行ということで、セックスやらないマン(セックスやらないマン (@yaranaiman_bot) | Twitter)のツイッターアカウント作りました。セックスの相対化に向けてツイートを発信していきますので、フォローよろしくお願いします。

 

  もう一つ。上で述べた「精神面での性的満足」というのは、おそらく男性でも体感できるものです。色々な事例は考えられますが、ここでは個人的に分かりやすいと思われる例を一つだけ挙げておきます。

f:id:minadt:20160212230248j:plain

(倉田, 2011: 142)画質が悪くてすみません……。
 歓びの中で覚醒しながら「精神的な何か(ここでは百合の花)」を放出する、というイメージを想像してみてください。たぶんそんな感じだと思います。

 

・参考文献
金塚貞文, 1992,『オナニスト宣言―性的欲望なんていらない!』青弓社.
溝口彰子, 2015,『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』太田出版.
小谷野敦, 2000,『恋愛の超克』角川書店.
小泉義之, 2012,『生と病の哲学――生存のポリティカルエコノミー』青土社.
ジュディス・バトラー, 2015,『触発する言葉――言語・権力・行為体』竹村和子訳, 岩波書店.
上野千鶴子, 1998,『発情装置 エロスのシナリオ』筑摩書房.
上野千鶴子, 2010,『女ぎらい ニッポンのミソジニー紀伊國屋書店.

倉田嘘, 2011,『百合男子1』一迅社.